毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第20主日のミサ



6年間にわたり全村避難していた飯舘村の避難指示が3月31日にほぼ解除され、
8月12日には道の駅「までい館」がオープンしました。
道の駅といっても、当然のことながら、地元の産物はほとんど見当たりません。
唯一見つけたのが、このインゲンでした。お味はとても良かったです。

さて、いつもの説教メモ。よろしければどうぞ。

●年間第20主日
 聖書箇所:イザヤ56・1, 6-7/ローマ11・13-15, 29-32/マタイ15・21-28
             2017.8.20 カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の第一朗読は、異邦人の救いについて語るイザヤ書56章の言葉です。民族宗教的な色合いの強い旧約聖書の中で、すべての国の民の救いへの希望が語られる大切な箇所です。そこには、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という有名な言葉が出てきます。
 パウロは異邦人の使徒と言われますが、今日の第二朗読では、同胞であるユダヤ人の救いについて語ります。ユダヤ人の中で生まれたキリスト教は、ユダヤ人以外に広がっていき、それとともにユダヤ人のほうがキリストを受け入れなくなっていきました。キリスト教は、自分たちこそ神の民であるというユダヤ人の民族的誇りを失わせると感じられたからでしょう。それを見て、パウロは心を痛めながら、語っています。そして最終的に、神は異邦人もユダヤ人も含めたすべての神の民(全イスラエル)が救われるというのがパウロの希望です。
 そして福音はイエスがカナンの女と出会い、彼女の娘の病気をいやしたという話です。
 ここでもすべての人を救う大きな神の救いのわざが語られています。3つの朗読の内容はつながっていますね。

 でもちょっと気になるところもあります。それは、イエスが最初、娘の病気を癒してくれるように願った異邦人の女性の願いを拒絶しているように感じられることです。
 「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
 なんかすごい言葉です。しかし、福音書を見れば、それがどういう意味が分かります。
 当時のユダヤ社会の貧しい人、病人や障がい者、職業的に差別されていた徴税人など。牧者である神のそばにていて、神に守られているはずの羊が散り散りになり、弱り果てている。神がその人々を見失ったのではなく、周囲の人々(とくに宗教家たち)からこの人々は神から断ち切られていると見られ、自分でもそう感じざるをえなかった人々。これが「失われた羊」のイメージです。イエスが確信していたこと、人々に伝えたことは、神がすべての人のアッバ=父であるということでした。神はどんな人も見捨てることなく、迷子になった一匹の羊をも探し求めている方。そのことを自分の出会った貧しい人々に伝えることがイエスの使命でした。だから「イスラエルの失われた羊」が優先なのです。
 しかし、イエスは少数かもしれませんが、今日の箇所のように異邦人にも出会いました。その具体的な出会いの中で、イエスはこの異邦人、救いを求めて必死で自分に近づいてくる異邦人も、やはり神の「失われた羊」だということに気づかれたのだと言ったらよいかもしれません。

 新約聖書はギリシア語で書かれましたが、ethnosという言葉があります。「国民」と訳される言葉です。典型的なのはヨハネ11章。
 「50『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』51これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」
 ここで言う「国民」はユダヤ人のことですね。
 ところがこのethnosが複数形ethneになると「異邦人」という意味になります。「諸国民」というのが言葉の意味ですが、この諸国民の中には、自分たちユダヤ人は入っていないのです。面白いですね。単数だと自分たち、複数だと他の人たち。「わたしたち」と「あの人たち」という感じです。
 もう一つ、よく出てくる言葉があって、それは「すべて」という形容詞をつけた「panta ta ethne」という言葉。これは「すべての国の民(万民)」の意味で、ここにはユダヤ人も異邦人も含まれています。「わたしたち」とわたしたちを含む「すべての人」。

 イエスも使徒たちも皆ユダヤ人であり、初代教会の問題として、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶのか、という問題がありました。なぜその壁を乗り越えることができたかといえば、「わたしたちとあの人たち」という対立ではなく、「わたしたちとすべての人」という見方ができたからです。もちろんそれはイエスがわたしたちすべての者の父である神を示してくださったから可能になった見方です。と同時に、わたしたち皆が、ある意味で、「失われた羊」であり、神の助けを、救いを必要としている。そう感じるならば、「わたしたち」と「あの人たち」の対立は超えられていくのです。

 ユダヤ人か異邦人かという対立は大昔の話です。
 でも国籍や職業や学歴や性別、力のあるなし、障がいのあるなし、貧富の差によって人をグループ分けする見方は今もあります。自分たちのグループか、別のグループか、そうやって人を区別する見方が今もあります。そこに対立、争い、差別、排除が生まれます。しかし、「何か特定のグループか、それともその違いを超えたすべての人か」という見方で見るならば、わたしたち人類はもっと一つになれるのではないでしょうか。
 日本では長い間、キリスト教は外国の宗教だと言われてきました。いや今もそう言われてしまうことがあるかもしれません。外国から入ってきた宗教だから仕方ないのか、それを乗り越えるには、もっと日本人にあうようなキリスト教の表現をする必要があるのか。しかし、わたしたちは胸を張って言いたい。キリスト教は外国の宗教ではない。わたしたちの信仰の根本には日本人も外国人もない、すべての人間の父である神を信じるのです。
 今日もすべての人の父である神にこのミサをとおして賛美と感謝をささげましょう。


PageTop

聖母の被昇天 祭日のミサ



8月15日はカトリック教会では聖マリアの被昇天の祭日でした。
この日もいろいろなところから来られた方々をお迎えしてのミサ。
祭服(ストラ)の絵柄が好評でした。

●聖母の被昇天
 黙示録11・19a, 12・1-6, 10ab/一コリント15・20-27a/ルカ1・39-56
        2017.8.15カトリック原町教会にて
 ホミリア
 「聖母の被昇天」というのは、イエスの母マリアが生涯の終わりに、体も魂も一緒に天の栄光に上げられた、というカトリック教会の教えです。教皇によってはっきり教義として宣言されたのは1950年のことです。マリアの生涯の終わりについては聖書に書いてありません。そのことについて1950年になってから教義として宣言した。プロテスタントの方から見ると、とても理解できないことかもしれません。
 ただしこれは20世紀に発明された教えではありません。カトリック教会の典礼では8世紀ごろから祝われてきました。それ以前に東方教会では「聖マリアの永眠dormitio」という祝日が8月15日に祝われていました。それが西方にも受け継がれ、マリアの祝福された「終わり=眠り」というところから発展して、次第に聖マリアが完全にキリストの復活のいのちにあずかったということを祝うようになり、西方では、「被昇天assumptio」という言葉で呼ばれるようになりました。

 カトリック教会では、1962年に第二バチカン公会議が開かれました。第二バチカン公会議は『教会憲章』(1964年)という文書の中で、マリアについて語ることになりました。最後の8章ですが、その結びとなる第5節のタイトルは「旅する民にとって確かな希望と慰めのしるしであるマリア」というものです。第二バチカン公会議の教会についての捉え方がここによく表れています。教会は「旅する神の民」。教会は真理を独占的に持っている存在とか、神の救いに満たされた状態というのではない。罪も弱さも、汚れもありながら、なんとかキリストに従い、最終的な神の救いを希望しながら、信仰と愛をもって旅をしている民。その民にとって、マリアは「確かな希望と慰め」だというのです。そこで特に思い起こされるマリアの姿が被昇天のマリアの姿です。
 このマリアの姿は、決してマリアだけが受けた栄光の姿ではありません。キリストを信じるわたしたちが皆、最終的に受けることになる救いの姿、キリストの復活のいのちにあずかるというそのことを、被昇天のマリアは前もって示している。これが大切なことです。

 第二朗読でパウロは、キリストの復活にすべての人があずかるという希望を語ります。「アダムによってすべての人が死ぬことになってように、キリストによってすべての人が生かされることになる。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」。教会はこのキリストに属している人たちの第一人者としてマリアの被昇天を祝うのです。

 第一朗読は、一人の女性の姿を表わします。「身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた」。12は旧約の神の民の部族の数であり、イエスの使徒たちの数でもあります。12という数が象徴しているのは教会なのです。この女性は教会を表すシンボルと考えられます。同時にこの女性については「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」とありますから、この女性をイエス・キリストの母であるマリアを考えることもできます。そしてこの女性は迫害の中で荒れ野に逃げ込み、そこで神の助けをいただいています。ここでのマリアの姿には、苦しみや試練の中にある教会とのつながりを見ることができます。

 さらに福音のイメージも大切にしたい。
 福音は聖マリアのエリサベト訪問とMagnificatと言われるマリアの歌。このマリアの歌の前半は救い主の母となる使命を与えられたマリアの個人的な神への賛美ですが、後半はすべての人を救う神への賛美になっていきます。前半と後半をつなぐキーワードは「身分の低さ」です。神は「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」。だから神はすべての「身分の低い者を高く上げ」てくださる。マリアはそう歌うのです。自分一人の栄光を見ているのではなく、すべての人、弱く貧しいすべての人との連帯の中で神の救いを受け取るマリアの姿があります。

 そういうわけで今日、わたしたちは被昇天のマリアの姿を仰ぎ見ながら、信頼と希望をもって祈りたいのです。
 戦争で亡くなられたすべての人が神のいのちのうちに安らかに憩うことができますように。また今も戦争におびえ、戦争によって傷つけられている子どもたちが、そこから解放されますように。人類が悲惨な戦争を繰り返すことなく、すべての分裂や争いを乗り越え、愛と相互理解に到達することができますように。たとえそれが、どんなに遠い道に見えたとしても!
 また、亡くなったわたしたちの先祖や家族が、神の永遠のいのちに入ることができますように。先祖代々キリスト信者の方もいらっしゃると思いますが、わたしたちの多くは、キリストを知らずに世を去った先祖や家族を持っています。その人々、誠実な生涯・家族や周りの人々に対する愛・病気の苦しみなどによってキリストの十字架に結ばれた人々が、キリストの復活のいのちにも結ばれると信じて祈りたいと思います。
 そしてわたしたち教会の歩みのためにも祈りましょう。日本において、わたしたちキリスト者は弱く小さな存在ですが、おとめ聖マリアに結ばれ、被昇天の聖マリアの姿に励まされながら、信仰と愛をもって歩み続けることができますように。


PageTop

年間第19主日のミサ



福島県鮫川村の古民家を改装した祈りの家「知足庵」で合宿しました。
原発事故について考え、生活のあり方を見直し、脱原発を祈る場ですが、
わたしにとって最大の魅力は薄暗い室内と囲炉裏の火です。

日曜日には合宿参加者とともに原町教会に移動してミサをささげました。
当日の説教は以下のメモとは少し違いますが・・・よろしければどうぞお読みください。

●年間第19主日
 聖書箇所:列王記上19・9a, 11-13a/ローマ9・1-5/マタイ14・22-33
         2017.8.13カトリック原町教会
 ホミリア
 福音はイエスが水の上を歩いたという話。こういう話をどのように受け取ったらいいのでしょうか。不思議な話で「やっぱりイエスはすごい」でしょうか?でも単なる昔の不思議な話ではないように思います。どのようにして伝わったのか。初代教会の中で同じようなことが、何度も経験されたのではないでしょうか。

 教会が活動を進めて行く中、逆風でこぎ悩むという経験が何度もあったでしょう。それは迫害ということだったかもしれない。もと別の、もしかしたら教会内部の問題だったかもしれない。そしてそんなとき、「どこにもイエスがいない、助けてくれない」と感じる。でもイエスは目に見えないかたちで、水の上を歩くように近づいてきて、「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」そう語りかけ、近づいて助けてくださった。そんな体験がきっと何度もあったことでしょう。
 さらにキリストの弟子たちがイエスに従って歩もうと思ってはいても、やはり怖くて沈みそうになる。そういう体験もたびたびあったと思います。イエスはそのわたしたちを助けてくださる。福音の言葉にあるように「すぐに手を伸ばして捕まえ」というようなイエスの助けを感じたこと、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というような励ましの言葉を受け取ったこともあったでしょう。さまざまな困難の中で、復活したイエスがわたしたちを助けてくださる。今日の福音の物語は、キリストの弟子たちと復活したイエスとの出会いの物語でもあるのではないでしょうか。

 平和旬間なので、やはり平和のことを考えます。
 平和の問題は、今年特別に、すごくむずかしい問題だと感じられているかもしれません。国連では核兵器禁止条約が採択され、広島、長崎の原爆の日にあたって、被爆者や市民、市長の核廃絶への強い願いを聞きました。でも一方では、まるで明日にでもアメリカと北朝鮮の間で核戦争が始まるかのようなニュースも聞かされている。
 そんな中で、日本はやはりアメリカの核の傘で守ってもらうしかないのだ、とか、そうでなければ、自分の国だけで自分の国を守る国防力をつける覚悟があるのか、まさか軍備なしに平和が守れるなんてありえないのだから。そんなふうに厳しい選択を突きつけられているような感じがあります。でも厳しい状況だからこそこそ、わたしたちは冷静になって、本当に神のみ旨にかなう道がどこにあるのか、イエスに従う道がどこにあるのかを見つけていきたい。

 第一朗読も印象的でした。「風の中に主はおられなかった」「地震の中にも主はおられなかった」「火の中にも主はおられなかった」その後に、静かにささやく声があった。その声の中で主はわたしたちに語られる、というのです。その静かにささやく声で語りかける主の言葉に耳を傾けましょう。
 「武力によらない平和」というのは、「水の上を歩く」ほどたいへんなことなのかもしれません。それでもわたしたちはイエスに従う道を歩みたい。何も明日からすべての武力をなくすというのでなくてもいいかもしれません。ただ、今、外国の脅威があるからと軍備拡張に向かうのか、それとも長い目で見て、武力によらない平和を追求し、少しずつでも軍備縮小に向かうのか。その見極めは本当に重要だと思います。軍拡に向かっていく方向には歯止めがないし、それは決して平和をもたらす道ではない。このことはイエスの福音と20世紀の歴史が教えていることではないでしょうか。
 今日、わたしたちが本当の平和への道を歩むことができるように祈りましょう。

PageTop

主の変容の祝日・ミサ



相馬野馬追祭の最終日は小高神社で行われる野馬懸(のまがけ)。
野に放たれた馬を小高神社境内に追い込み、白装束の男たちが素手で捕まえて、神に奉納します。これが祭りのメインだそうです。

●主の変容
 聖書箇所:ダニエル7・9-10, 13-14/二ペトロ1・16-19/マタイ17・1-9
           2017/8/6カトリック原町教会
 ホミリア
 先週、はじめて野馬追という行事を見ました。馬が400騎以上参加するということで確かに迫力があって面白かったです。実際に見るまで、わたしには、なんとなく軍事演習のようなイメージがあって、どうなのだろうと思っていました。歴史を見ると、平安時代に平将門が軍事訓練のために始めたというのですが、鎌倉時代になって、幕府の手前、それでは続けられないと言うことになり、馬を神様にささげる「神事」という面が強調されて、存続が許されたとのことでした。今も神事の雰囲気が強いように感じました。甲胄競馬にしても、神旗争奪戦にしても、敵を倒すというイメージがない。勇壮だけれど、どこか平和な感じがして良かったです。

 神事だと言うのですが、この神様はどういう神様でしょうか。調べてみたら、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)という神様だそうです。ところが一方では「妙見さま」とも呼ばれていて、これは「妙見菩薩」のこと、「北辰妙見菩薩」とも言い、仏教の菩薩の名前です。まあどこの宗教というよりも、この土地の神様だと感じている人が多いのではないかと思いました。この地の人々を守り支える自然の力とか、人々を結ぶ祭りの中心にある何か、それが土地の神様だと言えるのではないかと思います。わたしたちの信仰、キリスト教信仰はその土地の神様を否定したところに成り立つのでしょうか。そうではなくて、むしろ、その神々を包み込んで、その上に、すべての人の父である神、すべての神々を超える神を見つけるのがわたしたちの信仰ではないかと思います。そういう意味で、その土地の「神事」と言われるものと自然なかたちでかかわってもいいのではないかと感じました。

 もう一つ野馬追で感じたのは、昔の「戦さ」はこういう感じだったのかな、ということでした。馬に乗った武士と武士が戦う。現実には農民とか町人も巻き添えになって悲惨なこともあったと思いますが、基本的に、武士と武士、軍隊と軍隊が戦うのが戦争。しかし、20世紀になって戦争は変わってしまいました。ゲルニカの空爆。東京大空襲など日本各地への空爆、沖縄の住民を巻き込んだ地上戦。広島・長崎の原爆。それは軍隊と軍隊の戦争ではなく、軍隊が市民を殺す戦争。国家権力が一般の民衆を殺すのが現代の戦争なのです。そういう中で現代の教皇たちは、戦争にはっきりとノーと言うようになりました。
 ヨハネ23世教皇は回勅『地上の平和』(1963年)でこう言いました。「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」(67) 教会は、伝統的には正しい戦争、やむをえずしなければならないような戦争もありうると言っていました。でも現代ではそれは通用しないと教皇は言うのです。ヨハネ・パウロ2世教皇もフランシスコ教皇も、もはや戦争は何の解決にもならないとして、あらゆる戦争に反対しています。

 さて、今日は主の変容の祝日です。なぜ8月6日がこの祝日か。十字架称賛(9/14)の40日前なのです。やはり受難との関係があります。この変容のイエスの光り輝く姿は、イエスが十字架をとおってお受けになる栄光の姿。それを前もって弟子たちに見せることによって、十字架の道を歩まれるイエスに従うようにと弟子たちを招く。これが変容の出来事の基本的な意味です。そこで思い出したいのは「キリストこそわたしたちの平和」というパウロの言葉です。エフェソの教会への手紙2章にこうあります。
 「14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

 イエスの時代、ユダヤ人と異邦人の間の壁はどうしようもない壁だと思われていました。外国人は敵であり、戦いの相手でしかありませんでした。しかし、イエスは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」「十字架によって敵意を滅ぼされた」というのです。すべての人の救いのために自分を与え尽くした十字架の愛が本当の平和への道。
 あっちの国が戦争を仕掛けてくるのだから仕方ない。やっつけなければこっちがやられてしまう。やられる前にやってしまおう。もう戦争しかない。わたしたち人類はいまだにこんなところから抜け出すことができずにいます。国と国、民族と民族、宗教と宗教の対立の構図を作って、その中で戦争を起こすのです。でも本当は、そういう対立の構図に陥ってはならない。誰もが神の子として、同じいのちをいただき、同じいのちを必死で生きているのです。そのすべてのいのちの連帯を感じ、育てる中に平和が実現します。本当の平和の道は、父である神のみこころに従い、すべての人の苦しみをになってイエスが歩まれた十字架の道にしかない。わたしたちはそう信じるのです。

 わたしたちは今日、変容の場面で、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」という天からの声を聞きました。イエスに聞き従い、平和のために働くように招かれています。それは小さなことでしょう。今日、自分の家族を大切にする。今日、自分の隣人を大切にする。今日、出会うすべての人を大切にする。どんな小さなことでも、対立と争いに向かっているのか、それとも、対話と和解、愛と信頼に向かっているのか、そこがいつも問われます。
 わたしたちの歩みがイエスの歩みにつながるものでありますように心から祈りましょう。


PageTop

年間第17主日のミサ



先週の原町教会のミサ後、素敵なお客様と一緒に記念写真を撮りました。
タイのロレンソホームの若者2人と聖カミロ修道会のシスター2人です。

●年間第17主日
 聖書箇所:列王記上3・5, 7-12/ローマ8・28-30/マタイ13・44-52
            2017.7.30カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音の「畑に隠された宝」の話を読むたびに、今から30年以上前、わたしが神学生の時代に聞いた一つの話を思い出します。当時、わたしたちの神学院には澤田和夫神父という東京教区の司祭が住んでいました(今は97歳になられますが、今なおお元気です)。当時は神学院の養成協力者という立場でしたが、週のうち半分ぐらいは東京の山谷という日雇い労働者の街に住み、半分ぐらい神学校に帰ってきて、わたしたちの霊的な世話をしてくれていました。
 あるとき、講話の中でこんな話をされました。
 「山谷の労働者の人と一緒に聖書を読んでいるとき、この畑に隠された宝の箇所について、ある人がこう言いました。『これは本当にありがたい話だ。神様がわたしたちをこんなふうに宝だと見てくれているのなら、なんともありがたい話だ』というのです。」澤田神父はその言葉に驚いたそうです。それまでこの箇所をそんな風に読んだことがなかった。このたとえは人間が求めるべきもの、どんな犠牲を払っても求めるべきものは神の国だ、とそのことを教えるたとえ話だと思っていた。ところがその労働者の人は、神様がわたしたちを宝として、高価な真珠として探し求めてくれていると受け取った。確かにそう受け取れば、こんなにありがたい話はない。
 わたしにとっても印象的でした。それ以来、この箇所を読むたびにどっちなのだろうと考えています。もちろんこの宝を神の国として受け取ることもできますが、逆に、この宝を神様から見たわたしたちのこととして受け取ることもやはり「あり」なのではないかと思っています。

 先週、この教会にタイからのお客さんがありました。それは、エイズの両親から生まれ、親をその病気で亡くし、本人も母子感染でHIVに感染している子どもたちの養護施設から来られた方々でした。シスター二人とそこで育った二人の若い女性。
 最初に説明を聞いたときに、シスターの言った言葉が心に残りました。その施設の目標は何より「子どもたち一人ひとりを尊重し、自身の価値を見いだし、誇りをもって生きられるようにする」ことだと施設長のシスターは言ったのです。いい言葉だと思いました。それからその施設についての具体的な話をいろいろと聞き、またそこで育った大学生の話を聞く中で、本当にこの目標が真剣に追求され、そのことが子どもたちに伝わっているということを感じることができました。親がないということ。親のことをほとんど何も知らないということ。自分もHIVに感染していること。今はよい薬があって、この病気で死ぬことはないのですが、今でも差別や偏見によって傷つくことがあるということ。そして将来についてのたくさんの不安もあるのです。本当にたいへんな境遇の中にいる子どもたち。その「一人ひとりを尊重し、自身の価値を見いだし、誇りをもって生きられるようにする」それはたいへんだけれど、それこそ、福音の働きだと思いました。その子どもたちがカトリックの洗礼を受けるかどうか、そんな問題じゃないのですね。本当に「自分自身の価値を見いだし、誇りを持って生きられるようにする」これこそが福音を伝えるということだと思いました。それはイエスが2000年前のガリラヤでなさっていたこと、そのものだと言えるからです。当時の貧しい人、病気や障がいをもった人、職業的に差別されていた人、罪びとというレッテルを貼られ、何の価値もないように見られていた人々、その人々にイエスは「あなたは神から見て、かけがえのない子どもであり、神の子としての誇りをもって生きていいのだ」と伝えたのです。
 このタイのお客様の印象が強かったので、今日の福音を読みながら、改めて、本当に神様がわたしたち一人ひとりをかけがえのない宝、高価な真珠のように見てくださっているということを、深く味わいたいと思いました。

 神様から見て、わたしたちの一人ひとりは畑に隠れていた宝です。その宝は人の目にも、そしてもしかしたら、自分の目にも隠されていたかもしれません。それを神が発見してくださったのです。神様の目から見たらわたしたち一人ひとりが宝であり、高価な真珠です。どんなに重い障がいを持っていても、どんなに人からいらないと言われていても、神様から見たら、いらない人間なんていないのです。そして、神はそのわたしたち一人ひとりをご自分の宝として取り戻すために、ひとり子を与え尽くされた。今日の福音で、2回繰り返されますが、畑を買う、真珠を買うために「持ち物をすっかり売り払って」とあります。イエスこそがわたしたちを神のもとに連れ戻す、取り戻すために、すべてを投げ打ってくださった方です。

 わたしたちはこの福音を受け取りたいのです。
 そして、この福音をなんとか伝えたいのです。
 わたしたちがどうしようもなく落ち込んだ時、この福音はわたしたちを支える力になります。わたしたちの身近な誰かが、本当に、苦しい思いをしているとき、心が傷ついているとき、自分なんか生きている意味がない、と思っているときに、この福音は力になります。
 わたしたちが日々出会う人との関わりをとおして、「あなたは宝だ」という、この福音を伝えるものとなりますように、この福音に仕えるものとなりますように。心から祈りたいと思います。


PageTop