毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第1主日のミサ



四旬節の最初の日曜日、寒い日でした。でも暦の上ではもう春。
大好きな桜餅の季節になりました。
南相馬市原町区の「亀屋」というお菓子屋さんで買いました。
なかなかのお味でした。

●四旬節第1主日
 聖書箇所:創世記9・8-15/一ペトロ3・18-22/マルコ1・12-15
       2018.2.18カトリック原町教会にて
 ホミリア
 四旬節が始まりました。来週と再来週の日曜日、この教会を留守にしますので、四旬節のことをまとめてお話ししたいと思います。

 四旬節は「40日の季節」という意味で、今読まれたイエスの活動開始に先立つ40日の荒れ野の日々を原型としています。そのイエスの荒れ野での断食の日々に合わせて、教会では古くから、復活祭前に40日間断食をするという習慣が起こりました。断食といっても肉を食べないという意味での断食でしたが、その日数を40日間数えるのが、教会の伝統になりました。また、日曜日はいつも主の復活の祝いの日なので断食しない、という考えもあったので、6つの日曜日を加えて復活祭まで46日間あります。
 四旬節の根本的なテーマは、イエスの受難と死を思い、イエスとともに復活のいのちの恵みにあずかる、ということです。

 イエスの死と復活にあずかる、という点で、古代から大人の洗礼式は復活祭に行われて来ました。洗礼はもともと水の中に沈み、水の中から立ち上がるという式でした。つまりキリストとともに古い自分に死んで、キリストとともに新しいいのちに生きる。これが洗礼の本来のイメージです。そこで復活祭に洗礼式が行われ、洗礼を受ける人の直前の準備期間として四旬節が形作られていきました。今日、わたしたちの教会でも洗礼志願式を行います。洗礼志願者だけが準備するのではありません。わたしたち皆が、新しい信者を迎えるのにふさわしいキリストの共同体になろうと準備していきます。

 キリストの死と復活にあずかる。すでに洗礼を受けたわたしたちも毎年、新たな思いで、よりいっそうキリストの十字架を見つめ、その愛に結ばれ、復活の喜びをキリストとともに味わうとします。
 そのための大きなテーマは、「回心」ということです。旧約聖書では「主に立ち帰る」という言い方になります。なんとなくいろいろなことに振り回されている、忙しさに流されて行く、「あれがほしい、これがしたい」という欲望や損得勘定ばかりになっていたとしたら、そこから、本当に大切なことを見つめ直すのです。根本的に、神との関係、人との関係を見つめ直す。本当にわたしの生活が、神を大切にし、人と大切にする生活になっているか。その点で、四旬節の教皇メッセージは役に立ちます。フランシスコ教皇の今年の四旬節メッセージは「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」という題名です。なんとも暗い感じの題名ですが、マタイ福音書からとられています。本当に今、この世界にはいろいろなことがあって、愛が冷えてしまっているのではないか、そこからもう一度愛を取り戻そう、という大きな呼びかけです。題名は暗いですが、内容は励ましに満ちています。是非読んでください。

 ゆるしの秘跡は、わたしたちの回心のための大きなチャンスです。好きでゆるしの秘跡を受ける人はいないと思います。自分の罪、過ち、いたらなさを見つめ、それを司祭の前で告白する。神の前に罪びとである自分を認め、その自分のありのままを神に差し出す。そこには痛みが伴います。でもそのことをとおして神の大きな愛とゆるしに出会うことができるのです。このチャンスを大切にしてください。幸い、来週と再来週、他の司祭が来ますから、ミサの前後にお願いすれば、ゆるしの秘跡を受けることができるでしょう。もちろん、わたしでもいいのですが、気軽に声をかけてください。司祭はゆるしの秘跡を聞くことをできるかぎり優先するように養成されていますので。

 そして、神を大切にし、人を大切にするという生き方に向かうために、教会の中で伝統的に勧められてきたのが「祈りと愛の行い」です。断食や節制というのもありますが、それはまたいつかお話ししましょう。
 祈りは、十字架の道行きのような祈りをすることもできますが、むしろ、神の前で静かに過ごす時間を大切にしたらよいと思います。本当にどれほど大きな愛によって生かされているか、イエスがどれほど大きな愛をもって十字架にかかってくださったか。思い巡らすような祈りを大切にしたいです。聖書を祈りの心で読むことも強く勧められます。

 そして「愛の行い」。人それぞれにいろいろな仕方で、愛の実践を行うことができます。日本の教会全体で行なっているのは四旬節の「愛の献金」です。これはカリタスジャパンをとおして、世界各地の貧しい人々のために使われます。カリタスジャパンは東日本大震災のような大きな災害のときの緊急人道援助がよく知られていますが、長い時間をかけた「開発援助」も大切な援助活動です。長期的に見て、貧しい人が自分たちの力でよりよい生活に向かっていけるような援助です。そのため「自立支援」という言い方もされます。よく聞く言葉に「魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教える」というのがあります。食べる物のない人に魚を与えるような支援をしていたら、いつまでたってもその人々はもらい続けなければならない。でも魚の捕り方を学べば、自分の力で魚を得ることができるようになる。それが「自立支援」とか「開発援助」と言われるものです。このような援助のための募金の三分の一は四旬節献金によって支えられているそうです。世界中の貧しい人、苦しむ人々のことを思いながら、この愛の献金に参加したいと思います。
 



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年間第6主日のミサ



強風で常磐線のダイヤが激しく乱れていたこともあり、バスで福島に向かいました。
南相馬は晴れていたのに、飯舘村は雪です!

●年間第6主日、世界病者の日
 聖書箇所:創世記3・16-19/一コリント10・31〜11・1/マルコ1・40-45
       2018.2.11カトリック原町教会にて
 ホミリア
 土曜日に大阪で集まりがあったので、金曜日に大阪に行き、金曜日は大阪に住む姪の家に泊まりました。姪夫妻には4歳になる男の子と生後7ヶ月の女の子、二人の子どもがいます。男の子の方は3歳の時に自閉症と診断されています。今回はどうしてもその子と妹に会いたくて姪の家に行きました。何時間かですけれど、一緒に時を過ごすことができてとても良かったです。確かに目はなかなか合わないし、会話もあまり成り立たない、繰り返し同じことばかりしている。その他、自閉症の特徴が感じられましたが、でも同時にいろいろとできることもあって、それを発見するたびに驚きと喜びをかんじました。お母さんと一緒にプリンを作ったり、服を自分で着替えたり、色鉛筆で電車の絵を書いたり、色鉛筆を削ってあげて「どうぞ」と言って渡すと「ありがとう」と言ったり。まあそんなことですが、でも嬉しかったです。
 二人の子どもと触れ合って遊ぶというのはとても久しぶりの経験でした。兄のほうは運動神経が発達していて、人の背中に飛び乗ってくるのが大好きで、何度も乗られました。妹のほうは両手で持ち上げて「高い高い」としてあげるとステキな笑顔を見せてくれます。子どもが育って行く中で、人と触れるということはとても大切なのだと感じました。触れるということは人との間の信頼感、そして人との関係の中での安心感を感じるとても大切なことなのだと思いました。と同時に、「ああ、わたしはふだん、人に触れるということがほとんどない」とも感じさせられました。

 今日の福音でイエスは病気の人に触れました。イエスに触れられたこの病人はどれほど嬉しかったことでしょうか。そして、ここでの「触れる」ということには特別な意味がありました。
 この人は「重い皮膚病」でした。現代で言う、ハンセン病と重なる部分も多い病気ですが、旧約聖書ではこの病気は伝染病というより、「汚れ」と考えられていました。「宗教的に汚れた人間」、つまり神から程遠い人間で、決して救われることのない人と見られていました。神から完全に断ち切られていました。さらにレビ記13章ではこうも言われています。
 「45重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。46この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
 自分で自分のことを「わたしは汚れた者です」というように命じられていたのです。それはうっかり人が近づいて人に汚れを移さないためということですが、どれほど辛いことでしょうか。そして「宿営の外」に住まなければならない。普通の人々の共同体から追放され、人との関係も絶たれてしまうのです。
 イエスはその人に触れました。それは、あなたは神からも人からも見捨てられた人間ではない、というメッセージでした。
 本当はだれもその病人に触れてはいけないはずでした。それは触れると汚れが移るからです。イエスがその人に触れたのは、イエスには汚れが移らないからでしょうか。そうではなく、汚れも含め、その人の背負わされているすべての苦しみを、ご自分の身に引き受けていくという思いが、イエスの触れるという行為には表れているように感じます。

 「宿営の外」という言葉でもう一つの出会いを思い出しました。
 それは群馬県の草津にある国立のハンセン病療養所・栗生楽泉園にいらした米塚尚司さんという方との出会いです。米塚さんは2017年7月9日に88歳で天に召されました。もう随分前に、わたしは何人かの青年と一緒に栗生楽泉園を訪問し、そこで米塚さんのお話をうかがいました。
 米塚さんはハンセン病の患者として、長く療養所で生活し、そこで聖書に出会いました。聖書を繰り返し、ていねいに読んでいましたが、キリストを信じるには至りませんでした。米塚さんを変えた聖書の言葉は、ヘブライ人への手紙13章12節の言葉でした。
 「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われた」
 米塚さんはレビ記のあの箇所を何度も何度も読んでいました。そしてこのヘブライ書の箇所を読んだとき、二つの箇所が結びつき、イエスはハンセン病者として十字架にかかったのではないか、と感じたのです。確かにイエスが十字架にかかったゴルゴタの丘は処刑場であって、当時で言えば、エルサレムの町の門の外にありました。4つの福音書はわざわざそれが城門の外だったとは言いません。でもヘブライ書はなぜかそのことにこだわり、わざわざ「門の外で苦難に遭われた」というのです。ユダヤの指導者たちから排斥され、人々から見放され、弟子たちにも見捨てられたイエスの姿と、人々の共同体から追放されたハンセン病者の姿が、米塚さんの中で結びついたのです。そして米塚さんはキリストを信じるようになった、そういう話をしてくれたのです。

 今日の福音でイエスは重い皮膚病の人に触れました。その人々の重荷を、痛みを、苦しみを我が身に引き受け、そのことをとおして、「あなたは神からも人からも見捨てられていない、決して神と人から断ち切られた人間ではないのだ」ということを、伝えていったイエスの姿を思い起こしたいと思います。そして最後の最後、十字架の場面で、あららゆる人の苦しみと一つになられたイエスの姿も思い起こしたい。
 そのイエスを今日も思い、そのイエスの生き方にわたしたちが少しでも近くことができるよう願い、病者の日にあたり、震災7年11ヶ月の日にあたり、心を込めて祈りたいと思います。


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年間第5主日のミサ



この人形は、乾燥させて焼き上げるのに1ヶ月ぐらいかかります。
完成したものは山元町のみんなの図書館や普門寺で行われる今年の3.11の追悼行事で、奉納されます。

●年間第5主日
 聖書箇所:ヨブ7・1-4, 6-7/一コリント9・16-19, 22-23/マルコ1・29-39
2018/2/4 カトリック原町教会にて
 ホミリア
 昨日、CTVCカトリック東京ボランティアセンターの「被災地から語る」という催しがあって、東京に行ってきました。CTVCが震災以降、宮城県南部と福島で出会った人々の声を直接、首都圏の人に届けたいと願って、東京で講演会をしてきました。今回は21回目で、ただお話というだけでなく、お地蔵さん作りのワークショップという形でした。

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県山元町にお住まいだった丹治陽子さんは、震災後、粘土でお地蔵さんを作り、焼き物にすることを始めました。別に地蔵菩薩でなくても良かったみたいですが、亡くなった方への思い、いろいろなものを失った思いを込めて、粘土をこねて何かを作る、というのが、亡くなられた方へのある種の供養や自分自身のいやしになると感じてきたそうです。それをわたしたちも一緒に作り、体験をとおして感じさせていただきました。親しみやすさを考えて「お地蔵さん」と呼んでいるそうです。丹治さんの作品には天使もありますし、なんとシスターもいました。
 「お地蔵さん」というのはもともと仏教の地蔵菩薩のことです。菩薩というのは、修行僧のことですが、修行者だからこそ、本当に人々の近くで見守っていてくれる、という感じがあるようです。子どもの姿で表されることも多くて、そのことも身近さを感じさせてくれます。そして、道端のようなところ、ごく身近なところに置かれています。丹治さんのお地蔵さんは「合掌して祈る」姿でした。そこにも「向こう側の人」ではなく、「こっち側の人」という印象を受けました。

 さて、今日の福音の中にイエスが祈る姿が伝えられています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」わたしたちはイエスに向かって祈ることがけっこうありますが、イエスが父である神に向かって祈っていた、その姿を思い浮かべながら、やはり、イエスを身近に感じられたらと思いました。「向こう側の人」ではなく、「こっち側の人」としてのイエスです。
 イエスが祈る姿をもっとも多く伝えているのはルカ福音書だと思いますが、マルコ福音書にもイエスの祈る姿があります。一番印象的な祈りは、最後の晩餐の後、逮捕される直前のゲツセマネの祈りでしょう。マルコ福音書の14章にこうあります。

 32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 イエスは好き好んで十字架にかかろうとするのではありません。人間的な思いとしては、なんとかしてこの十字架から逃れたいのです。ゲツセマネでイエスは必死の思いで祈りました。ここにはイエスが話したアラム語のまま、「アッバ」という言葉が伝えられています。「アッバ」は子どもが父親を呼ぶときの言葉です。神は「お父さん、パパ」、だから、どんなときも信頼して親しみを込めて、神に叫んでいいんだ。イエスはそう教え、ご自身も最後までそう祈りました。
 これは「願い求める祈り」です。「苦しいときの神頼み」といのはあまり良い意味ではないように聞こえますが、限界のある人間にとって、「願い求める」祈りは真実のものです。
 マタイ福音書に伝えられている言葉には、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」とあります。だから信頼して、願い続けるように、求め続けるようにとイエスは教えました。「天の父は求める者には必ず良いものを与えてくださる」「聖霊を与えてくださる」。ゲツセマネの祈りでもイエスは神に向かって必死に助けを求めました。

 でも実際に与えられたのは十字架でした。もしかしたら、人間の思いとは違うかもしれない、それでも神はその最も悲惨なことをとおして、もっと大きな救いに導いてくださる。イエスは祈りの中で、そのことを受け取って行きました。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」の後、イエスは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ります。
 自分の精一杯の思いをぶつけながら、同時に自分の思いではなく、神の思いを受け取ろうとするのです。ここに「神に聴く祈り」があります。これも本当に祈りの中で大切なことです。伝統的に、「祈りとは神との対話だ」と言われますが、わたしたちの願いを一方的にぶつけるだけでは対話になりません。神から来るものを受け取ることが大切なのです。

 今日の福音のイエスの祈りも「神に聴く祈り」だったのではないかと思います。カファルナウムでイエスの活動が始まったばかりです。イエスは神の国の福音をのべ伝え、最初の弟子たちがイエスについてきます。病人はいやされ、悪霊に苦しめられていた人はそこから解放されました。イエスの評判は広がって行き、多くの人がイエスのもとに集まってきました。このまま、カファルナウムに留まっても何の問題もないでしょう。しかし、イエスが祈りの中で受け取ったものは、カファルナウムに留まることではありませんでした。
 「「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」これはイエスが祈りの中で受け取った御父のみ旨でした。ほかの町や村にも救いを必要としている人がいる。その人々のところに行くことこそ、神の望みだ。とイエスは祈りの中で感じ取ったのでしょう。

 わたしたちの中にも、両方の祈りがあります。
 神に信頼して、必死の思いで神に願い求める祈り。そしてそれが与えられたときの感謝の祈りもあります。
 それだけでなく、やはり神に聴く祈りもあるでしょう。人間的にうまく行っているときも、逆に思い通りにならないときも、神の本当の望みは何か?このわたしをとおして神は今、何をなさろうとしているのか?そのことを祈りの中で、受け取って行くのです。

 今日の福音のイエスとともに、ゲツセマネのイエスとともに、祈り続けましょう。


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貧困・差別とたたかうキリスト教社会福祉





わたしが代表をつとめる超教派の「21世紀キリスト教社会福祉実践会議」が主催する集まりが、大阪であります。
カトリックの方からの申し込みが少ないようです。
関西方面の方、都合がつけばどうかご参加ください。


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年間第4主日のミサ



あまりに立派な白菜をいただいたので、記念撮影。
これからこれでキムチを作ります。

●年間第4主日(世界こども助け合いの日)
 聖書箇所:申命記18・15-20/一コリント7・32-35/マルコ1・21-28
            カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の福音は、イエスがカファルナウムの会堂で、悪霊=汚れた霊を追い出した話です。悪霊って何でしょうか。もしかしたら、それは放射能のようなものではないか、とふと考えてしまいました。
 悪霊も放射能も目に見えません。でもそれは人間に大きな影響を与えます。聖書の世界で、悪霊とは人間の力を超えた悪の力で、人間にはどうすることもできないと考えられていました。放射能も除染とか言いますけれど、放射能それ自体を無害化することは人間にはできない、人間の力を超えたものです。そして、悪霊が人と人との関係を引き裂いていったように、放射能も人と人との間を引き裂きました。
 避難指示の出たところでは、人々は故郷から引き離され、バラバラにされました。避難指示の出ていないところでも、放射能の危険性に対する考え方の違いや置かれた立場の違いから、人と人は引き裂かれていきました。家族の中にも分断が起こりました。そしてさらに言えば、放射能に汚染されたと言われる福島と、日本のそれ以外のところにも分断を感じることがあります。だから放射能は悪霊のようだと、わたしは感じてしまうのです。
 
 聖書に出てくる悪霊、現代のわたしたちには確かに分かりにくいのですが、古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力をいろいろと感じていたようです。それを「息」とか「風」という言葉で表現しました。息も風も目に見えないけれど、大きな力を持つものだからです。旧約聖書のヘブライ語で「ルーアッハ」、新約聖書のギリシア語で「プネウマ」とは、元々は「息」や「風」を表す言葉で、これが今、日本語の聖書で「霊」と訳される言葉の原語です。
 この力が神から来たものであれば、それは「聖霊」です。聖霊の働きは基本的に、人を神に結びつけ、人と人とを愛によって結ぶことだと言えます。逆に神から来ない霊は、人を神から引き離し、人と人とを引き裂く働きをしていて、これが「悪霊」と呼ばれました。
 福音書に登場する「悪霊に取り憑かれた人」というのは現代で言えば、ある種の精神障害のようなものだったのかもしれません。全部がそうだったとは言いきれませんが、人とのコミュニケーションが取れず、それを本人も周囲の人間もどうすることもできないと感じたとき、古代の人はその状態を「悪霊に取り憑かれた」と表現したでしょう。

 イエスはそういう人々に出会いました。そしてそういう人をいやしたと伝えられています。イエスの確信は、父である神は決してこの人を見捨てていない、ということでした。この人の中に正気の部分、というか、神とつながる部分があると信じて、そして、他の人間ともつながる部分があると信じて、イエスはその人に関わっていきます。そのイエスの思いがその人に届いたとき(それを聖霊が働いたと言ってもいいのですが)、その人は悪霊から解放されていったのだ、と言ってもいいと思います。
 あまりにも現代的で合理的すぎる解釈でしょうか?
 でもわたしたちの周りにも大きな悪の力があります。人間にはどうすることもできないような悪の力の存在を嫌というほどわたしたちは感じさせられています。その悪の力にどう立ち向かったらいいのか分からなくなります。多くの場合、もっと大きな力でねじふせようとするやり方に走りそうになりますが、わたしたちはそのやり方をとりません。イエスのやり方にしたがって歩もうとします。それは聖霊に働きに信頼して人と関わるということです。

 人は人とつながることができる。人と人とは互いに理解し合うことができる。人と人は心を通わせることができる。そう信じて関わっていくのです。「お茶っこ」というのはそのための一つの方法です。そこにその人がいてもいい、その人の居場所ができます。その人は一人ぼっちではない、ということを感じ取ることのできる居場所です。「傾聴」というのも一つの方法です。その人その人の思いを尊重して、それをそのまま受け取ろうとするのです。「屋外作業」というのが一つの方法になることもあります。一人で元の家に帰り、自分だけではどうにも片付かない家や庭を、遠くから来たボランティアの人がみんなで片付けてくれる。それは実際に助かるというだけでなく、こんなに自分たちのことを思ってくれる人がいるんだ、という人とのつながりを感じさせられ、それによって励まされた人がいる、という話もよく耳にします。

 わたしたちはそういう働きをしていきます。わたしはカリタス南相馬のことだけを話しているのではありません。キリスト教は、カトリック教会は、そのために神から呼ばれ、そのために神によって派遣されている者の集まりです。
 放射能を悪霊のようだと言いましたが、放射能だけではないのです。わたしたちの周りに、人間を神から引き離し、人間と人間の間を引き離す力はたくさんあるように思います。消費社会の中であおられる物質的な欲望。自分さえよければという利己心。人に負けてなるものかという競争心。他人を非難し、否定する心。ある程度は必要なものもあるかもしれませんが、それらが大きくなりすぎると、人を神から引き離し、人と人との間を引き裂くものになっていくのです。わたしたちはイエスとともに、そういう悪霊のようなものと戦おうとしているのです。

 わたしたち一人一人をかぎりなく大切にしてくださる神に信頼し、わたしたち一人一人に働きかけてくださる聖霊の働きに信頼し、人と出会い、その人をありのままに受け止め、その人とともに一緒に良いもの見つけていこうとする。わたしたちにできることは本当に小さなことでしかありません。でもわたしたちの日々の行動と言葉が、あの、悪霊を追い出したイエスの働きに連なるものとなりますように、心から祈りたいと思います。


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