FC2ブログ

毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

10月はじめまでの予定



「道の駅ならは」は、震災以来、双葉警察署仮庁舎として使われていましたが、
今年の4月、8年ぶりに道の駅(温泉付き)としての営業が再開されました。
その売店で、ならはのメダカに出会ってしまったんです!
思わず衝動買い!

さて、以下はこれから10月はじめまでの幸田と原町教会の予定です。
よろしく。

8月24日(土) 11:00-14:00カリタス南相馬夏祭り(大人は参加費500円)
8月25日(日) 年間第21主日9:00 聖書講座10:00ミサ(原町教会)
9月1日(日) 年間第22主日 7:00, 9:30元寺小路教会ミサ
           (原町教会10:00ミサは小松史朗師が司式)
9月7日(土) 14:00講演会「福島から語る」廣畑裕子さん(小高ぷらっとほーむ)
            東京・四谷ニコラバレにて(幸田はあいさつ)
9月8日(日) 年間第23主日 13:00ミサがわかるセミナー 東京・四谷聖イグナチオ教会にて
           (原町教会10:00ミサは瀬本正之師・イエズス会が司式)
9月15日(日) 年間第24主日 9:00聖書講座10:00ミサ(原町教会)
             14:00小高修道院ミサ
9月22日(日) 年間第25主日 9:00聖書講座10:00ミサ(原町教会)
9月24日(火) 11:00仙塩・あけの星会、原町教会巡礼・ミサ
9月29日(日) 年間第26主日 9:00聖書講座10:00ミサ(原町教会)
              13:00福島県グロリア会での講演(いわき教会にて)
10月6日(日) 年間第27主日 9:30八木山教会ミサ
            (原町教会10:00ミサは佐々木博師が司式)



PageTop

年間第20主日



隣のさゆり幼稚園園庭のミニトマト。真夏の日差しの中で真っ赤な食べごろを迎えています。
でも夏休みだから、だれが食べることになるんでしょう?

●年間第20主日
 聖書箇所:エレミヤ38・4-6, 8-10/ヘブライ12・1-4/ルカ12・49-53
         2019.8.18カトリック原町教会
 ホミリア
 平和旬間は8月15日まででしたが、今日の福音には「平和」という言葉が出てきます。しかも「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)という衝撃的な形で出てきますので、やはり平和について話そうと思います。
 今日の福音の箇所を読んで、フランシスコ教皇の言葉を思い出しました。フランシスコ教皇は、教皇になられた2013年に発表した最初の使徒的勧告『福音の喜び』の中でこうおっしゃっています。
 「平和な社会とは、融和でも、あるいは単に、他の一部の社会を支配することによって暴力がなくなることでもありません。平和が、貧しい人々を黙らせ鎮める社会組織の正当化の口実となるならば、それは偽りの平和も同然です。」(218)
 「すべての人の全人的な発展integral development の実りとして生まれたわけではない平和は、未来に向かうものではなく、つねに、新たな紛争と種々の暴力の火種となるのです。」(219)
 強大な権力が力で人を押さえつけているから、争いがないというような平和は偽りの平和。本当の意味ですべての人が幸せになっていくような道以外のところに成り立つ平和(つまり極端な格差や排除の上に成り立っているような平和)も偽りの平和。教皇はそのような平和を厳しく批判しています。それはラテンアメリカ、アルゼンチンの軍事独裁政権の下での残虐な人権侵害を経験してきた司牧者としての強い思いなのでしょう。今日の福音でイエスが否定したのも、まさにこのような偽りの平和だと言ったらよいのではないでしょうか。

 人が人を踏みつけている中での平和は偽りの平和です。だから平和は神の国と切り離せません。神の国とは、神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態だと言えます。本当に神の愛がすべてに行き渡り、人と人とが大切にし合う世界。そこにある平和だけが本当の平和なのです。そんなのは理想に過ぎないでしょうか。現実の世界では力と力の均衡、武力と武力のバランスの上にしか平和は成り立たないのでしょうか。
 しかし、わたしたちは本当の平和に向かって歩みたい。

 山上の説教の冒頭、八つの幸い(真福八端)の中に「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」という言葉があります。直訳はむしろ「平和をつくる人」です。英語で言えば「peace maker」です。日本語で「平和をつくる」という言い方はなじみが薄いので新共同訳は「平和を実現する人」と訳したようです。でも「実現する、平和を実現する」と言ってもやはり具体的にどういうことかピンとこない気もします。
 「平和を守る」ではなく、「平和をつくる」というところがポイントなのです。平和を守り、戦争を避けることはもちろん大切なのですが、それだけでは本当の平和は実現しない。平和は単に戦争のない状態ではなく、いつもつくり続けなければならないものです。「平和はそこにあるから、守るもの」というのではなく、「平和はつくるもの、いつもつくり続けなければならないもの」これは大切なことです。

 この点でもフランシスコ教皇の言葉がヒントになると思います。教皇は『福音の喜び』の中で、平和な社会をつくるための第一の原理として「時間は空間に勝る」という原理を挙げています。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、こう説明しています。
 「この原理は、早急に結論を出すことを迫らず、長期的な取り組みを可能にします。また、困難であったり反対を受けたりする状況に辛抱強く耐えることや、力強く動く現実によって迫られる計画の変更を助けます。」「空間を優先させることは、現在の時点ですべてを解決しようとする、あるいは、権力と自己主張が及ぶ空間すべてを我が物にしようとするという愚かな行為へと人を導きます。」「時を優先させるということは、空間の支配より、行為の着手に従事するものです。」(223)
 この世界に問題はいっぱいあります。その問題を空間的に見て、今の時点ですべて解決しようとすると力に頼らざるをえない。それは愚かなやり方だ。そうではなく、時間を大切にする。時間をかけてできることを積み重ねていく、そのことのほうが大切だ、ということです。
 対立があるときに、力で解決しようとするのではなく、地道に対話と相互理解を積み重ねていく、ということでもありますし、本当にすべての人に幸せが行き渡るように、少しずつでも役に立つ働きを積み重ねていく。

 そう考えれば、わたしたちも「平和をつくること」ができます。辛抱強く人の話に耳を傾けること、辛い思いをしている人のそばにいてあげること。平和のために、わたしたちにできることがあるはずです。そう考えているうちに、マタイ福音書25章の有名な言葉を思いだしました。
 「35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」「40はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
これは全部、平和をつくる働きだとも言えると思います。どうしたら平和をつくることができるか、イエスははっきりと示してくださいました。そしてそれはイエスご自身の歩みでもありました。
 わたしたちが本当の平和をつくるために働く者となりますように。アーメン。


PageTop

聖母の被昇天の祭日



先日、岩手県一関市の大籠キリシタン殉教公園に行ってきました。わたしは二度目でしたが、前回行けなかったクルス館にも行くことができました。クルス館は舟越保武さんが創られたものだそうですが、300段(殉教者の数)の階段の上にあります。中には十字架像、聖クララ像、マグダラの聖マリア像があります。300段はきつかったですが、これを登るだけで、巡礼に来たと感じられます。
バタバタしていて、日曜日の説教メモがあげられませんでしたので、被昇天のミサの説教メモを載せておきます。

●聖母の被昇天(祭)
 聖書箇所:黙示録11・19a, 12・1-6, 10ab/一コリント15・20-27a/ルカ1・39-56
         2019.8.15カトリック原町教会
 ホミリア
 子どもの頃、毎年、夏休みには両親の田舎に帰省しました。わたしの両親は二人共、福井県小浜市に実家がありました。仏教の家庭でしたので、そこでお盆を迎えました。子ども心に印象的だったのは、お盆で先祖の霊を送る儀式でした。海が近かったので、海まで歩いて行って、海に灯籠を流して、先祖の霊を送るのです。ちょうど海岸が西側に向いていましたので、日の沈む方向でした。死んだら、海の向こうに行く? ご先祖様が年に一度、子どもや孫の家に帰ってくるのをお迎えして、また送るのがお盆。なんとなく納得できるような気がしていました。

 今のわたしたちは、死んだらどこへ行くと信じているのでしょうか? 死んだらすべては終わる、という考えは現代の日本では結構強いと思います。人間のいのちを医学の対象としてしか捉えられないような傾向があるので、どうしてもそうなるのでしょう。でも本当にそうなのか、やはり問い続ける必要があると思います。死んだらすべては終わるという考えはキリスト教ではありえません。聖書とキリスト教の伝承がはっきりと示しているのは、人は死んだら天の神さまのもとに行く、ということです。
 「天」というのは古代の人にとっては、もちろん空の高いところのことでした。人間の生活している空間を超えたところ、はるかに高いところのイメージです。現代のわたしたちは飛行機やロケットを持っていますから、空の高いところが神さまのおられる天だとは考えません。この宇宙のすべてを超えた世界。時間も空間も超えた世界、そこが神のおられる天。わたしたちはその、時間も空間も超えた神のおられる天に行くと信じています。

 今日祝うマリアさまの被昇天というのは、マリアさまがキリストの復活のいのちに完全にあずかり、神のもとで永遠のいのちを受けるものとなったという信仰を表すものです。今日の第二朗読で、キリストの復活にすべての人があずかる、「キリストによってすべての人が生かされる」(一コリント15・22)という希望が語られますが、その第一人者がマリアだと教会は宣言するのです。それはマリアさまだけの栄誉ではなく、後に続くわたしたちも同じいのちをいただくという希望のしるしとしての被昇天だと言ったらよいでしょう。
 マリアさまはただイエスの母だからというのではなく、最初の救いのメッセージを受け取って、それに「はい」と答えたから第一人者なのです。今日の福音でエリサベトはマリアに向かって「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました。これは信じるすべての人に向けられた祝福の言葉でもありますが、その第一人者がマリアさまなのですね。

 この言葉に続いて、マリアさまは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌い始めました。ラテン語で「マニフィカト」と呼ばれる有名な賛歌です。前半は神の救いの訪れを受けたマリア個人の感謝と賛美で始まりますが、後半は救いを待ち望むすべての人の賛美へと広がっていきます。この前半と後半を結ぶキーワードのような言葉があります。それは「身分の低い」という言葉です。
 前半では、神が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(48節)と歌われ、後半では、神は「身分の低い人を高くあげ、飢えた人を良い物で満たし」(52-53節)と歌われます。マリアさまは、取るに足りない自分に目を注がれた神は、必ず小さく貧しいすべての人を顧みて、救いを与えてくださる。そう信頼して神を賛美するのです。
 マリアさまは自分だけの特権的な救いを求めません。本当に小さな自分にこそ神は救いを与えたのだから、すべての人に救いを与えてくださる、そう信頼するのがマリアさまのこころです。

 被昇天のマリアもそうです。マリアさまにとって大切なことは、自分が天に上げられることではなく、全世界のすべての人が神のいのちを受けるようになることです。今日はその希望の祝日なのです。
 マリアさまがそうであったように、わたしたちも皆、神のもとから来て、神のもとに帰っていきます。だからこの地上のいのちは決してむなしくはないのです。人のいのちは永遠の神によって生かされ、支えられ、意味づけられているのです。人間のいのちは時間の中にある有限のものに見えますが、でも本当は永遠の世界につながっているのです。そのことを感じながらその喜びを祝うのも、今日の祭日の大切な意味だと思います。

 この被昇天の光の中で、わたしたちの亡くなった家族や先祖のことを思いましょう。神がその人々をご自分の光の中に受けいれ、豊かないのちを与えてくださいますように。
 この被昇天の光の中で、戦争で亡くなったすべての人のために祈りましょう。その苦しみと死を神がいつくしみをもって受け入れ、その方々に神のもとでの永遠の安息といのちを与えてくださいますように。
 この被昇天の光の中で、すべての人のために祈りましょう。人のいのちは神から来て、神によって生かされ、神のもとに帰っていくものだということをすべての人が悟り、与えられたいのち(自分のいのちも他者のいのちもすべてのいのちを)大切にし、次の世代に引き継いでいくことができますように。


PageTop

年間第18主日



最近何度か、味の素財団の料理教室のお手伝いに行っています。
以前は仮設住宅、今は復興公営住宅の集会所で行われているイベントです。
みんなで集まって、料理を習い、一緒に作って、一緒に食べる集まりです。
みなさん、楽しみに待っていらっしゃいます。

こういうことでもないと、なかなか人と交われない、という声もずいぶん聞きます。
震災から9年目、こういう関わりがもっと大切になっていくと思っています。

●年間第18主日
 聖書箇所:コヘレト1・2, 2・21-23/コロサイ3・1-5, 9-11/ルカ12・13-21
        2019.8.4カトリック原町教会
 ホミリア
 少し話しにくい話ですが。
 「原発事故なら補償金がでるけれど、ウチは津波で家を流されたから何の補償もない。」
 「避難指示が出たから補償金をもらっているけれど、あっちの人のほうが補償金が多い」
 「隣の家は仮置場に土地を貸しているから、その収入があるけれど、うちはそのフレコンバックの山を毎日見させられていて、何の収入にもならない。」
 ・・・お金が人と人との関係を引き裂いていく。そんな現実がこの地域にはあります。いや日本中、世界中、どこにでもあると思いますが、ここではある意味で目立ってしまっているという面もあるでしょう。

 今日の福音は、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」とある人がイエスに訴えるところから始まります。あっちのほうがいい思いをしている。先生、なんとかしてください、というのですね。それに対してイエスは、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」であってはならないと教えます。
 わたしたちキリスト者は、本当はお金がすべてではない。富よりも、もっと大切なことがある。本当に「神との関係で豊かになる」こと、それが大切だ、と信じていますよね。でも、こんなことを言うと、司祭やシスターはお金の心配がなくて、経済的に切羽詰まっていないからそんなことを言っている、と言われそうです。本当にそうでしょうか。

 前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、忘れられない一つの光景があります。
 もうずいぶん前のことですが、70歳代の男性の信者の方の病室をお見舞いしたときのことです。ガンの末期で余命幾ばくもない、という状態で、家族が皆、集まっていました。そこで病者の秘跡をお授けしました。
 ふとベッドの上を見ると、点滴の薬の袋をぶらさげるフックがありました。しかし、下がっていたのは点滴の薬ではなく、孫の写真と十字架でした。親しい家族でしたので、わたしは思わず、「点滴よりこちらのほうが効きそうですね」と言ってしまいました。
 本当にそう思いました。死に直面したぎりぎりのところでこの人を支えているものは、孫の写真が象徴している家族との絆。そして十字架が象徴している神との絆。それが本当にこの人がぎりぎりのところで大切にしているものであり、この人を生かしているものなのだと感じさせられたのです。
 わたしたちは普段、そんなに死に直面しているわけではないでしょう。だからお金のことや人間関係のあれこれに一喜一憂しているのではないでしょうか。それはもしかしたら、ある種の余裕があるから言えることなのではないでしょうか。
 本当に死に直面して、生きるか死ぬか、という場面では、そんなことは問題にならない。それこそイエスが今日の福音でおっしゃる「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」という局面で問われることは何か?それが今日の福音の問いかけです。

 第一朗読は「コヘレトの言葉」でした。「伝道の書」とも呼ばれてきた書です。「この世のものはすべては空しい」というのですが、それは一方で「決して空しくないものがある」という確信があるからです。「神とのつながりだけは決して空しくない」これがコヘレトの言葉の確信で、だから「神を畏れ、その戒めを守れ」(12・13)というのが結論なのです。
 第二朗読のコロサイ書3章の箇所は、福音と似た雰囲気を持っています。
 「1あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
 5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」
 本当に大切なことは、神のうちにあるいのちを生きることだというのです。

 確かに、どうしても地上のことに心奪われて生きているのがわたしたちの現実だと言わざるを得ないかもしれません。でも今日の福音は「いや、それが本当に大切なのか、本当に大切なことはもっと違うことなんじゃないか」、と問いかけてきます。
 本当に大切なこと。それは神とともにどう生きるかということ。
 何よりも優先すべきこと。それはすべての兄弟姉妹とともにどう生きるかということ。
 そこのところを見失わずに生きていくことができますよう、聖霊の助けを願いながら、祈りたいと思います。
 

PageTop

年間第17主日



野馬追でバタバタしていましたが、とりあえず、説教メモです。

●年間第17主日
 聖書箇所:創世記18・20-32/コロサイ2・12-14/ルカ11・1-13
            2019.7.28カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしはここに住むようになって3年目ですが、相馬野馬追祭の初日である土曜日はいつも他の場所で仕事があり、今年初めて小高神社での出陣式に行ってきました。カリタスからボランティア30人が参加していたからです。その前の日には同慶寺で「歴代相馬藩侯墓前祭」というのがあったそうです。小高のシスターたちはそちらにも行かれたそうです。相馬野馬追祭もやはり祈りから始まるのですね。今の人間がやっているだけの祭というだけでなく、それを超える大きなこの土地の伝統や神仏の力を感じながらこの祭は今も行われているのです。祈りを大切にする姿勢には敬意を表したいと思います。

 さて、今日の福音の箇所はイエスが主の祈りを教え、また祈りの大切さを教える箇所です。祈りについてのイエスの教えの中心は「信頼」ということでしょう。主の祈りは「アッバ、父よ」という言葉から始まります。わたしたちが普段唱えている主の祈りはマタイ福音書の形で、しかも日本語なので、「父よ」の前に長い修飾語「天におられるわたしたちの」が付いていますが、ギリシア語では「父よ」が冒頭の言葉で、しかも本来イエスが教えた祈りの呼びかけはルカが伝えるように「父よ」だけだったようです。さらにアレルヤ唱で歌われたローマ8・15からわかるように、元々の呼びかけは「アッバ」という言葉でした。「アッバ」はアラム語で子どもが父親を呼ぶときの言葉です。何度もお話ししていますが、このアッバというのは、「父親」という意味であるよりも、もともとは赤ちゃんの叫び声のようなものでした。お腹が空いているのか、お尻が濡れて気持ち悪いのか、なんだかとにかく訴えたくて「アッバ」というのです。神様とは、人間が最初にそういう叫びをあげる相手、そんなふうに受け取ってもいいのではないでしょうか。わたしたちは赤ん坊のような信頼をもって、神に「アッバ、父よ」と祈ることができる。これがイエスの祈りについての教えの中心でした。
 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。・・・まして天の父は!」
アッバである神は必ず祈りに応え、必ず良いものを与えてくださる、そのアッバである神に信頼して祈りなさい。イエスはそう教えておられます。

 わたしたちはこの地にいて、東日本大震災で亡くなられた方、被災された方、原発事故の被害者のために祈る機会が多くあります。そして被災地の復興のために祈ります。いや、それ以前に被災された方々自身が、その苦しみの中から必死に祈り、神に叫び声をあげる、というような祈りにも接することがあります。
 苦しみの中から祈る。津波や原発事故の関連(長い避難生活)で亡くなった方々のために祈る。苦しむ人のために祈り、被災地の復興のために祈る。当たり前のようにそう言いますが、そこにはどんな意味があるのでしょうか。
 自然災害や原発事故、その後の長く厳しい避難生活によっていのちを奪われた人が多勢いらっしゃいます。津波や原発事故によって家族や仕事、ふるさとや人とのつながり、生活のすべてを奪われた人がいらっしゃいます。圧倒的な被災の現実がここにはあります。8年経ったからかなり傷が癒えた、という面もあるでしょう。でも8年経って、ずっと頑張ってきたけれど、8歳、歳をとり、体も弱り、もう頑張れない、という方もいらっしゃいます。その中で人間の力は本当に小さいと感じます。大規模な復興関連の工事を見ていると、人間の力が大きいと感じることもありますが、一人一人の人間の復興という点では、失われたものはあまりにも大きく、「こころの復興」というのは決して簡単ではないと感じます。人の力を超える神の大きな救いの力に信頼して祈るしかない、というのが現実だと言えるのかもしれません。
 だからわたしたちは祈るのです。「祈るしかないから祈る」と言ってもいいのかもしれません。その中で、わたしたちキリスト者は、イエスが今日の福音で教えられたように、信頼をもって祈ろうとします。アッバである神は、あらゆる苦しみ、絶望、死をも超えて、わたしたちに良いものを与えてくださる、豊かないのちを与えてくださる、わたしたちを救いに導いてくださる。そう信じて祈るのです。

 今日の福音には「しつように頼む」という言葉がありました。
 「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8節)
 「しつように」というのはギリシア語でanaideiaという言葉で、もとは「慎みがない、遠慮がない」という意味。「ずっと思い続ける」ということではないかと思いました。ずっと思い続ければ、神は必ず聞いてくださる。応えてくださる。イエスはそう約束してくださいます。しかし、ずっと思い続けるのは難しい、という面もわたしたちの中にあります。
 途中でどこかであきらめてしまう、やっぱり神様は聞いてくださらないんじゃないか、そう思ってあきらめてしまう。あるいは、思い続けることに疲れて、忘れてしまう。他に考えることややることはいっぱいあるので、そちらに心が行き、思い続けることができない、そんなことはたくさんあります。
 今日の福音の結びでイエスは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と約束されますが、ふと、「思い続ける力」が「聖霊の力」なのではないかと思いました。祈りの中で神とのつながりを思い続け、そして、苦しむ兄弟姉妹とのつながりを思い続ける。そのような祈りを今日もこのミサの中でささげたいと思います。


PageTop