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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活の主日・日中のミサ



少し前の写真ですが、南相馬市小高区飯崎のお墓にある枝垂れ桜です。
なぜか分かりませんが、お墓の桜はきれいですね。

●復活の主日・日中のミサ
 聖書箇所:使徒言行録10・34a, 37-43/コロサイ3・1-4or一コリント5・6b-8/ヨハネ20・1-9
     2019.4.21カトリック原町教会
 ホミリア
 復活の主日の福音では「空の墓」の場面が読まれます。復活徹夜祭には3年周期でマタイ、マルコ、ルカが読まれ、この日中のミサではヨハネ福音書となっています。イエスは十字架で亡くなってすぐに墓に収められ、安息日が終わった三日目の朝、女性の弟子たちが墓に行ってみると、墓が空になっていた。4つの福音書は共通してこの出来事を伝えています。
 イエスの墓が空だった。だからイエスが復活したとは言えません。この出来事にはいろいろな解釈がありえます。
 マタイ福音書は祭司長たちや長老が集まってこう言ったと伝えています。「弟子たちが夜中にやってきて、我々(番兵たち)が寝ている間に死体を盗んで行った」ことにせよ。
 ヨハネ福音書では今日の箇所でマグダラのマリアは「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と言います。
 墓が空だったというのなら、誰かが遺体を運び出した、と考えるのが普通でしょう。空の墓はせいぜい、何かとんでもないことが起こった、ということを予感させるだけの出来事だとも言えます。

 イエスが復活したということは、その復活したイエスと弟子たちが出会ったという出来事、いわゆる「出現」によってこそはっきりと示されます。この出来事は、日曜日のミサでは復活節第2、第3主日に読まれていきます。福音書にはさまざまな形でこの出現の出来事が伝えられています。そのすべてを見ていくといくつかの不思議な特徴があることが分かります。

 まず一つの特徴は、復活したイエスがご自分の弟子たちにしか姿を表さなかった、ということです。ファリサイ派やサドカイ派の人々が集まる神殿の境内に姿を表せば、その人たちも信じたのではないでしょうか。でもなぜか弟子たちにだけ姿を表しています。
 次に、弟子たちにとっても、姿を現したのがすぐにはわからないような姿だったということ。ヨハネ福音書では今日の箇所の後、マグダラのマリアに姿を現しますが、マリアはその人を見て園丁だと思いました。ルカ福音書が伝えるエマオの弟子たちは、一緒に歩いている人がイエスだと気づきませんでした。他の弟子たちは亡霊だと思ったりしています。ヨハネ21章のガリラヤ湖での不思議な大漁の場面でも、弟子たちは岸に立って自分たちに声をかけた人がイエスだと気づきませんでした。どんな姿でイエスは現れたのでしょうか? 不思議です。
 でも、その人がイエスだと気づくしるしもありました。マグダラのマリアの場合、「マリアよ」と呼びかけるなつかしい声でした。エマオの弟子たちの場合は、イエスがパンを取り、賛美して、パンを裂いて渡したときでした。ガリラヤ湖の弟子たちにとって、イエスに言われて網を打ったところ不思議にも大漁になった、という出来事でした。どれも生前のイエスを思い出させるしるしです。そのしるしがあるから、目の前の人がイエスその人だと分かるようになっていったのです。
 さらに、イエスが弟子たちに特別な仕方で弟子たちに姿を現したのは、限られた期間でしかありませんでした。使徒言行録によればそれは40日という期間限定の出来事だったのです。これらすべてのことは何を意味しているでしょうか。もしもイエスが、誰でも分かるような姿で、今、国連総会の場や、渋谷の駅前やNHKのテレビ局にでも姿を現せば、もっと簡単にすべての人が信じるようになるのではないでしょうか?

 でもそうではなかったのです。イエスが出現した、ということは、ご自分の弟子たちに自分が死に打ち勝ち、神とともに生きているということを知らせるための出来事でした。復活したイエスは地上のいのちに舞い戻ってきたのではなく、神の永遠のいのちを生きる方となった。それが復活ということですし、そのことを弟子たちに悟らせるために、イエスは特別な仕方で姿を現したのです。
 大切なのは、イエスの死が、単なる死で終わらなかったこと。イエスは今も目に見えないけれど生きていて、わたしたちとともにいて、わたしたちを支え、励まし、導いてくださっていることです。復活祭はそのことを祝います。2000年前にとんでもないことが起こった、それを祝うというよりも、今のわたしたちの中に起こる出来事として、復活を祝います。そう考えているうちに、突然ですが、「平和を求める祈り」を思い出しました。

   神よ、わたしを平和のために働く者としてください。
   憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、
   分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
   誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
   闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。
   慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
   愛されるよりは愛することを求めますように。
   わたしたちは与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
   すべてをささげて永遠のいのちをいただくのです。

 憎しみから愛へ、争いからゆるしへ、分裂から一致へ、疑いから信仰へ。
 誤りから真理へ、絶望から希望へ、闇から光へ、悲しみから喜びへ。
 慰められるよりは慰めること、理解されるよりは理解すること、愛されるよりは愛すること…それがもし私たちの中に少しでも実現していくとするならば、イエスは今も生きていると言えるのではないでしょうか。
 ご復活おめでとうございます。

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復活の主日・復活徹夜祭



今年もこの小さな教会で洗礼式を行うことができました。
Mさん、おめでとうございます。
神に感謝!

●復活の主日・復活の聖なる徹夜祭
 聖書箇所:出エジプト14・15~15・1a他/ローマ6・3-11/ルカ24・1-12
     2019.4.20 カトリック原町教会
 ホミリア
 主の復活おめでとうございます。
 イエスが亡くなったのは今で言えば金曜日の午後3時ごろのこと。昔のユダヤでは日没から新しい1日が始まりましたから、その金曜日の日没からが二日目、そして土曜日の日没からが三日目ということになります。この三日目の朝早く、女性の弟子たちがイエスの墓に行くと、墓には遺体がなく、天使が現れて「イエスは復活した」と告げた、福音書はそう伝えています。そこでイエスは土曜日から日曜日にかけての夜のうちに復活したと考えられるようになり、復活の祝いはこの夜中に行われるようになりました。

 教会は古代からこの復活徹夜祭に洗礼式を行ってきました。洗礼(バプティスマ)の元々のやり方は、人の全身を水の中に沈めるというものでした。「洗礼を受ける」と訳された言葉「バプティゾー」の元の意味は「沈める」です。使徒書の朗読(ローマの教会への手紙6章)でパウロが語った言葉をそのように訳せば、「キリスト・イエスのうちに沈められたわたしたちは皆、その死の中に沈められた」となります。だからパウロは続けて言います。「わたしたちはバプティスマ(洗礼)によって、キリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。洗礼とはキリストと共に古い自分に死んで、キリストと共に新しいいのちに生きること、そのために、復活祭に洗礼式が行われるようになりました。でも、それだけが理由でもないと思います。イエスが復活して今も生きているとはどういうことか。イエスの時代から2000年もたった今日、キリストの弟子として歩み始めようとする人がいる。それはイエス・キリストが2000年前の、過去の歴史上の人物ではなく、今も生きておられる方だということをはっきりと表わす出来事だと言えるからです。

 今日、この教会では、Mさんが洗礼・堅信・聖体という入信の秘跡を受けます。洗礼の水を注がれ、新しい人となり、聖霊をいただいて教会の使命(神の愛のしるしとなるという教会の使命)に参加し、パンとぶどう酒のしるしをとおしてイエスと一つに結ばれます。洗礼と堅信は一生に一度だけのことですが、聖体の秘跡はこれからずっと受け続けることになります。わたしたちがキリスト者として歩むための、最も確かな力の源が聖体の秘跡であり、ミサです。ミサの中にわたしたちがキリスト者、イエスの弟子として歩むための、すべてのことが含まれていると言ってもよい。

 まず、ミサは祈りです。いただいた恵みについて神に感謝し、神を賛美し、わたしたちの願いをささげます。これはとても大切なことです。祈りの中で、わたしたちは神とのつながりを確認するのです。もし祈らなければ、人生とはいいことがあったり、悪いことがあったりするだけ。ただラッキーかアンラッキーか、それだけのものになってしまいます。でも祈るとき、良いことも悪いことも、すべては神とのつながりの中で意味があることと受け取るようになります。そういう意味で祈らないキリスト者というのはありえません。ミサは祈りの頂点だと言われます。頂点も大切ですが、頂点は頂点だけでは成り立ちません。頂点があるためには裾野も必要です。裾野は日々の祈り。朝晩の祈りや食前の祈り。家庭の中で大切しにしていってください。

 次にミサは聖書のことばが語られる場です。ミサの前半は聖書朗読が中心ですが、そこで聖書が読まれるとき、神は今も人々に語りかけている。イエスは今も福音を告げ知らせている。そういう神のことばと出会う場がミサです。ミサの後半も聖書のことばに基づいています。「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」そのイエスの言葉を聞き、それを信じるからこそ、わたしたちは聖体においてイエスと一つに結ばれるのです。聖書のことばによって養われる。そのこともミサが頂点だと言えますが、同時に日々の生活の中でも聖書を読むことを大切にしてください。
 今日の福音は印象的です。女性の弟子たちに現れた天使はこう言いました。
 「『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」
 わたしたちはイエスが語られた言葉を思い出すために聖書を読みます。何度も何度も読むのはそのためです。そして、あのイエスの言葉が今もわたしたちの日々の生活・現実の中に生きているということを発見するのです。それは大きな力になります。

 もう一つ大切なこと、それはミサが共同体の祝いだということです。共に祈り、共に一つの食卓を囲み、共に一つのパンを分かち合う。これがミサです。わたしたちはたった一人で信仰の道を歩むのではありません。信仰生活を続けていくために、一緒に歩んでくれる仲間が必要です。Mさんは奥様がフィリピンから来たカトリック信者ですからその点で恵まれていますね。これまでもずっと奥様と一緒にミサに来られていました。その中で、こうしてミサに集まる教会の共同体を感じてくださっていると思います。誰かと一緒に、「やっぱり神様はいるよね。イエス様は今も生きていて共にいてくださるよね」そう言い合える人がいてくれるのは本当に大きな支えです。奥様ももちろんですが、この信仰の仲間を普段から大切にしてください。
 それでは、洗礼と堅信の部に移ります。

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聖金曜日・主の受難



聖金曜日の「十字架の礼拝」で用いた十字架です。
教会の抽斗の奥から出てきた古いボロボロの十字架を、カトリック信者でないボランティアのSさんが見事に修復してくださいました!
いつもいつもありがとうございます。

●聖金曜日・主の受難
 聖書箇所:イザヤ52・13~53・12/ヘブライ4・14-16, 5・7-9/ヨハネ18・1~19・42
      2019.4.19カトリック原町教会
 ホミリア
 ミサの奉献文の中のぶどう酒の聖別の言葉に、「あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」という表現があります。「多くの人」というと「すべての人」ではないように聞こえてしまうので、「すべての人」と言ったほうがいいのではないか、という意見があります。英語では以前、「for all」という訳が使われていたのですが、今はバチカンから注意されて「for many」となっています。元の言葉を大切にしなさい、というのですね。日本語でも、「多くの人」と言っていますし、これを変えるのは難しそうです。どうでしょうか。残念ながら説明がいりますね。もともとヘブライ語やアラム語には「すべて」という表現がなく、「多くの人」という言葉で「すべての人」を表した、だから内容としては「すべての人」の意味だと受け取っていいのだ、と説明しないとわからないでしょう。

 今日の第一朗読は、イザヤ書52章から53章にかけての「苦しむ主のしもべ」の箇所です。苦しみをとおして人々を救う不思議な方のことを、紀元前6世紀の、第二イザヤと呼ばれる預言者は預言しました。その中でも「わたしのしもべは、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」とか「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」という表現があります。ここもどう考えても「すべての人ではない」という意味ではありません。彼によって救われるのはすべての人で、「その人々の数が多い」という意味でしょう。抽象的に、十把一絡げに「すべての人」というよりも、具体的に「あの人のためにも、この人のためにも、本当にたくさんのすべての人のために」というニュアンスで受け取れば良いのかもしれません。

 イエスはすべての人の救いのために十字架にかかってくださった。イエスの十字架による救いからは、誰も除外されていない。そのことは本当に大切だと思います。自分を十字架につけた人のためにも、十字架につけられたイエスをののしった人のためにも、「最後までついていきます」と言いながら十字架を前に逃げ出してしまった弟子たちのためにも。本当にすべての人のために十字架にかかってくださった。わたしたちはそう信じます。
 パウロの書いたテモテへの第一の手紙2章には、こうあります。
 「1そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」
 「4神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」
 ここでは「すべて」ということが強調されています。神は「すべての人」の救いを願っておられる、イエスは「すべての人」の救いのために死んでくださった。だから「すべての人のために祈りをささげなさい」とパウロは言うのです。

 今日の典礼には「盛式共同祈願」があります。テモテへの手紙にあるように、イエスがすべての人のために死んでくださったことを記念するのがこの聖金曜日ですから、今日、すべての人のために祈ろうとするのです。
 キリストの教会のため、教会に奉仕する人のため、洗礼志願者のため、カトリックでないキリスト者のため、キリストを信じていない人のため、神を認めない人のため、政治に携わる人のため、そしてさまざまな困難を抱えたすべての人のため。数え上げたらキリがないのですが、そこには除外される人がいないというのが特徴です。

 どうにも波長が合わない人がいます。好きになれない人がいます。あんな人はどうなっても知らない、なぜあんな人たちのために祈らなければならないの?(なんで嘘ばかりついている政治家のために祈らなければならないの?)それは「この人もイエスがその人のために十字架にかかってくださった、そういう人なのだ」と信じるからです。イエスはほんとうにすべての人の救いのために、いのちをささげてくださいました。教会という囲いの中の人だけじゃない。ヨハネ10章にはこういう言葉もあります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10・16)。これがイエスの心、イエスの望みなのです。

 でも一方で、この救いはエレベーターやエスカレーターのように、わたしたちを自動的に神のところに連れていってくれるような救いではないことも確かです。今日の第二朗読はヘブライ人への手紙でしたが、この手紙の10章にこういう言葉があります。
 「兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(19-20節)
 象徴的な表現で言おうとしていることは、十字架で流されたイエスの血、十字架で殺されたイエスのからだがもたらしたものは、神との一致にいたる「新しい生きた道」だということです。エレベーターやエスカレーターじゃないから、自分の足で歩んでいかなければなりません。イエスが歩まれたように、わたしたちも歩いていかなければ、本当の救い=神との一致には至りません。でもイエスはこの道を、救いの道を、神のもとに通じる道を、すべての人のために、いのちがけで開いてくださった。わたしたちはそう信じるので、イエスとともに、今日、すべての人の救いのために祈るのです。


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聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサ



いよいよ、聖なる過越の三日間。
写真はミサで使った洗足式セットですが、実はこの水差しは借り物です。来年までにどこかでゲットしないと…!

●主の晩さんの夕べのミサ
 聖書箇所:出エジプト12・1-8, 11-14/一コリント11・23-26/ヨハネ13・1-15
       2019.4.18カトリック原町教会
 ホミリア
 パリにあるノートルダム大聖堂で、今週の月曜日、15日に大きな火災があり、屋根と塔大きく壊れてしまいました。聖週間に入ったばかりの出来事で、多くの人がショックを受けているようです。世界でも最も立派な大聖堂の一つですし、日本からも多く人が訪れた場所ですから、いろいろな声が聞こえています。
 ちょっと調べてみました。ノートルダム大聖堂は、パリ大司教区の司教座聖堂であり、12世紀から13世紀にかけて建設されたゴシック様式の巨大な聖堂です。塔の高さは69m、聖堂内には9,000人を収容することができるそうです。世界遺産にもなっていますし、再建が大きな課題になるでしょう。

 そんな中で、今日、わたしたちは主の晩さんの夕べのミサを祝います。イエスの最後の晩さんを特に思い起こしながら祝うのが今日のミサです。最後の晩さんという出来事はわたしたちの教会の一つの原点とも言える出来事です。その出来事はキリスト教とはどういう宗教であるかをよく表しています。
 神を礼拝するために、イエス・キリストを記念し、キリストと一つに結ばれるために、わたしたちに必要なものは、聖書とパンとぶどう酒だけなのです。最初はそれだけでした。後の時代になって立派な聖具や祭服、そして大きな聖堂が作られるようになりましたが、どんな大きな聖堂でも、そこで行われるもっとも大切なことは、聖書を読み、パンとぶどう酒を用いてイエス・キリストの生涯を記念するこの「ミサ」なのです。

 イエスは逮捕される前の晩に弟子たちとともに食事をしました。イエスはこの食事が弟子たちとともにする最後の食事だと自覚していました。そしてその食事の中で特別なことを二つなさいました。
 一つはパンとぶどう酒について、特別な言葉をおっしゃったことです。パンについては「これはわたしの体である」とおっしゃり、ぶどう酒については「これはわたしの血である」とおっしゃいました。イエスが目に見える形ではもういなくなる。でもその後もずっと目に見えない形で弟子たちとともにいる。その弟子たちとのつながりを永遠のものにしようとして、「これをわたしの記念として行いなさい」とおっしゃったのです。体は「渡される体」、血は「流される血」です。すべての人の救いのためにご自分のすべてを与え尽くされたイエスを思い起こし、そのイエスに結ばれ、イエスの愛を生きること。それがミサを祝うことことの意味であり、聖体のイエスをいただくことの意味です。

 もう一つは、ヨハネによる福音で先ほど読まれたように、弟子の足を洗ったということ。そこにはイエスは徹底的に仕える者となり、しもべとなられたという、イエスの生涯の意味、十字架の死の意味がはっきりと表されていますが、その後、こうおっしゃいました。
 「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
 この言葉は、少し後に出てくる有名な言葉と似ています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13・34、15・12)
 その愛の掟を弟子たちが心に刻むために、イエスは弟子たちの足を洗われたのです。

 今日のミサで、これから洗足式を行います。司祭が誰かの足を洗うのですが、洗うより、洗われるほうがたいへんな犠牲かもしれませんね。イエスに足を洗われた弟子たちの思いを、足を洗ってもらった弟子たちの足の感覚を想像してみてください。本当にとんでもないことですが、イエスに足を洗われた、それが弟子たちの生き方に結びつくようにイエスは願いながらそうしたのです。
 今日のミサで、わたしたちは主の食卓を囲みます。この聖堂のちょっと残念なこところは祭壇が奥まっていて遠い感じがすることです。ノートルダム大聖堂なんかより比べ物にならないくらい小さい聖堂にしては、ちょっと遠い感じですね。まあ70年前(第二バチカン公会議前)に建てられた聖堂だから仕方ないとは思いますが、本当に最後の晩さんの食卓に招かれているんだ、ということを感じていただくために、今日は皆で一つの食卓を囲んで感謝の典礼を行います。また、パンのかたちの聖体だけでなく、ぶどう酒のかたちでもイエスをいただきます。
 あの2000年前の最後の晩さんの席で、イエスから直接、パンとぶどう酒の杯を渡された弟子たちの感じたことを想像してみてください。

 イエスがわたしたちに対して示されたはかりしれない愛を今日、深く味わうことができますように。そしてそのイエスの思いを受け取り、イエスに思いに応えて、日々、新たに生きていくことができますように。




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受難の主日(枝の主日)



掲示板と看板、夜は明るく光ります。
近所の人も明るくなって良かったと言ってくださいました。

●受難の主日(世界青年の日)
 聖書箇所:ルカ19・28-40/イザヤ50・4-7/フィリピ2・6-11/ルカ23・1-56
     2019.4.14 カトリック原町教会
 ホミリア
 ミサ典礼書の注意書きで、今日の箇所には、わざわざ「受難の朗読後、適当であれば簡単な説教を行う」と書いてあります。聖書朗読が長いためでしょうか。イエスの十字架について、ああでもない、こうでもないと言葉を並べ立てるより、受難朗読そのものをしっかりと味わい、十字架をしっかりと見つめよう、ということではないか。それで、簡単にいくつかのポイントだけお話ししたい。

 受難の物語を皆で一緒に読みました。受難の主日のミサの受難朗読は三年周期でマタイ、マルコ、ルカ、と読まれてきて、今年はルカの年です(聖金曜日は毎年ヨハネです)。ルカ福音書はマルコ福音書をもとに、いくつかの大切なエピソードを書き加えていて、そこにルカの特徴があります。
 十字架刑を言い渡された後、イエスは処刑場に引かれていきましたが、そこでまずイエスのことを嘆き悲しむ女性たちを慰める話があります。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」その後、ちょっと分かりにくい言葉が続きますが、それは「この先、もっと大きな苦しみが待ち受けている」という予告のようです。イエスは自分が死刑になろうとしているのですが、イエスの心にとって、自分の身を案じるよりも、出会う人々の身を案じることのほうが優先されています。
 十字架に付けられるときのイエスの言葉もルカ福音書だけが伝えるものです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ここでもイエスは自分のことよりも、自分を十字架につけた人々のことを思いやり、その人々のために神にゆるしを祈りました。
 マルコ福音書やマタイ福音書では一緒に十字架に付けられた犯罪人二人がイエスをののしったことになっていますが、ルカ福音書はそのうちの一人がイエスを正しい方と認め、イエスに救いを願いしました。それに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されました。ここにも最後の最後まで、出会った人を愛し抜かれたイエスの姿があります。

 そしてルカが伝える十字架上での最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というものでした。これもマルコやマタイとはずいぶん違います。マタイとマルコが伝える十字架のイエスの言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした。絶望のようにも聞こえるこの言葉は、答唱詩編で歌われた詩編第22編の冒頭の言葉で、この詩編全体を見れば、最終的に賛美に変わっていくのですが、とにかくひどい苦しみの中からの叫びであることも事実です。ルカは、これとは違う「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉を伝えています。これはほとんど詩編31・6の言葉です。元の詩編と違うのは呼びかけの言葉で、詩編では「まことの神、主よ」となっていますが、ルカでは「父よ」という呼びかけです。十字架につけられた場面での祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と同じイエスらしい呼びかけになっています。ルカは、最後の最後までイエスが父である神に信頼して祈り続けた姿を伝えるのです。

 マルコ福音書やマタイ福音書では、十字架のイエスは無力でただの苦しむ人になってしまったように見えます。ルカの描く十字架のイエスも確かに無力で、苦しむ人です。しかし、ルカはその中で最後まで人を愛し続け、最後まで神に信頼し続けたイエスの姿を大切に伝えています。

 ここから二つのことを感じ取りたいと思いました。
 わたしたちもまったく無力で、苦しみばかりで、どうにもならないしどうにもできないと感じることがあります。それでも、十字架のイエスは、あなたにできることがある、と語りかけているのではないでしょうか。それは精一杯人を愛すること、そして神に信頼し、神に自分を委ねること。どんな苦しみと無力さの中でもそれだけはできることなのだ!
 もう一つのこと。それは、本当に神に信頼して生ききるとき、本当に人を大切にして生ききるとき、その人生の歩みは、肉体の死で終わらない、ということです。信頼という神とのつながり、愛という人とのつながりは、死に打ち勝つ! これがイエスの十字架が語りかけていることです。そしてそれをキリスト教は「復活」という言葉で宣言してきました。

 イエスの受難・死・復活を、わたしたちはこの聖週間をかけて思い起こし、祝います。2000年前のこととしてではなく、今のわたしたちの生きる力の源として、大きな支え・励ましとして、希望の根拠として、イエスの受難・死・復活を記念したいと思います。



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