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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第6主日



聖堂玄関の段差をなくすためのスロープが完成しました。
今回もカトリック信者でないボランティアのSさんの作品です。
ありがとうございました!

試しに靴のまま聖堂に入れるようにしてみているので、足の不自由な方からは好評です。

●年間第6主日
 聖書箇所:エレミヤ17・5-8/一コリント15・12, 16-20/ルカ6・17, 20-26
    2019.2.17カトリック原町教会
 ホミリア
 「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」
 今日の福音にある有名なイエスの言葉です。マタイ福音書では「心の貧しい人々は幸い」(マタイ5・3)と言います。直訳では「霊において貧しい人々」ですが、翻訳は難しい。意味としては「神の前に貧しい人」と受け取ったらいいでしょう。
 いろいろな貧しさがあります。今日生きていくのに必要なものにも事欠いている、という貧しさもあれば、相対的貧困=豊かな人との格差が大きいとか、平均的な収入とずいぶん差がある、というような貧しさもあります。これも深刻な問題です。さらにマザーテレサが言った「誰からも必要とされていない、いらない人扱いされている」と感じるような状態、支え合い助け合う関係が断ち切られてしまったような「関係の貧困」ということも現代社会の大きなテーマです。

 でも、今日の福音を受け取るとき、この貧しい人というのは、どこかの誰かのことではない、わたし自身のことだという受け取り方はとても大切だと思います。「貧しい人々は幸い。神の国はあなたがたのもの」イエスは二人称でそうおっしゃっています。「あなたがた」と言われるのですから、それはわたしたち自身のことだと受け取りたい。
 わたしたちは皆、本当は貧しい者なのです。それは、神さまの支えなしに、神さまのいつくしみなしに生きられないという意味での貧しさです。そのことをわたしたちは本当に感じているでしょうか。

 第一朗読はエレミヤ書。
 「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。」
 厳しいです。「霊と肉」という言い方が聖書にありますが、「肉体と精神」というような人間の中の二つの部分という意味ではありません。聖書の中で、「霊」は神とのつながり、「肉」というのは神から切り離された人間のあり方を指します。本当は、人間は主である神とつながっていなければ生きることができない、神の霊によって生かされていなければ、神に頼らなければ生きていけないのです。それを見失って、「肉なる者」を頼りにする=人間の力に頼って生きていこうというのはダメに決まっている。そういう意味で二つの道が示されています。人間に信頼する道と主に信頼する道、あなたがたはどちらを選ぶのか。
 福音もそうです。二つの道を示します。
 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」
 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」
 神さまなしに生きられない貧しい自分を認め、神に信頼して生きるか。それとも神さま抜きで満たされようとするのか? 二つの道のどちらを選ぶか、それを問いかけるのです。

 エレミヤ書のイメージは、木と土地の関係です。乾ききった土地では植物は育たない。水のほとりに植えられた木こそが、大きく豊かに成長する。答唱詩編で歌われる詩編1もそうですね。「流れのほとりに植えられた木が、季節になると豊かに実り」とあります。神様は水分を含んだ豊かな土地。そこにつながっていなければ、人は本当の意味で生きることはできない。この木のイメージは大切だと思います。木は動けません。植えられた土地から動けない。だからしっかりとその土地に根を張って、そこから水分や養分をもらわなければならない。しかし、人間は動物ですから、動き回ることができる。それで大地とのつながりを忘れてしまうのかもしれません。でも本当はこの大地の支えなしに、人も生きられないのです。神はわたしたちを支えてくれているうるおいのある大地。そんなイメージを持てたらいいのではないでしょうか。

 もう一つ思い浮かんだイメージは舟と海の関係です。舟が海に浮かんでいる。海なしに舟は存在することができない。海に浮かんでいなければ、まっすぐに立つこともできない。そして海なしに舟は意味を持つこともできない。海は舟にとって存在の根拠と言ってもいいし、自分の存在に意味を与えるものと言ってもいいでしょう。
 神もわたしたちにとってそういうものではないでしょうか。本当に大きな神の愛にわたしたちは支えられている。包まれている。生かされている。その神はわたしたちに生きる根拠、生きる意味を与えている。植物と大地のような関係、船と海のような関係と言ったらどうでしょうか。
 それを忘れない、というのが「貧しい人」というあり方なのではないかと思います。うるおった大地がなければ植物が育たないように、海がなければ舟が意味を失ってしまうように、神がなければ、人は本当の意味でいのちを生きることはできないのです。

 今の時代、人間はどんどん大きな力を持つようになりました。神さま抜きで何でもやっていける、そう信じるようになっています。土地がなければ水耕栽培すればいい。舟がだめなら飛行機がある。そんな勢いで現代社会は突き進んでいます。どれだけ得するか、どれだけお金を持っているか、どれだけ便利で快適な生活ができるか。それを手に入れる能力がどれだけあるか、という世界。それは結局、他人との比較の世界です。そこでの満足は自分は他の人よりもたくさんのものを持っている、という満足でしかない!
 神さまによって満たされようとする時、他人との比較は意味がありません。神から与えられた恵みをどのように皆で分かち合って生きるか、という世界なのです。その豊かさを感じたい。
 神の前での貧しさと神の前での豊かさを生きる、この大きな招きを感じながら、今日もその神への信頼と人への愛を生きることができますように祈りましょう。

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年間第5主日



先週の信徒総会で、聖堂を靴のまま入れるようにすることと、祭壇後ろの十字架の下に隠されている復活のイエス像をよみがえらせることについて話し合い、とにかくやってみようということになりました。
十字架と覆いを外して出てきたのがこの絵です。ドミニコ会のアルベルト・カルペンティール神父の作。
やっぱり隠しておくのはもったいない!

●年間第5主日
 聖書箇所:イザヤ6・1-2a, 3-8/一コリント15・1-11/ルカ5・1-11
    2019.2.10カトリック原町教会
 ホミリア
 きょうの福音は、ルカ福音書が伝える不思議な大漁の出来事です。ガリラヤ湖の漁師は夜中に漁をしたと言われています。ペトロたちはプロの漁師でした。そのペトロたちが一晩中働いても何も獲れなかったというのに、イエスは「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言います。常識的に考えれば無駄な骨折りです。日中になった今更、魚が獲れるはずはないのです。しかし、ペトロは「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と言います。なぜでしょうか。
 ペトロはイエスを舟に乗せていて、その舟の上からイエスは群衆に教えておられました。だからペトロにはイエスの話はよく聞こえていたはずです。イエスが語られたのは、いつも神の救いの福音でした。マルコ福音書で言えば、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これがイエスのメッセージでした。ルカ福音書ならば、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤ書のこの箇所を朗読して、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃいました。
 神はあなたがたを決して見捨てない。あなたがたの王として、必ずあなたがたに救いをもたらしてくださる。その神に信頼しなさい。イエスはいつもそう語りかけていました。この場面で舟の上から群衆に向けて語られたイエスの言葉もそういう救いの福音の言葉だったはずです。
 それを聞いていたペトロだから、「しかし、お言葉ですから」なのです。
 もうダメだ、今更、頑張ってもどうにもならない、そう思っているとき、イエスはいつも「神に信頼して、もう一度やってみようよ」と呼びかけてくるのです。

 人生の中で大きな挫折を経験したときに、特にそのイエスの呼びかけを聞きたい。わたしたちはそこから出発していくことができます。不思議な大漁の物語は、ヨハネ福音書21章の復活したイエスと弟子たちの出会いのときにも繰り返されます。同じような出来事が2回あったのでしょうか?それとも1度あった出来事が、伝えられていくうちに、2つの物語になっていったのでしょうか。とにかく、イエスの十字架の後の不思議な大漁のときには、弟子たちはもっと大きな挫折、失望、絶望の中にいました。一晩漁をしても魚が獲れなかった、とうレベルの話ではありません。自分たちがすべてを捨てて、この人こそ救い主だと信じて付いていった、そのイエスが十字架で殺されてしまったのです。すべての希望は途絶えました。「国に帰って、また漁師でもするか」そんな心境だったのでしょうか。そこに復活のイエスが現れて、不思議な大漁の出来事が起こりました。「もう一度やってみようよ」復活したイエスからその呼びかけを受け取って使徒たちは再び歩み始めます。

 そんな挫折を経験したことがありますか?そんなことはあまりないのでしょうか?
 わたしは自分でつくづく思うのですが、生きるのが下手です。何度か本当に挫折して行き詰まってしまったことがあります。若い時もあったし、司祭になってからも何回かありました。そういうのはわたしだけの経験でしょうか。
 人間、いろいろな理由で行き詰まることがあります。罪の自覚の中でそうなることがあります。今日の朗読のイザヤも、パウロも、そしてペトロも自分が罪人であると深く自覚していました。「自分はダメな人間だ。神の前に立つことのできない、どうしようもない人間だ」そこで行き詰まってしまうのです。そのイザヤに向かって、神は「あなたの罪は赦された」と宣言します、ペトロに向かってイエスは「恐れることはない」と言います。パウロに現れた復活のイエスは「起きなさい」とおっしゃいました。もう一度立ち上がって歩んでみなさい。それが罪のどん底に落ち込んだ人へのイエスの呼びかけです。

 自分への失望ということもあるでしょう。物事がうまくいかない。人間関係がうまくいかない。どうすることもできない行き詰まり。あるいは他人に対する失望。さらに自分の属している組織や社会への失望ということもあるでしょう。職場かもしれない、教会かもしれない、国かもしれない。なんでこんなひどいことが起こるのだろう。なぜこんなも嘘や不正が満ちているのだろう。まかり通っているのだろう、本当にがっかりしてしまって、逃げ出したくなることもあります。でもイエスは、「それでも神はあなたがたを見捨てていない。だからもう一度やってみようよ。わたしに従う道を、あなたから始めてみようよ」そう呼びかけてきます。
 自然災害など、思いもよらない災いがふりかかって、もうダメだと思うこともあります。何もかも奪われ、自分にはもう何も残っていない。すべてはおしまいだ。でも、その中でイエスは、「もう一度やってみようよ」と呼びかけてくださるのです。簡単にはその声は聞こえないと思います。でも、いろいろな形でイエスの呼びかけはあるのです。時間もかかるでしょう。でも、その呼びかけが人に届くと、そこから人は歩み始めることができるのです。

 そんなに大きな人生の挫折でなくても、わたしたちは日々、小さな失望やあきらめをたくさん経験しているかもしれません。「まあこんなもの、昨日も今日も明日もたいして変わらない。どう頑張ってみても無駄だよ」でもいつもイエスは「もう一度やってみようよ。神に信頼して、本当に愛することに向かって、一歩でも近づけるように、もう一度やってみよう」そう呼びかけているのではないでしょうか。
 「人間的には無理だと思います。しかし、お言葉ですから」ペトロのように、わたしたちもそう答えたい。今日は今日なりに、精一杯、そう答えて歩んでいきたい。


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2019年2月・3月の予定





この季節はカトリック学校の卒業ミサなどが多いのですが、それらは載っていません。
下に記載したのはだれでも参加できる集いです。
どこかでお会いできますように!

2月10日(日)年間第5主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ
        14:00援助マリア会南相馬修道院(小高)ミサ
2月17日(日)年間第6主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ
2月24日(日)年間第7主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ
3月 3日(日)年間第8主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ
3 月6日(水)灰の水曜日 7:00原町教会ミサ
3月10日(日)四旬節第1主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ
        14:00援助マリア会南相馬修道院(小高)ミサ
3月11日(月)東日本大震災祈念ミサ 7:00原町教会ミサ
        14:30東京カテドラルミサ
        (菊地大司教司式、ミサ後に幸田の原町報告)
3月15日(金)「いのちの光3.15フクシマ」13:00原町教会ミサ
        (平賀司教司式、ミサ後に同慶寺・田中徳雲師の話)
3月17日(日)四旬節第2主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ
3月24日(日)四旬節第3主日 八戸塩町教会ミサと黙想会
        (原町教会のミサはケベック会のロワゼール神父司式の予定)
3月30日(土)東京・成城教会四旬節黙想会
3月31日(日)四旬節第4主日 9:00聖書講座 10:00原町教会ミサ

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年間第4主日



2月2日(土)、福島市の御倉邸で、松木町教会・愛の支援グループSさんご夫妻のお招きによる献茶式と初釜茶会がありました。お茶を聖母子にささげるお点前はまるでミサのような厳かさ!

●年間第4主日
 聖書箇所:エレミヤ1・4-5, 17-19/一コリント12・31~13・13/ルカ4・21-30
          2019.2.3カトリック原町教会
 ホミリア
 第一朗読のエレミヤという預言者は、ユダ王国の末期、紀元前7世紀の終わりから6世紀のはじめにかけて活動した預言者です。彼の使命はユダの罪を指摘し、民に回心を求めることでした。そしてエレミヤはエルサレムの滅亡を預言しました。でもそれは人々の期待に反するものでした。人々は「大丈夫、大丈夫、自分たちは神の民なのだから、神はなんとかしてくれるはず」そういう耳障りのいい預言を語る預言者を歓迎したのです。そのため、エレミヤは迫害され、大きな苦しみを受けることになりました。
 人の思いを超え、神の思いを伝えるのが預言者の使命。耳障りのいい予言をするのは偽物の預言者です。
 イエスもそういう意味で真正の預言者の系譜の中にいました。ナザレの人々は、自分たちの村出身のイエスに対して、自分たちに利益をもたらしてくれることを期待しました。その期待をイエスは見事に裏切りました。今日の箇所で「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」と言います。自分たちの地域に利益をもたらしてくれる、そんなことを超えて語り、行動するのが預言者だからです。人の思いを超えた、神の思いを伝えるのが、預言者の使命なのです。

 エレミヤは神の厳しいことばを伝えました。異邦人だから、ユダヤ人だからと言ってそこに差別はありません。イエスは神の恵みの言葉を告げました。それは相手がナザレの人であろうと他の町の人であろうと同じなのです。本当に人を救うために、人がよく生きることができるために、ある時は厳しく、ある時はやさしく。でも人を分け隔てしない、というのが預言者の特徴でしたし、それが聖書の神の特徴でもあります。
 聖書の伝える神の特徴とは、「特定の人をえこひいきしない」ということだと言ってもいいのではないか。
 これだけお祈りしているんだから、自分をえこひいきしてくれてもいいんじゃないか。
 これだけ献金しているんだから、少しはわたしをえこひいきしてくれてもいいんじゃないか。人間はどうしてもそう考えるのですね。
 それは神様には通用しない。神はすべての人の親として、すべての人を限りなくいつくしんでくださる。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)これがイエスの教えた神様の根本的な姿でした。

 親が子どもたちの中の誰かをえこひいきしたら問題。先生が生徒の中の誰かをえこひいきしたら問題です。親の愛はすべての子どもに同じように向けられている。先生の愛はすべての生徒に同じように向けられるべき。これは当然のことでしょう。
 その一方で、親には自分の子どもを守る義務があり、先生には自分の生徒を守る義務がある。そういう面では、自分の子どもや自分の生徒を他の子どもよりもえこひいきするのは当然だとも言えるでしょう。
 そして神はすべての人の親ですから、決してだれかをえこひいきすることはないのです。
 もう一つの面もあります。すべての人を愛するから、だから最も弱い人、貧しい人を特別に大切にする。これも神の愛の特徴です。親や先生も、問題のある子どもにこそ特別に目を注ぐ、ということがあります。それは決してえこひいきではありません。いや、人間的な目にはえこひいきに見えることがありますが、本当にすべての人を救おうとするから、何よりも弱い人に目を注ぐ。これもイエスの教えた神の愛の特徴です。

 第二朗読はコリントの教会への手紙。コリントという町は、古代、商業都市として栄えたギリシアの町で、いろいろな民族、いろいろな宗教が混じり合った町でした。そこにキリストの福音を伝え、教会を建てたのは、使徒パウロでした。パウロはそこに2年ほどいて、教会を指導しましたが、パウロがコリントを去ってから、コリントの教会にはいろいろな問題が起こったようです。そのことを伝え聞いて、それに答え、いろいろな指示を与えたのが、このコリントへの第一の手紙と言われる手紙です。
 12〜14章で問題になっているのは、カリスマ(霊的な賜物)のことでした。聖霊が一人一人のうちに働いて、ある人には不思議な言葉を語る賜物が与えられ、ある人には病気をいやす賜物、ある人には奉仕する賜物、ある人には教える賜物が与えられる。パウロはそれらを否定しません。でもそれぞれの人が自分のカリスマこそが一番優れている、と言って、分裂が起こるなら、それは違う。さまざまなカリスマがあるのは、全体の益となるためであって、一つのキリストの体を作り上げる、同じ聖霊の働きなのだということをパウロは強調するのです。そして「わたしはあなたがたに最高の道を示します」と言って、この13章で「愛」について語ります。この愛について、パウロはこう言っています。
 「4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 自分の好みで愛するのでもない。相手が何をしてくれたから愛するというのでもない。これこそ「えこひいきしない愛」って言ってもいいんじゃないでしょうか。こんな愛はあると思いますか?人間の愛じゃない。神の愛です。イエスの愛です。パウロはこのキリストの愛を知っているから、こう言うのです。
 わたしたちは今日、本当にすべての人に注がれる神の愛(誰もえこひいきしない愛)を知り、それに応えて、本当にすべての人を大切にし、だからこそ、目の前の人、家族や出会った人、一人一人を心から大切にする愛を生きたい。


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年間第3主日



1月26日「小高交流センター」がオープンしました。震災前13,000人いた南相馬市小高区に、今は3,000人の人が住んでいます。その方々の交流の場になることが期待されています。
わたしが行ったのは、翌27日(日)ミサの後。おおぜいの人が来ていましたが・・・

●年間第3主日、世界こども助け合いの日
 聖書箇所:ネヘ8・2-4a, 5-6, 8-10/一コリント12・12-30/ルカ1・1-4, 4・14-21
     2019.1.27カトリック原町教会
 ホミリア
 きょうの福音は、ルカ福音書の序文と、かなり飛んでイエスの活動の始まりの箇所です。ナザレの会堂でイエスは、イザヤ書61章を朗読しました。そこにイエスの活動とはどういうものなのかがはっきりと示されています。それは一言で言って、「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことでした。
 聖書の中の「貧しい人」という言葉は広い意味を持っています。「貧しい人」というのは経済的に苦しい状態の人ももちろんそうですが、それ以外のさまざまな理由で圧迫され、小さくなっている人々のことです。今日のイザヤ書の中に「捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」とありますが、それらすべての人も含んでいます。神の救いを必要としているすべての人、と言ってもいいでしょう。現実的に、経済的に貧しい人のことを決して忘れてはいけませんが、それだけではない、という面も大切です。

 去年、『万引き家族』という映画を見ました。是枝裕和監督の作品で、リリー・フランキー、樹木希林、安藤サクラなどが出演していました。日本だけでなく、世界各国で大きな賞賛を得ている映画のようです。下町に住む一つの貧しい家族があって、その家族は一見、普通に働いているように見えるけれど、実は万引きやさまざまな小さな犯罪によってなんとか経済的に成り立っている。でもそこには家族の絆があって、互いの思いやりと笑いがそこに満ちている。でもその関係はいつまでも続くわけではなかった・・・とまあ、物語は見てくださればいいのですが、そこで問われているのは「関係の貧困」ということではないかと思いました。今の日本の中で、お金がない、という貧しさだけでなく、誰にも頼れない、社会から孤立している、そういう貧しさがある。映画の中の家族は、貧しくともある意味で家族の温かいつながりで生きているわけですが、それも本当のものかどうか、実はあやしい。映画の中の家族は崩壊していくのですが、それではあなたがたはどうなのか、経済的には困っていないかもしれない。でも本当に豊かな人と人、家族の間の関係を生きているか、わたしたちもやはり関係の貧困という問題を抱えているのではないか、そんな問いかけを感じさせられる映画だったと思います。

 シングルマザーが働きながら、子育てをしている。経済的にたいへんでも何とかやっている。でもいざ病気か何かになり、本当に困ったときに親にも誰にも頼れない、相談もできない、そういう関係の貧困という問題があります。仮設住宅に住んでいた一人暮らしのお年寄りが、復興公営住宅や災害公営住宅に移って、鉄とコンクリートに囲まれた部屋の中で、孤立してしまう、そういう関係の貧困があります。一方でリーマンショックのとき、多くの日系ブラジル人が仕事と住む家を失いましたが、ほとんどホームレスにならなかった、という話もありました。彼らは仲間に住む場所がないということになると、自分のアパートがどんなに狭くても、泊めてあげる。だからホームレスにはならなかったというのです。今の日本人ではほとんど失われ、忘れられてしまった関係性でしょう。

 まあ、とにかく、いろいろな形での貧しさがあります。その人々にイエスは福音(良い知らせ)を告げました。神はあなたがたを決して見捨てていない。神はあなたがたの父であり、母であり、王であり、牧者である。あなたがた一人ひとりを限りなく大切にしてくださっている。その神に信頼しなさい。そしてあなたはわたしの兄弟であり、姉妹なのだ。あなたはわたしにとってかけがえのない、大切な人。それこそが福音でした。
 イエスはこの福音を言葉と行動、人との関わりをとおして伝えました。それを受け取った人々は新しい神との関係、新しい人と人との関係に招き入れられました。これが福音書の伝える世界です。2000年前にイエスの周りで実際に起こったことです。

 今のわたしたちはそれをどう受け取ったらいいのでしょうか。
 神の国の福音、貧しい人々への福音というのは、あくまでも呼びかけです。どこかで神の国が始まっているらしい、とか、そのうち神はご自分の国を完成してくださる、そんなものが福音ではないのです。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは宣言しました。わたしたちが聖書をとおして、今日、呼びかけてくるイエスの言葉をしっかりと受け取り、それに精一杯応えようとする中で、この福音は実現していきます。神の国は実現していくのです。
 わたしたちにできることは本当に小さなことです。でもわたしたちがわたしたちの生活の中で、イエスの福音の世界に少しでも近づくことができますように、今日、心を合わせて祈りましょう。



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