毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第6主日のミサ



熊本の慈恵病院で「こうのとりのゆりかご」が始まってから、ちょうど10年です。

わたしが訪問したのは2年前のことでした。これはそのときの写真です。

●復活節第6主日・世界広報の日
 聖書箇所:使徒言行録8・5-8、14-17/一ペトロ3・15-18/ヨハネ14・15-21
              2017/5/21カトリック原町教会
 ホミリア
 熊本にある慈恵病院は、もとはマリアの宣教者フランシスコ修道会(FMM)のシスターたちが始めた病院でしたが、今は修道会が母体ではなくなり、蓮田先生というカトリックの医師が院長(現在は理事長)になりました。ご高齢で健康が心配ですが。
 この病院は「こうのとりのゆりかご」で有名になり、わたしも一度そこを訪問したことがあります。新築した産婦人科のビルがとても立派な病院でした。その一角に「こうのとりのゆりかご」があります。赤ちゃんを産んだけれど、どうしても育てることができない、という母親がそこに匿名で赤ちゃんをあずけることができる場所です。赤ちゃんをそんなところに預けていいはずがない。でもそれがなければ遺棄され、死んでしまう赤ちゃんがいる。その赤ちゃんのいのちをなんとか救いたい。という蓮田先生の思いから、今からちょうど10年前の2007年5月、熊本市から許可を受けて始めました。
 日本では「赤ちゃんポスト」と呼ばれることがあって、親が簡単に養育放棄することにつながるというような批判もありましたが、話を聞いて本当に素晴らしい働きをしていると感じました。

 「こうのとりのゆりかご」に赤ちゃんを預けるのはほんとうに最後の手段で、それ以前に「赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」ということをしています。24時間、予期しない妊娠して苦しんでいる女性の相談を電話で受け付けるのです。全国から電話がかかってくるそうです。必要な支援につながって、「こうのとりのゆりかご」まで至らずに、なんとか赤ちゃんのいのちを救うことができたというケースも多くあるとのことでした。
 蓮田院長の講演を聞いたことがあります。そこで蓮田さんが嘆いていたのは、「こうのとりのゆりかご」は子どもを望んでいる夫婦との間で養子縁組をするために預かるのに、児童相談所は実の親を探してその親に返そうとする。育てる気もなく、育てられない親に無理やり押しつけるより、養子縁組のほうがよほどよいのではないか。また欧米では施設の子どもたちを養子として育てようとする家庭が結構あるそうですが、日本で施設に預けられる子どもの数が年間3000人以上いるのに、「特別養子縁組」によって子どもが家庭に迎えられるのは、年間わずか400組だそうです。

 今日のイエスの言葉を読んで、この「こうのとりのゆりかご」のことを思い出しました。イエスは今日の箇所で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束されます。弁護者であり、真理の霊である聖霊を遣わす。わたしがあなたがたのうちにいる。だから決してあなたがたはみなしごにはならないのだ、とイエスはおっしゃるのです。
 神はわたしたちを一人ぼっちで孤立無援にはしておかない、わたしたちは神がそういう方だと信じています。慈恵病院の取り組みもその信仰から出発しています。神はわたしたちすべての親であり、どんな小さないのちもいつくしみをもって見守り、そのいのちが生きることを望んでおられる。そう信じるところから「こうのとりのゆりかご」の取り組みは始まったのです。

 本当に神がわたしたちの親だということを深く受け取りたいと思います。神が親であって、どんな時もわたしたちを見捨てることがない、そう信じるからこそ、現実の親や家族や親しい人とのつながりが、その人たちの存在がありがたく思えるのだと思います。人間にすがるだけなら、もちろん赤ちゃんのときは親にすがることが必要ですが、その関係はいつか終わってしまうでしょう。神がほんとうの親であると信じるから、日々、人との関わりの中でわたしたち人間同士、お互いに誠実に、信頼し合いながら、支え合って生きることができるのです。
 きょうの箇所で「わたしを愛しているならばわたしの掟を守る」とイエスは言います。イエスの掟は「互いに愛し合いなさい」、それしかありません。本当に神がわたしたちすべての者の親として、わたしたちすべての者をいつくしんでくださるのですから、わたしたちもその神のいつくしみを人に届けるものでありたいと願います。

 もう一つ大切なことは、神はわたしの親だけでなく、すべての人の親だということです。自分たちのグループと他のグループ。自分たちと同じ考えの人と別の考えの人。自分の国とよその国。最近どんどんそうやって人と人の区別を強調することがひどくなっているように感じています。その中で味方が多ければ安心できる。味方が強ければ安心できる。さらにそのわたしたちのグループに、わたしたちの国に、神様がついていてくれたらもっと心強い、、、でもそれは自分たちが独占している神様ですね。イエスの教えた神様はそんな神様ではなく、すべての人の父です。だから自分たちに神がついていてくれて、他の人はみなしごになろうが、どうなろうがかまわない、ということはありえません。わたしたちは全ての人の親である神を信じています。そこからいつもこのミサの中で、すべての人のしあわせのために祈り続けたいと思います。

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復活節第5主日のミサ



 今日は母の日。ミサの中ですべての母親のために神からの祝福と助けを祈りました。また、カトリック原町教会は「ファティマの聖母」の名をいただいていて、昨日がその祝日でしたので、そのことも思い起こして祈りました。
 今から100年前、ポルトガルのファティマで聖母マリアが3人の子どもに現れ、人々は次第にその出現を信じるようになり、ファティマは大巡礼地になりました。3人の子どもたちの名前は、フランシスコ・マルト、ジャシンタ・マルト、ルシア・ドス・サントス。このうち、フランシスコとジャシンタの兄妹は当時流行したスペイン風邪のため、早く亡くなりました。ルシアは修道女になって、97歳まで生きました。昨日はその出現100周年にあたり、フランシスコとジャシンタ兄妹の列聖式がファティマで、フランシスコ教皇によって行われました。

●復活節第5主日
 聖書箇所:使徒言行録6・1-7/一ペトロ2・4-9/ヨハネ14・1-12

 ホミリア
 この教会に来て、ほんとうにありがたいのは毎週日曜日にAちゃんが侍者をしてくれていることです。最初のころ、今日も来てくれるかなと思って庭を見ていたら、Aちゃんとお母さんが幼稚園のほうから走ってきました。わたしはそこに出入り口があると知らなかったのでびっくりしました。いつもその道を通っているのですね。それを知ってからわたしもときどき、特に朝早く散歩する時や夜遅く駅から帰ってくる時にはこの道を使うようになりました。幼稚園の裏門と庭ですけど、わたしたちにとっては大切な道です。
 なんでこんな話をしているかというと、道というのは、人が歩いてできるということを感じてほしいからです。今のわたしたちにとって、道というのは道路公団や県や市が作るものというのがあたりまえですが、大昔はそうではなかった。人が歩き、大勢の人が歩いているうちに道ができる。このイメージは大切です。

 イエスは今日の福音で「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われます。どこそこに道があるからその道を行きなさい、というのではありません。わたしが道であり、この道を歩いていきなさい。イエスという道、それはイエスが歩いてできた道だと言ってもいいかもしれません。イエスが徹底的に神に信頼して歩んだ道、とことん人を愛して生きた道。この道をあなたがたも歩いていきなさい。
 ヘブライ人への手紙にこういう箇所があります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(ヘブライ10・19-20)エルサレムの神殿のたとえを使ってこういうのですが、イエスは受難と死をとおして、わたしたちのために、神に近づき、神に至る道を切り開いてくださった、ということです。このイエスによって開かれた「新しい生きた道」をわたしたちも歩むのです。

 この道はエスカレーターみたいな「動く歩道」じゃないので、自分で歩かなければなりません。イエスが歩んだように、わたしたちも信頼と愛をもって歩いていくのです。
 ヘブライ人への手紙にこういう箇所もあります。「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12・13)。フランシスコ会訳はこうなっています。「あなた方の足のために、まっすぐな道を造りなさい。これは、足の不自由な人が道をそれることがなく、かえって丈夫になるためです。」ここで「道」と訳されている言葉は元々「轍(わだち)」という意味の言葉です。馬車の車輪が通ると轍ができる。それと同じように人が歩くと道ができる。わたしたちがみんなでまっすぐに歩いていくと、まっすぐな道ができていく。そうすると、後からきた足の弱い人も道を踏み外すことがない。このイメージ、これは教会のイメージですね。
 
 きょうの福音でイエスは、不思議なことも言っています。
 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
 わたしたちキリスト信者が行うことが、イエスの行うことよりももっと大きいなんて、とても考えにくいことです。でもイエスが「父のもとに行く」とそこから聖霊が送られてくると約束されています。わたしたちが何かするのではなく、わたしたちをとおして聖霊が働く、そのことに信頼したいと思います。わたしたち一人一人が聖霊の導きに従ってしっかり歩んでいくとき、イエスの切り開かれた道は、大きな、確かな、まっすぐな道になっていく。その聖霊の導きに信頼して歩んでいきましょう。

 五月は聖母マリアの月と言われ、昨日はファティマの聖マリアの祝日でもありました。今はイエスの復活を祝う季節ですが、この復活節に特別に思い起こす聖マリアの姿があります。それは使徒言行録に伝えられているマリアの姿です。イエスの復活と昇天の後、約束された聖霊を待ち望みながら、祈っていた弟子たちの真ん中にイエスの母マリアの姿がありました。わたしたちもマリアとともに聖霊を待ち望んで祈り、マリアとともにイエスの道を歩んでいきたいと思います。



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復活節第4主日のミサ



菜の花から採れる菜種油に放射能は含まれず、食用にできるとのことで、
南相馬市原町区のあちこちに菜の花畑があります。
今、まさに花盛りです。

相馬農業高校の高校生も参加して作られた南相馬の菜種油は「油菜ちゃん」という名で商品化されています。

●復活節第4主日、世界召命祈願の日
 聖書箇所:使徒言行録2・14a, 36-41/一ペトロ2・20b-25/ヨハネ10・1-10
 カトリック原町教会にて

 ホミリア
 皆さん、四旬節第四主日に読まれた、生まれつき目の見えない人のいやしの物語を覚えておられるでしょうか。ヨハネ福音書9章で、今日の福音ヨハネ10章の直前にあります。
 物語の発端は、イエスと弟子たちの一行が通りがかりに生まれつき目の見えない人を見かけたことでした。彼が生まれつき目の見えない人だということはどうして分かったのでしょうか。イエスが立ち止まり、その人に声をかけ、彼が話したからでしょう。イエスは最初から彼に関心を持っています。
 弟子たちはこのことが分かるとイエスに問いかけました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちはこの視覚障害者を心配してそう言ったのでしょうか。そうではなく単なる知的興味だったのではないでしょうか。当時、病気や障害、なんらかの不幸は罪の結果である、という考えが一般的でした。普通なら本人が罪をおかすと本人に不幸がふりかかる。しかし、この人の場合は、生まれつきだからどうなのか。本人ではなく両親の罪の結果か。彼らは理解できない問題について、イエスに教えてもらい、イエスの答えを聞いて納得しようとしたのです。それは自分たちが納得するためであって、この目の前の人を助けるためではありませんでした。「結局、何らかの罪の結果だから仕方ないよね」これが弟子たちの見方であり、態度です。

 イエスは弟子たちに答えてこう言います。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエスは病気や障害が罪の結果であるという考えそのものを否定します。ではなぜこの人がこんな不幸を背負っているのか、実はイエスは答えていません。そうではなくイエスはその人に関わろうとするのです。「神の業がこの人に現れるため」というのは、この人の不幸の原因や目的を語っているのではなく、神がこの人に対して何かなさろうとしておられるという確信を表す言葉です。神は今この人に対して何をなさろうとしているか、そしてその中でわたしには何ができるか。イエスはそこだけを見つめ、そして彼に関わっていくのです。具体的には、イエスは彼の目をいやすことになりました。
 それは安息日のことでした。安息日は労働が禁じられた日で、イエスが安息日にこのようなことをしたのはイエスにとって非常に不利になることでした。目をいやされた人はファリサイ派の人々から取り調べを受けます。ファリサイ派の人々にとって、盲人だった人は、「全く罪の中に生まれた」(9・34)人間で、なんの価値もない人間でした。ファリサイ派の人々は、「安息日の掟を破る人間は神から来た人ではありえない」という大原則からイエスを理解しようとします。そして、この視覚障害者のことも、イエスのことも結局、認めようとしないのです。

 ここに決定的な違いがあります。イエスの弟子たちは、人の不幸をみて、なんとか納得できる説明を見つけようとして、それでその人の横を素通りしようとしました。当時のファリサイ派のような宗教熱心な人々は、律法の基準で人をはかり、視覚障害をもった人に罪びとのレッテルを貼り、安息日の禁を犯して人を助けたイエスにも罪びとのレッテルを貼ろうとしました。そして自分たちこそ正しい人間だという自己満足に浸っていたのです。
 イエスは違いました。イエスは目の前の人の苦しみを決して見過ごされませんでした。イエスにとって、相手が罪びとかどうかは問題でなく、神はこの人を限りなく愛しておられる、そういう人として関わることだけが問題でした。

 この9章の物語が背景にあって、今日のイエスの言葉があるのです。
 「はっきり言っておく」
 わたしは羊飼い。羊飼いは羊を知り、羊は羊飼いを知る。
 わたしは羊の門。わたしという門をとおってこそ本当のいのちが得られる。
 さらに今日の箇所の続きでは、「わたしは良い羊飼いである」(10・11,14)と言われます。そして「良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」と言われるのです。
 この方がわたしたちの羊飼いです。この方はわたしたちのために命を差し出されましたが、復活して今も生きておられ、わたしたちを闇から光へと導き続けてくださる方です。

 私自身は若いころ、そういう方としてイエスに出会いました。自分の人生は無意味で、何をやってもむなしい、自分なんかたいしたことない人間、きっと何の役にも立たない。でもそんなこと恥ずかしくて誰にも言えない。学校にも社会にも自分の居場所が見つけられず、どんどん追い詰められていきました。本当に真っ暗闇で、光が見えない状態でした。
 でもイエスはこのわたしを見ていてくれた。かけがえのない神の子として見ていてくれた。わたしを呼んでくれた。そう気づいたとき、わたしは闇から光へと移されました。だからキリスト者をやっていますし、司祭をやっています。
 召命祈願の日である今日、本当にすべての人が良い牧者であるキリストの眼差し、呼びかけ、招きに気づき、それに応える者となることができますように。心から祈りましょう。

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復活節第3主日のミサ



毎度ながらのミサ説教原稿ですが・・・

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録2・14, 22-33/一ペトロ1・17-21/ルカ24・13-35
 2017.4.30カトリック原町教会

 ホミリア
 復活祭から七週間にわたり、キリストの復活をお祝いしています。キリストの復活を祝うということは、2000年前にイエスの墓が開いて、奇跡のようなことが起こったと信じることではありません。イエス・キリストが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださると信じることです。復活のキリストはどのように共にいてくださるのか。きょうのエマオの弟子の物語はそのことについてとても豊かなヒントを与えてくれます。

 まず、聖書の言葉をとおしてイエスはともにいてくださる。
 見知らぬ旅人の姿で弟子たちに近づき、彼らの話を聞いたイエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃり、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
 イエスの受難と死も、またそれをとおして受けることになる栄光も、聖書に示された神の救いの計画の中にあったのだということです。そのことを、旧約聖書のみことばをとおしてイエスは示されました。今もそうです。わたしたちは旧約聖書だけでなく、新約聖書、特に福音書を持っていますから、神がイエスを世に遣わしてどれほど人間を愛してくださったかを知ることができます。そして聖書をとおして、神が今もどのように人を愛し続けているかを知ることができます。そのことに気づくためにわたしたちは聖書を読むのです。現実はいい時ばかりではありません。悲惨なこともたくさんあります。でもその中で神はわたしたちを導き続け、最終的に復活のいのちの喜びに導いてくださる。そのことを、聖書をとおして悟らせていただきたいと思います。このエマオの弟子たちはあとで気づきました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」本当に心に深く響くようにみことばを受け取ることができるよう、祈りましょう。

 もう一つこの物語で示されること、それはイエスは「パンを裂くこと」をとおして共にいてくださるということ。
 エマオの弟子たちがこの見知らぬ旅人がイエスだと気づいたのは、その人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ときでした。イエスはいつも食事のときにそうしていました。5つのパンを5000人に分けたときもそうでした。イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え」ることによって、このパンが神から与えられたもの、神がすべての人に必要なものを与え、生かしてくださる方であることを表しました。また「パンを裂いて与える」ことをとおして、この恵みは自分だけで独占すべきものでなく、皆と兄弟姉妹として分かち合って生きるべきものであることを示してくださいました。罪びとを招いて一緒に食事をしたときも、神が誰ひとり除外することなく、すべての人をいつくしむ父であることを示されました。そして最後の晩さんのとき、同じようにパンを裂き「これはわたしの体」と言い、ぶどう酒の杯を取って「わたしの血」と言われました。すべてを与え尽くしたイエスの愛を思い起こし、その愛に結ばれるために、この「パンを裂くこと」を続けるよう弟子たちに命じられました。
 わたしたちキリスト者は毎週集まって「パンを裂くこと」を行います。それは、イエスが復活して、今わたしたちと共にいてくださることを深く味わうためです。

 「みことば」と「パンを裂くこと」を通して、わたしたちはイエスが今もともにいてくださることを深く味わうことができます。
 今日の福音はもう一つのヒントを与えてくれているかもしれません。それは人と人とが「寄り添う」中に復活のイエスはいてくださる、ということです。
 この二人の弟子は失意のどん底にいました。彼らはイエスについてこう言います。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」もうすべての希望は絶たれてしまった。がっかりして弟子たちの集まりを離れ、エルサレムの都を離れ、自分たちの故郷に向かっていました。でも一人ではなく、なぜか二人一緒でした。互いに寄り添い、悲しみを分かち合う中で彼らは、次第にイエスに気づいていった、と言ってもいいのではないでしょうか。イエスのあの約束は今も無になっていない。イエスの言葉はわたしたちの中に生きている。無意識のうちに彼らはイエスに励まされていたのです。みことばとパンを裂くことで彼らははっきりとそれを意識するようになりました。
 そして彼らはエルサレムにいる他の弟子たちのところに戻って行きます。「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」復活の喜びは孤立した一人の人間が感じることはむずかしいものです。復活の喜びとは、悲しみやつらさを分かち合い、共に生きようとするときにどこかから湧いてくる希望や喜びであり、その喜びは、さらに多くの人と一緒に分かち合うようになる喜びなのです。わたしたちの日々が、この復活の喜びに満ちたものとなりますように。

 昨日までの日々の中で、今日のみことばと聖体の食卓の中で、そして明日からの、また新たな歩みの中で、本当に主は復活して共にいてくださるということをわたしたちが深く味わうことができますように、このミサの中で祈りましょう。



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復活節第2主日のミサ



先週、相馬市の松川浦に行ってきました。
津波で大きな被害を受けた場所ですが、
相馬港も漁港も整備され、つい先日、松川浦大橋も車で通れるようになったそうです。

写真は早朝散歩のときのものです。
では毎度ですが、ミサの説教をどうぞ。

●復活節第二主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録2・42-47/一ペトロ1・3-9/ヨハネ20・19-31
               2017.4.23原町教会
 ホミリア
 今日の福音で、イエスは「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいます。皆さんはどう思いますか?トマスも他の弟子たちも復活したイエスを見たから信じたわけで、「見て信じたから、幸いだ」と感じるかもしれません。「見ないで信じる」とはどういうことでしょうか?

 ヨーロッパ中世の哲学者や神学者は何とか神の存在を証明しようとしました。そして信仰を理性的に裏付けることができると考えていました。近代になるとその前提は変わっていきます。17世紀のフランスに生きた哲学者ブーレーズ・パスカルは、神の存在を人間の理性で証明することはできず、信仰を理性的に裏付けることはできないと考えました。その上で「信仰は賭けだ」と言いました。パスカルの賭けの内容は今日くわしくお話ししませんが、パスカルは神がいるほうに賭けた方が得をする、だから神がいるほうに賭けたほうがいいに決まっている、と言いました。まあこのパスカルの賭けそのものにはいろいろ問題もあります。しかし、多かれ少なかれ、近代・現代の人間はこのパスカルの立場を出発点としていると思います。それは、神を見ることはできないし、人間の言葉で証明することもできない、ということです。だとしたら、信じることはわたしたちにとっても、ある意味で「賭け」だと言わざるをえないかもしれません。

 わたしたちは「復活を信じます」と言います。復活を信じるというのは、2000年前、死んだイエスが立ち上がって墓から歩いて出てきた、と信じることではありません。そうではなく、あのイエスの歩みが十字架の死で終わってしまったのではなく、イエスは死をとおって、もっと大きないのち、神のいのちの中に入っていかれ、そこで永遠に生きる方となった、と信じることです。そういう意味で復活というのは本来、目に見えたり、人間の言葉で証明したりすることのできないことです。人間の経験のレベル、人間の理解や言葉での説明のレベルを超えた出来事だからです。イエスの弟子たちは、復活のイエスに出会ったと証言しますが、彼らの体験はほんとうに例外的なことでした。イエスは自分が死に打ち勝ち、永遠のいのちを生きるものとなったということを、ご自分の弟子たちに知らせるために、特別な期間、特別な仕方で弟子たちだけに姿を現したのです。ですから、その後の時代の人たちにとっては、「見ないで信じる」のがあたりまえなのです。

 見ないで信じるのはやはり「賭け」だと言わざるをえないかもしれません。なぜわたしたちは「信じる」ほうに賭けるのでしょうか。
  それは聖書を読んで、福音書をとおして伝えられたイエスの生き方を知っているからです。イエスは神を「アッバ、お父さん」と呼びました。イエスは生涯をかけて、その「アッバ」である神への信頼を生き、すべてをアッバに委ねて生きました。また、出会った人一人一人を例外なく、神の愛する子、ご自分の兄弟姉妹として大切にされました。あのイエスを見た時、わたしたちは、これが本物だ、これこそわたしたちの目指す生き方だと直感的に感じるのです(もちろん足元にも及びませんが・・)。わたしたちは皆、そういう心を持っています。それは聖霊がわたしたちの心に働きかけているからだという人もいます。わたしたちの心に直接働きかける神の働きかけ=聖霊の働きがあって、だから、わたしたちがイエスを見た時に、「これが本物だ」と感じることができる、確かにそうかもしれません。あるいは、イエスの生き方が、わたしたちがそれぞれ自分の人生の中で経験してきた一番素晴らしいもの、一番根っこにあるものを思い出させてくれるからかもしれません。それは小さいころから受けてきた親の愛かもしれません。あるいは別の人や出来事をとおして経験した、本物の愛かもしれません。
 もちろんそれは目で見ることも、証明することもできないことで、やはり賭けのような面があります。わたしたちキリスト信者は皆、イエスに賭けた者です。

 トマスもほんとうは賭けたのだと思います。トマスは他の弟子たちにイエスが姿を現したとき、彼らと一緒にいませんでした。だから信じられませんでした。信じられないのですから、「イエスは死んだままで、生きていない」というほうに賭けることもできたでしょう。でも彼は「イエスが生きておられるかもしれない」というほうに賭けたのです。だから八日目の弟子たちの集まりに参加しました。
 もしかしたら、わたしたちもそうかもしれません。イエスは復活したというほうに賭けているというよりも、「イエスは復活したかもしれない」というほうに賭けている、それが実感かもしれません。イエスはトマスをいつくしみ、導いてくださいます。イエスはトマスをも信じるものに変えてくださいました。イエスはわたしたちをも導き、いつか必ず本当に信じるものに変えてくださいます。

 イエスの復活を信じるほうに賭けるということ。それは、どんなことがあっても光は闇に打ち勝つ、と信じることです。希望は絶望に打ち勝つ。信頼は疑いに打ち勝つ。愛は無関心や憎しみや暴力に打ち勝つ。そして最終的に、いのちは死に打ち勝つ。そう信じ、そのほうに賭けるということです。それは確かに賭けですが、本当は賭け以上のものです。信仰とは、わたしたちの生き方の選択の問題なのです。
 今日の福音はイエスの復活の日の出来事と、それから八日目、一週間後の出来事です。今日もわたしたちは八日目ごとのイエスの弟子の集いに集まりました。ここで復活の信仰を確かめ合いながら、愛を信じ、いのちを信じて歩んでいきましょう。


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