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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活祭までの予定



主日ミサの説教メモはお休みします。
以下は、復活祭ごろまでの幸田の予定です。
ご参考まで。

1月19日(日) 年間第2主日 9:00入門講座10:00原町ミサ
1月25日(土) 13:30-15:20 CTVC被災地から語る(講師:山元町・菊地慎一郎さん)〜幸田はあいさつだけ
1月26日(日) 年間第3主日9:00入門講座10:00原町ミサ
2月 2日(日) 主の奉献9:30元寺小路教会ミサ
      (原町の入門講座は休み、原町のミサ司式司祭は未定)
      13:30-15:30仙台ロゴス公開講演会「『野戦病院』としての教会を目指して
      〜大地震・大津浪・原発事故の被災地より〜」(講師:幸田)北仙台教会にて
2月 9日(日) 年間第5主日9:00入門講座10:00原町ミサ14:00小高修道院ミサ
2月16日(日) 年間第6主日9:00入門講座10:00原町ミサ
2月23日(日) 年間第7主日9:00入門講座10:00原町ミサ
2月26日(水) 灰の水曜日7:00原町ミサ
3月 1日(日) 四旬節第1主日10:00原町教会ミサ(洗礼志願式)
3月 8日(日) 四旬節第2主日9:00入門講座10:00原町ミサ14:00小高修道院ミサ
3月11日(水) 14:30東日本大震災追悼復興祈念ミサ(東京カテドラル、菊地大司教司式)
3月14日(土) 13:30いのちの光3.15派遣ミサ(原町教会、山野内司教司式)
3月15日(日) 四旬節第3主日 10:00-13:00一本杉・畳屋丁教会黙想会(会場は一本杉教会)
      (原町の入門講座は休み、原町のミサ司式司祭は未定)
3月22日(日) 四旬節第4主日9:00入門講座10:00原町ミサ
3月29日(日) 四旬節第5主日9:00入門講座10:00原町ミサ
4月 5日(日) 受難の主日9:00入門講座(予備日)10:00原町ミサ
4月 9日(木) 聖木曜日19:00主の晩さんの夕べのミサ
4月10日(金) 聖金曜日19:00主の受難の典礼
4月11日(土) 復活徹夜祭 19:00ミサ・入信式(洗礼・堅信・聖体)
4月12日(日) 復活の主日10:00原町ミサ(講座は休み)
4月19日(日) 復活節第2主日 9:00聖書講座10:00原町ミサ


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主の公現の祭日



カリタス南相馬の玄関の棚です。
鏡餅は眞こころさんの自家製。なぜか聖母子像とともに。

●主の公現の祭日
 聖書箇所:イザヤ60・1-6/エフェソ3・2, 3b, 5-6/マタイ2・1-12
                 2020.1.5カトリック原町教会
 ミサのはじめに
 正月早々、アメリカ軍がトランプ大統領の命令によってイランの重要な人物であるソレイマニ司令官を殺害した、というニュースが飛び込んできました。この年、世界の平和が守られますように、すべての人のいのちが守られますように、祈りましょう。

 ホミリア
 お生まれになった幼子イエスが、ユダヤ人だけの王ではなく、すべての人の救い主として生まれたこと。全世界のすべての人にとっての光であること。そのことのしるしとして、遠い東の国から来た博士たちが拝みに来たというのが今日の福音の箇所です。今日の福音の出来事はわたしたちを狭さから解き放ち、もっと大きなところに目を向けるように招いていると思います。

 今年は、地震・津波・原発事故という大災害から10年目を迎えます。
 わたしたちの原町教会にかつていた何人かの信徒の方は避難したまま、戻ってくることができません。震災とは関係ないかもしれませんが、昨年はご家族を亡くされた方も何人かいらっしゃいました。さびしいことです。しかし、多くの出会いにも恵まれ、震災以前よりも教会は賑わっているとも言えます。梅津神父、狩浦神父、そしてわたしが司祭として常駐するようになり、毎週主日のミサが行われてきました。洗礼式も毎年のように行われ、信徒の数も増えました。カリタス南相馬が隣にできて毎日生き生きと活動していますし、教会とカリタス、さゆり幼稚園が密接なかかわりの中で動いています。

 わたしがこの教会に来て3年が経ちますが、ずっと考えていることは、「地域とともに歩む教会」ということです。岩手県のある被災地の教会の方が言いました。「カトリック教会というのは特別な人がお祈りに行く特別な場所で、地域の人々とは何の関わりもなかった。でも震災の後、それは少しずつ変わってきている」震災と原発事故という悲惨な出来事をとおして、そしてボランティア・ベースの経験を経て、教会は、周囲の人にとってもっと近い存在になることができました。ただ信徒が集まってお祈りしている場が教会なのではなく、周囲の人々と助け合い、一緒に泣いたり笑ったりしながら生きていく。それが教会なのだと感じるようになってきました。そのことは本当に大切なことです。
 今年もこの「地域とともに歩む教会」というテーマを掲げて歩みたいと思います。
 平賀司教は今年の年頭書簡の中で、この9年間に経験した、全国の教会の方々や信徒でないボランティアの方々との交わりをとおして、神がわたしたちの教会を開いてくださった、というようなことをおっしゃっています。

 そして教皇はあの11月25日の「被災者との集い」の中で、こう言われました。
 「三重災害後の復興と再建の継続的な仕事においては、多くの手と多くの心を、あたかも一つであるかのように一致させなければなりません。こうして、苦しむ被災者は助けを得て、自分たちが忘れられていないと知るはずです。多くの人が、実際に、確実に、被災者の痛みをともに担っていると、兄弟として助けるために手を差し伸べ続けると知るでしょう。」
 東日本大震災と原発事故からの復興・再建という課題は決して終わってはいません。特に「心の復興」と言われる課題はこれからも続いていきます。その意味で、この教会はこれからも「被災地の教会」であり続けます。地域の復興のため、本当に人々の心に平和が取り戻されますように、力を合わせて取り組みたいと思います。
 昨年の台風19号によってこの教会の周辺の地域でも、また大きな被害が出ました。たぶんこれからもいろいろな災害が起こると思います。そういう中でもわたしたちは常に被災された方、特に弱い立場の方々と共に歩んでいきたいと思います。

 もう一つわたしの心に残っているのは、フランシスコ教皇が東京ドームのミサの説教で言われた「野戦病院」という言葉です。
 「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。」
 その人が仲間であるかどうか、味方か敵か、そんなことは関係ない。お金があるかどうか、それも関係ない。傷つき、もがいているすべての人に神のいつくしみを示す、それが野戦病院としての教会です。「いつくしみ」と訳されている言葉は英語では「compassion」となっていました。「共感・共に苦しむこと」という意味ですね。どうかわたしたちの教会が、いまもなお、被災地の教会だからこそ、この野戦病院としての教会の姿に近づくことができますように。

 非常に具体的な課題は3つあると思います。

・教会に新しく来る人をていねいに迎え入れる(新信者も含めて)
・(病気や高齢のために)なかなか教会に来られない人に心を向ける
・外国籍の信徒とともに教会共同体を作っていく

 わたしの力、能力や体力にはいろいろ限界を感じています。どうか皆さんが少しずつ力を出し合って、これらの課題に取り組んでくださいますように。
 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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神の母聖マリアの祭日



福島県南相馬市から母の住む千葉県我孫子市まで移動して、2日にやっとおせちをいただくことができました。

●神の母聖マリアの祭日・世界平和の日
 聖書箇所:民数記6・22-27/ガラテヤ4・4-7/ルカ2・16-21
              2020.1.1カトリック原町教会
 ミサのはじめに
 あけましておめでとうございます。クリスマスの一週間後に新しい年の元旦を迎え、神の母聖マリアの祭日を祝います。お生まれになった幼子イエスの光の中で新しい年を始めていきます。どうか幼子の光がわたしたちの日々を、そして、すべての人を照らしてくださいますように。
 カトリック教会では、1月1日は「世界平和の日」でもあります。今年の教皇メッセージの題名は「希望の道である平和――対話、和解、エコロジカルな回心」。訪日のときと同じく、核兵器や軍事力によらない平和への道を呼びかけています。教皇とともに平和への決意を新たにして祈りましょう。

 ホミリア
 クリスマスから一週間、神のひとり子が人類の一員となり、わたしたちとともにいてくださる方となった、その喜びのうちに新しい年を迎えました。クリスマスは12月25日で終わり、26日からまた神もイエスもいない世界に戻っていくのではありません。イエスがともにいてくださる、そこから出発して、本当に人と人とが結ばれ、神と人とが結ばれるという喜びの世界をわたしたちは生きていくのです。

 人と人との結びつき。南相馬にいると人がいてくれることがうれしい。カリタスのホールでコンサートをしたら満員でした。クリスマスの聖堂に幼稚園の子供が全員来たときも満員でたいへんでした。でも人がいてくれるのは、無条件にうれしい。大都会では違いますね。先日、久しぶりに東京のJR中央線のラッシュアワーを経験しました。人が多すぎてまいってしまう。人を人と思わなければ耐えきれない。人はできればいてほしくない。そんな感じがしてしまいました。
 スマホやゲームに没頭していれば、他人なんかいなくてもいい。コンビニやスーパーに行けば、一人分のおかずを売っているから、人と一緒に生活し、人と一緒にごはん食べなくてもいい。もしかしたら、人との繋がりなんかなくても生きていける、わたしたちはそんな錯覚に陥る世界をどんどん作ってきたのではないでしょうか。
 でもフランシスコ教皇が日本にきて言われたように、それは本当の幸せではありません。
 「世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人のなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔のない社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。『孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です』。心に聞いてみたらいいと思います。『自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか』。正直に気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていないと感じることです。」

 国というものもそうです。今日の1月1日は「世界平和の日」ですが、11月の教皇訪日の際、長崎で語られた言葉を思い出します。
 「今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点でもあるのです。」
 国と国との対話と相互信頼を深める動きではなく、自国中心主義が強まっているのは、平和に対する非常に大きな危機だというのです。…人と人、国と国の関係の大切さを無視して、自分だけがよければいい、自分の国さえよければいい、その現代の誘惑に打ち勝ち、豊かな関係を作っていくことは、わたしたちの課題です。

 と同時に神との関係の大切さも新年にあたって、確認し合いたいと思います。
 「天地の創造主、唯一の神、イエス・キリストの父である神」という言い方をすると他の人々の宗教・信仰を否定するような響きがあるかもしれません。もっと広く「人間の力を超えた、目に見えない大きな力」というような意味での神とのつながりの大切さはだれにとっても大切だと思います。
 日本人の多くは初詣に行きます。神社でしょうか、お寺でしょうか、あるいは教会でしょうか。どこかで「人間の力を超えた、目に見えない大きな力」の存在を感じているから、そうするのだと思います。それは素晴らしいことかもしれませんが、でもそれが正月だけじゃしょうがないのです。本当に日々、わたしたちは神の愛に支えられ、生かされ、導かれている。そのことの大切さを日々確認してくことはやはり大切です。
 そうでなければ、いつの間にか人間の力がすべてになってしまいます。自己責任ですべてをしなければならない。うまく行かないのは、人間としての努力が足りないからだ。そうやって人を裁いたり、自分を裁いたり。しかし、わたしたちはもっと大きな恵みの世界に立つよう招かれているのです。
 日々の祈り(感謝と賛美と願い)。聖書を読むこと。共に信仰の道を歩む仲間・共同体。一年の初めに当たって、信仰生活の原点をしっかりと思い出し、本当に日々、神と共に歩むことができるよう、決意を新たにしたいと思います。そしてそこから、わたしたちが互いに兄弟姉妹として生き、国や民族を超えてすべての人が兄弟姉妹として大切にし合う生き方につながっていきますように。


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聖家族の祝日



皆さま、今年も本当にお世話になりました。
どうぞ、よいお年をお迎えください。

●聖家族の祝日
 聖書箇所:シラ3・2-6, 12-14/コロサイ3・12-21/マタイ2・13-15, 19-23
                 カトリック畳屋丁教会・一本杉教会
 ホミリア
 聖家族の祝日を迎えて、半年前に出会った一つの聖家族像を思い出しています。その聖家族像は、福島県白河市にあるアウシュビッツ平和博物館に展示されていました。
 作者はミエチスラフ・コシチェルニアクという画家です。彼はポーランド人でしたが、対ドイツのレジスタンス運動に関わって、ナチスに捕らえられ、アウシュビッツ収容所でコルベ神父と同じ囚人棟に入れられました。その後、彼は他の強制収容所に移され、1945年にアメリカ軍によって生きて解放されました。
 アウシュビッツでは祈ることも宗教的な絵を書くことも禁じられていましたが、密かにブリキの板に釘でこの聖家族の絵を書きました。幼子イエスは床に寝かされているように見えます。その貧しさと悲惨さが強調されているように感じます。そして、でも、マリアとヨセフは必死に幼子を守ろうとしているようです。この絵は囚人たちの手から手へと手渡され、多くの人を励ましたと言われています。
 今日、聖家族を祝うにあたって、この絵を思い出しています。生まれて、飼い葉桶に寝かされたイエスの姿、そして、ヘロデ王に幼子のいのちを狙われ、エジプトに逃げていった聖家族の姿とアウシュビッツの囚人たちの姿はどこかで重なるからです。イエス、マリア、ヨセフの家族はほんとうに厳しい現実を生きていました。でもその中で支え合い、愛し合い、祈り合っていたとわたしたちは信じています。

 今日の福音はエジプトに難民として避難した聖家族の話です。ですから特別に今の日本にいる難民のことを思わずにはいられません。フランシスコ教皇は東京カテドラルで青年たちとの集いを行いましたが、そこに何人かの難民の青年がいました。そして教皇はこう語られました。
 「とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。」
 この教皇の呼びかけを受けて、難民支援協会、カトリック東京国際センター、カリタスジャパン、日本カトリック難民移住移動者委員会は合同で、次のような声明を発表しました。日本における難民の状況がよくまとめられていると思います。

 「日本は、インドシナ難民を1万人以上受け入れてきたことに加え、第三国定住、官民によるシリア難民の留学生としての受け入れにも取り組んでいます。しかし、自力で日本へたどり着いた難民申請者へは一貫して厳しい姿勢を貫き、昨年難民認定された人数は42人にとどまります。厳しい審査基準に加え、審査期間は平均で約2年半、長い人は10年間におよび、その間最低限の生活保障もなくホームレスとなる人もいます。空港で難民申請し、収容される人もいます。
 また、難民申請者を含む、在留資格がない外国人の収容に大きな課題があります。出入国在留管理庁の内部の手続きのみで収容の可否が決められ、退去強制令書発付後の収容は期限の定めもありません。今年の6月30日現在収容されている人の総数1,253人のうち2年以上収容が続いている人は180人に上ります 。収容施設内での医師の診察には平均2週間以上を要するなど医療アクセスにも課題があり、こういった環境の中で、2007年以降15人が死亡、今年は餓死者も出るといった痛ましい事件が起こりました。」
 こういう現実に、この人々の苦しみにわたしたちはもっと敏感でなければならないと思います。難民申請している人、牛久や大村のセンターに収容されている人の痛みを本当にもっと感じたいと思います。そこから祈りと行動を始めたいと思います。

 もう一つ、青年との集いでフランシスコ教皇が語られた言葉を思い出します。
 それは若者たちに向かって、「何のために生きているのではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか」と問いかけなさい、と語られた言葉です。
 わたしたちはだれのために生きていますか?
 だれのためでもない、としたら、ものすごく孤独で味気ない人生だと思います。家族のために生きている、と感じられたら大変なこともいっぱいあるけれど、根本的なところでうれしいですね。聖家族の祝日を祝い、クリスマスやお正月を祝う中で、「家族のために生きている」ということの喜びをもう一度、しっかりと感じたいと思います。

 でも教皇はもっと広いつながりを若者たちに期待していました。身近な人だけでなく、もっとほかの人と出会い、ほかの人と人生を共有することです。その文脈の中で、先ほどの難民のことが出てきます。自分の家族はもちろん大切ですけれど、すべての人、特に困難な状況に置かれている人のために生き、その人々と人生を共有する。すべての人と兄弟姉妹として生きる。そのことはキリスト者にとってはいつも大きな課題です。「聖家族」は聖家族だけで完結していません。父である神のもとですべての人が兄弟姉妹である、その人類全体という大きな家族に向かって開かれている家庭。わたしたちの家庭も少しでもそうありたいと願います。

 わたしたち一人ひとりに、わたしたちそれぞれの家庭に、そして教会と世界の上にそそがれたこの一年の恵みといつくしみに感謝しながら、一年のしめくくりのミサを心を込めてささげましょう。



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主の降誕・夜半のミサ



主の降誕おめでとうございます。
南相馬に来て4度目のクリスマスを迎えました。
今年もクリスマスカードを出す余裕がなく、クリスマス当日になってしまいました。
日ごろの無礼をお詫びします。
皆さま、どうか素晴らしいクリスマスと新年をお迎えになられますように。

クリスマスの説教はどうしても毎年、同じ内容になってしまいます。
でもこれが一番大切なメッセージだと思いますから、毎年語り続けたいと思います。

●主の降誕・夜半のミサ
 聖書箇所:イザ9・1-3, 5-6/テトス2・11-14/ルカ2・1-14
        2019.12.24カトリック原町教会
 ホミリア
 ご存知の方も多いと思いますが、わたしはずいぶん前からほそぼそとブログをやっています。ほとんど説教のメモを載せているだけのブログですが、このブログのタイトルは『毎日がクリスマス』と言います。今日はクリスマスですが、わたしがなぜ「毎日がクリスマス」と言っているか、そのことを分かち合いたいと思います。

 『毎日がクリスマス』というブログの書き手ですから、もちろんクリスマスにはこだわりがあります。特にこだわりを持っているのは「飼い葉桶」です。イエスの誕生の場面の特徴は何と言っても、生まれた幼子イエスが飼い葉桶に寝かされたということだからです。
 飼い葉桶のことを、日本語で「まぶね、うまぶね」とも言います。そこから連想して、イエスが生まれた場所を「うまや」とか「馬小屋」ということがあります。日本語の「まぶね」や「うまや」は馬だけでなく、牛のためでもありました。農耕で使う家畜の餌を入れるのが「まぶね」で、その動物を飼っていた場所が「うまや」でした。昔の日本だとそこにいたのはふつう馬や牛でした。いつも間にか、もっとわかりやすく「飼い葉桶」「馬小屋」と言われるようになりました。日本の教会では今、当たり前のように馬小屋と言っています。しかし、これは大問題です。イエスが生まれた場所に馬はいなかったからです。伝統的に描かれてきた降誕の場面でも、そこにいるのは牛とロバで、馬はいませんね。そろそろ馬がいないのに「馬小屋」と言うのはやめにしたほうがいいと思っています。最近ではプレゼピオというイタリア語も使われるようになりましたが、まだ一般的ではありません。プレゼピオは「飼い葉桶」あるいはもっと広く「家畜小屋」を指す言葉です。

 イエスの時代、イエスの国で人々が農耕や荷運びのために飼っていた動物は牛やロバでした。馬は身分の高い人の特別な乗り物、あるいは戦争のときに使う軍用の動物でした。イエスはそんな馬のいるところで生まれたのではありません。普通の人の普通の家畜が飼われている場所でイエスは生まれたのです。そのことはやはり貧しさを表しています。
 そしてその幼子の誕生の知らせを聞いたのは、当時、ベツレヘムの郊外で夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたちでした。羊飼いというと何となくロマンチックな職業のように聞こえるかもしれません。しかし、イエスの時代の羊飼いというのは多くは雇われ人で、50頭から100頭の羊の群を追って、草のある場所を探して旅をしていくという結構厳しい生活をしていた人たちでした。イスラエルの民の先祖は皆、羊飼いのような生活をしていたと言われますが、イエスの時代には普通の人は町や村に定住するようになっていました。町の人たちから見れば、住所不定の流れ者、夜間労働者。実は羊飼いというのは蔑まれた職業だったのです。その人々に救い主の誕生が真っ先に告げられたというのです。そして彼らは幼子イエスに出会いました。家畜小屋のようなところで、飼い葉桶に寝かされている幼子だからこそ、この羊飼いたちは会うことができたのだと思います。そして喜びに満たされたと伝えられています。

 幼子イエスは何もしてくれません。パンを増やしてくれるわけでも、病気を直してくれるわけでも、立派な説教をしてくれるわけでもありません。救い主が誕生したからと言って、その幼子イエスに会ったからと言って、羊飼いたちの厳しい現実は何も変わらない。労働の苦しみも、貧しさも、町の人々からの差別の目も何も変わらない。
 でも羊飼いたちは喜びに満たされました。それは神がわたしたちを見捨てていない、と知ったからです。救い主がこんなに身近に、手を伸ばせば触れられるような姿で、こんなに近くに来てくださったと知ったからです。
 羊飼いたちの人生はある意味で昨日までとはまったく変わってしまいました。それは彼らの人生が「神がともにいる人生」になった、ということ、救い主イエスがともにいてくださる人生になったということです。わたしたちは今日、そのメッセージを受け取るように招かれています。わたしたちそれぞれの人生がどんな思い通りにいかないことばかりでも、困難や苦しみに満ちていても、人間関係や仕事の悩みが大きくても、それでもわたしの人生は神がともにいてくださる人生なんだ、わたしの毎日は主イエスがともにいてくださる毎日なんだ。そう受け取って、そこから新たに歩み始めるように招かれているのです。

 主イエスの誕生の出来事は、年中行事のように、あるいは、打ち上げ花火のように12月25日で終わってしまうような出来事ではありません。この世界を神がともにいてくださる世界、わたしの人生をイエスがともにいてくださる人生と受け取る最初の日なのです。その意味でイエスの誕生から始まる毎日がクリスマスなのです。「毎日がクリスマス」というのは、もちろん毎日お祭り騒ぎっていう意味ではなく、どんなに悲惨な日々でもその中に神がいてくださると信じて生きていきたい、という意味です。
 今も戦争やテロの恐怖におびえている人々がいます。今も経済的に追い詰められている人がいます。今も社会や人との交わりから排除されている人がいます。今も災害や病気に苦しんでいる人がいます。今も暴力や虐待に傷ついている人がいます。
 そのすべての人に幼子イエスは「ぼくが一緒にいるよ」と語りかけています。何の言葉も発しませんが、飼い葉桶の中から、「ぼくはこんなに小さく、貧しく、無力な姿でこの世に来た。それはあなたの辛さ、悲しみ、痛みを一緒に荷なうためだよ。どんなときでもぼくが一緒にいることを忘れないで」
 この幼子イエスの呼びかけを今日しっかりと受け取りたいと思います。


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