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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第2主日



カトリック原町教会の玄関。脇の柱と板がボロボロになっていたのを、ボランティアのSさんがきれいに直してくださいました。ありがとうございます。
柱にある電話番号は現在使われていませんが、建物の古さを示すモニュメントとして、はずさずにいてくださったようです。

8,9の土日は福島市にある松木町教会と野田町教会合同の待降節黙想会でした。初雪が降る中、おおぜいの方々が参加してくださいました。
以下は、その中でのミサの説教メモです。

●待降節第2主日
 聖書箇所:バルク5・1-9/フィリピ1・4-6, 8-11/ルカ3・1-6
           2018.12.9松木町教会
 ホミリア
 昨夜、原町から車で、雪のちらつく飯舘村をとおって福島市に来ました。修道院でご馳走をいただいてから、この教会に来ました。何度も来ている修道院と教会なのに、そしてこんなに近いのに、夜だったので道に迷ってしまいました。「なんでこんなに一方通行が多いんだ」とぶつぶつ独り言を言いながら、まあ何とか教会にたどり着きました。教会が見えたとき、本当に嬉しかったです。今日の福音の結びに「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉がありますが、大げさに言えば、そんな感じ。
 「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」それが今日の福音の結びの言葉です。ルカ福音書は洗礼者ヨハネについて語りながら、洗礼者ヨハネがその到来を告げた方=イエスがもたらした本当の「救いの光」を見るように、わたしたちを促しています。
 2000年前イエスがもたらした救い、人々が見た救いとはどういうものだったでしょうか。

 一人の徴税人がいました。彼は毎日、収税所に座って、人々から通行税を徴収していました。ローマ帝国の税金を同胞であるユダヤ人から徴収する。同胞から忌み嫌われ、さげすまれていたその男は、自分自身でも神の救いから程遠い、ダメな人間だと感じていたでしょう。その彼にイエスが声をかけました。「わたしに従いなさい」その呼びかけに応えて、彼はイエスの弟子になっていきました。彼の人生はそれまでとまったく変わったものになりました。
 女性特有の出血の病気に悩む女性がいました。12年間もその病気に苦しみ、医者にかかって、かえって苦しめられ、財産も使い果してしまいました。当時その病気は宗教的な「汚(けが)れ」とも見られていました。彼女は汚れが人にうつらないように、ひっそりと生活をしていたはずです。イエスという方のうわさを聞き、この人なら自分を救ってくれるのではないかと、必死の思いでイエスに近づき、こっそりと衣の裾に触れました。それは許されない行為でした。でもイエスは彼女を責めません。むしろこうおっしゃいました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」
 大勢の群衆が空腹だったときのことです。人里離れたところで、どこからもパンを調達することはできませんでした。わずかなパンと魚があるだけ。イエスはそのパンと魚を神から与えられたものとして、感謝と賛美の祈りを唱えました。そして群衆とわずかな食べ物を分かち合い、おおぜいの人が食べて満たされたと伝えられています。
 イエスに周りに多くの人が集まってきました。ほとんどの人は貧しい人、病人や障害者、社会から排除され、差別されている人々でした。イエスの身内の人々がイエスをたずねてきたとき、イエスは自分のもとに集まっているこの貧しい人々を見回して、「見なさい、ここにわたしの兄弟姉妹がいる」とおっしゃいました。
 神は「アッバ(おとうさん)」であり、あなたがたはその神の子、決して神はあなたがたを見捨てていない。わたしの目から見て、あなたがたはかけがえのない兄弟姉妹・・・これがイエスのもたらした救いの光でした。その光のもとに、神への信頼と希望を取り戻した人々の集まりが生まれていきました。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」人々はあのイエスの中にそういう救いを見たのです。

 それから2000年がたち、今のわたしたちはどうでしょうか。本当にわたしはわたしの人生を神に愛された子としての人生として受け取っているでしょうか。わたしの周りの人々をわたしは大切な兄弟姉妹として見て、関わっているでしょうか。アジアの国々から日本に働きに来ている人たちは、人として、神の子としての尊厳を認められているでしょうか。今のわたしたちの国、そして周りの国々は本当の平和に向かって歩んでいるのでしょうか。わたしたちは子どもたちの世代、これから生まれてくる将来の世代に、かけがえのない地球環境を残していくことができるのでしょうか。・・・まあそれほど絶望しなくてもいいかもしれませんが、でもイエスが示した福音の世界、人が本当に神の子としてのふさわしい生き方をし、人と人とが兄弟姉妹として支え合って生きる、その世界には程遠い現実もいっぱいあると思います。
 ミサの中で主の祈りのあと、司祭は「わたしたちの希望、救い主であるイエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と唱えます。いつかイエスがもう一度わたしたちのところに来て、救いを完成してくださる、その希望を持ちながら、わたしたちは日々、精一杯、神の子として、互いに兄弟姉妹としてふさわしく生きるよう、導かれています。

 そしてわたしたちはいつも、あのイエスを見つめるのです。ベツレヘムの飼い葉桶に始まり、ゴルゴタの十字架に至る、あのイエスの生涯、イエスの生きられた道を見つめるのです。それは決して力強い救い主としての姿だけではありませんでした。ベツレヘムの飼い葉桶の中のイエスは、立派な説教をするわけでもなく、病気をいやすわけでもなく、パンを群衆に分け与えるわけでもありません。身動きできず、オギャーオギャーと泣いているだけのイエスです。それは十字架の上で何もできなくなったイエスをよく似ています。十字架のイエスも十字架の木に釘付けにされて、ただ苦しむだけのイエスです。そこにどんな救いが見えるでしょうか。
 わたしたちが苦しみのどん底、無力さのどん底にいるときも、イエスはいつも一緒にいてくださる。イエスはすべての人の兄弟として世に来られ、すべての人の友として十字架でいのちをささげてくださった。そのイエスはどんなときもわたしたちを決して見捨てない。必ずわたしたちのそばにいて、わたしたちを支え、導いてくださる。

 ボーッと見ていたら見過ごしてしまうかもしれません。ベツレヘムの町の人々は、旅をしていた貧しい夫婦を見て、この二人が救い主の両親だなどとはとても思えずに、追い払おうとしました。ヘロデ王は、生まれた幼子を自分にとって不都合な邪魔者と考えて抹殺しようとしました。イエスが十字架に架けられていたとき、その死刑囚が救い主だと、ほとんどの人は気づきませんでした。
 だからこそ、本当に祈りの中で、イエスを見つめるのです。あのイエスの生涯の中に本当に「神の救いを仰ぎ見る」ことができますように、深い祈りのうちにこの待降節を過ごしたいと思います。アーメン。

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待降節第1主日



カトリック芦屋教会のプレセピオ。羊がたくさんいるのが、気に入ってしまいました!

●待降節第1主日(宣教地召命促進の日)
 聖書箇所:エレ33・14-16/一テサ3・12~4・2/ルカ21・25-28、34-36
      2018.12.2 兵庫県芦屋教会待降節黙想会のミサ
 ホミリア
 黙想講話では、「ゆるし」とは根本的に「和解=神と人・人と人との関係回復」だという話をしました。最終的な神と人・人と人との関係回復の完成に向かってわたしたちは歩んでいます。これは年間の終わり=終末主日のテーマであり、今日から始まる待降節のテーマでもあります。神と人・人と人との関係、傷つき、失われた関係を取り戻すために、イエスは来られた、神が人となられた、神がご自分の独り子をわたしたちに与えてくださった。このことを深く味わいながら、最終的に本当の意味で神と人、人と人とが一つに結ばれる、その救いの完成を思いながら歩むのです。それがわたしたちの待降節の歩みです。

 わたしは今、福島県浜通りというところにいます。そこは2011年3月11日に起こったマグニチュード9の地震により、南相馬市で最大震度6弱、十数メートルの津波に襲われ、同時に福島第一原発事故による大きな被害を受けました。地震と津波は過去のものになったかもしれない。でも原発事故は終わっていません。そのことは分かっていてほしいと思います。事故を起こした原発の廃炉のめどは立っていません。毎日6千人の人が福島第一原発の廃炉作業にあたっていると言われますが、廃炉までに30年40年はかかる、いやそれで廃炉にできるという保証はありません。汚染水は増え続けています。空気中の放射線量もいまだに年間20mSvという、国の基準を超える地域が広大にあります。この帰還困難地域は今も原則立ち入り禁止です。年間20mSvを下回る地域は、昨年の春までに次々と避難指示解除となりましたが、それでも戻れない、戻らない人がおおぜいいます。特に若い世代の人々、子育て中の人々は放射能に対する不安を抱えていて、戻ってきません。

 そんな現実があります。そこで、人と人が引き裂かれている現実があります。元の家に帰るか帰らないかという決断で、家族の中で高齢の世代と若い世代の間が引き裂かれます。戻ってみてもそこには以前のような近所のつながり(コミュニティー)はありません。元の住まいへの帰還を諦めて、わたしのいる原町区(20km圏外)に住んでいる人も多いのですが、そこでも周りは知らない人ばかりです。その中で孤立していく人もいます。さらに福島のことは日本全国からだんだん忘れられていく。福島だけが日本全体から切り離されて、「福島の問題」にされていく。一方では福島県産の農作物に対する偏見もなくならない。「風化」という問題もあれば、「風評」という問題もあるのです。

 その中にわたしたち、カトリック原町教会とカリタス南相馬があります。そこにシスターや信徒がいます。本当に小さなキリスト教共同体です。なんとか周囲の人々とともに喜びや悲しみ、苦しみや希望を分かち合って歩みたいと願ってそこにいます。わたしたちが目指しているのは、阪神淡路大震災のときに、大阪教区で言われたことと同じだと思います。「地域とともに歩む教会」ということです。

 今年は大きな台風被害が続きました。南相馬でも台風の強風で木が倒れたりしました。ほとんど人が住んでいない、原発から20km圏内の旧警戒区域に家のある人からカリタス南相馬に電話がかかってきました。「隣の家の大きな木が倒れて道をふさいでいる、どうしていいか分からない。だからカリタスに電話した。見にきてほしい」という内容でした。カリタス南相馬から二人のボランティアが行きました。その二人の手にも負えないような大木だったそうです。最終的には倒木の処理は市のほうにお願いすることになりました。でもカリタスから二人の人が来てくれたということで、その人は喜んでくれました。それはわたしたちにとっても貴重な体験でした。さまざまな活動をとおして知り合った地域の人が、何か困ったとき、カリタスに相談してくれる。カリタスだったら助けてくれるんじゃないか、と感じてくれている。これほど嬉しいことはありません。

 「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」これが今日のイエスの言葉です。いろいろたいへんなこと、とんでもないことが起こるだろう。でも最終的に人の子が来られる。イエスは栄光のうちに再び来られる。その時、神と人、人と人とのつながりが完成する。そこに心を向けていなさい。それが「目を覚まして祈りなさい」ということだろうと思います。目先のことに振り回されずに、本当に神がわたしたちをどこに導いてくださっているのか、そのことを忘れず、そのことに心を向けるように。

 簡単じゃないです。2000年前にイエスが来られた時、あの幼子の中に本当に神の救いが、神の導きがあると見ることができた人は、本当にわずかな人でした。ベツレヘムの人々は皆、貧しい夫婦を断ってしまったのです。わたしたちは今年もクリスマスにあの小さな幼子イエスを見つめます。この子の中にこそ、神と人・人と人とを結ぶ、神の大きな計画があるということ、ほんとうの救いの光があることを見つめていこうとするのです。
 そしてだからこそ、あのイエスが再び来られるという希望に支えられて、祈りのうちにその神との出会い・イエスとの出会いを日々感じながら、歩もうとします。それはやはり、わたしたちがそれぞれ置かれた場で、神と人・人と人との関係回復のために働くということです。弱い立場の人、寂しい思いをしている人、孤立してしまいような人とともにどう生きるか、問われます。わたしたち自身がさまざまな困難や苦しみの中にあって、どう祈り続け、どう神とのつながりを持ち続けるか。それも問われることです。南相馬だろうが、芦屋だろうが同じことだと思います。ミサの中で主の祈りの後、司祭が唱える副文の祈りを、待降節の間、特に味わいたいと思っています。
 「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのいつくしみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」

 本当に来られる方に心を向けて、祈りながら、待降節の日々を過ごすことができますように。アーメン。

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王であるキリスト



写真は関西の某修道院からいただいた聖歌番号掲示板です。
(番号入れ替え中のため、ちょっと変になっていますが・・・)
立派なものを、どうもありがとうございました。

●王であるキリスト(祭)
 聖書箇所:ダニエル7・13-14/黙示録1・5-8/ヨハネ18・33b-37
           2018.11.25カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしは左利きなのに、右手で字を書きます。絵は右手では描けないので、左手で描きます。子どもの頃からそうしてきたせいでしょうか。字も下手だし、絵も下手(言い訳?)。兄はすごく絵がうまかったので、コンプレックスを感じていました。そんなわたしが一度だけ小学校の図画工作の時間に褒められたことがあります。画用紙に、リンゴとミカンとバナナを絵を貼る、という課題が出ました。リンゴもミカンもバナナも最初からその形に切ってあって色もついているのです。ただそれを一枚の画用紙に貼るだけ。まあたいていの子どもは一列に並べたり、三角形に並べてみたりしていたのですが、わたしはりんごとみかんを右側に少し重ねて置き、左側にバナナを一本置きました。それでうまくバランスが取れたのです。構図がよいと言って、先生から褒められました。一枚の絵として、バランスが取れていたということでしょう。図工で褒められたのは、後にも先にもそれ一回でしたのでよく覚えています。

 下らない思い出話をしていますが、今日は王であるキリストの祭日です。今では王様のいない国はいくらでもありますが、古代の世界では、国が国として成り立つためには、どうしても王が必要でした。王の役割は国を一つにまとめること、国民皆を一つにすることでした。「どうやって皆を一つにするか」、ということを考える時に、わたしはいつも子どもの頃のあの絵の構図のことを思い出すのです。リンゴとミカンとバナナを一つの絵にするにはどうしたらいいか。
 きちんと一列にそろえて並べれば一つになるのか。それでは、それぞれの個性はおし潰されてしまうのではないか。無理やり、全部の果物に向かってリンゴになるように命令して、リンゴにならないものは捨ててしまう。そういう仕方で一つにする、という乱暴なやり方もある。しかし、むしろリンゴはリンゴ、バナナはバナナでそれぞれを生かしながら、互いの関係をうまくする、そういう仕方で一つにするというやり方もあるのではないか。
 古代の王様も、人間の王というのは上から力で押さえつけて人々を一つにしようとしたり、従わないものを排除することによって、一つにしようとしたりしたのです(現代でも?)。でも本当の王はそうではないはず。聖書の世界にはそういう理想がありました。

 詩編72が一つの例です。「ソロモンの詩」という見出しがついていて、王の繁栄を願う詩ですが、次のような言葉があります。
 「2王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。
 4王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。
 12王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。13 弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い14不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。」
 王は貧しい人、弱い人を助ける。本当にすべての人を大切にする。そのことによって、人々を一つにする。これが聖書の語る王、古代イスラエルの王の理想像でした。前提にあったのは、イスラエルの本当の王は神ご自身である、という考えです。神ご自身が何よりもそういう方。すべての人を大切にするがゆえに、特に貧しい者・無力な者に目を注ぐ方。このイメージは羊飼いのイメージともつながっています。羊飼いの役割も、何より群れを一つにすることでした。そのために最も弱い羊を大切にするのです。イエスが語った、見失った羊を探し出し、群れに連れ帰る羊飼いのイメージはまさにそういう羊飼いのイメージでした。このイメージで今日の「王であるキリストの祭日」を祝います。

 わたしたちはそのイエスに再び会える日を待ち望んでいます。毎回ミサの中で主の祈りの後、司祭が唱える「副文」というのがあります。
 「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのいつくしみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」
 この最後の言葉は、イエスが来られて、最終的な救いが完成することを待ち望んでいる言葉ですね。本当に待ち望んでいますか?

 今日の聖書朗読は迫害のコンテキストで語られる言葉。
 第一朗読のダニエル書は、紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの厳しい宗教迫害の時代に書かれた。髪を信じれば信じるほど迫害を受け、いのちまでも奪われる。人と人との関係はズタズタに断ち切られている。神はそれを見て、何もしてくれないように感じる。神との関係も断ち切られている。その中で、神は必ず、救い主を送り、裁きを現してくださる。その希望を語るのがダニエル書です。
 第二朗読は黙示録。これは1世紀後半の、ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代。しかし、キリストは必ず、再び栄光のうちに来られる、と切実に神の救いを待ち望んだのです。
 今は、迫害という状況は感じられないかもしれない。でも本当の意味で人と人との良い関係、しっかりとした神とのつながりが感じられているか、そうでもないでしょう。その中で、わたしたちが希望しているのは、本当の意味での神との関係回復、人と人との関係回復だと言えるのではないでしょうか。それはいつか、わたしたちがキリストと再び出会うときに実現する、そう希望し、待ち望みながら、今日、わたしたちの置かれた場で精一杯、神とのよい関係、人と人とのよい関係を生きることができますように。アーメン。


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2018年12月の予定(変更・追加あり)



前に掲載した予定に変更と追加がありますので、お間違いなく!

12月1日(土)10:00-12:00芦屋キリスト教協議会講演会&コーラス(時間変更!
      「いのちへのまなざし〜福島から〜」
      兵庫・単立芦屋福音教会にて(芦屋市呉川町2-5 tel. 0797-31-2093)        
12月2日(日)待降節第1主日 カトリック芦屋教会黙想会
      9:00-12:00講話2回とゆるしの秘跡、12:00ミサ
      原町教会10:00のミサは川邨裕明神父(大阪教区)です
12月8日(土) – 9日(日)待降節第2主日 松木町・野田町教会黙想会(福島市内)
      8日(土)19:00第1講話。
      9日(日)9:00ミサ、10:30第2講話、13:00ゆるしの秘跡
      原町教会10:00のミサと待降節講話はエメ神父(第7地区)です
12月16日(日)待降節第3主日 東仙台教会黙想会 テーマ「主を待ち望む」
      (9:00ミサ。ミサ後に講話。12:00終了)
      原町教会10:00のミサは森田直樹神父(第5地区)です
12月22日(土)12:00神の愛の宣教者会(山谷・ブラザーの会)クリスマスミサ
12月23日(日)待降節第4主日 10:00原町教会ミサ
               15:00小高修道院ミサ
12月24日(月)主の降誕・夜半 18:30原町教会ミサ 
12月25日(火)主の降誕・日中 10:00原町教会ミサ+お祝い会
12月30日(日)聖家族 10:00原町教会ミサ
1月1日(火)神の母聖マリア(祭) 10:00原町教会ミサ
                   以下、未定。

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年間第33主日



写真は宮城県南にあるカトリック大河原教会の聖堂内部です。
1915年に建てられたそうです。小さいけれど、歴史あるすてきな教会!

●年間第33主日、貧しい人のための世界祈願日
 聖書箇所:ダニエル12・1-3/ヘブライ10・11-14, 18/マルコ13・24-32
       2018.11.18大河原教会・亘理教会
 ホミリア
 この2週間ほど、いろいろと用があって東京まで行ったり来たりしていました。福島県浜通りや宮城県南とはずいぶん違うなあ、と改めて感じさせられました。教会だって、今回行ったのは東京カテドラルとか、イグナチオ教会とかいう巨大な教会。大河原も亘理も原町もそれぞれ可愛くて愛着がありますが、この辺の教会に馴れていると、都会の大きな教会に行ったとき、圧倒される気がします。
 ガリラヤの田舎者だったイエスの弟子たちも、エルサレムの都の壮大な神殿に圧倒されました。マルコ13章1節にこうあります。
 「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」(1節)

 先週の福音の箇所の続きです。先週の箇所はやもめの献金。イエスはエルサレムの神殿に行き、その境内で当時の社会的・宗教的指導者たちと対決し、彼らの中に何も真実なものを見出せなかった。そして最後に出会ったあの貧しいやもめだけがイエスの心を撃った。イエスは「もうここにいても仕方ない」と神殿を見捨てるかのように出て行くのです。
 それに対して弟子たちは違いました。彼らはその立派な建物に見とれてしまう。心を奪われてしまう。「これこそ確かなもの」と感じたのでしょうか?しかし、こう続きます。
 「イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』」(2節)
 イエスが言うのは、これも滅び去るもの、これも過ぎゆくものであって、これが本当に頼りになるものではない、ということです。そしてイエスはエルサレムの東にあるオリーブ山という小高い山に登られ、そこからエルサレムの町と神殿を見ながら話し始めます。イエスが語ったのは、これから起こることです。偽預言者が現れ、戦争、地震、飢饉が起こり、さらに弟子たちへの迫害も起こる。エルサレムの神殿と町も完全に破壊される。そして今日の箇所になります。

 すべては過ぎ去る。その中で過ぎ去らないものがある。滅びないものがある。
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」
 これが今日のイエスの約束です。
 イエスの言葉をマルコ福音書の中で思い起こしてみましょう。マルコ福音書でのイエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。マルコ福音書はイエスの長い説教をあまり伝えていません。たくさんの言葉が伝えられているわけではない。でも具体的に出会った貧しい人、病人や障害者、弱い立場の人の人への励ましの言葉はたくさんあります。
 「清くなりなさい」「子よ、あなたの罪はゆるされる」「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」「真ん中に立ちなさい」「手を伸ばしなさい」「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたをあわれみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない」「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」「タリタ・クム(=少女よ、起きなさい)」「よろしい、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」「エッファタ(=開け)」
 弟子たちに向けて語られた言葉もたくさんあります。「わたしについてきなさい」「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」「皆に仕える者になりなさい」「すべての人のしもべになりなさい」
 そのすべての言葉。そこに込められたイエスの思い。すべての人、特に弱い立場に置かれた人に対するイエスのいつくしみの心・・・それは決して滅びない。

 すべては過ぎ去り、滅び去っても、決して滅びないものがある。それは今のわたしたちにとって、何でしょうか?
 パウロは一コリント13章8節で、「愛は決して滅びない」と言いました。これはとても大切なキリスト者の確信です。あらゆるものは過ぎ去っても、愛だけは永遠の価値があるものとして残る。わたしたちはそこに希望と信頼を置いています。さらにパウロのもう一つの言葉も思い出したい。
 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント4・18)
 今の世はあまりにも目に見えるものを追い求めています。永遠のものではなく、形があり、過ぎ去るものを追い求めています。いかに良いものを手に入れ、いかに便利に快適に生活するか。わたしたちキリスト信者もある程度までそういう現代の風潮に流されていますし、確かにわたしたちにとっても目に見えるさまざまなものがある程度は必要です。しかし、同時に、決して滅びないもの、過ぎ去らないものは何か、そう問い続けて生きるのが、わたしたち信仰者の生き方なのだと思います。
 わたしたちが永遠に過ぎ去らないものを求めて歩み続けることができますよう、ご一緒に祈りましょう。



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