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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

2018 仙台教区 平和を求めるミサ



平和旬間(8月6日〜15日)中の日曜日、仙台教区本部からの指示で、各小教区で、平和を求めるミサがささげられました。

●年間第19主日・仙台教区平和を求めるミサ
 聖書箇所:イザヤ11・1-11/二コリント5・17〜6・2/ルカ4・18-19
            2018.8.12カトリック原町教会
 ホミリア
 今日のミサのプリントの表紙に載せた写真は、ジョー・オダネルというアメリカの従軍カメラマンが原爆投下後の長崎で撮影した写真です。フランシスコ教皇が昨年末、この写真に「戦争がもたらすもの」と書いてカードを作成し、多くの人に配布しました。
 この写真を撮ったときのことを、オダネルさんはこう書いています。

 佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。彼らは60センチほどの深さに掘った穴のそばで作業をしています。やがて、10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に負っています。弟や妹をおんぶしたまま広場で遊んでいる子どもたちの姿は、当時の日本ではよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的をもってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすりと眠っているのか、首を後ろにのけぞらせていました。
 少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づいて赤ん坊を受け取り、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に焼けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がり、真っ赤な夕日のような炎が、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が鎮まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

 子どもたちにこのような悲しみ・苦しみを与えるのが戦争なのだ、と教皇もおっしゃりたかったのでしょう。これは20世紀の戦争の特徴でした。
 ピカソの絵で有名なゲルニカの空爆があったのは、1936年4月26日のこと。人民戦線とフランコ軍が戦っていたスペイン内戦の時代です。フランコ軍を支援していたドイツ空軍が大規模な空爆をゲルニカという町に対して行いました。焼夷弾が本格的に用いられた「史上初の都市無差別爆撃」と言われています。また、このような空爆は「戦略的爆撃」とも言われています。市民を多数殺傷することによって、敵側の戦意を削ぐことを目的としているからです。第二次世界大戦でこのような無差別爆撃は規模が拡大し、アメリカ軍は日本の都市に対して、大規模な爆撃を繰り返しました。その延長上に広島と長崎の原爆投下があったのです。
 20世紀以降の戦争の特徴は、国と国が戦う、軍隊と軍隊が戦うのではなく、軍隊が市民を殺すということです。犠牲者の中には、無防備な男女の大人たち、そしてたくさんの子どもたちが含まれます。東京大空襲を始めとした日本各地への空襲。民間人が多数犠牲となった沖縄戦。もちろん日本がアジア太平洋地域に対して行なった侵略行為も忘れることはできません。老若男女、すべての人が犠牲になる、これが現代の戦争なのです。

 日本はこの悲惨な戦争の経験の上に立って、戦後、平和憲法を定めました。それは軍隊や武器は人間を守るものではないという、20世紀前半の真実に基づいています。
 カトリック教会では、ヨハネ23世教皇が、『地上の平和Pacem in Terris』という回勅の中で、「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」と述べました。それまでカトリック教会には「正戦論」というものがありました。特別な条件のもとでは戦争もやむを得ない、と肯定して来たのです。しかし、もはや戦争はあらゆる条件のもとでも認めることができないというのです。特に、ヨハネパウロ2世教皇やフランシスコ教皇は、はっきりとその姿勢を打ち出しています。
 何が変わったのでしょうか。教会の教えが変わったのでしょうか。そうではなく戦争が変わったのだとわたしは思っています。ゲルニカから、広島・長崎から、戦争とは軍隊が市民を殺すものになってしまったのです。そのことをこの「焼き場に立つ少年」の写真ははっきりと教えてくれます。

 軍備の増強は平和に役立ちません。核抑止論は平和に役立ちません。「あの国は脅威だ」とか、「あの国は信用できないから対話は無理だ」、「自分の国の安全を軍事力で確保する」、というような発想はまったく平和にはつながりません。これは日本だけのことではありません。世界中に戦争に向かいそうな危険な兆候があります。今だに戦争によって儲かる人はたくさんいるし、戦争したい人もたくさんいるのです。そして殺されるのは市民です。無数の大人と子どもなのです。
 今日の福音で、イエスがナザレの会堂で宣言されたように、「貧しい人、捕らわれている人、圧迫されている人」にきちんと目を向け、その人々のいのちを尊重し、その人々の尊厳を守ることこそが平和への道です。そのキリストの平和への道を歩むことができますように、心から祈りましょう。





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2018年8, 9月の予定(8/11改訂)



福島市で買った福島のおいしいもの。
「奥の松あだたら吟醸」はロンドンのワイン品評会(日本酒部門)で、今年の「チャンピョン・サケ」に選ばれたお酒。
安い割にとてもおいしいです。
あとは、川俣町のとうふ。飯坂のイカ人参、相馬原釜港のちりめんです!

原町教会とわたしの8, 9月の主な予定を載せ忘れていました。遅くなりましたが、、、

8月5日(日)年間第18主日10:00原町ミサ
8月12日(日)年間第19主日10:00原町ミサ(平和を求めるミサ)
                 15:00小高修道院ミサ
8月15日(水)聖マリアの被昇天10:00原町ミサ
8月19日(日)年間第20主日10:00原町ミサ
8月25日(土)11:00〜14:00カリタス南相馬夏祭り
8月26日(日)年間第21主日10:00原町ミサ、14:00大河原教会ミサ
8月30日(木)19:00広島県福山市・援助マリア会修道院にて信徒向け講話
9月2日(日)年間第22主日10:00原町ミサ
9月9日(日) 年間第23主日10:00原町ミサ、15:00小高修道院ミサ
9月16日(日)年間第24主日
   10:00〜仙台教区第六地区研修会、14:00ミサ(元寺小路教会にて、平賀司教司式)
   このため原町はミサなしになります

9月17日(月)大阪教区修道女連盟研修会
9月18日(火)19:00桜の聖母生涯学習センター講座
9月23日(日)年間第25主日10:00原町ミサ
9月30日(日)年間第26主日9:00大河原教会ミサ、11:00亘理教会ミサ(幸田)
        原町教会のミサは佐々木博師



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年間第18主日



森永マンナ。こんなパックで売っていました。

●年間第18主日
 聖書箇所:出エジプト16・2-4、12-15/エフェソ4・17、20-24/ヨハネ6・24-35
        2018.8.5カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の第一朗読と福音には「マナ(マンナ)」という不思議な食べ物のことが語られています。紀元前13世紀、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、約束の地に向かって歩んで行く荒れ野の旅の中で、神が与えた食べ物です。「天からのパン」とも言われます。
 そう言われてもなかなかピンとこないと思いますので、昨日の夜、ヨークベニマルで買ってきました。わたしの子どものころからありますが、離乳食のようなビスケットで、「森永マンナ」といいます。残念なのは今ではビスケットの形が変わり、パッケージも変わってしまったことです。以前は「マンナ」という名前の説明が書いてありました。マンナとは「旧約聖書にある、“神が荒野をさまよえる民に与え給うた愛の食べ物”」と書いてあったのです。森永の社長はクリスチャンだったので、こういう名前をつけたんですね。この説明がなくなってしまったのはとても残念です。いいカテケージスになったのに!

 マナという食べ物が実際にどんなものだったのか、あまりよく分かりません。聖書によれば、マナには二つの特徴がありました(出エジプト記16章参照)。
 一つは「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。」すべての人に必要なだけ与えられたということです。
 もう一つの特徴は翌日までとっておけない。翌日まで取っておくと腐ってだめになってしまう。その日の分をその日に集めなければならない、ということ。

 荒れ野は厳しい環境です。ぎりぎりの食べ物しかなかった。でも神はその中でいつも一人一人を養ってくださった。そこにはある意味で平等な世界がありました。しかし、約束の地に入り定住生活を始めると事態は変わります。人は土地を耕して作物を収穫し、それを蓄えるようになる。そしてだんだんと貧富の差が広がっていく。そこからものを奪い合う争いも起こる。そうなったところから振り返ってみると、マナの世界はある意味、理想の世界でした。マナの世界は決して物質的に裕福な世界とは言えない。しかし、神に生かされ、人と人とが分かち合って生きる世界。これが本当に大切な世界。イエスが五つのパンと二匹の魚の出来事をとおして示してくださったのもその世界。いや、これはイエスが生涯かけて人々の伝えようとしたメッセージの核心と言ってもいいでしょう。

 人はついつい、いつの間にか神を忘れ、自分の力で生きている、と思い込むようになります。そうすると、あの人は自分より劣っていると他人を見下してみたり、逆に自分なんかやっぱりダメ、どうせ救われないんだ、と絶望したりする。イエスの時代の社会を支配していた律法主義の問題はそれでした。イエスはそうじゃない世界を示しました。どんな人も例外なく大切にしてくださる神(アッバ)がいること。だから、わたしたちはその神に感謝し信頼することができるということ。そして与えられたものを皆で分かち合って生きる喜び。人と人との間にあるのは、競争心や勝ち負けや憎しみや差別、そんなものではなく、神が与えてくださったものを皆が分かち合い、互いに尊重し合って生きること。神はアッバであり、わたしたちはみな、神の家族、兄弟姉妹なのだ。社会の中で罪人のレッテルを貼られていた人、汚れているとされた病人、一人前の人間と見なされていなかった女性や子ども、差別されていた外国人。その人々に「あなたも同じ神の子だ、兄弟姉妹なのだ」、イエスはそう語りかけていきました。だから本当にお互いを、人種や民族、性別や職業の違いを超えて一人一人を、誰一人例外なく、尊重し合って生きていこう。それが神の国だ。わたしたちはみんなそこに招かれているのだ。———イエスはこのことを命がけで人々に伝えました。

 わたしたちもこのマナの世界に招かれています。
 イスラエルの民の荒れ野の旅は40年間だったと言われています。40年! わたしたちが聞いている福島第一原発の廃炉までの期間と同じですね。こちらのほうは本当に40年で廃炉にできるという保証はない。むしろ自分たちの世代では無理だと言っているようなものかもしれない。
 わたしたちも今、厳しい荒れ野の旅を歩んでいると言えるのかもしれません。でもわたしたちには天から与えられたパンがあります。恵みとして、この教会が与えられ、さゆり幼稚園が与えられ、カリタス南相馬が与えられ、そこでさまざまな人と人との出会いがあります。神が今日、わたしたちを養い、生かしてくださっていることを感謝し、いただいた恵みを皆で分かち合いながら歩んでいく。ここには大きな恵みの世界があります。あの震災と津波、原発事故で失われたもの、奪われたものはたくさんありました。でもわたしたちは生きています。神によって生かされています。その生かされたいのちを感謝し、苦しみも喜びも分かち合いながら歩んでいく。そこにマナの世界があります。そこに5つのパンと2匹の魚の世界があります。

 今日もわたしたちはこのミサの中で「いのちのパンであるイエス」を祝います。そのイエスを思い起こし、そのイエスに深く結ばれることができますように。アーメン。



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年間第17主日



相馬野馬追2日目、ひばりヶ原祭場で、甲冑競馬の出走を待つ馬たちです。
この行事の交通規制のために、主日のミサは午後3時からに変更されました。
でもそのおかげで、甲冑競馬も神旗争奪戦も見ることができました。
夜は小高の火の祭り、月曜日は小高神社での「野馬懸け」
盛りだくさんの行事を拝見させていただきました。
そして、お祭りのボランティアの皆さん、お疲れさまでした!

●年間第17主日
 聖書箇所:列王記下4・42-44/エフェソ4・1-6/ヨハネ6・1-15
2018.7.29カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしたちキリスト信者は食事の前にお祈りをします。カトリックの祈りの本に載っている祈りは簡単なものです。十字架のしるしをしてからこう祈ることになっています。
 「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
 もっと自由に長い祈りを唱えてもいいのですが、最低限、いつもこれくらいの祈りはしたいということでしょう。周りの人がいる手前、十字架のしるしをしにくいことありますね。声を出すのが難しいことも。それならば、心の中でそっと祈ればいい。さらにもっと時間がなければ「神様いただきます」だけでもいいでしょう。何よりもこの食事が神からいただいたものであることを思い起こし、感謝するのです。日本の習慣で、「いただきます」というのもただ単に食事を作ってくれた人への感謝だけでなく、もっと大きな神や自然、さらに農家や流通に携わっている人のつながりへの感謝を表す言葉でしょう。
 もちろんそういうすべてに感謝しますが、わたしたちの食前の祈りは、やはり「神様いただきます」ですね。たまたま偶然にこの食べ物があるからラッキーというのではなく、自分のお金で手にいれたのだから当然というのでもなく、神から与えられたものとして受け取る。食事はいのちのシンボルです。わたしたちのいのちも、それを養うすべての恵みも神からいただいたものとして感謝する。これが食前の祈りの心です。

 この食前の祈りの原型はやはりイエスの姿にあります。今日の福音はその一つの典型的な例です。多くの人がイエスの周りに集まっていました。男の数は5000人、ってひどい話ですよね。当時のユダヤの社会では、女性や子どもは人数にも入らなかったのです。とにかく大群衆でした。イエスはその人々に食べ物を与えようとされました。でもパンが5つと魚が2匹しかありません。どう考えても足りないのです。それでもイエスは天を仰ぎ、賛美の祈りを唱えました。このパンは神からいただいたもの。だから自分たち少人数の人が満たされればいいのではなく、ここにいるすべての人と分かち合いたい、これがイエスの心でした。イエスの食事にはいつも、この神とのつながり、そしてすべての人とのつながりがはっきりと示されていました。
 わたしたちの食事もそうです。「わたしたちの心と体を支える糧としてください」そこで言っている「わたしたち」は今、ここで一緒に食事をしているわたしたち、だけでなく、飢えに苦しむすべての人のことと考えてもいいと思います。食後の祈りは、もっとはっきりしています。
 「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら」
 自分たちさえよければいい、というのではなく、すべての人と神からの恵みを分かち合いたい、それがイエスの心です。世界中で飢えに苦しむ人、わたしたちの近くにもいるかもしれない飢えや孤立、さまざまな苦しみを抱えている人のことを思い、その人々にも神からの恵みを分かち合いたい。食事のたびにわたしたちはそのイエスの心を味わい、イエスの心に結ばれたいのです。

 さて、食事の前に神を賛美し、食事の後に感謝の祈りを唱える。それと同じようなことを1日の始めと終わりにもします。今日一日、新しい日を迎えさせてくださったことを神に感謝し、賛美をささげるのが朝の祈りです。そしてその1日を振り返り、感謝するのが晩の祈りです。1日を振り返るといろいろ足りない点や過ちも思い出しますから、その点は神にゆるしを願います。でも神がともにいてくださった1日として振り返って、感謝し、だからこそ、そこですべての人のために祈ります。この朝晩の祈りも大切したいことです。

 さらに一週間のはじめにこうしてミサに参加して祈る。これもわたしたちが大切にしていること。一週間の恵みを思い起こして、神に感謝し、その恵みをすべての人と分かち合いたいという思いですべての人の幸せのために祈り、また新しい一週間を始める。これもわたしたちが大切にしていることです。こうして、食事のたびごとに、また、毎日の始めと終わりに、さらに、週の始めの日に祈る。祈ればわたしたちの生活は神とともにいる生活になります。祈らなければ、やはり神と程遠い生活になってしまうでしょう。

 5つのパンと2匹の魚を前に、祈りをささげ、それを分かち合ったイエスの姿を思い出しながら、わたしたちの日々の祈りの意味をもう一度見つめ直したいと思います。
 祈る習慣がなかなか身につかない、という人もいるでしょう。
 祈りが言葉だけのまんねりのものになっていると感じている人もいるでしょう。
 今日の福音のイエスの祈る姿を思い出しながら、あきらめずにもう一度、本当に心から神に祈る日々を始めていきたいと思います。


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年間第16主日



小高い場所から見た南相馬市原町区の景色。
ほとんど分からないかもしれませんが、中央の奥にカトリック教会の建物が見えます。

●年間第16主日
 聖書箇所:エレミヤ23・1-6/エフェソ2・13-18/マルコ6・30-34
           2018.7.22カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音の結びの言葉はこうです。
 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
 このイエスの眼差しを感じたい。このイエスの姿を思い起こしたい。イエスは今のわたしたちの世界を見て、どう感じておられることでしょうか?
 今の社会を見ていて、わたしが強く感じることは、あまりにも目先の損得だけで動いているのではないか、ということです。この国にカジノが必要でしょうか? だれかが儲けて経済にもいい影響がある、ということだけのために、長い目で見てどれだけ大切なものが失われるかもしれないということはまったく忘れられてしまうのです。原発の再稼働、防衛費の増加、オリンピック。目先の損得の話がまかり通ってしまう。そんなことが多すぎます。このままでは本当にこの国は、この世界は滅びへと向かっているのではないかと心配になります。

 そう考えているうちに、フランシスコ教皇の「時間は空間に勝るTime is greater than space」という言葉を思い出しました。教皇は、この言葉を何度も使っています。わたしが最初に触れたのは、2013年(教皇に就任した年)に出された使徒的勧告『福音の喜び』223項でした。そこでは平和のための4つの原理の中の第一のこととして、「時は空間に勝る」ということが語られています。
 「この原理は、早急に結論を出すことを迫らず、長期的な取り組みを可能にします。また、困難であったり反対を受けたりする状況に辛抱強く耐えることや、力強く動く現実によって迫られる計画の変更を助けます。」「空間を優先させることは、現在の時点ですべてを解決しようとする、あるいは、権力と自己主張が及ぶ空間すべてを我が物にしようとするという愚かな行為へと人を導きます。」「時を優先させるということは、空間の支配より、行為の着手に従事するものです。」
 問題を空間的に見て今すぐに問題をすべて解決しようとすると力に頼ることになる。それは愚かなことであって、そうではなく、時間をかけて対話と相互理解を積み上げていくことのほうが平和のために大切だというのです。

 2015年に発表された回勅『ラウダート・シ』178項にもこの言葉が出て来ます。
 「即時効果に気をもむ政治は、消費者層に支持され、短期的な成長を生み出すことに駆り立てられます。」「このようにわたしたちは、『時は空間に勝る』こと、権力の座にしがみつくよりもむしろ歩みを進めるほうがつねに効果的だということを忘れます。困難に際して、わたしたちが気高い原則を掲げ、長期的な共通善を思い描くとき、真の政治的手腕が明らかになります。政治権力者たちは、国造りの仕事におけるこうした義務を引き受けることをとてもつらいことだと思うのです。」
 政治家は「短期的な成長を生み出すことに駆り立てられる」と言います。気高い理想を掲げ、長い目で本当にあるべき世界に向かっていくよりも、目先の損得で動くという指摘はあたっています。まさに今の日本と世界の問題です。「時は空間に勝る」というのは長い目でものごとを見て「目先の損得に振り回されない」ということでもあると思います。

 目先の利益ばかりを追い求めた結果、人類は本当に飼い主のいない羊のように滅びへと向かっているのではないでしょうか。別に悲観的なことを言いたいのではありません。でもやはりわたしたちは本当にこのままでいいのか、という危機感を持たなければならない時代に生きていると思います。現代の世界の中で「飼い主のいない羊」のような人々。イエスはこの人類を見て、「深くあわれんで」くださっているのではないでしょうか。
 この「深く憐れむ」と訳された言葉はギリシア語で「スプランクニゾマイ」と言います。「はらわた」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ということを表す言葉です。相手の痛みを自分の体で感じるような深い共感を表す言葉なのです。沖縄には「チムグリサ(肝苦さ)」という言葉がありますが、普通の日本語だったら「胸を痛める」でしょうか。亡くなった東京教区の佐久間彪神父はこの「スプランクニゾマイ」を「はらわたする」と訳しました。

 イエスはこの場面で、はらわたして、そして「教え始めた」とあります。
 イエスが語っていたのはいつも神の国の福音でした。神はすべての人の親(アッバ)であり、すべての人が神の子。アッバである神はわたしたちすべてを救うために、近づいて来てくださっている。その神に信頼して、心を開き、応えていこう。これがイエスの語った神の国の福音でした。
 本当に大きなビジョンをイエスは示されました。目先の利益じゃないのです。時間をかけて、一歩一歩、そこに近づいていく、そういう大きなビジョンを示す、それが羊飼いとしてのイエスが示されたことだったと言えるのではないか。わたしたちはこのイエスを信じています。だからわたしたちは、目先のものに振り回されずに生きていきたいし、生きていけるのです。
 「神の国がいつか完成する」「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」「そのとき、本当にすべての人の尊厳が尊重され、本当の意味での平和が実現する」、その大きなビジョンを持って、そこに向かって歩んでいきたい。目先の損得で原発をどうするか、安全保障をどうするか、そういう問題を超えて、神の国が来ますように、神のみこころが実現しますように。そこに向かって一歩一歩近づいていくことができますように、心から祈りましょう。


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