南相馬市原町区片倉の、ちょっと早咲きの「大漁ざくら」、開花し始めました。
いよいよ、この季節ですね。
●四旬節第5主日
聖書箇所:エレミヤ31・31-34/ヘブライ5・7-9/ヨハネ12・20-33
2024/3/17カトリックいわき教会・原町教会にて
ホミリア
何度かお話ししていますが、わたしの母は昨年8月に93歳で世を去りました。亡くなるまでの3年半、脳梗塞の後遺症で一人暮らしが難しくなった母の世話をするため、わたしは週のうちの半分は千葉県我孫子市に住む母の家で、母と一緒に過ごすようにしていました。
わたしの母にはいろいろは趣味がありましたが、最後まで続けていたのは俳句作りでした。俳句ブームのきっかけとなったテレビの某番組も見ていましたが、「写真を見て一句」というのは母からすれば邪道だそうです。やはり折々の季節の自然の中で俳句は詠むべきだと言っていました。そして「ずっと家の中にいたら俳句ができない」というのです。それで(まぁ仕方なく?)、いろいろな季節に母を連れて、花や景色を見に行きました。二月三月は梅を見たり、早咲きのさくらを見に行った季節です。そして、今年もそんな季節になっています。
そんな中で、ふと感じていることがあります。それは人間は死ぬのだな、ということです。毎年毎年、花は咲きます。梅も桜もバラもみんなその季節になれば、またきれいな花を咲かせます。しかし、わたしの母はもういません。同じように、わたしもいつか死にますが、わたしが死んでも、その翌年も、さらに翌年も、花は咲き続けるわけです。植物と比べて見れば、やはり人間は本当に死んじゃうのですね。
そんなことを考えたのは、今日の福音を読んだからかもしれません。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
地に落ちた麦粒は決して死ぬわけではありません。しかし、麦粒が麦粒のままであろうとせず、周りから水分や養分を取り入れて、自分の殻を壊していくこと、それをここでは「死ぬ」と表現しているのです。
人間のいのちも似ているところがあります。
自分の体の中にあるいのち。それはもちろん大切です。本当に一人一人のいのちは決して粗末にされてはなりません。大切な神からの賜物です。どんな小さないのちも決して軽んじられてはならない、それはわたしたちの信仰の核心にあることです。しかし、同時にいのちをこの肉体の中で完結したもの、肉体の中にあって一人一人のいのちが孤立したもの、という見方も、ちょっと違うと感じます。
聖書の生命観は創世記の創造物語によく現れています。創世記2章7節にこうあります。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
人間は神の息吹によってこそ生きるものであり、神から離れては、土の塵にすぎない、滅びるしかないもの。神とのつながりなしに本当のいのちはないのです。
また、創世記2章18節にはこうあります。
「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」
人間はたった一人で孤独のうちに生きるものではない。誰かと支え合い、助け合っって生きるもの。人とのつながりなしに人は生きることはできないのだというのです。つまり、人間は一つの肉体の中で完結した精密機械のようなものではなく、神とのつながり、人とのつながりによってこそ、本当に生きていると言える。
一粒の麦はまさに、自分の殻、自分の存在に固執しないで、他のものとの豊かなつながりを生きることによって、もっと豊かないのちへとよみがえる。
人間もそのように、ある意味、自分を守ろうとするのではなく、本当に神とのつながりを生き、人とのつながりを生きようとする時にこそ、豊かないのちを生きることができる。そしてあのイエスのいのちこそが、そういういのちだった。徹底的に神に信頼する生き方であり、徹底的に人を愛する生き方、自分を壊してまで、徹底的に神と人とのつながりに生きた、それがイエスのいのちでした。そのイエスの十字架の中にこそ、本物のいのちがあったとわたしたちは信じています。
肉体としての人間のいのちは必ず死にます。でもわたしたちのいのちは決してそれだけでない、神とのつながりによって生かされたいのち、人とのつながりによって生かされたいのちは、死をも超えて、永遠の神のいのちにつながっているのです。そういう意味で、わたしの母のいのちも決してなくならないし、わたしのいのちも、すべての人のいのちも肉体の死で終わるようなものではない、そう信じています。
草や木は大地に根ざしています。動くことができないから、大地とつながっていることが分かりやすいです。雨が降っても、雪が降っても、逃げることはできない。でも人間は動き回ることができるので、どこともつながらないで自分だけで生きているのだと錯覚するのかもしれません。
わたしたちは何とつながって生きているのか、この四旬節にもう一度、自分自身のあり方を振り返ってみたいと思います。