毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第3主日



飯舘村復興の3000本桜というところに行ってきました。
南相馬の桜はもう終わりですが、標高500メートルの飯舘村では今が満開でした。
個人の方が震災前から植え続け、今も植え続けているそうです。

3000本以上の桜は見事ですが、とてもカメラには収まりません!

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録3・13-15, 17-19/一ヨハネ2・1-5a/ルカ24・35-48
2018.4.15カトリック原町教会
 ホミリア
 イエスの弟子たちは、イエスが逮捕された時、皆、イエスを見捨てて逃げ去りました。そういう意味で、皆、弟子としては失格者でした。しかし、復活したイエスは再び、その弟子たちをご自分の弟子として受け入れ、派遣されたのです。この派遣の言葉は、マタイ福音書ではこういう言葉です。
 「28・19あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
 マルコ福音書の末尾に載せられているイエスの派遣は、
 「16・15全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
 それに対するルカ福音書の言葉が今日の箇所です。
 「24・46次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 宣べ伝えられるのは「罪のゆるしを得させる悔い改め」だと言われます。悔い改めもゆるしも、ルカ福音書では単なる道徳的な意味の言葉ではありません。「悔い改め」とは「主に立ち返る」ことです。「ゆるし」と訳されている言葉の元のギリシア語は「アフェシス」です。この言葉は、ルカ4章、ナザレの会堂でのイエスの宣教開始の場面にも出てきます。そこでイエスはイザヤ預言書(イザヤ61・1-2aなど)を朗読しました。
 4・18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスはこの箇所を読んでから、こう宣言されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
 ここにイエスの活動とメッセージのエッセンスがあります。この箇所で「解放」、「自由にし」と訳されている言葉が「アフェシス」なのです。苦しむすべての人に福音が告げられる。神と人との間を隔てているものが取り払われ、人と人との間を隔てている暴力や不正が取り除かれるというイメージでしょう。

 ルカの派遣命令でもう一つ大切なのは、「宣べ伝える」は人間がすることではない、という点です。「宣べ伝えられる」の主語は、使徒たちではありません。使徒たちは、「これらのことの証人となる」と言われていて、これをなさるのは神ご自身なのです。
 証人とは何でしょう? 傍観者的に見ていて、ただ証言する人の意味でしょうか? そうではない。神のなさることに信頼しながら、そこに協力していくことが証人となること。

 一番良いイメージは、「わたしをお使いください」という歌ではないか、と思いました。マザーテレサの祈りと言われていますが、元の英語版はうまく探せませんでした。日本語ではこういう歌詞になっています。
 「主よ 今日1日 貧しい人や 病んでいる人々を助けるために  
 わたしの手をお望みでしたら 今日わたしのこの手をお使い下さい
 主よ 今日1日 友を求める小さな人々を訪れるために
 わたしの足をお望みでしたら 今日わたしのこの足をお使い下さい
 主よ 今日1日 優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
 わたしの声をお望みでしたら 今日わたしのこの声をお使い下さい
 主よ 今日1日 人というだけで どんな人々も 愛するために
 わたしの心をお望みでしたら 今日わたしのこの心をお使い下さい」

 「わたしが助けることができますように」というのではないのです。「主が貧しい人を助けてくださる」「主が小さな人々を訪問してくださる」「主が愛の言葉に飢えている人と語り合ってくださる」「主がすべての人を愛してくださる」あくまでも主体は「主ご自身」なのです。そう信頼しながら、わたしの手、わたしの足、わたしの声、わたしの心はその主のみわざのための道具として使ってください、と祈ります。

 昨日、福島市の松木町教会で、仮設住宅を出た浪江町の人たちの集まりがありました。そこで90歳の女性が民謡の替え歌を披露してくださいました。自分で詩を作って、暗記して歌ってくれたのです。その詩の中で、仮設住宅のあった宮代という場所を「第二のふるさと」と呼んでいました。原発事故から6年間一緒に過ごした仮設住宅です。もうほとんどの人はそこを出て、新しい家に移っています。その高齢女性も今は南相馬市に住んでいます。ずっと住んでいた仮設の建物もそろそろ取り壊されるという話です。でもその人は仮設を「第二のふるさと」というのです。逆に言えば、仮設を出た今、どれほど孤独を感じているか、ということだと思いました。
 その人々のために何ができるか、なかなか難しい課題です。でも、わたしたちに何ができるか、何をすべきか、ではなく、「主は何をなさろうとしているか、そして、そこにわたしはどんな協力ができるか」そう考えてみるのも大切ではないかと思いました。これは別にカリタス南相馬のスタッフやボランティアだけの話ではありません。
 「神と人、人と人とを隔てているものからの解放」その神のみわざ、復活したキリストのみわざを信じながら、そのために少しでも協力できるものとなる恵みを祈り求めたいと思います。


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5月末までの予定



 4月8日の日曜日、さゆり幼稚園の行事との関係で、ミサが9:00からに変更になりましたが、それを知らない方がわざわざ仙台から10:00のミサ目指して来られました。本当に申し訳ない!!!
 そこで5月末までの、原町教会とわたしの予定を前もって教えらせしておきたいと思いました。どうぞよろしく。
(以下、ミサ前の講座の部分を少し変更しました)

4月15日(日)復活節第3主日 9:00堅信準備講座 10:00原町教会ミサ
4月22日(日)復活節第4主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ 
      14:00宮城県・大河原教会ミサ(幸田司式)
4月29日(日)復活節第5主日 9:00堅信準備講座 10:00原町教会ミサ
5月6日(日)復活節第6主日 10:00原町教会ミサ
5月13日(日)主の昇天  9:00堅信準備講座 10:00原町教会ミサ
5月20日(日)聖霊降臨の主日(原町教会はミサなし)
      10:00仙台・元寺小路教会にて第6地区合同ミサ・堅信式(平賀司教司式)
5月26日(土)13:30-15:30仙台白百合女子大学にて講演会
5月27日(日)三位一体の主日 10:00原町教会ミサ(堅信式)

これ以外の平日は、朝7:00からミサ(司祭不在のときは「ことばの祭儀」)があります。
ミサかことばの祭儀か、などのお問い合わせはカリタス南相馬(TEL 0244 26 7718)まで。

堅信準備講座はどなたでも参加できます。
なお、通常の聖書講座は6月から再開したいと思います。日曜日朝9:00-9:45。

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復活節第2主日のミサ



2月26日に浪江町でオープンした「サッポロラーメン たき」に行ってきました。
国道6号線、高瀬交差点の近くです。
昼どきだったので、ほぼ満席。塩ラーメンをいただきましたが、おいしかったです。

浪江町の海側が避難指示解除になって1年。
なかなか厳しい状況ですが、徐々に住民は戻ってき始めたようです。
お店もぼちぼち。

●復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録4・32-35/一ヨハネ5・1-6/ヨハネ20・19-31
    2018.4.8カトリック原町教会
 ホミリア
 昔ある小教区で働いていたときのこと。近くの大学に通っていた若い男性が教会に通ってくるようになりました。信者ではありませんでした。平日の夜の教会の聖書のクラスに熱心に通ってくるのですが、発言すれば、毒のあることばかり。わざと人に嫌われるようなことばかりを言うのです。彼は自分のことを「サタン」と呼んでいました。
 「俺はこんなに悪いやつだ。俺なんか誰にも好かれない。俺なんかどうせ救われない」とも言っていました。
 わたしも若かったので、彼にどう接していいのか、よく分かりませんでした。教会に来て、こんなに悪態をついているぐらいなら、わざわざ教会に来なくてもいいのではないか。でも口は悪いけれど、悪い人間には見えなくて、周りにいた青年たちも、まあなんとなく自然に彼を受け入れていました。

 1年ぐらいたった時でしょうか。ある日、突然、彼は自分のこれまでの人生を語り始めました。幼い頃から家庭で受けて来た苦しみ。家でも学校でも、ずっと自分の居場所がなく、どれほど苦しんで来たか。ずっと人間関係がうまく行かなかったことなどなど。
 それは閉ざされていた心が開かれた瞬間でした。
 そのときに分かったのです。彼が必死で心を閉ざしていたのは自分を守るためだったのだと。自分を開いて、人と関われば必ず自分が傷つくと知っていて、ヤマアラシかハリネズミのように棘を立てて、必死で自分を守っていたのだと。
 でも彼は心を開きました。それは1年の間に、教会で聖書を読み、他の青年たちと関わり、イエスの愛が彼の心に染みていったからです。ここなら大丈夫、自分の弱さを出しても受け入れられる、そう感じたからでしょう。閉ざされた心が開かれたとき。本当に感動しました。この瞬間のために自分は司祭になったのだと思うほどの感動でした。
 それからわたしは転勤して、彼とずっと音信不通になってしまいましたが、何年か後に、偶然、彼と再会しました。まったく違う教会のクリスマスの夜のミサでした。生活や仕事は必ずしもうまく行ってはいないようでした。でも以前よりも明るくなっていて、ずっと教会とつながり続けてくれているのがうれしかったです。

 今日の福音を読むとわたしはいつも彼のことを思い出します。
 イエスの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸を硬く閉ざしていました。先生が捕まり、十字架にかかって死んでしまった。外にはイエスの仲間を探して、捕まえようとしている人々がいるかもしれない。自分たちもどんな目にあうかわからない。恐怖でいっぱいなのです。「鍵をかけていた」それは弟子たちの心の状態をも表しているのでしょう。そこにイエスが来られます。彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言います。弟子たちの心は喜びと平和に満たされていきます。「あなたがたに平和があるように」。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。外は危険でいっぱいです。でも「イエスがともにいてくださる。だから何も恐れることはない」これがキリストの平和です。心がこのキリストの平和に満たされた時、弟子たちは鍵を内側から開いて、外に出て行くことができるようになったのです。
 心の扉は外からこじ開けることはできません。内側からしか開かない。そして本当に深い平和を心に感じなければ内側から扉をひらくことはできないのです。

 八日目にイエスに出会ったトマスも心を閉ざしていました。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」なぜトマスはその場にいなかったのでしょうか。トマスはヨハネ11章で、イエスが危険に満ちたユダヤに行くと弟子たちに話した時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と勇敢なことを言った弟子でした。しかし、彼は最後までイエスについて行くことはできなかったし、仲間の弟子たちもそうでした。そんな自分にも仲間にも失望し、こんな連中と一緒にいても意味がないと感じたのでしょうか。そしてイエスの死を知って絶望し、心を閉ざしていました。彼のもとに「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちの話が届きました。でも彼は信じることができない。心を閉ざし続けます。
 信じることはできないけれど、その後、こう書いてあります。
 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」
 「もしかしたら本当かもしれない」そこに賭けたのですね。そしてイエスはそのトマスにも現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われます。トマスもこのキリストの平和に満たされて行くのです。そのとき、本当に心を開くことができました。

 「キリストがともにいてくださる。だから何も恐れることはない」このキリストの平和の体験は、個人の体験だけでなく、教会の体験でもあります。教会もほんとうに「キリストがともにいてくださる。だから何も恐れることがない」これが原体験ですし、そこからいつも出発します。
 司教はミサのはじめに「平和が皆さんとともに」と言うことになっています。普通の司祭は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」とか言いますね。普通の司祭の言葉とちょっと違うんですが、そんな違いを強調する必要はないし、なんとなく最初は恥ずかしかったのです。これは復活したイエスのあいさつそのままです。「あなたがたに平和があるように」司教は特別に、イエスに代わってそう言うのです。みんながキリストからそう言われていると受け取ってくださるとありがたいです。わたしたちキリスト者のミサは復活したイエスがともにいてくださる。そこから始まります。
 ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉があります。これも今日の福音のイメージで受け取りたい。内側から鍵をかけて、必死で自分たちを守ろうとしているところに、イエスは来られ、「あなたがたに平和」とおっしゃり、「わたしはあなたがたを遣わす」とおっしゃってくださる。今日もこのキリストの平和に満たされて、キリストの平和を伝えるために、ここから出発していきたいと思います。


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復活の主日 日中のミサ



カリタス南相馬のシスターKH作のイースターエッグです。
玉ねぎの皮からこの色を出しているそうです。

●復活の主日・日中のミサ
 聖書箇所:使徒言行録10・34a, 37-43/コロサイ3・1-4または一コリント5・6b-8/ヨハネ20・1-9
    2018.4.1カトリック原町教会
 ホミリア
 今日のミサの福音はヨハネ福音書20 章、イエスの死から三日目に弟子のペトロとヨハネがイエスの墓に行くと墓が空だった、という話を伝えています。何かとんでもないことが起こった、そう予感させる出来事ですが、だからイエスは復活したのだとまでは言えないかもしれません。弟子たちがイエスの復活を本当に知ったのは、イエスが姿を表し、弟子たちとともに食事をしたということがあったからです。今日の第一朗読には、「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたち」という言葉があります。わたしたちは死んだはずのイエスと出会った、確かに生きておられ、食事も一緒にした。これが弟子たちの体験でした。この体験に基づいて弟子たちはイエスの復活を証言したのです。
 復活して今も生きておられるイエスと一緒に食事をする、それは2000年前の弟子たちだけのものでしょうか。実は同じ経験をわたしたちも毎週ミサの中でしているのです。復活祭を迎えて、そのことを今日、改めて味わいたいと思います。

 復活したイエスと食事を共にしたという弟子たちの体験の中で、特に印象的なのはルカ24章のエマオの弟子たちの体験でしょう。
 イエスが亡くなって三日目、安息日が明けて、二人の弟子はエマオという村に向かって歩いて行きました。エルサレムは危険なので、早く逃げようとしたのでしょうか。自分たちがすべての希望をかけていたあのイエスは死んでしまったので、もうエルサレムにいてもしょうがない。他の弟子たちと一緒にいてもしょうがない。そう思って故郷に帰って畑でもするか、魚捕りでもするか、そんな感じでしょうか。
 そこへ見知らぬ旅人が現れて、彼らと一緒に歩き始めました。そして、「聖書全体についてご自分について書かれていることを説明され」ました。
 夕方になり、一緒に宿屋に入り、その人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」というのです。
 この話はミサとよく似ています。ミサの前半でわたしたちは聖書の朗読を聞き、それを味わいます。ミサの後半でいつも主の食卓を囲みます。そこで、イエスが共にいてくださることを特別に深く味わうのです。

 ミサは「過越の宴」(典礼憲章47)と言われます。一方ではイエスの十字架の死の記念です。「渡されるからだ、流される血」イエスの受難、イエスの十字架の愛の記念。イエスは最後の晩さんでこの記念を行うよう、弟子たちに託しました。でももう一方でミサは復活の記念なのです。共に食事をすることをとおして、イエスが今もわたしたちの間に生きておられることを祝うのです。
 カトリック教会は、このミサを本当に大切にしてきました。このミサをとおして、エマオの弟子たちのように、わたしたちも共にいてくださるイエスに励まされ、闇から光へ、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、孤立から連帯へ、と変えられていく、そういう体験をしてきたからです。新たにカトリック信者となった3人の方、どうかミサのこの力を感じていってください。ミサに集まる人たちは不完全な罪びとの集団かもしれない。司祭の説教はつまらないかもしれない。でもミサは人間の力で行われるものではなく、復活したキリストの力で行われるのです。そこに必ずキリストはいてくださる、それがカトリックの信仰であり、カトリック教会の豊かさの源です。

 昨夜の復活徹夜祭で、洗礼式と堅信式が行われました。その中でお願いしたのは、キリスト者として歩んでいく中で「聖書と祈りと共同体」、この三つを大切にしてほしいということでした。この三つが凝縮されて一つになっているのがミサなのです。
 聖書は一人でも読めます。しかし、ミサの中での聖書朗読を特に大切だとされています。典礼で読まれる聖書の言葉をとおして、「神はその民に語りかけ、キリストは今も福音を告げている」、そういうものとして、わたしたちはミサの聖書朗読を受け取ります。
 ミサは最高の祈りだとも言われます。イエス・キリストがご自分のすべてを御父にささげた、そのことを思いながら、わたしたちの祈りをささげます。わたしたちの祈りが、キリストの祈りに結ばれて御父にささげられる、これ以上の祈りはありません。
 そしてミサは共同体がなければ成り立ちません。ここでもエマオの弟子たちの姿を思い出したらいいと思います。彼らは少なくとも二人連れでした。たった一人のところにイエスは現れるのではなく、失望し、打ちひしがれて、肩寄せ合っていたこの二人にイエスは近づき、ご自分を現してくださいました。こういう仲間がわたしたちにも必要です。そしてこの二人は、イエスに出会ったと気づいてから、「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まっていて、本当に主は復活して、シモンに現れた、と言っていた」(ルカ24・33-34)というのです。彼らはイエスの弟子たちのもっと大きな共同体に帰って行きました。この共同体、人間同士ですからうまく行くことばかりではありません。でもわたしたちに、この一つの食卓を囲む共同体、イエスを中心とした共同体が与えられていることを本当に感謝しながら、大切にしたいと思います。

 ミサができなくなることもありえます。先日、ここの隣の教会のC神父が脳腫瘍のため、ポーランドに緊急帰国しました。仙台教区福島県の教会としては、また大きな穴が開いたことになります。この先も司祭不足の厳しい状態が続くでしょう。でも日本の教会は江戸時代、200年以上、司祭なし・ミサなしで信仰を守ってきた歴史があります。確かに司祭はいないし、ミサもありませんでした。でも彼らには聖書のみことばと祈りと支え合う共同体がありました。ミサはもちろん大切ですが、「聖書と祈りと共同体」これがわたしたちの信仰を支えるのです。そのことも大切にしたいと思います。
 今日もさいわい、わたしたちは「過越の宴」であるミサの中で主の復活を祝うことができます。この復活の喜びのうちに、イエスと共に歩んでいきましょう。


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復活の主日 復活徹夜祭







主の復活、おめでとうございます。
昨日の復活徹夜祭に、原町教会でも洗礼式・堅信式が行われました。
おめでとうございます。

写真は前日に紹介した水芭蕉の周辺の花々です。
新しいいのちが咲き誇っていました。

●復活の主日・復活徹夜祭
 聖書箇所:出エジプト14・15~15・1aほか/ローマ6・3-11/マルコ16・1-7
    2018.3.31カトリック原町教会
 ホミリア
 イエスが十字架で息を引き取ってから三日目の早朝、女性の弟子たちはイエスの墓に行き、そこで天使から「イエスは復活した」と告げられました。そこで、その夜が明ける前にイエスは復活したということになりました。そのため、古代からこの夜、夜を徹して復活を祝うようになりました。これが復活徹夜祭です。今のカトリック教会ではコンパクトになっていますが、それでもずいぶん長いミサです。
 4つのことをもって復活を祝います。最初は「光の祭儀」。新しい火を灯された復活ろうそうを用いて、死の暗闇に打ち勝ったキリストのいのちの光をたたえます。次は長い「ことばの典礼」。旧約聖書の朗読だけでも最低3つ行われます。神が人類の歴史をとおして、長い時間をかけて救いを準備してくださったことを思い起こし、イエスの死と復活という決定的な救いの神秘を深く味わいます。それから「洗礼と堅信」。キリストとともに古い自分に死んで、キリストとともに新たないのちによみがえる。洗礼はこのことを表すので、古代の教会の伝統に基づき、この復活徹夜祭で洗礼式が行われます。今日はプロテスタントで洗礼を受けられた2人の方をカトリック教会に受け入れる式もここで行い、それから3人の方に堅信の秘跡を授けます。そして「感謝の典礼」。いつもミサのたびにしていることですが、復活されたキリストを囲んで、喜びの食卓を共にします。
 
 特に今日は洗礼のことを話したいと思います。
 洗礼は元々のギリシア語で「バプティスマ」と言います。バプティスマは「水の中に沈める、浸す」という意味の言葉から来ています。元々は人間の体を全身、水の中に沈めることでした。一旦、水の中に沈んで、そこから立ち上がる。これは死と復活のイメージです。洗礼の根本的な意味は、先ほど読まれた使徒パウロのローマの教会への手紙にあるように、キリストの死と復活のいのち、新しいいのちにあずかることなのです。
 この「新しいいのち」とはどんないのちでしょうか。それは神の子としてのいのちです。人間は本来だれでも、イエスが「アッバ、お父さん」と呼んだ神の子でした。でもそのことを見失ってしまうと、放蕩息子のようにさまよってしまうことになります。その放蕩息子である人間が、神に立ち返り、もう一度神の子として生き始める。これが洗礼の恵みである「新しいいのち」です。どこが新しいのでしょうか。それは神の愛とゆるしを知ったことです。神の愛とゆるしを知らずに生きるのと、神の愛とゆるしを知って、その神の愛とゆるしの中で生かされて生きるのでは全然違います。これが「新しいいのち」なのです。

 わたしたちキリスト者は自分がそういう神の子としての新しいいのちを与えられたことを知っています。わたしたちは神の子であり、神からかけがえのないいのちをいただいているということを知りました。しかし、それは決して「特権」ではありません。
 神から与えられた自分のいのちを大切にし、同時に、すべての人のいのちを神から愛されたかけがえのないいのちとして大切にする、という使命が与えられるのです。相手が仏教徒であろうと、ムスリム(イスラム教徒)であろうと、無神論者であろうと、どんな人も同じ神の子として、互いに兄弟姉妹として大切にして生きること。どの人種、国籍、民族であるか。金持ちか貧しい人か。どんな職業か。何を持っているか、何を持っていないか。そんなことと関係なく、すべての人を人として尊重すること。これがわたしたちに与えられている根本的な使命です。
 どんないのちも神が愛されるかけがえのないいのちだ。イエスがそのために十字架でご自分のいのちをささげてくださった、大切ないのちなのだ。そう見て、そのように人とかかわる者としてキリスト者は世に派遣されているのです。

 今日、洗礼と堅信、そして聖体の秘跡を受けられる方。そしてカトリック教会の交わりに入り、堅信と聖体の秘跡を受けられる方々。皆さんはこの使命を受けて、神から派遣される者になりました。
 これから長い歩みです。わたしたちがキリスト者として生きていくのは簡単ではありません。特に今の日本のように、キリスト者でない人がほとんどで、経済や競争ばかりが強調されている世界の中で、キリスト者としての使命を生きていくのは簡単ではありません。
 三つのことを大切にしてください。それは「聖書と祈りと共同体」です。
 聖書を読むこと、それはキリスト者にとって欠くことのできないことです。イエスに教えられ、導かれなければ、キリスト者として歩むこと、キリスト者として成長することはできません。どんな仕方でもいいですから、生涯、聖書を読み続けてください。
 祈ること、これなしにもキリスト者として生きることはできません。朝の賛美と夕べの感謝を習慣にしてください。朝はこの1日を与えてくださった神を賛美し、神と共に今日1日を生きることができるよう祈ります。夜には今日1日を振り返り、反省と感謝をします。もう一つ、もっとも身近なこととして食前・食後の感謝の祈りがあります。小さなことですが、そういう祈りをとおして日々の生活の中で神とのつながりを確認していくことはとても大切です。祈らないキリスト者というのもありえないのです。
 そして共同体。キリスト者は一人で信仰を生きていくことはできません。わたしたちの信仰があるのは、2000年の歴史の中で受け継がれた信仰の共同体があるからです。今も、全世界に広がるフランシスコ教皇を中心とした12億人もの人からなるカトリック教会の共同体に支えられています。そして具体的には身近な誰かが信仰の友として一緒に歩んでくれる、ということがとても大切です。代父母の方だけでなく、ここにいるわたしたちは皆、そういう信仰の友、信仰の仲間になりたいと思っています。

 ここに集まるわたしたちが、互いに励まし合い、支え合いながら、主イエスに従う道、信仰と愛の道を歩む共同体として成長していくことができるよう、心から祈り求めながら、洗礼と堅信と聖体の秘跡を祝いたいと思います。

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