

四旬節ですが、わたしにとってこの時期は、さくら餅の季節でもあります。
南相馬市原町区では、野馬追祭場の近くにある「遠藤菓子舗」がお勧め!
かなり年配のご夫婦だけでやっておられる小さな和菓子屋さんです。
●四旬節第2主日
聖書箇所:創世記22・1-2, 9a, 10-13, 15-18/ローマ8・31b-34/マルコ9・2-10
2021.2.28カトリック原町教会
ホミリア
昨年2020年6月13日にペトロ・ネメシェギ神父が天に召されました。97歳でした。ネメシェギ神父はハンガリー出身のイエズス会司祭で、40年間日本で働き、上智大学神学部教授として、多くの神学生を教え、多数の優れた著書を残され、多くの日本人にキリスト教信仰の素晴らしさを伝えました。わたしも神学生として、たくさんの講義を聞き、たくさんの本をとおして勉強させていただきました。1990年代、故国ハンガリーで共産主義政権が倒れ、教会に自由が回復され、70歳でハンガリーに戻り、神学教育や信徒養成をとおして27年間、ハンガリーの教会の復興のために働かれました。
ネメシェギ神父は日本にいたとき、特に日本人の教区神学生の養成を大切に考えてくださり、イエズス会の修道院ではなく、教区の神学校(東京カトリック神学院)に住んでおられました。わたしが神学校に入学してから卒業するまで、6年間生活をともにさせていただきました。いや、わたしは卒業して6年後に神学生の指導者として、もう一度神学院に戻りましたが、その時もネメシェギ神父は教区の神学院におられましたので、10年近くご一緒させていただきました。たくさんの思い出があります。
当時の東京カトリック神学院には、世界中の神学校の中で多分ここにしかない、と思われるような大浴場がありました。ネメシェギ神父はそのお風呂が大好きで、神学生と裸の付き合いをしてくださいました。神父のバスタオルが汚いのに驚いた記憶もあります。いくらでも新しいタオルがあったでしょうに、古いボロボロのバスタオルを使い続けている、そういう超清貧なところがありました。
今でも思い出すのは、神学校に入ったばかりの頃、何かの行事の帰りに一緒に地下鉄に乗った時のことです。相手はとても偉い先生なので、わたしは何を話せば良いのかわからず、こんな質問をしました。
「四旬節の主日のミサでなぜ、主の変容の場面が読まれるのですか?」
今日の福音の箇所ですね。神学生になったばかりのわたしには四旬節になぜこの箇所が読まれるか、不思議だったので、質問したのです。それに対するネメシェギ神父の答えは、「レオ1世教皇様の説教集を読みなさいねー」というものでした。すぐに答えてはくれないのですね。今だったら図々しく「簡単に教えてください」というところですが、当時はそんなこと言えません。それで神学校に戻って、図書館に行きました。
幸い、レオ1世教皇の『キリストの神秘』という本の日本語訳が見つかりました。
レオ1世は5世紀半ばのローマの司教(教皇)でした。当時はゲルマン民族の大移動の時代、レオ1世は、ローマに侵入しようとしてきた民族のボスと交渉し、平和的な解決を求めたことで知られています。また、カルケドン公会議では、ローマの司教として、東方の司教たちとのつながりを確固なものとして示したことでも知られています。
そして、多くの説教を残していて、それが『キリストの神秘』という本になっていたのです。その中に四旬節の説教もあり、主の変容の箇所のことが述べられていました。山の上でイエスの姿が光り輝いた、というのは、イエスが受難をとおって受けることになる栄光の姿を、三人の弟子だけに特別な形で示し、それによって、受難のイエスにつまずくことなく、イエスに従うよう励ますものだった、というようなことが述べられていたと思います。だからわたしたちもイエスの後に従っていこう、と。
四旬節に変容の箇所が読まれるわけは分かりました。でもそれ以上にわたしには、5世紀からもうすでに四旬節には変容の箇所が読まれ、その伝統が今の教会にまで繋がっているということが驚きでした。ネメシェギ神父は神学生の質問に簡単に答えるのではなく、その質問をきっかけにして、もっと勉強させようとしていたのだということもよく分かります。本当に偉大な神学教師だったと思います。
そういうわけで四旬節第2主日になると、いつもネメシェギ神父とレオ1世教皇のことを思い出します。
この栄光のイエスの姿は、受難と死をとおって、イエスが受けることになる栄光の姿なのです。イエスはここから受難の道を歩み始めますが、それは本当に栄光への道であり、それこそが神の「愛する子」としての道なのです。そして「これに聞け」と言って、ペトロと他の弟子たちはイエスに従うように招かれるのです。
四旬節のテーマがここに示されています。
受難の道、十字架への道。それは本当は受難と死をとおって、復活のいのちに向かう道。あなたがたもこの道をイエスの後について歩んできなさい。それが四旬節の大きな呼びかけです。
回心の行いとして、「祈り、節制、愛の行い」が勧められるのも、イエスのこの歩みに連なるためです。この四旬節、イエスが十字架に向かう中で、どのように祈られたかを深く味わいましょう。どのように自分を捨てていかれたかを深く感じ取りましょう。そして、どのようにすべての人を愛し抜かれたかを、深く黙想しましょう。そのイエスの祈りと自己放棄と大きな愛にわたしたちもなんとかつながっていたいのです。
今年の四旬節の教皇メッセージで、フランシスコ教皇は、四旬節は、「信仰、希望、愛を新たにする時」だとおっしゃっています。これも大切にしたい点です。
この四旬節をとおして、受難と死を経て復活に向かうイエスの歩みを見つめながら、わたしたちが、本当に信仰を、希望を、愛を深めることができますように、心を合わせて祈りましょう。

