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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第14主日



福音の箇所について、言いたいことはたくさんありますが、それについて語り始めるとあまりに説明的になると思い、省きました。
福音の解説は「福音のヒント」をごらんください。

●年間第14主日
 聖書箇所:ゼカリヤ9・9-10/ローマ8・9, 11-13/マタイ11・25-30
         2020.7.5カトリック原町教会
 ホミリア
 「神を信じる」とは、わたしたちの存在を根底で支えてくださる方がいると信頼することです。人間は有限の存在、いつか生まれ、いつかは死んでいくもの。時間的にも空間的にも限りある人生を生きているものです。でもこのわたしのいのちはただの偶然で存在しているのではなく、人間を超えた何かしら大きな力によって生まれ、支えられている。そう信じ、すべてを超える方の大いなる力に信頼すること、それが信仰です。古代から人はその方を天におられる神と言ってきましたし、永遠の神とも言ってきました。
 その神に信頼するから、わたしたちはどんなときも安心していられる。さまざまな困難や危険。病気や経済的な不安。人間関係のあつれき。とんでもなくつらいことがたくさんあっても、それでもわたしたちには、どこかで頼れるものがある。「大舟に乗ったような気持ち」と言いますが、まさにそういう安心感が心の深いところに与えられている。そして、たとえ死ということに直面したとしても、その死を超えて神はわたしたちを決して見捨てない、そう信頼することができるのです。
 さらに言えば、だからわたしたちの人生には、誰一人例外なく、生きる意味がある。なぜこんな苦しい思いをして生きていなければならないのか、死んだほうがましじゃないか、生きる意味なんて何も見えないような状態であっても、神から見れば、一人一人の人生には必ず大切な意味がある。生きる意味があり、そしてその人その人に何らかの使命がある。

 そのことを教えてくださったのがイエスという方です。イエスは神がすべての人の親であり、すべての人を大切にしてくださっていると教えました。イエスは神に向かって「アッバ、お父さん」と呼びかけました。何よりもご自分自身が、親(アッバ)である神に徹底的な信頼を持って生きられました。そして、苦しむ人、病気の人、貧しい人、当時の宗教的エリートたちの見方からすると価値がないと思われているような人々に向かって、あなたがた一人ひとりは誰一人例外なく神の子なのだから、この神(アッバ)に信頼して生きよう、と説きました。そしてわたしたちは皆、同じ唯一の神の子なのだから、お互いを兄弟姉妹として大切にして生きるように招かれているのだ、と語られました。
 今日の福音の言葉はそのイエスの大きな大きな招きの言葉です。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 2000年前にガリラヤ、ユダヤに生きていた人は、このイエスの呼びかけに応え、イエスのもとに近寄り、イエスに触れることをとおして、神への信頼を取り戻していきました。そのイエスが十字架で死んだ後は、復活したイエス、つまり天に上げられ、神とともに永遠のいのちを生きておられる、目に見えないイエスを、イエスの弟子たちの働きをとおして知ることができました。それは神のことば(福音)を告げる教会の活動であり、愛を生きる共同体の姿であり、その中で行われる秘跡という具体的なしるしをとおしてでした。それらすべてを通して、目に見えない神、そして目に見えない復活のイエスに出会うようになること、それがキリスト教信仰です。その信仰によってわたしたちは支えられて生きているのです。

 今回のコロナ感染症拡大防止のためのミサの中止という体験は、もう一度その神、キリストとのつながりのあり方をわたしたちに問いかけたと思います。目に見える秘跡、目に見える共同体は大切。でも本当にわたしたちを支えるものは、目に見えない神、目に見えない復活のキリストなのです。目に見えない神、目に見えないイエスにどう近づくのか?
 カトリック教会の中で大切にされてきた「秘跡」にはやはり大きな力があります。わたしたちが日曜日に集まって、共に賛美と感謝をささげ、一つのパンを分かち合う、この教会の典礼や秘跡は、目に見えない神に近づくために、本当に大きな力を持っています。だからこうしてミサが再開されてことの大きな恵みを感じています。
 ミサに参加できない期間に「オンライン」のミサというのを体験された方も多かったようです。触れることや空気を感じることはできないけれど、インターネットを通じてミサを見ること、話を聞くことはできる。オンラインで見聞きできるということは素晴らしいですが、オンラインでミサに参加できればいいというものでもない。問題は、それが本当に目に見えない神との出会いに役立ったかどうかですね。
 「聖書」はどうか。ある方は、「ミサにも教会にも行けない期間、家で聖書をよく読むようになった」という体験を語ってくれました。これも大切なことだと思います。昔からある方法ですが、聖書やいろいろな本を読むということをとおして、むしろ目に見えない世界に近づくことができるのです。
 「祈りや瞑想」が深まったという方もいらっしゃいます。ここにもただ聖体をいただくことやオンラインミサを見ているのとは違う大切さがあります。本当に人間を超えた、目に見えない世界に近づきたいのですから、そのためには、これも古くからの方法ではありますが、祈りや瞑想もたいへん役にたちます。

 大切なのは、わたしたちが神との、そしてキリストとのつながりを日々感じながら、そのつながりに支えられ、導かれて生きることです。目に見えるものがすべてであり、国家の力や経済の力が人を支配し、人と人とを分断させていくような世界の動きの中にあって、神を信じる者として、神と隣人を大切にして生きる、その喜びを深く味わい、その喜びを多くの人に伝えることができますよう、心から祈りましょう。



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年間第13主日



カリタス南相馬では7月から少しずつボランティアの受け入れを再開しようと準備をしています。
食卓用に、アクリル板(じゃなくて塩ビだそうです)のついたてを作ってもらいました。
黙って食事をするというのはどう考えても無理ですから。

●年間第13主日
 聖書箇所:列王記下4・8-11, 14-16a/ローマ6・3-4, 8-11/マタイ10・37-42
              2020.6.28カトリック原町教会
 ホミリア
 新型コロナ感染症の流行が始まってから、人と人との距離ということをずいぶん意識するようになりました。social distanceという言葉もよく使われています。social distanceとはどれくらいの距離のことか、はっきりしないですね。2メートルと言われたり、1.8メートルと言われたり、かと思えば「少なくとも1メートル」と書いてあったりもする。もっとはっきりさせてくれれば助かるのに、と思ってしまいます。わたしたちの聖堂での距離はどうでしょうか。ギリギリかも。
 「少なくとも1.2メートル以上の距離を取る」という言い方もあるそうです。調べていくと、この1.2メートルというのはpersonal distanceとsocial distanceの境目だという説明がありました。1.2メートルというのは、お互いに手を伸ばせば触れ合うことができるかどうかの境目であり、パーソナルな関係を持った人ならこれ以上近づいてもいいけれど、ビジネスの相手のような他人にはこれ以上近づいてほしくない距離ということのようです。「social distancing」というのはそういうこと。ある程度の親しさを表すような距離はダメ。パーソナルな関係を取れるような距離はダメ。それ以上の距離を取って人と関わるのであれば、ウイルスはうつらない、という考えですね。そう考えると非常に厳しいと思います。なぜなら人間はやはり、人との間に個人的に親しい関係を持ちたいと思いますし、それなしには人間とは言えないのではないか、とさえ思うからです。
 家族との距離というのも問題になっています。外出自粛で在宅の時間が増えたことによって、ドメスティックバイオレンスや児童虐待の危険が増してしまっている、という話があります。在宅勤務やリモート授業のために、夫婦や親子がいつも一緒にいるのに耐えられない、という家庭もあると聞きます。まあ家族にもそれぞれ事情があって難しいですね。

 今日の福音の言葉は、わたしたちにどんな光を与えてくれるでしょうか。
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 何よりも家族が大切、家族と自分のいのちより大切なものはない、そう思っているのが普通だとしたら、この言葉はぜんぜんありがたくない言葉です。でもイエスは家族よりも、身の安全よりも大切なものにわたしたちを招いていることは間違いないでしょう。
 イエスご自身の生き方を思い出してみましょう。イエスもある時、家族を捨てて家を出ました。そのとき、ヨセフはたぶん亡くなっていましたから、マリア一人を残して家を出てしまったわけです。その後のイエスの母に対する態度はとても冷たいものです。
 マルコ福音書では、イエスの母と兄弟姉妹がイエスに会いに来ると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟姉妹とはだれか」と答えています。ヨハネ福音書のカナの婚礼の場面では、「女よ、わたしとあなたにどんな関わりがあるのです」というような言い方をしています。どちらも突き放したような言い方です。イエスは、神はすべての人の親(アッバ)であると教え、すべての人はその神の子であり、互いに兄弟姉妹であるという世界を生きているのですから、自分の肉親の家族は後回しにしたと言わざるをえないでしょう。

 だからこそ、印象的なのはヨハネ福音書19章の十字架の場面でのイエスと母との出会いです。そもそもカナの婚礼の場面でもイエスは「わたしとあなたにどんな関わりがあるのです」と言ったあと、「わたしの時はまだ来ていません」と言っています。それはイエスの時、すなわち十字架の時にマリアに再び出会うということを予告する言葉だったとも言えるでしょう。十字架の場面にはマリアがいて、そこに一人の弟子もいます。母に向かって「これはあなたの子です」と言い、弟子に向かっては「これはあなたの母です」と言われました。ただ単に「これから母の世話を頼むぞ」というのではなく、マリアに「すべての弟子の母」としての使命が与えられたことだと考えられます。また、ルカ福音書の続編として書かれた使徒言行録の中には、イエスの昇天後、使徒たちとともに祈るマリアの姿が伝えられています。イエスが福音告知の活動をしている間、母マリアとの関係は絶たれていましたが、それは完全に絶縁するためではなかったのです。そうではなく違うレベルでもう一度会うため、と言えるのではないでしょうか。

 今日の箇所の言葉も完全に縁を切ることを命じているのではないでしょう。普通の親と子の関係でも似たことはあるのではないでしょうか。子どもは最初は親に密着しています。距離のない関係です。成長とともに少しずつ距離を取って行動するようになります。そして多くの場合、いつか家を出ていきます。進学や就職、結婚のためかもしれない。あるいは修道院や神学校に入るためかもしれない。親との距離はとても大きくなります。でもそれは絶縁ではなく、いつか別の仕方で出会うためと言えるのではないか。
 実はわたしは今、週のうち半分ぐらいは母の家で90歳の母と一緒にいます。前にも話しましたが、今年2月に起きた脳梗塞の後遺症で「高次脳機能障害」が残ってしまい、以前のような一人暮らしは難しくなってしまったからです。神学校に入るために家を出たのはもう40年も前のことですから、ものすごく久しぶりに母との距離が縮まっています。皆さんにはご不便をかけていますが、まあ、これもありかなと思っています。
 今日の福音の結びにこういう言葉がありました。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」今わたしは、母がわたしに一杯の水を飲ませてくれる、それくらいのことをしてくれるだけで、本当にありがたい、と喜べるようになりました。
 人と人との間に距離を置く。いろいろな事情で家族と距離を置くとか、感染症予防のために距離を置くということがあります。でもそれは関係を断ち切るためではない。距離を置くのは、もう一度本当に出会うため、そう思うことができたら、と思っています。


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年間第12主日



カトリック原町教会では、一般の会衆の参加するミサが今日から再開されました。
全員マスクをし、人と人との間に距離をとっています。消毒なども欠かせません。
会衆席はほぼ半数に減らし、ミサも7時と10時の2回にしました。
それでも久しぶりに再会できた方々はとても嬉しそうでした。

●年間第12主日
 聖書箇所:エレミヤ20・10-13/ローマ5・12-15/マタイ10・26-33
               2020.6.21カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今年の年間主日では、マタイ福音書が読まれていきます。四旬節・復活節の長い中断を経て、今日の箇所はマタイ10章の途中からです。マタイ福音書10章は、イエスが12人の弟子を選び、派遣するにあたっての長い説教という形ですが、その中のかなり大きな部分でイエスは弟子たちが受けることになる迫害について語ります。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」という16節の言葉に始まり、弟子たちが必ず迫害を受けると予告します。今日の箇所もその流れの中にあります。

 2000年の歴史の中で、キリスト者は確かに繰り返し迫害を受けてきました。キリスト教は最初の300年間、古代ローマ帝国の中にあって禁じられた宗教であり、厳しい迫害を受け、多くの殉教者を出しました。日本でも16世紀にキリスト教が伝えられてしばらくすると迫害が始まり、250年以上に及ぶ厳しい禁教の中で、おびただしい数の殉教者が出ました。今も世界各地で迫害を受けている兄弟姉妹がいます。キリスト教会をねらった爆弾テロはさまざまな場所で繰り返されています。政府から厳しいコントロールを受け、否応なくそれに従わされているキリスト者もいます。
 キリスト教はなぜ迫害されてきたのでしょうか、そして、今も迫害され続けているのでしょうか。もちろんその時代、その地域特有の問題があります。例えば、キリシタン時代の日本で言えば、キリスト教宣教とポルトガル・スペインの植民地政策と結びつきが疑われ、当時の日本人や日本の権力者にとって脅威と映ったから、というような理由もあります。しかし、もっと根本的な理由は何か。それを考えるときに、思い起こさなければならないのは、イエスご自身が迫害を受けたということです。なぜイエスは迫害を受けたのか、それと同じ理由がキリスト者が迫害を受けるもっとも根本的な理由であるはずです。

 イエスはなぜ迫害を受けたのか、それはイエスのメッセージと行動が当時の宗教的・社会的有力者たちの地位や利益をおびやかすものだったからです。当時の社会はローマ帝国という絶対的な力の支配下にあり、その植民地であるユダヤ人たちは圧迫を受けていました。その中で、しかし、ユダヤ人たちは自分たちこそは神の民であるという優越感を持ち、他の民族を蔑み、排斥する感情を持っていました。神殿とそれに結びついた有力者たちに富が集中し、貧しい人は打ち捨てられていました。自分たちこそは律法を忠実に守っていると考えた宗教的エリートであるファリサイ派・律法学者は、貧しい民衆を「律法を知らない、呪われたものたち」と見て、軽蔑していました。他にも、病気の人、障がいを持つ人、職業によって罪びとのレッテルを貼られ、神の救いから切り捨てられた人。その社会の価値観の中で一人前の人間として認められていなかった女性や子ども。

 そんな現実の中で、イエスは「神はすべての人の父(アッバ)である」と教えました。その神はどんな人も例外なく、すべての人を生かし、すべてのいのちを大切にしてくださる方だと教えたのです。
 そのメッセージは狭いグループ意識によって成り立っている世界、内輪の世界と外の世界を分け、自分たちさえ良ければ、と思っている人々の考えを打ち砕くものでした。
 それはまた、力によって人が人を支配する世界、結局のところ、お金や武力を持つものが、弱い人・貧しい人を支配するのがあたりまえという世界を打ち砕くものでした。
 さらに、人と人との比較や競争で成り立っている世界、人と人とを比べて、自分のほうがあの人より優れているという自己満足にふけったり、この人たちのほうがあの人たちより価値がある、という差別意識を抱くことを打ち砕くものでした。
 イエスはこのメッセージをただ言葉で語ったのではありませんでした。具体的な行動、特に打ち捨てられた人々との関わりをとおして、神がすべての人のアッバであり、すべての人は等しくその神の子、互いに兄弟姉妹であるというメッセージを伝えたのです。だから、イエスは迫害を受けました。

 イエスが迫害されたのなら、イエスの弟子たちも迫害を避けることはできません。イエスは迫害がなくなることを約束しません。しかし、今日の箇所でこう約束します。
 「29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 神はあなたがたを決して見捨てることはない。これがイエスの約束です。だから、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とおっしゃるのです。これも大きな約束です。
 
 さて、わたしたちは迫害されていませんよね。その理由は二つに一つだと思います。
 一つはわたしたちの周囲の人々がどこかでイエスのメッセージに賛成してくれているということ。すべての人は性別や能力や人種・民族・国籍の違いにかかわらず、すべての人に同じ尊厳があり、すべての人が尊重されるべきだというイエスのメッセージの根本を受け入れてくれているという理由。確かにそう感じることはたくさんあります。だとしたら本当にそれは素晴らしいことだと思います。感謝です。
 でももしかしたら別の理由かもしれません。それはわたしたちキリスト者がこのイエスのメッセージから離れ、そうでない考えに妥協しているから、という理由です。結局のところ、お金の力や軍事力への依存、ナショナリズムや民族主義、そういうすべてに妥協してしまっているから迫害されない、ということもありえます。いや、そんなことはない、と言い切れるでしょうか。今日の福音をとおして、イエスはわたしたちキリスト者の生き方を鋭く問いかけていると思います。


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キリストの聖体



仙台教区では7月4日までミサ中止となっていましたが、教区からの最新の指示によれば、感染対策の準備ができたところから、前倒しでミサを再開してよいことになり、原町教会では来週21日から通常のミサを再開することになりました。
写真は前後左右に距離を置くようにした聖堂の椅子の配置です(それほど大きな間隔は取れませんでした)。

●キリストの聖体(祭)
 聖書箇所:申命記8・2-3, 14b-16a/一コリント10・16-17/ヨハネ6・51-58
            2020.6.14非公開ミサにて
 ホミリア
 仙台教区からの新しい指針が昨日届き、原町教会では来週21日(日)から通常のミサが再開されることになります。もちろんいろいろな感染予防対策をとった上で、人数制限などもありますが。
 新型コロナウイルス感染症の流行のため、仙台教区では3月1日の四旬節第一主日の翌日から、一般の人の参加するミサが行えなくなりました。仙台教区では、ミサの代わりに短い聖体拝領の式が許されていましたが、それも全国的な外出自粛要請のために行えない時期がありました。この3ヶ月、多くのカトリック信者はミサに参加し、聖体をいただくことの意味を改めて考えてきたと思います。その上で、今日の聖体の祭日に、聖体の意味をご一緒に分かち合いたいと思います。

 今日、一緒に味わいたいのは、フランシスコ教皇の使徒的勧告『福音の喜びEvangelii Gaudium』の中の言葉です。それは、「聖体は秘跡的生活の頂点ですが、完璧な人のための褒美ではなく、弱い者のための良質な薬であり栄養です。」という言葉です。この言葉がどういう文脈で出てくるかを見ましょう。
 「47教会は、つねに開かれた父の家であるよう招かれています。・・・だれもが何らかのかたちで教会生活に参加することができます。だれもが共同体の一員となることができます。まして秘跡の門は、いかなる理由があっても閉ざされるべきではありません。これはとくに『門』である洗礼の秘跡について言えます」
 このあとに先ほどの言葉があります。「聖体は秘跡的生活の頂点ですが、完璧な人のための褒美ではなく、弱い者のための良質な薬であり栄養です」と。

 キリスト者の少ない日本ですが、主日のミサには必ずと言っていいほど、洗礼を受けていない方が参加してくださっています。これはありがたいことですが、ミサの聖体拝領のとき、カトリック信者でない人が聖体を受けることができないのをどうしても「排除」と感じることがあります。「なぜ洗礼を受けていない人は聖体をいただけないのか」でも本当は排除ではないのです。聖体はキリストとの一致のしるしであり、そこにすべての人は招かれています。その招きに応える最初の入り口=「門」は洗礼の秘跡なので、原則的には洗礼を受けてから聖体をいただくということになっているのです。洗礼の秘跡は教皇が言うとおり、すべての人に向かって開かれています。それでもミサの場面だけを見ると「排除」に見えてしまうかもしれません。そのため、「決して排除ではない、神はすべての人を招き、受け入れている」ということを感じてもらうために、日本では聖体拝領のときに、聖体をいただけない人を「祝福」をするという習慣が定着してきました。

 カトリック信者が聖体をいただくのは「特権」でも「ご褒美」でもありません。教皇によれば、それはむしろ「弱くて、聖体という薬と栄養を必要としているから」なのです。離婚を経験した人・再婚した人が聖体をいただいているのを見て、非難の眼差しを向けることがかつての教会にはありました。いや、今もなくなっていません。ある場合は、教会法で認められていないケースにあたるかもしれません。しかし、罪ある人、教会法に適わない人は聖体を受ける資格がない、という見方で人を非難するのが本当に福音の教えに合っているかどうか、問い直したいと思います。はっきりしていることは、「イエスは罪人のために世に来られた」ということ、「聖体は罪人のためにある」ということです。
 『福音の喜び』48番にはこうあります。「教会は例外なくすべての人のもとに行き着かなければなりません。しかし、だれを優先すべてきでしょうか。福音書の中に、非常に明確な指針が示されています。友達や近隣の金持ちではなく、むしろ貧しい人や病人です」

 この点で最近ちょっと気になることがあります。それはある教区で、公開のミサを再開するにあたり、「高齢者は来ないように」という指示を出していることです。ミサを再開する以上、そのミサはすべての人に開かれていなければなりません。「発熱や咳などの症状があって、感染の疑いのある人は来ないでください」というのならわかります。しかし、他の人を害する危険がある、ということ以外の理由で、ミサから誰かを排除することはあってはならないはずです。「高齢者は来ないように」というのは、高齢者が他の人を感染させる恐れがあるからではありません。高齢者が感染した場合、本人が重症化する可能性が高いからだというのです。もちろん、それは心配です。引き続きミサにあずかる義務は免除されますと言って、家で祈ることを勧めるべきかもしれません。その上で、病人の聖体拝領をできるだけ受けられるよう配慮します、と言ったらいいでしょう。でも「ミサに来るな」と言うことはできないはずです。
 あえて言います。高齢者をミサから排除するくらいなら逆に、「高齢者と付き添いの人以外はミサに来ないように」と言うべきではないでしょうか。高齢者に感染させる恐れがあるのは、どちらかと言えば若い人々だからです。

 今こうして非公開でミサをしています。これは本来はありえないことです。イエスはすべての人のためにいのちをささげてくださいました。イエスはすべての人のために聖体のパンとぶどう酒を残してくださいました。ミサを非公開で行なっているのは新型コロナウイルスからいのちを守るための、止むを得ない、緊急の例外的な措置なのです。
 来週からは通常のミサが再開されます。今日のミサの中で、そして再開されるミサの中で、聖体に込められたイエスの思い、すべての人を、特に弱く貧しい人を招き、共にいて力づけてくださるイエスの思いを、わたしたちが深く受け取ることができますように。アーメン。
 

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三位一体の主日



「鯵のたたき」のつもりが「鯵のつみれ揚げ」になってしまいました。
でも美味でした!

●三位一体の主日(祭)
 聖書箇所:出エジプト34・4b-6, 8-9/二コリント13・11-13/マタイ13・44-46
          2020.6.7非公開のミサにて
 ホミリア
 昨日スーパーに行ったら、大きめの鯵が1匹100円で売っていました。買い物の予定外でしたが、これを見てしまったら買わずにはいきませんでした。鯵を食べたいというよりも、たまには魚を調理したい、というほうが強かったのかもしれません。魚をおろすのは慣れの問題なので、時々やっていないとうまくできなくなります。鯵は「たたき」にしようと思ったのでが、思ったより鮮度が良くなかったので、「つみれ揚げ」にしました。ところで、このように魚を調理するために切り分けることを「魚をさばく」と言いますね。「紙をさばく」という言い方もあります。コピー用紙なんかをパラパラして間に紙の間に空気を入れることです。「さばく」という大和言葉は「一緒になっているものを分ける」という意味合いなのだと、昔どこかで読んだ記憶があります。
 「神の裁き」というときの「裁き」も元々は善と悪がはっきりしないで一緒になっているところをはっきり分ける、白黒つける、きちんと判決を下す、という意味だったのでしょう。だから良い判決を下されることもあるのですが、日本語で「裁き」というとどうしても良くないイメージになりがちです。確かに「裁く」という言葉が「断罪する」という意味で使われることも多くて、そのイメージがどうしても強くなってしまうようです。同じことは実は聖書の中の「裁く」という言葉にもあてはまります。

 今日の福音には「裁く」という言葉が何度も出てきます。
 17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」これはまさに「断罪する」の意味で、神は世を断罪するためにイエスを遣わしたのではない、と言います。
 18節「御子を信じる者は裁かれない」はやはり「断罪されない」という意味です。「信じない者は既に裁かれている。」の「裁き」はやはり「断罪される」の意味でしょうか? それともちょっと違うようです。続く箇所が大切です。
 「19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 神がその人を罪に定めるとか、断罪する、というのではないのです。闇の世界に、イエスは圧倒的な光として来られた。その光を受け取るか、それとも光に背を向けて闇の中に留まるか。それがそのまま裁きになる、すなわち救われない状態なのだというのです。神がこの人には光、この人には闇を割り当てる、そんな裁きじゃないのですね。
 イエスは圧倒的な光としてこの世に来た。これがヨハネ福音書の確信であり、キリスト教の確信です。その光を受け入れて、その光の中を歩もう。これがキリスト教です。
 イエスのもたらした光、それはわたしたちが皆、神の子であり、神はわたしたちを限りなく大切にしてくださる方。その方からわたしたち一人一人は「お前は生きていていい。お前が生きていることは素晴らしい。わたしはお前のいのちを望み、お前が生きることを喜びとする」と語りかけられている。だから、すべての人がかけがえのない存在であり、人種・民族・国籍などによらず、すべての人が同じ尊厳を持っている、そう信じてお互いを大切にし合おう。これこそイエスがもたらしたものであり、これこそが光です。

 一方で、現実の世界は闇に閉ざされていると感じることも少なくありません。新型コロナウイルスは闇ではないと思います。確かに深刻な問題だし、悲惨なこともたくさんあります。でもその中で必死にいのちを守ろうとしている医療関係者の姿があったり、少しでも助け合おうという人々の姿を見たときに、そこには光があります。コロナウイルスそれ自体が闇なのではない。そうではなく、このコロナの状況の中で、政治権力やお金の力が人と人とを引き裂いていく、これこそが闇だと感じます。
 言論の自由を奪い、反対する者を力で押さえつけようとする独裁的な政府もあります。
 人々の分断をあおって、選挙に勝ちさえすればいいという大統領もいます。
 何をやっても、ウソと利権がらみの構造ばかりが出てくる政府があります。
 人類の共通の問題として、すべての人が一緒になって取り組まなければならないはずのときに、まだ自分たちの権力や利権ばかりを求めている世界。そこにすごい闇を感じます。いや、キリスト教だって、2000年の歴史を見れば、そんな闇の力に引きずられていったことが何度もありました。
 
 しかし、イエスはまことの光として来られたのです。わたしたちはそのことを信じます。十字架でわたしたちのためにいのちを差し出してくださったイエスこそがわたしたちの光です。そして、あのイエスがなさったすべてのことは、あれはイエスが一人で勝手にしたことではない、永遠の父である神ご自身がイエスをとおしてあの救いのわざをなさったのです。今日の福音の言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という言葉はそのことを宣言しています。神ご自身の愛の最高の現れがイエスの生涯であり、十字架の死であり、復活だったのです。そしてその神は今も、聖霊というかたちで、わたしたちにご自分のすべてを与え続けている。聖霊という形で一人一人の中にとどまり、わたしたちを支え、わたしたちの中で働き、わたしたちを導き続けている。
 そう信じて、世の光であるイエスを見つめ、闇から光に向かって日々歩み続けることができるよう、このミサの中で祈りたいと思います。


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