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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第24主日



原町教会のゲストルームの壁にある、古い英語の主の祈りが刺繍された額です。
今とはちょっと言葉が違いますね。

●年間第24主日
 聖書箇所:シラ27・30~28・7/ローマ14・7-9/マタイ18・21-35
          2023/9/17カトリックいわき教会・原町教会にて
 ホミリア
 わたしたちはイエスが弟子たちに教えた祈り、「主の祈り」を大切に祈っています。
 「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」というところはわかりにくい。神に向かって「わたしたちの罪をおゆるしください」というのはわかるとしても、「わたしたちも人をゆるします」というのはどうか。ある人は「どうしても人をゆるせない」と感じていて、それを辛く感じていて、とてもじゃないけれど、こんなふうには祈れないと感じるかもしれない。
 これは実は直訳ではありません。新共同訳の方が直訳に近いのですが、こうなっています。
 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」
 でも、こっちの方がもっと分かりにくいかもしれない。「ゆるしましたように」って、わたしたち人間同士のゆるしが先にあって、だから「神さま、ゆるしてください」? それも無理があると感じるでしょう。
 この祈りをどんな思いで唱えたらいいのか、そのためのヒントが今日のたとえ話です。主の祈りの解説のようなたとえ話。

 主人から莫大な借金をゆるされたしもべが、仲間のわずかな借金をゆるさないで、主人から叱られてしまう、というたとえ話ですね。主人に借りていた額は1万タラント、それに対して仲間に貸していたのは100デナリ。1万タラントンというのは、100デナリの60万倍に当たります。分かりやすく仮に100デナリを100万円だとすると、1万タラントは6千億円にもなります。神さまから計り知れないほど大きなゆるしを受けているのだから、人間同士がゆるし合うのは当然じゃないか、ということになりますね。
 主の祈りを唱えるときに迷ったら思い出したいたとえ話です。
 
 「先に神のゆるしがある」これが大切です。
 そのことを表すのは、主の祈りでは冒頭の「父よ」という呼びかけです。
 放蕩息子のたとえ話を思い出しましょう。放蕩息子を迎え入れた父=神は、今も罪人であり、不完全な人間をご自分の子として受け入れてくださる。これが根本的なゆるしのイメージです。そして主の祈りにもこのゆるしの父のイメージがあります。その父に向かって「わたしたちの罪をおゆるしください。」と祈るのです。必ず神が大きなゆるしを持って、御父はわたしたちを受け入れてくださる、そう信じながら祈るのが「主の祈り」です。
 そこから人間同士のゆるし合いに向かいます。それは罪を大目に見るとか、なかったことにする、というようなゆるしではなく、互いを再び兄弟姉妹として受け入れ合うと意味での「ゆるし」です。

 大きな声で言えませんが、主の祈りを唱えるときのコツをお話ししたいと思います。それは「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」の後に、心の中で「ように」と付け加えるのです。声に出さないように!
 「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるしますように」
 神さま、本当にわたしたちの罪をゆるしてください。そうすれば、わたしたちも少しは人をゆるす心が持てます。なんとかゆるしたいと思いますし、ゆるす力が与えられますように、どうかわたしたちにゆるしを与えてください。そんな思いで祈れば良いのではないでしょうか。

 「罪のゆるし」と言いますが、根本にあるのは人間関係の傷の問題です。「罪」とはそもそも人間が神を忘れ、神との関係をおかしくすること、神のゆるしとはそんな人間をそれでも神はご自分の子として受け入れてくださることです。わたしたちが本当に神を父とし、互いを兄弟姉妹として受け入れ合う。これが罪のゆるしのメッセージの究極の目的なのです。 
 
 そう考えると、主の祈りのこの箇所で祈っているのは「人間関係のいやし」だと言ったら良いのではないか。
 主の祈りの前半は「み名」「み国」「みこころ」と神についての願い。
 後半は「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と言いますが、ここで生きるために必要なものはすべて願っています。次に来るのが、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」ここで願っているのは、人間関係のいやしだと思います。すごく難しいから、どうしようもなく、傷つき、修復不可能に思えるような関係。痛みや傷を伴う本当に辛い関係、どうしてもその癒しを願う必要があるから、ここにこの祈りがあるのだと思います。まず神との関係を癒していただき、そこから人との関係の癒しに向かうのです。
 本当に難しい。でも、神のみこころは、神と人が親と子の親しい関係を取り戻すこと、それだけでなく、人と人とが兄弟姉妹としての親しい関係を取り戻すこと。そう信じて、そこに向かって、今わたしたちにできることを精一杯していく。その力と恵みを今日、このミサの中で祈りたいと思います。


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年間第23主日



美しい花を送っていただきましたので、原町教会の祭壇に飾らせていただきました。

●年間第23主日
 聖書箇所:エゼキエル33・7-9/ローマ13・8-10/マタイ18・15-20
          2023.9.10カトリックいわき教会、原町教会にて
 ホミリア
 今日の福音はマタイ福音書18章です。この章には教会共同体のあり方についての教えが集められていると言われています。
 子どものように弱く小さな者を受け入れること、小さな人をつまずかせないこと、小さな人を軽んじないこと。とにかく一貫して、共同体のメンバーの中で弱く小さな者を大切にすることが求められています。それこそが、神の望まれることなのです。その流れの中で、あの迷った羊を探す羊飼いのたとえが出てきます。
 「12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
 だから迷い出た一匹の羊を大切にしなさい。その人もまた教会共同体が失ってはならない、本当に大切な人だというのです。
 そして今日の箇所になります。「兄弟があなたに対して罪を犯したら・・・」
 この流れを見ると、罪を犯した兄弟も迷った羊、小さな者なのですね。どうしたらその人を失わずに、神の子の家族、兄弟姉妹として取り戻すことができるか、そのためのとことんギリギリまでの努力が求められています。なんとかして、互いに兄弟姉妹として受け入れ合うことが目標なのです。
 この和解とゆるしのテーマは18章の終わり=来週の福音まで続いています。

 現実にはすごく難しい問題です。
 こちらがどんなに努力しても、相手がそれに応えてくれるとは限りません。働きかければ働きかけるほど反発されて、かえって関係が悪くなるかもしれません。ただじっとこちらが我慢していれば問題が解決するわけでもないし、自分の心に平安が訪れるわけでもありません。
 だからこそ、後半の祈りについての教えと結びついているのかもしれません。
 「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
 だから祈りなさい、なのです。ゆるし合うこと、和解すること、本当に難しいのです。だからこそ、祈りが必要で、単なる自分一人の願いを超えて、誰かと一緒に祈りなさい。心を合わせて祈ることができるとすれば、その祈りは必ず神に届く。
 その根拠が最後の言葉です。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」これは本当は「なぜなら」という接続詞で結ばれてい流ので、「なぜなら、二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるからである」と訳した方がいい。わたしがあなたがたの中にいるから、あなたがたの祈りは必ず父のもとに届き、神が応えてくださる。そういう約束なのです。
 じゃあ、「わたしの名によって集まる」とはどういうことか。ただ教会に集まる、ミサに集まる、それが「わたしの名によって集まる」ことでしょうか。むしろ、わたしたちが本当にイエスの心を求めて集まるということでしょう。

 第二朗読はローマの信徒への手紙12章。隣人を愛すること、それこそが人に対する唯一の義務であり、神のみこころにかなう唯一の道だ、イエスの道だ、とパウロははっきりと述べています。キリシタン時代、ラテン語の「カリタス」に当たる言葉を日本語に探して、「ごたいせつ」という言葉が当てられました。「愛」とはそのものをそのものとして大切にすること、確かにそう言ったらわかりやすいかもしれません。わたしたちにとっても、この愛、このゴタイセツ、これしかありません。
 「愛は隣人に対する責任であり、義務です」「愛は最高の掟、最高の律法です」確かにそうも言えるでしょうが、わたしが最近特に感じていることは「愛はミッションだ」ということです。
 「ミッション」は「使命」と訳されることもあれば、「任務」と訳されることもありますが、元は「遣わす、派遣する」という言葉から来ています。神から遣わされること、これがミッションです。
 わたしたちはただ一人で生きているのではありません。人々の中に生きています。神がなぜか不思議にも、この人間関係の中にわたしを置きました。この人々の中に神はわたしを派遣してくださっているのです。それは何のため? それはわたしがその人々を愛するためです。人とのつながりを感じ、神とのつながりを感じるとき、そこにこのミッションの感覚が生まれます。

 愛そうとしても、結果はどうなるか分かりません。うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれません。それでもわたしたちは愛するのです。愛そうとするのです。それは、愛が神からのミッションだからです。そして、神からのミッションを生きることがわたしたちの人生の意味だからです。
 わたしたちが精一杯、愛というミッションを生きることができますように。そこにイエスが共にいてわたしたちを支えてくださいますように、今日、ご一緒に祈りましょう。

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年間第22主日



8月23日に母が亡くなりました。多くの方がお祈りくださり、本当にありがとうございました。

●年間第22主日・被造物を大切にする世界祈願日
 聖書箇所:エレミヤ20・7-9/ローマ12・1-2/マタイ16・21-27
          2023.9.3カトリックいわき教会、原町教会にて
 ホミリア
 亡くなった母は93歳でした。脳梗塞の後遺症で高次脳機能障害があり、心不全も進んでいましたが、それまでもたくさんの病気を乗り越えて93歳まで生きてきたので、まだまだ生き続けるような気がしていました。母は身近にカトリック信者も少なくなかったので、いつか自分からカトリックになると言ってくれるんじゃないかと思って、のんびり待っていました。でもまあ無理強いするつもりはなくて、洗礼を受けずに亡くなってもそれはそれで良いと思っていたのです。

 8月23日の午前2時ごろから急に具合が悪くなり、朝になって病院に連れて行き、検査をしているうちにどんどん具合が悪くなっていきました。緊急入院の手筈が整い、病室に入る前にわたしに言った言葉は「何もかもしてくれてありがとう」という言葉でした。一人部屋の病室に入って間もなく容体は急変して危篤状態になりました。
 モニターに微かな数値が表示されていて、「これがゼロになったら連絡してください」と言って、病院のスタッフは部屋を出て行きました。わたしは危篤の母と二人きりで病室に残されました。咄嗟にわたしは、これは神が用意してくださったチャンスなのだと思いました。病室には洗面台がありました。そこから手で水を汲んで、母の額に注ぎ、「幸田智惠子、わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と言いました。こうして臨終洗礼を授けたのですが、わたしの中ではとても自然な流れで、先ほどの「何もかもしてくれてありがとう」という母の言葉どおりにしているのだと感じていました。

 そのとき「テレジア」という洗礼名が思い浮かびました。テレジアは、リジューのテレーズとも呼ばれる、19世紀のフランスのカルメル会修道女で、24歳で亡くなりました。93歳の高齢女性につける名前としては珍しいかもしれません。わたしもかつて、もし母が洗礼を受けるなら、「マリア、モニカ、エリサベト、アンナ」など「母」や「おばあさん」のイメージの名前かな、と考えていました。でも洗礼を授けた瞬間、「テレジア」という名前が浮かんできたので、そう決めました。
 なんとなく若い女性の名をつけてあげたかったのと、聖テレジアが母と同じように幼い頃に自分の母親を亡くしていることが思い出されたからです。

 テレーズにとっても、母にとってもそれはとても辛く淋しい体験でした。
 母は幼いときに自分の母を亡くし、66歳で夫を亡くし、81歳で長男を亡くし、すぐ後に長男の嫁も亡くしました。最近でも、妹や親しい友が先に逝ってしまいました。高齢になればなるほど、親しい人を先に見送っていき、だんだん友達が減っていくのですね。最後の頃はそれが寂しかったと思います。でも母は今もう、天の神さまのもとで、そういう人々との再会の喜びを味わっている、とわたしは信じています。頭で考えて信じているというよりも、直感的に、本当に天の国には再会の喜びがある、わたしもそこに向かっている、そう感じるようになりました。

 今日の福音はイエスの受難予告です。
 イエスはご自分の歩みが受難と死で終わる歩みではなく、もっと豊かないのちへと向かう道だと知っていました。
 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」同じ「いのち」という言葉を使いながら、この世のいのちと、もっと豊かな永遠のいのちについて語っています。わたしたちもイエスと共に、それぞれの十字架を担ぎながら、その永遠のいのちへの旅をしているのです。

 もちろん、人が死んだ後どうなるか、見てきたようなことは誰にも言えません。目で見ることも、理論的に証明することもできません。しかし、聖書がはっきりと語ることは、そこでわたしたちは神と顔と顔を合わせて出会うということです。今は神を目で見ることはできず、ぼんやりと信じているだけかもしれませんが、その時には神をはっきりと知るようになる。使徒パウロのコリントの教会への第一の手紙13章にこうあります。「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
 わたしたち皆、最終的にこの神のもとに集められます。そして神の裁きが現されます。神の裁きとは、愛だけが神の前で価値を持つもの、愛だけが永遠のものであり、愛以外のすべてのものは過ぎ去る、滅び去るということです。そしてその時、神とわたしたちが、そしてわたしたち人間同士が、本当に愛のうちに一つに結ばれる。それがわたしたちの希望です。
神のもとに何百億人、何千億人という人が集められたとしても、わたしたちはそれぞれ、ちゃんと自分の大切な人と再会することができるのです。絶対にそうです。なぜなら「愛は決して滅びない」からです。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」今日もイエスはわたしたちに呼びかけています。イエスに従って、精一杯「決して滅びることのない」愛の道を歩むことができますように、このミサの中で心を合わせて祈りましょう。


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年間第20主日



南相馬市小高区「こごた」のお蕎麦です。
この日はひたすら蕎麦が食べたくて、「十割蕎麦、ざる大盛り」をいただきました。
久しぶりでしたが、とても美味しかったです!

●年間第20主日
 聖書箇所:イザヤ56・1, 6-7/ローマ11・13-15, 29-32/マタイ15・21-28
          2023.8.20カトリック原町・いわき教会にて
 ホミリア
 また母の話で申し訳ありません。わたしの母は93歳で、千葉県我孫子市で一人暮らしをしています。3年半前に脳梗塞で入院してから、完全に一人で生活するのは無理になってしまい、わたしが毎週行って、生活のサポートをしています。
 母の孫の一人は、チュニジア人と結婚して、チュニジアに住んでいます。わたしの兄の娘ですが、兄夫婦は二人とも50代で亡くなってしまったので、彼女は日本に帰ってきても親の家というものがありません。それで、祖母の家に泊めてもらいたいと言い、わたしの母は受け入れています。狭いマンションに、孫とひ孫二人(もう高校生と中学生)がやってくるので大変です。去年の夏はお土産に新型コロナウイルスを持ってきて、母もわたしもコロナに感染してしまいました。それでも母は今年もまた、なんとか受け入れてやりたい、というのです。
 孫とひ孫が来てくれて、母はもちろん嬉しいのですが、それ以上に大変な思いをしています。寝場所をどうするか、布団をどうするか、タオルは足りているか、と言って、母はほとんど自分ではどうすることもできないのですが、ひたすら心配し、なんとかしようとするのです。来たら来たで、遊びに行ったきりなかなか帰ってこないと心配したり、洗濯物を干したまま出掛けてしまったので、取り込もうとしてみたり、帰ってきて食べるものがないんじゃないかとまた心配して、本当に必死なのです。

 今日の福音を読んで、そこに登場するカナンの女性の姿が、自分の母の姿とダブってきました。その必死さに共通するものがあると思いました。
 この女性も病気の娘をなんとか助けたい、その一心でイエスに向かって行きました。ティルス、シドンというのはガリラヤよりももっと北の、異邦人の世界です。そこに住むカナン人(異邦人)の女性が、病気の娘を助けてもらうために、見知らぬ外国人であるイエスのもとに近づいてきます。イエスが多くの病人を癒しておられるといううわさを聞いていたのでしょう。この人ならなんとかしてくれるのではないか、必死の思いです。しかし、それに対してイエスの態度はとても冷たいものです。
 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」

 イエスにはイエスの計画があったようです。それはまず同胞であるユダヤ人に福音を伝えることでした。
イエスのメッセージは、すべての人を例外なく慈しんでくださる神がおられること。その神は父や母のように、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる方であること。つまりどんな人にも必要な恵みを注ぎ、すべてのいのちを生かしてくださる方であること。その神はわたしたちを決して見捨てておらず、今まさにわたしたちに近づいてきてくださっていること。だからその神に信頼し、その神の子として、互いに兄弟姉妹として生きよう、と呼びかける。それがイエスの福音でした。そこには本来、国や民族の壁はありませんでした。
 しかし、その福音を伝えるためにまず身近なところから、旧約聖書の時代から神のことばを預かっている同じユダヤ人同胞から、というのがイエスの計画だったようです。

 「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」謙遜といえば謙遜です。でもしつこいですね。この女性は決して諦めないのです。そこにイエスは心を動かされます。しつこいからしょうがない、ではなく「あなたの信仰は素晴らしい。あなたの願いどおりになるように。」とイエスは言いました。
 「信仰」と言いますが、それは「神についてどう思っているか」というような意味の信仰ではありません。「信じること」それは「信頼」あるいは「諦めないこと」と言い換えてもいいでしょう。どうしようもないように思える状況の中でも、なお、神に希望をおいて生きること。「信仰の反対は宿命論だ」と言った人がいます。確かに福音書の中で語られる「信仰=信じること」は、「この不幸は宿命だからどうしようもない」という思いを乗り越えて、必死で神に向かっていく姿勢を指しています。
 このカナンの女性が示したのは、そういう意味での「信じること」でした。この姿勢をユダヤ人同胞の中ではなく、神を知らない、と思われていた異邦人の女性の中にイエスは見いだしたのです。イエスが人々に呼びかけた「神への信頼」がこの異邦人女性の中にこそあった、この体験はイエスを変えました。
 
 わたしの母の話に戻りますが、彼女も必死の思いで、家族の心配をし、家族のために何かしようとします。わたしとしてはついつい、「そんな心配しないで、何もしなくていいから」と言いたくなります。それは母に向かって、「どうせ何にもできないんだから、何もするな」と言っているのに等しいと気づきました。この人はこうやって家族のために必死になる部分があるから、93歳の高齢になるまで生きてきたのだと思うのです。この必死の部分が人を生かすのですね。

 子どもであれ、大人であれ、若い人であれ、高齢者であれ、女性であれ、男性であれ、どこの国の人であれ、みんなこの必死の思いを持って生きています。その部分を神は受け止めてくださる、そう信じながら、お互いにお互いの必死の部分を認め合い、受け止め合うことができますように。アーメン。

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聖母の被昇天



カトリックいわき教会の聖マリア像。
被昇天のミサですので、この日だけ祭壇の脇に立っていただきました。

●聖母の被昇天(8/6-15日本カトリック平和旬間)
 聖書箇所:黙示録11・19a, 12・1-6, 10ab/Iコリント15・20-27a/ルカ1・39-56
         2023.8.15小高援助マリア会修道院・カトリックいわき教会にて
 ホミリア
 今日のミサの第二朗読はパウロのコリントの教会への第一の手紙が読まれました。この箇所が聖母被昇天のミサで読まれることは意味深いことです。この手紙の15章全部を使って、パウロは復活について大切な教えを述べています。要点をまとめてみましょう。
 1. イエス・キリストは確かに死んで、そして確かに復活した。
 2. このキリストの復活ということに、わたしたちすべての者の救いの希望がかかっている。
 3. キリストによってすべての人は生きるものとなる。最終的な希望は神の国が完成すること。そのとき神は死を滅ぼし、いのちの勝利が現される。
 4. 復活の体の有り様は、地上の体の有り様とは違う。種が蒔かれて、豊かな植物になるように、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する。
 5. 最終的にわたしたちは、死なないものとして、朽ちないものとして、キリストの復活に完全にあずかる。だから、キリストから離れないように。
 この復活の希望は、わたしたちが「神のもとに行き、神と完全に一つになる」「天に上げられる」と言うこともできます。
 このキリストの復活と、その復活にわたしたちが最終的にあずかるという救いの完成のビジョン。これが今日の祝日の大前提なのです。

 その上で、今日の祭日には、二つのテーマが表れてきます。
 一つはイエスの母であるマリアこそが、真っ先にこの救いに預かったものであるということ。マリアは天からわたしたちを見守り、天でわたしたちのために祈っていてくださること。だからマリアはわたしたちにとって、何より希望の星であること。
 それはマリアが信仰の第一人者であったからです。イエスの誕生についての天使のお告げを聞いたとき、マリアは「わたしは主のしもべです。お言葉通りこの身になりますように」と答えました。神のことばを受け入れ、自分自身をそのみことばの実現に委ねた方です。今日の福音の中でも、エリサベトはマリアに向かって「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言います。聖書の伝えるマリアは何よりも信仰の人なのです。その意味でマリアがすべての人に先立って、キリストの復活のいのちにあずかっている、カトリック教会はそう信じて、それを「被昇天」と呼ぶようになりました。

 マリアだけでなく、マリアに続く多くの人がこのキリストの復活に与る、その希望を今日新たにする。これもこの祭日の大きなテーマです。
 福音書の伝えるマリアの姿のもう一つの大きな特徴は「連帯」です。マリアはただ一人で救いの言葉の実現を待つのではなく、洗礼者ヨハネを身ごもっているエリサベトとともに待ちました。今日のマリアの歌の中では、自分を身分の低い者と呼び、身分の低いすべての人の救いへの希望を歌いました。カナの婚礼の場面でぶどう酒がなくなったことに気づいたマリアは、その場の人々の願いを代表して、「ぶどう酒がありません」と言いました。イエスの十字架の場面でも、嘆き悲しむ女性たちや弟子とともにいました。この「連帯」は、最終的な救いの完成、被昇天ということについても言えることです。被昇天はマリアだけの例外的な恵みではありません。それはわたしたち皆の被昇天とつながっている、マリアの被昇天はわたしたちの被昇天の先駆けなのです。

 もちろん、キリストを信じ、洗礼を受けた兄弟姉妹もそうですが、それだけでなく、すべての人、特に苦しみと死をとおしてイエスの受難にあずかっている人、あるいはその生涯の愛と奉仕をとおして、キリストの十字架にあずかっている人々は、すべて最終的に復活のいのち、天のいのちにあずかることになるに違いありません。
今日の祭日はこの希望を新たにする日。そういう意味で、今日、わたしたちは多くの日本人、キリストを知らない日本人とともに、亡くなった家族や先祖のことを思い起こし、その人たちのために祈ることができると思います。また特に戦争で亡くなったすべての人のことを思い起こし、その人々のために祈り、その人々とともに平和を祈ることも大切にしたいと思います。

 聖母被昇天の祭日にあたり、わたしたちが聖母マリアとともに、神への信頼と、すべての人との連帯を生きることができるよう、心から祈りたいと思います。


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