毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第11主日



写真は今朝のカリタス農園。
このところの寒さが心配で、見に行ってきました。
だいじょうぶ!
さつまいも他、順調に育っています。

●年間第11主日
 聖書箇所:エゼキエル17・22-24/二コリント5・6-10/マルコ4・26-34
         カトリック原町教会
 ホミリア
 さゆり幼稚園では、今年、さつまいも掘りが行われることになりました。八年ぶりのことです。震災前は行われていたそうですが、震災後、子どもたちが土に触れること、この地で採れたものを食べることは考えられなくなり、芋掘りもずっとできませんでした。しかし、8年目の今年はもう大丈夫ということになり、萱浜のカリタス農園(放射線量が低いところです)で芋掘りをすることになりました。先日、年長さんたちがそのお芋の苗を植えるという体験もしてきました。収穫までに一度みんなで見に行き、秋には皆で収穫して、焼き芋を食べるということになっています。カリタス南相馬は責任重大で、なんとか無事にお芋ができるように祈るような思いで見守っています。
 子どもたちがそうやって、植物の成長を見守ることができるのはすばらしいことだと思います。人間の力で何でもできるのではない。時間をかけて、自然の力で植物は成長していく。そしてその背後には目に見えない神様の働きがある。そのことを驚きをもって感じてくれたらいいと思っています。
 さて、今日の福音は植物の成長のたとえです。「人の知らないうちに、土はひとりでに実をを結ばせる」「からし種は蒔くときは小さいが、成長すると大きな木になる」イエスはどんなときにこのたとえを語られたのでしょうか。

 イエスの根本的なメッセージは「神の国は近づいた」というものでした。
 「神の国」の「国」はギリシャ語で「バシレイア」と言い、もともと「バシレウス=王」という言葉から来ています。英語で言えば、kingに対するkingdomにあたる言葉です。だから本当は「王国」と言ったほうが正しいのです。ただ現代では「王国」というイメージがあまりピンと来ないので、「神の国」と訳されています。でも本当はこの「王」のイメージは大切。神の国とは地理的な国というよりも、「神が王となってくださること」と言ってもよいからです。
 イエスの時代、パレスチナに王はいませんでした。イエスが誕生したときは、ローマ帝国の傀儡のようなヘロデ大王という人が一応はいましたが、イエスの活動した時代には、もう王と呼ばれる人はいなくなっていました。パレスチナを支配していたのはローマ皇帝でした。でもイスラエルの人々は本当の王は神だと思っていました。いつか本当に神が王になってくださる、そして自分たちをローマ帝国の支配から解放してくださる。その期待を持っていました。
 ですから、イエスが神の国の到来を告げた時、神が王となってくださると告げたとき、人々はいよいよローマ帝国との戦いのとき、ローマ軍を追い払って、自分たちが独立を回復するときが来たというメッセージに聞こえたのではないでしょうか。

 でも現実にイエスのまわりで起こっていることは、小さなことでした。イエスの福音の呼びかけは次のようなものでした。「神は王となってくださる。神はお父さんと呼べる方であり、どんな人も例外なく大切にしてくださるかた。その神はあなた方一人一人を決して見捨てることなく、救いに近づいて来てくださる」イエスは人々にそう語りかけました。そのメッセージに答えて大勢の人々がイエスの周りに集まって来ました。でもそれは屈強は男たちというのではなく、むしろ、病人や障害者、女性や子どもたちでした。
 「神の王国と言っても、こんな人々で何になるのか」
 そういう疑問はイエスに従う人たちの中からも起こったでしょう。

 そんな状況の中で今日の福音のたとえ話が語られたと考えてみたら、ものすごくよく分かるのではないでしょうか。
 植物の種は人間が知らないうちに成長する。からし種は最初は小さいけれど、最後にはものすごく大きな木になる。神の国もそうだ。今はほんとうに小さな、弱々しい存在でしかないかもしれない。でも種が本物で生きていれば、それは大きく成長する。人間の力で成長させるのではない。神が成長させてくださるのだ。

 わたしたちはここ福島県浜通り北部に神の国の種を見つけたいのです。過疎高齢化は震災前からあったでしょう。地震、津波、原発事故によって大きなダメージも受けました。今も受け続けている面があります。身近な人を亡くされた方も少なくありません。家、仕事(農業や漁業)といった生活の基盤を奪われた人もおおぜいいます。多くの地域コミュニティー、多くの家族の絆も壊されてしまいました。
 でもここで素晴らしいことが起こっているのも事実です。原町の人、相馬や鹿島の人、小高や浪江の人、それぞれの置かれた場で、なんとか地域を、人間を、人の心を復興させたい、そのために人と人とのつながりを取り戻したいと願って働いている人と出会います。仏教やプロテスタント・キリスト教会の方も含めて多くの人に出会います。そして、ここにわたしたちの小さなキリスト教共同体があります。原町教会とカリタス南相馬、さゆり幼稚園があります。ここで傷つき、奪われた人と人とのつながりを少しでも取り戻していきたい。人と自然、人と神とのつながりも取り戻していきたい。そう願ってわたしたちは集まっています。
 これが神の国の芽生えです。
 なんてちっぽけな、なんて弱々しい。確かに人間の目から見たらそのとおりです。でも「種が本物で生きていれば、必ず神が成長させてくださる」そう信じて、わたしたちは種を蒔き続けるのです。その種を神が大きく成長させてくださるよう、今日のミサの中で、信頼をもって祈りましょう。


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年間第10主日



南相馬市小高区、常磐線桃内駅の近くの水田です。
福島第一原発から20km圏内のこの地域は、避難指示が解除されてから2年が経ち、田んぼも少しずつ復活してきています。

6月16日(土)14:00-15:30船橋学習センター・ガリラヤで、
「福島の今、日本の未来〜原発事故から何を学び、どう生きるか〜」という講演をさせてもらいます。
来てくださると嬉しいのですが、申し込みが必要なようです。
こちらからどうぞ。

●年間第10主日
 聖書箇所:創世記3・9-15/二コリント4・13〜5・1/マルコ3・20-35
     2018/6/10カトリック原町教会にて
 ホミリア
 第一朗読は、創世記3章の物語からとられています。最初の人間が神に背き、罪を犯してしまったという話です。エデンの園で、人は地を耕し、作物を育て、神は人に豊かな食べ物を与えていました。人とその妻は何不自由なく暮らしていました。アバムとエバと呼ばれるようになる最初の人間、この二人の関係も良いものでした。神と人、人と人、人と自然、すべて調和の取れた理想的な状態がそこにありました。
 そこに誘惑が忍び寄ります。「蛇」は誘惑するもののシンボルです。神がこれだけは食べてはいけない、と言っていた食べ物を食べさせようとするのです。それを食べれば、神のようにすべてを知ることができるようになる。そう言って誘惑します。人はその誘惑に負けてしまうのです。その後の場面が今日の第一朗読の箇所です。

 「あなたの足音が聞こえた」とアダムは言います。神さまがエデンの園を散歩している、という、素朴な物語のような描き方です。人はその神の足音を聞いて、恐ろしくなり、木の陰に隠れるのです。それまで人は神を恐ろしいと思っていなかった。神の前に裸で立つことができた。しかし、神に背き、神から離れてしまったとき、神の前に自分のありのままを晒すことができず、我が身を隠そうとするのです。罪を犯した人間の悲しい姿がそこにあります。「食べたのか」そう問われたアダムは「はい、食べました」と言えばいいのに、「女が与えたので、食べました」と言います。責任逃れのよう? さらにその女について、「あなたがわたしと共にいるようにしてくれた女」と言います。そもそも神様、あんたが悪い、あんたがあんな女をわたしに押し付けたから、わたしは食べちゃったんです。どこまでも責任逃れしているように聞こえます。これも罪を犯した人間のあわれな姿です。
 こうして、神と人、人と人との関係がおかしくなる。本来、良い関係だったはずなのに、人間がそれをおかしくしてしまった。このおかしくしてしまった関係をどう取り戻すのか、これが聖書全体のテーマだと言ったら良いと思います。

 今日の第一朗読の後半は、人間を誘惑した蛇に対する裁きの言葉です。蛇は人間を誘惑した罰として呪われた存在になるというのですが、それに続いて、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」と言われます。謎めいた言葉ですが、これを「原始福音」と言うことがあります。最終的にいつか再び、蛇(=悪の力)と人間との間に決定的な戦いが起こる、ということを予言している言葉だと考えられるからです。
 イエスは神の国を告げ知らせる活動を始めるにあたって、40日間、荒れ野で誘惑と戦い、それに打ち勝った、と福音書に伝えられています。もっと大切なのは、十字架上での誘惑です。「神の子なら、十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」その誘惑をイエスは退けけられました。イエスが悪に、誘惑に打ち勝った道はこれでした。イエスこそがすべての誘惑に打ち勝ち、悪に対して決定的は勝利を示された方、新約聖書はそう証言します。

 でも一方ではそのイエスを見て、イエスが悪霊に取り憑かれている、という見方があった、というのが今日の福音の箇所です。どういうことでしょうか。
 当時、病気は悪霊の働きという見方が強くありました。特に精神障害のように、人と人のコミュニケーションがとれなくなったような状態を見たときに、人間の力を超えた悪の力(悪霊)が働いていると考えられていました。イエスはそういう人々をいやしたのですから、悪に打ち勝ったと考えられて当然でした。
 でもそうとは限らなかった、イエスを受け入れなかった人々がいました。それは「エルサレムから来た律法学者」と今日の福音でいわれるような、当時の社会的・宗教的なエリートたちでした。当時のユダヤ社会には、律法による人のランク付けがありました。人として優れているのは、律法を学び、律法を守っている人。そこに入らない人たち、女性、子ども、外国人は神から程遠いと見なされていました。病人や障害者、さらに貧しい人は、何らかの罪の結果そういう不幸に見舞われていると考えられていたので、ほとんど罪びと扱いされていました。あるいは、そのような病気や貧困の状態では律法を学ぶことも、守ることもできないからどうせ罪びとだ、という見方もありました。それが当時の当たり前の見方でした。その上にユダヤ社会の秩序は成り立っていたのです。

 イエスはその秩序を壊してしまいました。なぜなら父である神はどんな人も例外なく、ご自分の子として大切にしてくださっている、それがイエスの確信だったからです。
 イエスのまわりに集まってきた人々についてマルコ福音書はこう言っています。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せてきた」(マルコ3・10)イエスの周りにはそういう人々が集まっていました。病気の人、貧しい人、職業的に罪びとのレッテルを貼られていた人、社会的に低く見られていた女性や子どもたち。今日の福音はそういう中でのイエスの言葉です。イエスは「周りに座っている人々を見回して言われた」とあります。
 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
 「神の御心を行う人」と言いますが、その人々がしたことは、律法にかなう立派な行いではありません。イエスの呼びかけに応え、父である神のいつくしみとゆるしに信頼し、イエスの周りに集まってきただけです。その人々に向かって、「あなたがたはわたしの兄弟姉妹」と言ってくださいました。イエスは今日もここに集まるわたしたちにそう言ってくださる。フィリピンから来た人、タイから来た人、中国から来た人、日本のあちこちから来た人、男も女も、大人も子どもも。その一人一人に向かって、イエスは「あなたはわたしの兄弟、あなたはわたしの姉妹」と言ってくださる。その喜びを、そのありがたさを深く感じながら、ミサを祝いたい!!!




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キリストの聖体



さゆり幼稚園では、震災前に行なっていたイモ掘りを昨年まではすることができませんでした。
この地域で子どもが土に触れたり、畑で採れたものを食べるということには不安があったからです。

今年、8年ぶりにイモ掘りを行なうことになり、先週、園児たちも参加して、サツマイモの苗を植えました。

これがその畑、われらがカリタス農園です!

●キリストの聖体の祭日
 聖書箇所:出エジプト24・3-8/ヘブライ9・11-15/マルコ14・12-16, 22-26
       2018.6.3カトリック原町教会
 ホミリア
 「キリストの聖体」と言っていますが、この祝日の本当の名前は「キリストの最も聖なるからだと血の祭日Sollemnitas Sanctissimi Corporis et Sanguinis Christi」です。「血」というのはわたしたち日本人には馴染みにくいので、ただ「聖体」というようになってしまったのでしょうか。
 でも「血」は大切。今日のミサの3つの朗読すべてに出てきます。
 第一朗読はシナイ山で神とイスラエルの民の間に契約が結ばれる場面。エジプトの奴隷状態から神によって救われた民に、救われた民としての生き方を示す律法が与えられ、それを守ることによって、神との特別親しい関係を生きるようになる。これがシナイ契約と言われるものです。雄牛の血をとって、半分を神のシンボルである祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけます。こうすることによって契約が結ばれました。牧畜民族の中で契約は「血」と結びついていました(日本にも昔、「血判、血判状」というのがありましたが)。「この契約を破ったら、血ぃ見るで」みたいな感じでしょうか、「血の報復」というイメージがありますが、とにかく、その契約が命がけのものであることを表していたのです。これがもともとの「契約の血」のイメージだったのでしょう。
 第二朗読はヘブライ人への手紙。キリストは「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」決定的な救いは、イエスの十字架の血によって成し遂げられたというのです。
 そして福音はマルコ福音書で、最後の晩さんの席での聖体の制定を伝える箇所です。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」わたしたちが毎回ミサの中で聞いている言葉です。

 今日は特に第二朗読に注目したいと思います。こういう言葉があります。
 「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブライ9・14)
 ちょっと分かりにくいです。「良心」と訳された言葉は確かに後に「良心」の意味にもなりましたが、元々は「意識、自覚」という意味の言葉です。「心の働き」と言ってもいいと思います。イエスの血はわたしたちの心の働きを清める、というのです。あのイエスの十字架の愛が迫ってきたときに、わたしたちの心が変えられていくのです。
 ヘブライ人への手紙にはこういう箇所もあります。
 「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない』という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、『わたしはおびえ、震えている』と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(12・18-24)
 キリストによってもたらされたものは、旧約よりもはるかに素晴らしいものだというのですね。ここで「アベルの血」というのは、創世記4章で兄弟カインに殺されたアベルのことです。神は弟を殺したカインにこう言いました。
 「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(10-12節)
 アベルの血は、恨みと呪いの血です。そして、なぜキリストの血がアベルの血にまさるかと言えば、それは「愛の血」だからです。
 同じように、キリストの血は、シナイ山の契約締結の儀式で使われた雄牛の血にもまさるのです。古い契約の血は、それを破れば、恐ろしい血の報復が待っているということを表す血でした。でも新しい契約の血は、キリストがすべての人を愛して、その人々の救いのために流された愛の血なのです。

 わたしたちは毎回ミサをとおして、聖体のパンとぶどう酒をとおして、このキリストの血に、キリストの愛に触れているのです。そのキリストの愛がわたしたちの心を清めるのです。「これはあなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる、新しい永遠の契約の血である」いつもミサの中で司祭はそう言います。今日のマルコ福音の日本語訳で言えば、「わたしの血、契約の血」です。このキリストの血がわたしたちの心に迫って来ているのです。
 毎週のことで、いつの間にか、ミサも聖体拝領もマンネリになってしまっているかもしれません。でも、もう一度本気で受け取り直しましょう。ミサの中で、イエスの血に、イエスの愛にじかに触れさせていただきたいのです。そのとき、わたしたちの心は変えられていきます。
 長い道のりです。キリストの愛から程遠いわたしたちがキリストの愛に近づいていくのですから。でも、あきらめないで歩んでいきましょう。一生かかってもいいんです。少しでもキリストの愛に近づくことができれば。
 そのための糧が聖体の秘跡です。


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三位一体の主日



聖霊降臨の主日には、仙台教区元寺小路カテドラルで合同堅信式がありましたが、仙台まで行けなかった方のために、三位一体の主日に原町教会で堅信式を行いました。
お祝い会のメニューが心配で、早起きして、パエリアを作ってしまいました。
なぜかその写真しかありません。あしからず。
(使っている米はもちろん福島県産「天のつぶ」です)

●三位一体の主日・堅信式ミサ
 聖書箇所:申命記4・32-34, 39-40/ローマ8・14-17/マタイ28・16-20
       2018/5/27カトリック原町教会
 ホミリア
 「ケンシン」と聞いて、あるプロテスタントの方は「カトリックでは、洗礼を受けた後に、ケンシンするんですか」と驚かれました。その方の言う「ケンシン」は「献身」(身をささげる)のことで、その方は、洗礼を受ける前に自分を神にささげる「献身」のチャンスがあったと言っておられました。カトリックでいう「ケンシン」は「信仰を固める、堅固にする」と書く堅信ですね。
 もともと堅信の秘跡は、洗礼の秘跡と一つの秘跡だったとも言えます。人がキリスト者になるしるしが洗礼です。大人がイエス・キリストを知り、「キリストを信じます」と言って受けるのがはじめの時代の洗礼でした。そこにはイエスの弟子として、教会の使命に参加するという面が当然のようにありました。しかし、キリスト者が多くなって行くと、子どもたちもできるだけ早くからキリスト者として、教会のメンバーとして受け入れようということで、幼児洗礼の習慣が広まりました。そこで洗礼は赤ちゃんのときに受け、大きくなってから、その信仰を自分のものとして受け止め直す機会として、堅信の秘跡を受けるということが行われるようになっていきました。現代のカトリック教会では、大人の洗礼の場合、洗礼と同時に堅信の秘跡を受けるのが原則になっています。ただし、大人で洗礼を受けた人が信仰生活を歩み始めてから、しばらくして、その信仰をもっと確かなものとして固めるために、堅信を切り離して行うということもあります。この教会ではそうしてきたようです。

 そこから考えれば、堅信の秘跡のテーマはキリストの弟子として生きるということになります。ただ単に、神を知り、キリストを信じ、神の子どもとして歩む、というよりも、もっと積極的にイエスの弟子として、イエスに従い、イエスから派遣された者として生きていくということを堅信の秘跡は表しています。
 先週の聖霊降臨の主日のテーマはまさにそれでした。
 福音書によれば、イエスの弟子たちはイエスが逮捕された時、皆、イエスを見捨てて逃げてしまった弱い人々でした。その弟子たちは、死に打ち勝ち、新たないのちを生きておられるイエスに再会し、喜びに満たされ、立ち上がりました。その弟子たちが、イエスの弟子としてもう一度新たに歩み始めたのがこの聖霊降臨の日のことでした。その日から、彼らは「神の偉大なわざ」を語り始めたのです。その日からずっと彼らは聖霊という神の力に励まされ、力づけられて、イエスの弟子として歩んでいくことになりました。
 今日の福音はマタイ福音書の結びの箇所です。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」この力強い約束でマタイ福音書は結ばれています。これもほとんど同じ体験を表しています。ガリラヤの山で、復活したイエスに出会い、そのイエスから派遣されるのですが、弱い人間である弟子たちを励ますのが、「わたしはあなたがたと共にいる」という約束なのです。聖霊がわたしたちの中にある。イエスが一緒にいてくれる。聖霊が強めてくれる。だからイエスの弟子として歩んでいける。これが堅信の秘跡の表していることです。

 イエスの弟子として生きる、というのは今のわたしたちにとってどういうことでしょうか。弟子とは、イエスに従い、イエスにならって生きる人のこと。あのイエスが、生涯をとおして父である神に信頼し、最後の最後まで出会ったすべての人を愛したように、わたしたちも神に対する信頼と人に対する愛をもって生きる。簡単に言えばそれだけです。
 わたしたちは「自己責任」ということが強調される世界に生きています。自己責任というのも確かに必要な面があります。自分の努力、自分の責任で、きちんと生きて行かなければならない。たしかにそれも大切なことです。
 でも自己責任ばかりが強調されると問題もあります。自分の努力でうまく行っていればいいのですが、うまくいかないこともあります。病気になったり、仕事がうまく行かなかったり、人間関係で傷ついたり、たいへんなこともいろいろあります。そういうときに、自分はダメだと落ち込んでしまう。自己責任がすべてではないのです。神様はどんな時も必ずわたしたちを守り、必ず良い方向に私たちを導いてくださると信じる。だからどうにもならない部分は神にゆだねて、自分はダメだと落ち込まないで、精一杯生きていくことができる。これはイエスの弟子の生き方の特徴だと思います。
 自己責任が強調されると、うまく行っていない人を見たとき、「あの人はダメな人だ」と感じてしまうこともあります。いろいろ厳しい問題を抱えている人に、それはあなたの責任だ、あなたに問題があるからだ、と言ってしまうのは、酷です。他人をダメだと決めつけない。これもとても大切なこと。
 「自分をダメだと決めつけない、他人をダメだと決めつけない」単純すぎるかもしれませんが、神に信頼し、人を大切にして生きる、イエスの弟子として忘れてはいけないことだと思います。

 堅信の秘跡を受ける人にいつもお願いしていることがあります。それは「祈りと聖書と共同体」この三つを大切にしてください、ということです。
 祈り。一日を神への賛美で始め、一日を神への感謝で終わる。そうすることによって、わたしたちの毎日は、神がともにいてくださる生活になります。
 聖書。イエスの姿を見つめる。2000年前に生きたイエスの言動を見つめ、イエスの声に耳を澄ます。それがわたしたちに対する確かな導きになります。
 そして共同体、平たく言えば信仰の仲間、信仰の友。わたしたちはたった一人でイエスの弟子としての道を歩んでいくのではない、誰かと一緒に支え合い、励まし合いながら、信仰の道を歩んでいく。
 「祈りと聖書と信仰の仲間」この三つに支えられながら、今日堅信の秘跡を受ける方々が、イエスの弟子として生涯歩み続けることができますよう、心を合わせて祈りましょう。



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2018年6,7月の予定



「磐城寿」で知られる鈴木酒造は、浪江町請戸の酒造でしたが、東日本大震災の津波で蔵を流され、福島第一原発事故の警戒区域となり、今は山形県長井市で酒造りをしています。その鈴木酒造が福島への愛を込めて、福島県の新しいブランド米「天のつぶ」を使って作った酒があります。「天のつぶ」は酒造用の米ではなく、食用の米ですが、この「生酒」が驚くほどおいしいのです。

というわけで、天のつぶを食べてみたいと思って。お米のほうも購入しました。こちらもおいしかったです。ちなみに生酒も米も原町のJA直売所で手に入れました。

以下、わたしの予定と原町教会での主なミサの予定です。
どこかでお会いできることを楽しみに・・・

6月3日(日)キリストの聖体10:00原町教会ミサ
6月8日(金)イエスのみ心7:00原町教会ミサ
6月10日(日)年間第10主日10:00原町教会ミサ
6月16日(土)14:00-15:30船橋ガリラヤ講演会「福島の今・日本の未来〜原発事故から何を学び、どう生きるか〜」
6月17日(日)年間第11主日9:00原町教会ミサ(ミサ後、太田道子氏勉強会)
6月24日(日)洗礼者聖ヨハネの誕生10:00原町教会ミサ14:00大河原教会ミサ

7月1日(日)年間第13主日10:00原町教会ミサ
7月8日(日)年間第14主日10:00原町教会ミサ
7月10日(火)レジオマリエ黙想会「死を超える希望」(四谷ニコラバレにて)
7月15日(日)13:00ミサがわかるセミナー(麹町聖イグナチオ教会にて)
      (原町教会10:00ミサは瀬本正之師。ミサ後、講演会も)
7月22日(日)年間第16主日10:00原町教会ミサ 14:00大河原教会ミサ
7月29日(日)年間第17主日15:00原町教会ミサ(野馬追祭りの交通規制のため)

日曜日、原町教会10時のミサを幸田が司式するときは、9時から聖書講座も行っています。
これ以外の平日は、朝7:00からミサ(司祭不在のときは「ことばの祭儀」)があります。ミサかことばの祭儀か、などのお問い合わせはカリタス南相馬(TEL 0244 26 7718)まで。

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