毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第28主日のミサ



南相馬市鎮魂復興市民植樹祭。5年前の第一回のときも参加しました。
あいにくの雨でしたが、5年前に比べていろいろ改良されていた面もあり、参加できてよかったです。

●年間第28主日
 イザヤ25・6-10a/フィリピ4・12-14, 19-20/マタイ22・1-14
     カトリック原町教会にて
 ホミリア
 昨日は、南相馬市鎮魂復興市民植樹祭に行って来ました。原町区雫(しどけ)という、海岸に近い場所で行われました。津波被害にあったところにはコンクリートで固めた巨大な防潮堤が国によって作られていますが、それよりもその土地にもともと生えているような木、根を深く張るいろいろな木々に覆われた森の防潮堤のほうが津波被害を小さくできる、という考えに基づいていて、植樹祭も5回目になります。50年100年後の人々のいのちを守るために、土を盛って作られた土手に、今、そういう木を植えていこう、ということで、2,000〜2,500人の人が集まりました。法螺貝の音に合わせて、海に向かって黙祷を捧げた後、合計30,000本の木の苗を植えました。天気予報は曇りでしたが、実際には雨が降り続き、参加者はずぶ濡れになりながら、苗を植えました。足元の地面はぬかるんでいて、皆、泥んこになりました。

 帰りにふと、今日の福音の箇所を思い出し、ここで神の国の宴に招かれたらどうなるだろうと思ってしまいました。あまりにひどい泥んこです。礼服を着ていないと叱られてしまうのだろうか。いや神はこの、びしょ濡れ、泥んこになった人々をこそ受け入れてくださるのではないか。どうでしょう?
 今日の福音はやはりあまりにも無理がありますね。通りに出て行って、見かけた人は誰でも集めてきた、というのに、その中の一人が礼服を着ていないといって、叱られてしまう、というのは、ありえないような話です。それはたぶん、前半と後半が本来関係ない別々の話で、マタイが結びつけたからでしょう。無理して全体をまとめて考えるよりも、まずは別々に味わうことが大切だと思います。

 前半は神の国への招きです。
 無条件にすべての人が、神の国に、神の救いに招かれている。特に「あんな人はだめだ、人間的に見て価値がない、劣っている」、そう思われている人にこそ神はご自分の救いを差し出していてくださる。それは実際にイエスが活動していた時に起こったことでした。当時の宗教的なエリートたちはイエスの呼びかけに答えませんでした。今日の福音で言えば、婚宴に招かれたのに、来ようとしなかった人々の姿です。そして実際にイエスの呼びかけを受け入れたのは、無学で貧しい人々でした。その人々にこそ神の救いがもたらされる。「貧しい人は幸い。神の国はあなたがたのもの」。どんな人も招かれている、というのがこの神の国の喜びの宴の特徴です。前半のたとえ話はそのことを語っています。

 神の国は人間の力、人間の努力、人間の功績によるのでなく、神が恵みとして、無償で与えてくださるもの。圧倒的な神の愛によってもたらされるものなのだ。これはキリスト教の確信です。
 キリスト教はこの神の恵みを強調する宗教です。自力本願・他力本願という言葉がありますが、そういう言い方をするなら、まったくの他力本願です。人間が正しいことをしたから神が救ってくださるというのではなく、神が罪びとである人間をいつくしんで、その救いのためにひとり子イエスを遣わし、十字架の死にいたるまで与え尽くされた。そこに救いがある、と信じるのがわたしたちの信仰です。

 でも一方ではキリスト教は、人間がどう生きるかにとことんこだわる宗教です。全力を尽くして神を大切にし、人を大切にして生きる。それが人間の生きる道で、そう生きなければならない。神を忘れ、人を軽んじるような生き方にははっきりとNoというのです。これも大切な点です。今日の福音の後半で問われる「礼服」とはその生き方のことです。神の無償の招きにふさわしく答えることが求められるのです。

 二つのことは人間の頭で論理的に結びつけるのはむずかしいです。人間の努力よりも神の恵みが大切だというなら、「じゃあどのように生きてもいいではないか」という考えに陥ります。でも逆に、やっぱりどう生きるかのほうが問われるというのであれば、神の恵み、神の愛を見失うことにもなりかねません。実はキリスト教は2000年にわたってそんな議論を繰り返してきたところがあって、いまだにきちんと説明ができていない。でも問題は人間の言葉による説明じゃないのです。

 神の救いというのは、親の愛のようなもの。親は子どもに一番いいものを与え続ける。その子がいい子だからとか、悪い子だからではなく。神はまさに「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方なのです。
 と同時に親は子どもによく生きてほしい。経済的に安定して、いい生活をしてほしいというようなことだけでなく、正しい生き方をして、できれば人の役に立つ人間になってほしい。わたしたちはそういう親の思いの中で生きてきたのです。いや、人間の親は必ずしもそうじゃないこともあるかもしれませんが、神とはそういう方。あふれる恵みを注ぎながら、その恵みにふさわしい生き方を返してくれることを待っている。その神の心を知る。
 そのためにわたしたちは聖書を読み、そのためにわたしたちは今日もミサにあずかっているのです。


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年間第27主日のミサ



国道115号線で福島に向かう途中、伊達市霊山にある「牧場のジャージー」でとてもおいしいソフトクリームを食べました。ここは片平ジャージー自然牧場の直営店です。牧場主の片平芳夫さんは、今年の3月15日、カトリック原町教会でお話しくださり、山の自然を破壊して進められているメガソーラー発電の問題点を強く訴えておられました。

●年間第27主日
 イザヤ5・1-7/フィリピ4・6-9/マタイ21・33-43
   カトリック原町教会
 ホミリア
 ぶどう園の農夫のたとえ話。主人がすべてを整え、主人から貸し与えられたぶどう園だったのに、収穫の分け前を受け取りに来る主人のしもべを追い払い、最後はその息子まで殺してしまう。とんでもない農夫たちの話です。何が彼らの問題でしょうか。
 無償で恵みとして与えられたものを、あたかも自分の力で手にいれたものと思い込み、貸し与えられて管理を任されているに過ぎないものも、あたかも自分の所有物と思い込む。
 はっきり言って、この問題です。
 そしてそれはわたしたち自身の問題でもあります。

 第一に思いつく一つのことは自然環境の問題かもしれません。自然環境はわたしたちが作り出したものではありません。恵みとして与えられているもの。それを人類は好きにして良いと考え、浪費してしまっている。経済原理、競争原理の中で、森をなくし、山を削り、海を汚し、空気を汚してしまう。
 フランシスコ教皇は、回勅『ラウダート・シ』の中でこう述べています。
 「生産が増大してさえいれば、それが未来の資源や健やかな環境を犠牲にしていることには、少ししか関心が向けられません。森林伐採が生産を増大させているならば、土地の砂漠化や生物多様性の損傷や汚染の増大に伴う損失を計算する人はいません。一言でいうと、ビジネスは、関連コストのほんの一部だけを計算して支払うことによって利益を得るのです」(195)
 その中で自然環境が犠牲になっているというのです。失われるものがいかに多くても、それは費用として計算されない、だから問題にされない。たとえば原発事故でどれだけの損害が出たか、いろいろ計算があるでしょうが、広大な山林の放射能汚染は計算されません。現実的に除染が不可能なのでコストの計算ができないのです。それでもまだ原発はコストが安いという!信じられません。
 わたしたちのまわりにある豊かな自然は、本当は神から与えられ、次の世代に引き継いでいくもの。最終的に神に返していくべきもの。それを今の世代で使い果たしてしまおう、という勢い。この環境やエネルギーの問題を考えると、今のわたしたちの姿は、ぶどう園の農夫たちの姿とだぶって見えてきます。

 「無償で恵みとして与えられたものを、あたかも自分の力で手にいれたものと思い込み、貸し与えられて管理を任されているに過ぎないものも、あたかも自分の所有物と思い込む。」
 それはお金のことかもしれません。「お金は自分が働いて正当に得たものだ、だから正当に自分が所有していて、自分の好きに使っていいはずだ」というのが今の社会では当たり前の考えでしょう。しかしカトリック教会の教えではそうではないのです。
 「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。」「人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち富が自分だけでなく他人にも役立ちうるという意味において共同のものであると考えなければならない。」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』69)
 「連帯は、所有物の社会的役割を知り、財は万民のためにあるという原理が私的所有よりも優先される現実であることを知る者の自然な反応です。財の私的所有は、財を保持し増やすことが、共通善に対するよりよい奉仕へと向かうことにおいて正当化されます。」フランシスコ教皇使徒的勧告『福音の喜び』189)
 財産の私的所有は認められるけれど、それよりも「財は万民のためにある」というほうが優先されるというのです。神の望みはすべての人が神の子としての尊厳をもって生きること、富はそのための手段であり、そのために富を用いなければならないのです。財産やお金というものは、いわば神からの預かりものなのです。自分だけでなくすべての人が幸せに生きることができるための預かりもの。それを忘れないようにと、教会はいつも警告しています。

 「無償で恵みとして与えられたものを、あたかも自分の力で手にいれたものと思い込み、貸し与えられて管理を任されているに過ぎないものも、あたかも自分の所有物と思い込む。」
 これはまた、自分の人生のことかもしれません。
 「自分の人生は自分のもの。自分の人生を自分の生きたいように生きて何が悪い?」
 今の社会ではやはりこういう考えが一般的かもしれません。
 でもわたしたちの信仰では違います。わたしのいのちは神からのもの。最後は神に返すべきもの。自分の人生は自分の所有物ではない。自分の人生は神の所有物。ほんとうにそういう思いで生きているか。
 厳しいことを言っているように聞こえますか?
 でも本当の幸せの秘訣はここにあります。人生は日常の小さなことの積み重ねです。その人生を自分の所有物だと思ってしがみつき、神にも誰にも指一本触れさせない、という生き方で生きるか、それとも、神様のために、また家族や周りの人のために尽くす人生として生きるか、それは大きな違いです。感謝と賛美の生活、愛と信頼の生活がここから始まるのです。
 わたしたちが日々、喜びをもって神のぶどう園で働き、すべてを神にお返ししていく生き方をしていくことができるよう、このミサをとおして恵みを祈りましょう。


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年間第26主日のミサ



晴天に恵まれたさゆり幼稚園の運動会。写真はエンディングの「てとて」です。

●年間第26主日
 聖書箇所:エゼキエル18・25-28/フィリピ2・1-11/マタイ21・28-32
    2017.10.1カトリック原町教会にて
 ホミリア
 原町教会の隣のさゆり幼稚園で運動会がありました。招待されたのでずっと見させていただき、いろいろと考えさせられました。幼稚園に入るまで、一人一人の子どもは家で親の愛を一身に受けてきたのでしょう。兄弟の間ではケンカなどあるかもしれませんが、でもまあ親の愛の中で無条件に肯定されて生きてきてきたのではないか。それが幼稚園に入って、少しずつ集団行動や競争を学ぶのですね。運動会の種目はほとんど集団行動と競争から成り立っていました。そのことにわたしは最初、ちょっと引っかかりました。なぜみんなと同じ行動を取らなければならないのか。なぜ競争で勝たなければならないのか。そんな必要はないんじゃないか。

 実はそう思った理由として、わたしの姪の子どものことがあります。男の子で今3歳になりますが、2歳のときに、自閉症スペクトラムと診断されました。新しい診断名です。わたしは大学生のことから知的障害の子どもと関わっていて、当時も自閉症の子どもがいました。当時、自閉症は知的障害の一つに分類されていました。ところが自閉的傾向が強くても知的能力は低くない人もいて、そういう人はアスペルガーとか呼ばれるようになりました。でもそうやってそれぞれの障害に別の名前を付けるよりも、自閉度と知的障害の度合いを「連続体」として考えたほうがよいということになり、自閉症スペクトラムという言葉が使われるようになってきたのです。
 姪の子どもは、目が合わない、言葉が遅い、こだわりが強いというようなことがあって、集団行動は苦手ですし、競争心なんていうものからは程遠いようです。わたしの姪は最近になって、その子どものことを書くブログを始めました。タイトルは「愛する我が子は自閉症〜発達障害ですが何か?〜」っていうのです。姪夫婦は子どもに障害があると分かった時、もちろんショックを受けました。でも今では、そのことをみんなに知ってもらい、みんなの理解と協力を受けながら、この子と一緒に幸せに生きていきたい。そういう思いでブログを書いています。

 そういう観点から言うと、別に集団行動できなくても、競争に勝たなくてもいいじゃないか、と思ってしまうのです。さゆり幼稚園の運動会でも、発達障害と分かる子どもが一人いて、どうしてもその子のほうに目が行ってしまいました。いつも先生が付いていて、それでもその子はほとんど他のこと同じようにはできない、というよりしないのです。
 終わりのほうに「組体操」がありました。二人、三人、それ以上の人数で、一緒に組んでポーズを決めるやつです。「いや、あの子には無理。お願いだから無理させないで」と思って見ていると、もちろんできない部分はあるのですが、その子なりに、精一杯やっている。いくつかのポーズはちゃんとできているのです。本当にその子が一生懸命やっているのがわかりました。その姿に感動しました。
 そして運動会の最後、白組も赤組も関係なく、全員に金メダルが渡されました。
 それを見て、わたしは、「これって神の国ではないか」と思ったのです。

 今日の福音は、二人の息子のたとえ話です。言うだけで実行しないのと、言わないけど実行するのとどちらがいいか、という道徳的な話に聞こえるかもしれません。でも本当のテーマは神の国への招きにどう答えるか、ということのようです。
 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」
 民の指導者たちは、洗礼者ヨハネをとおしての神からの招きに答えなかった、とイエスは言います。どういうことでしょうか。洗礼者ヨハネの呼びかけは、マタイ福音書によれば、「悔い改めよ、天の国は近づいた」というものでした。イエスの呼びかけとまったく同じ、神の国への招きなのです。「今、回心し、神に心を向けなさい。そのしるしとして洗礼を受けないさい。神の国はすぐそこにあるのだから」、ヨハネはすべての人にそう呼びかけました。その呼びかけは、当時、罪びとというレッテルを貼られ、神の救いから程遠いと思われていた人々には、希望になったのです。どんな罪びとであっても今、心から神に向かっていけばいいのだ。

 洗礼者ヨハネが具体的に何を勧めたか、ルカ福音書3章はこう伝えています。
 「群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、『先生、わたしたちはどうすればよいのですか』と言った。ヨハネは、『規定以上のものは取り立てるな』と言った。兵士も、『このわたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。」
 全財産を放棄せよとか、今の仕事を辞めてしまえ、と言わないのです。今、神に心を向け、精一杯、神の心にかなうことを求めて生きなさい。そこに神の国がある。この神の国にはすべての人が招かれているのです。

 しかし、当時の社会のエリートたちにとっては、それは受け入れがたいことでした。自分たちにはこれだけ律法について知識があり、これだけ努力して律法を守っている。その優越感が彼らを支えていました。結局、人と人との比較の世界です。競争の世界です。自分たちはそこで勝っているはずだと思っていた人たちは、この洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れませんでしたし、イエスのメッセージも結局、受け入れませんでした。
 それは「みんなが金メダルじゃつまらない。わたしだけ金メダルをもらいたい」という考えです。わたしたち大人はそう考える傾向がありますね。でも、幼稚園の子どもはみんな金メダルをもらってうれしそうでした。

 集団行動ができたほうがいいのです。競争に勝つように努力することも大切なことです。人間が大きく成長するために、そして社会の中で生きていくために、それは必要なことです。わたしたちは幼稚園のころからそのことを学んでいかなければならない。でも、それがすべてではない。神はご自分の国にすべての人を招いていてくださっている。人間は大きな神の愛の中で生きている。そこでは本当に一人一人がどんな人もかけがえのない神の子なのです。「皆に金メダルを与えたい」、その神の心を忘れないようにしたいと思います。


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年間第25主日のミサ



ミサ後、飯舘村の「ゑびす庵」といううどん屋さんに行きました。
村の人たちでにぎわっていました。
飯舘村は南相馬市の隣ですが、全村避難が6年間続き、今年の春にようやくほとんどの地区で避難指示が解除になりました。
再開した飲食店は道の駅以外では、ここだけのようです。
手打ちうどん、とてもおいしかったです。

●年間第25主日、世界難民移住移動者の日
 聖書箇所:イザヤ55・6-9/フィリピ1・20c-24, 27a/マタイ20・1-16
 2017.9.24カトリック原町教会

 ホミリア
 先日、あるところで、「わたしは資本主義的な生き方をしているんです」という人に出会いました。30歳ぐらいの女性からそういう言葉を聞くとは思わなかったので驚きました。なんとなく言いたいことは分かるような気がしたので、特にどういう意味で言っているかは聞きませんでした。ただそれ以来、「資本主義的な生き方」とはどういうことだろうと考えています。「収入は少しでも多い方がいい。もっといいものを手に入れたい。もっといい生活がしたい。競争には負けたくない」という考えをもって生きること、たぶんこういうことかなと感じています。

 しかし、こういう考えは今に始まったことではありません。昔から人間は、そう考えていたのではないでしょうか。今日の福音を読んでいるうちにそんな気がしてきました。ぶどう園で一日中働いた人は、夕方1時間しか働かなかった人より自分たちのほうがたくさんの賃金をもらって当然だと考えたのです。もっとたくさんの賃金をもらえば、もっといいものが食べられるし、もっといい生活ができる。そうやって競争する心は誰の中にもあります。資本主義社会というのはそういう人間の欲望を肯定とし、ほしいものを得るために競争するのが当然という社会なのだと言ってもいいでしょう。わたしたちはいつの間にかそんな社会が当たり前だと感じるようになっています。

 問題は何でしょうか。それは今日の福音にはっきりとあらわされています。
 それはこの最後の1時間しか働かなかった人は、1時間しか働かなかったからどうなってもかまわない、というのではなく、この人も神から見て大切な一人の人間であり、生きる権利があり、だから今日生きるための最低限のお金をもらってよいのだ、ということ。競争の原理だけでは、生きられない人間が出てくる。それがまさに問題なのです。
 だから、この世界は資本主義の競争原理だけで動いているように見えますが、実はそこには歯止めがあります。累進課税があったり、最低賃金が決められていたり、生活保護やさまざまな社会保障があったりするのは当然のことなのです。競争原理だけでは社会は成り立たない。一人一人の人間のいのちが保証された上での競争でなければならないのです。現実の「新自由主義経済」「グローバル経済」はそれをおびやかしていますが・・・
 資本主義経済には歯止めが必要なのです。法律的、政治的な歯止めも必要ですが、わたしたちの心の歯止め、生き方としての歯止めも必要ではないでしょうか。

 それはさっき言った資本主義的な生き方にわたしが疑問を持って生きるということです。
 「収入は少しでも多い方がいい。もっといいものを手に入れたい。もっといい生活がしたい。競争には負けたくない」
 この社会で普通に生活しているとそれに流されます。コマーシャルは毎日わたしたちの欲望や競争心をあおってきます。それに抵抗するのは簡単ではありません。でも、それがすべてじゃないということをわたしたちは見失わないようにしたい。
 どうやって?

 一つは、本当に厳しい状態にある人たちに目を向けることです。今日は世界難民移住移動者の日です。聖書の中でも弱い立場の人の代表として「寄留者」のことがよく出てきます。現代でもそう。実際に多くの場合、低賃金労働者になる。政府が入国管理を厳しくして、違法入国者をたくさん作れば、その人たちはさらに過酷な労働現場で働かざるをえなくなる。歪んでいます。今年の教皇メッセージは特に弱い立場の子どもの移住者に目を注ぐよう、求めています。子どもの移住者は特に暴力や犯罪の危険にさらされているからです。移住者だけじゃない、競争原理では切り捨てられてしまうような人々のことを思い、その人々と共にどう生きるかを考えること。今日の福音では「わたしはこの最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ」といいます。この最後の者に心を向け、この最後の者に心をかける主人(神)の心を自分のものにするように、それが今日の呼びかけです。

 もう一つは、この資本主義的な生き方が本当に自分を幸福にしているか、と問いかけることです。「収入は少しでも多い方がいい。もっといいものを手に入れたい。もっといい生活がしたい。競争には負けたくない」それが本当に幸せな生き方か。
 そうではなく、もっと大切なことがあるはず。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と神は言います。このぶどう園は競争原理のぶどう園ではありません。神の国をつくるためのぶどう園。本当に神を大切にし、すべての人を大切にするための働き。そこにわたしたちが招かれていると感じたら、それはなんという喜びでしょう。
 神のぶどう園で働くこと。たとえば、結婚して家庭を作り、子どもを育てるというのは、経済原理・競争原理だけで成り立つことではない。神を大切にし、人を大切にし、特に弱い立場の人と共に生きる、これもそうです。あるいは今与えられたものを感謝して受け取り、それで十分だと思って生きる生き方もある。本当にどういう生き方が幸せなのか、そのことを考えたら、「資本主義的な生き方」とは別のものが見えてくるはず。

 わたしは資本主義や競争原理がいけないと言っているのではありません。ただし、それだけでは本当に人間はほんとうの豊かさをもって生きることができないということを、今日ご一緒に感じたいのです。今日の福音を、本当に幸いな生き方への招きとして、受け取りたいと思います。


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年間第24主日のミサ



写真は南相馬市原町区、磐城太田駅の近くの風景です。
いつのまにかこんな季節になりました。

ところでこの前の日曜日は、都内某所で行われた独身男女のための黙想会の最終日でした。
テーマは「召命(vocation)」。
以下は、最後のミサのための簡単なメモです。

●年間第24主日
 聖書箇所:シラ27・30~28・7/ローマ14・7-9/マタイ18・21-35
        2017.9.17東京・上野毛黙想の家にて
 ホミリア
 今いる福島の話はあまりできなかったので、最後にしたいと思います。
 2011年3月の福島第一原発事故は多くの分断をもたらしました。
 原発から半径20キロの線で警戒区域が設定され、その中に住む人は全員避難を余儀なくされました。4年以上もの間、強制的に土地から引き離されました。20キロから30キロの地域は最初、屋内退避という指示が出されました。「外に出てはいけない」という指示。そんな地域には援助物資を積んだトラックも入ってこなくて、すごい形で孤立していたそうです。原町教会はこの地域にあります。その後、半年は「緊急時避難準備区域」に指定され、「まだ何があるかわからないから、高齢者や子どもは住まない方がいい」と言われました。その時点で、子どもを遠くの親戚のもとに避難させた人もいました。でも動けなかった人も大勢いました。同じ仮設住宅に住んだ人の中にも、原発事故の警戒区域からの避難で東電から補償が出ている人と、津波で家を失い、何の保証も受けていない人がいたりして分断があったそうです。徐々に避難指示は解除されていきましたが、何があっても帰りたいと思う高齢者と、子どもの健康への影響を心配して、帰らない、帰れない若い世代がいました。ここにも深い分断がありました。そして福島に対する全国他の地域からの差別、偏見、さらに忘却という形での、日本の中での福島に対する分断。
 浜通りにいると、原発がどんな形で、人とその土地を、人と人とを引き裂いて来たかを強く感じざるを得ないのです。

 昨日の講話で、神と人・人と人との関係回復という聖書の大きなテーマについて語りました。今日の福音はゆるしがテーマですが、「ゆるし」というのは突き詰めていったら、根本のテーマはこの関係回復だと言えると思います。神と人とが親と子としての関係を取り戻す働き、そして、人間同士が兄弟姉妹として生きる関係を取り戻すこと。この二つが密接に結ばれていること、神のゆるしとわたしたち人間同士のゆるし合いが密接につながっていることを、今日の福音ははっきりと示しています。

 この関係回復は、浜通りの大きなテーマです。確かに厳しい状況ですが、この傷ついた関係をいやそうとしている地元の人たちにわたしたちはそこで出会います。そしてカリタス南相馬は、その人々と協力しながら、関係回復のために微力ながら働きたいと願っています。原町教会の信徒の中にもそういう意識があります。ここには「地域とともに歩む教会」の姿の芽生えがあります。さらに多くのボランティアが全国から来てくださり、福島を見捨てられた土地でないとあかしして働いてくださっています。
 そこにいさせていただくこと。それはわたしの今の召命(vocation)なのだと思っています。カリタス南相馬のスタッフたち、シスターたちみながそう感じていると思います。一度来てみてください。でも、そこにずっといなくてもいいのです。
 本当にどこででもいい。わたしたちはイエスの弟子として、何らかの形で、神と人・人と人との関係回復のために働くことができればいい。その大きなミッションのために一緒に働いてくれる人がもっといてほしい。信徒でもシスターでも司祭でも。そう願いながらこのミサをささげます。


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