毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

Christmas Card 2017



クリスマスカード、きちんと皆さんに出すことができませんでした。
申し訳ありません。
せめてこちらでご挨拶させていただきますのでよろしく。
(カードは東京カルメル作成のものを使わせていただきました)

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狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
(イザヤ書11章6-9節)


 イエスの誕生と新年のお喜びを申し上げます。
 昨年12月から福島県南相馬市にある原町教会に長期滞在しています。ここは福島第一原発から最も近い場所にあるカトリック教会です。被災地支援の拠点であるカリタス南相馬も無事にオープンから1周年を迎えることができました。来年の復活祭まではこの地で奉仕させていただくことになりました。ここには厳しい状況もありますが、わたしのほうは、ここでさまざまな出会いの恵みをいただき、心身ともにいやされています。
 紀元前8世紀、旧約聖書の預言者イザヤは、強い者が弱い者を害することなく、すべての人が平和に暮らすことのできる世界の到来を予告しました。降誕祭を迎え、すべての人の人権と平和のために祈り続ける決意を新たにしております。
 どうか良い新年をお迎えください。
   2017クリスマス
                幸田和生


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待降節第1主日



写真は朝日に輝く白石教会の十字架です。
12月3日(日)は、宮城県南4教会合同の待降節黙想会に招かれました。大河原、白石、角田、亘理の4教会で、会場はこの白石教会でした。

旧約時代の人々は何を待っていたのか、
イエスの到来はその人々に何をもたらしたのか、
そして、今のわたしたちは何を待っているか、というようなお話をさせていただきました。

ミサの説教は、講話の続きのような話なので、説教メモは今回お休みです。ごめんなさい。



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初の自家製おみ漬



山形の新庄教会に行ったとき、山形青菜(せいさい)をいただきました。
おかげさまで、前から自分で作ってみたかった「おみ漬」を作ることができました。

納豆との相性が抜群です!


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Happy Pentecost !



聖霊降臨の主日は仙台教区第6地区の合同堅信式ミサが元寺小路教会で行われたため、原町教会ではミサがありませんでした。
というわけで説教メモもありませんが、代わりに自作の「さごはち(三五八)漬け」の写真でも・・・。

聖書に「聖霊による洗礼」という言葉がありますが、元々のイメージは「聖霊の中に沈められること」「聖霊に浸されること」。ある人は「聖霊漬けになること」と言いました。いろんな野菜が同じ「さごはち」の漬け床に漬かっても、きゅうりはきゅうり、ナスはナス、ニンジンはニンジンです。わたしたちが聖霊漬けになってもそれぞれの個性がなくなるわけではありません。それが教会の豊かさなんですね。



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主の公現のミサ



三博士到着。

●主の公現
 聖書箇所:イザヤ60・1-6/エフェソ3・2, 3b, 5-6/マタイ2・1-12
                           2017.1.8原町教会
 ホミリア
 今年、南相馬で年越しをすることになって、是非したいと思っていたことが2つありました。それは深夜0時に小高区の同慶寺に行って除夜の鐘を聞くこと。もう1つは北泉海岸で初日の出を見ることでした。無宗教と言われる多くの日本人がそういうところに何かしら神聖なものを感じているのは興味深いし、何となく共感できます。でも実際には年末から風邪を引いてしまって、両方とも諦めました。残念。
 今日は主の公現の祭日。お生まれになった幼子イエスの光がすべての人に届いたという話。人種や民族の違いを超えてイエスがすべての人の救い主であることが示されました。ここに出てくる「占星術の学者」というのは、ペルシャのゾロアスター教の祭司階級の人だったようです。彼らはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもありませんでした。その人々が星の導きを頼りに幼子イエスに会いに来て、イエスを拝み、贈り物をささげました。この話は単なる英雄伝説ではありません。イエスによってもたらされた救いが人種や民族の壁を超えるということを前もって表す出来事として、祝われています。その意味で、成人したイエスは異邦人とどのように出会われたのかが大切、マタイ福音書の中から2つの話を思い起こしたい。

 一つは8章にある百人隊長の話。彼はローマ軍の軍人でした。彼は病気で苦しんでいる自分の部下を助けたい一心でイエスに近づきます。「一言おっしゃってください。そうすればわたしの僕はいやされます」イエスは彼の言葉を聞いて感心し、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って、さらに「あなたが信じた通りになるように」と言われました。するとちょうどそのとき、僕の病気はいやされたとあります。
 もう一つは15章にあるカナンの女との出会いです。彼女には悪霊に苦しめられていた娘がいました。それでイエスに向かってどうか助けてください、と叫ぶのです。イエスは最初は断りましたが、彼女は「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言ってあきらめません。それに対してイエスは「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われ、娘の病気はいやされました。

 共通しているのは、どちらの話でもイエスがこの異邦人たちの中に素晴らしい「信仰」を見ていることです。この信仰とはなんでしょうか? 神は天地の創造主で唯一の神であるとか、イエスは神の子キリストであると信じるような信仰ではない。占星術の学者たちも、百人隊長も、カナンの女も三位一体の神を信じていたわけではありません。彼らの抱いていた信仰というのは、とても素朴な信仰だったのではないでしょうか。その特徴は、神とイエスに対する大きな「信頼」と「謙虚さ」です。イエスが評価しているのは、信仰の内容(何を信じているか)というよりも、その思いや信仰態度(何を感じ、どう信じているか)だと言えるのではないでしょうか。その思いや信仰態度とはどういうものか? 勝手に言葉にしてみました。

 「わたしのいのちはただぽつんとあるのではなく、私個人を超えた大きないのちのつながりの中にこそある。わたしは人と人とのつながりによって生かされ、自然やさまざまなものとのつながりにも生かされている。すべてのいのちのつながりの根底に、何かしら大いなる力があって、それがわたしのいのちを生かし、守り、支え、導いてくれている。だから人間の力の限界を超えて、その力が働くということをわたしは信頼している。この大いなる力のもとでわたしは自分が小さい者であることを素直に認め、喜ぶことができる。そしてわたしと同じように小さな1つ1つのいのちをわたしは大切にしていきたいと願っている。」

 いや、勝手に言葉にしているだけです。でもイエスが評価している異邦人の中にあった思いや態度とはそういうものではなかったでしょうか。それはどの宗教の人の中にも認められるような信仰態度だと言えます。イエスはローマの百人隊長に向かって、あなたはローマの神々を信じているからだめだとは言いません。カナンの女に向かって、カナンの神々を信じているからだめだと言いません。ペルシャの占星術の学者たちは幼子イエスに出会ってゾロアスター教の信仰を捨てたわけではなかったでしょう。
 大切なのはその信仰態度。その信仰態度が人間に与えるものは何か。深いところでの安心感、心の平和、生かされている喜び、いのちの連帯感、謙虚さ、人を受け入れること、人への思いやり、、、そういうものだとしたら本当に素晴らしいと思いませんか。

 その反対は何でしょうか?「自分の力がすべて」「人間の力がすべてだ」という考えです。メシアの誕生を脅威に感じ、生まれたばかりの幼子を殺害しようとしたヘロデ王がおちいった態度です。いつも人と人とを比較して、自分よりも強い者の存在を許せないのです。その態度が悪だとか間違っていると言っても仕方ないのでしょう。ただ、そこには本当の喜びと平和がない、と言わざるをえません。
 今日、わたしたちは主の公現の出来事を祝います。東方から来た学者たちは、自分たちより大いなるものを認め、その前に跪きました。この学者たちの信仰内容ではなく、信仰態度に近づきたいと心から願いつつ、今日のミサをささげたいと思います。





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