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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第1主日



仙台教区では、四旬節第1主日までは、通常通りミサができました。
お二人の方の洗礼志願式が無事に終わってホッとしています。
この後、新型コロナウィルスによる感染症拡大防止のため、3月20日まで仙台教区内のミサはお休みです。

南相馬市小高区は「紅梅の里」と言われています。
というほど、紅梅をよく見かけるわけではありませんが、小高神社にはありました!

●四旬節第1主日
 聖書箇所:創世記2・7-9, 3・1-7/ローマ5・12-19/マタイ4・1-11
               2020.3.1カトリック原町教会
 ホミリア
 四旬節とは「40日の期間」という意味の言葉で、復活祭を準備する40日の期間を指します。今日の福音でイエスが福音告知の活動を始める前に40日荒れ野で断食の日々を過ごされた、そのことを原型として復活祭までの40日間を特別な期間として過ごします。だから40日というのはもともと断食の日数なのですが、一方では「四旬節であっても日曜日はいつも主の復活の祝日なので、断食しない」という伝統があって、日曜日を除いた40日間を断食の日数として数えるので、灰の水曜日から始まっています。
 四旬節の起こりは、古代の教会で洗礼を受ける人の最後の準備期間であったと言われます。洗礼はキリストと共に古い自分に死んで、キリストと共に新しいいのちに生きること、だから古代では復活祭に大人の洗礼式が行われていました。そして、洗礼を受ける人にとって、四旬節は洗礼式までの特別な、最後の準備期間だったのです。
 今日、洗礼志願式を行うのはそのためです。

 今日の第一朗読は創世記の2章、3章から選ばれています。最初の人間が造られる場面です。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」ここには聖書の根本的な人間観、生命観がよく表れています。人間は塵に過ぎない者。それに神の息、息吹が注がれて生きるものとなった。人間のいのちは神によって生かされたものであって、神とのつながりを失えば、塵に帰っていくしかない者なのだ。そういう見方です。灰の水曜日の灰の式で、伝統的に「あなたは塵であり、塵に帰っていくのです」という言葉が唱えられます。回心を表すのがこの灰の式ですが、人間が神なしには生きられない存在だということに気づき、もう一回神とのつながりに立ち帰り、そのつながりを生きようとする姿勢を持つ、それがこの回心の式の意味です。

 とにかく神の息吹によって生かされた人間は神とのつながりによってこそ生きるのです。最初の人間アダムはエデンの園という楽園に置かれますが、そこは人間と自然との関係が調和に満ちたよい関係の場所でした。そして神はアダムにふさわしいパートナーを与えようとして、女を造ります。アダムと女は「二人は一体となる」と言われるほど、深く結びついていました。創世記の2章が語るのは、このように神と人との良い関係、人と自然とのよい関係、そして人と人とのよい関係が、神に造られた本来の人間の姿だったということです。2章の終わりにこうあります。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」それは男女が自分のありのままを相手に見せることができる。そして相手のありのままを受け入れることができる、ということの象徴的な表現ではないかと思います。それほどよい関係が人間同士の間にはありました。

 この関係を壊してしまうのが人間の罪でした。誘惑するものにそそのかされて、神との関係を忘れ、自分さえよければと思って、禁じられた木の実を食べてしまう。これが3章の物語です。その木は「善悪を知る木」だったはずです。でもそれを食べた2人に分かったことは皮肉にも、自分たちが裸だということだけでした。そしてその裸を恥ずかしいものだと感じてしまうのです。
 神との関係が壊れ、人と人との関係も壊れ、人と自然との関係も壊れていく。聖書はここからその厳しい現実を描いていくことになります。と同時に、いつか神が、失われ傷ついた、ご自分と人との関係を取り戻し、人と人との関係を取り戻してくださる、という希望をも語るのです。そして、そのために神が遣わされた方こそ、イエス・キリストだと新約聖書は証言します。第二朗読のローマの教会への手紙もそのことを伝えようとしています。イエスこそ、神と人・人と人とを一つに結んでくださる方。わたしたちはそのイエスを信じているのです。

 今日の福音はイエスの活動に先立つ荒れ野での誘惑の場面です。
 マタイ福音書での2番目の誘惑はこうでした。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」これは、イエスの受けた最後の誘惑に似ています。十字架の場面でこう言われました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27・42-43)
 十字架のぎりぎりのところで、イエスは神への信頼と従順を貫き通そうとしました。「神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる方、すべての人を愛してくださる父。その神に信頼し、だからわたしたちは互いに兄弟姉妹として愛し合おう」そう呼びかけ続けたイエスは、苦しみのどん底にあってなお、神のいつくしみを信じ、この自分の苦しみが神の救いのため、すべての人の救いのためであると信じて、自分をゆだねていったのです。

 表面的には神からも人からも見捨てられた姿にしか見えなかったでしょう。でもあのイエスの中に、本当に神と人とを結ぶ生き方、人と人とを結ぶ生き方があったのだ、イエスのいのちは何よりも十字架の中にこそ輝いていたのだ、そう信じるのがイエス・キリストへの信仰。あの方しかいない。わたしたちの本当の希望は、イエスにしかない。
 苦しみばかり強調しないほうがいいですね。わたしたちはイエスの十字架の苦しみと復活のいのちの喜びを両方身に受けて生きていくのです。今日、洗礼志願式を受けるお二人が、イエスの受難と死、そして復活のいのちの喜び、その二つを身に負って生きるものとなりますように。心から祈りたいと思います。


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年間第7主日



ふきのとうをたくさんいただいたので、またまた天ぷらにしました。
やっぱりこれが最高!
食べると、口の中に春が広がります!

●年間第7主日
 聖書箇所:レビ19・1-2, 17-18/一コリント3・16-23/マタイ5・38-48
                  2020.2.23カトリック原町教会
 ホミリア
 アメリカの女性の精神科医で、ジュディス・ルイス・ハーマンという人がいます。この人は性暴力の被害にあった女性の心のケアをしていた人で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の研究で有名な人です。PTSDというのは、生きるか死ぬかというようなショッキングな経験をした人にとって、その経験が心の傷(トラウマ)となり、危険が去った後も、さまざまな心理的問題が残ってしまう、という症状のことです。日本では阪神淡路大震災のときからよく知られるようになりましたが、アメリカでは戦争帰還兵の心の問題や、レイプの被害女性の心の問題を研究する中で、このPTSDという診断名が生まれました。

 ハーマンはPTSDに関する有名な研究書である『心的外傷と回復 TRAUMA AND RECOVERY』という本を書きました。その中にこういう箇所があります。
 「世界の中にいて安全であるという感覚、すなわち〈基本的信頼〉は人生の最初期において最初にケアをしてくれる人との関係の中でえられるものである。人生そのものと同時に発生するこの信頼感はライフサイクルの全体を通じてその人を支えつづける。」
 人間の赤ちゃんはまったく何もできない状態で生まれてきます。だれかが手厚い世話をしなければ一日も生きていくことはできない、すべての人間はそういうところから人生をスタートさせています。そしてその最初にケアをしてくれる人(多くの場合は親でしょう)との関わりを通して、人間は基本的信頼basic trustというものを獲得していく。それはこの世界にいて自分は安全だという感覚だとハーマンは言います。自分は守られているし、人は信じても大丈夫だし、自分には愛される価値がある、そういうすべての安心感を人生の最初に、だれかから手厚いケアをしてもらうことによって獲得していくというのです。そしてその信頼感が、その人の人生全体を支えると言います。

 PTSDになるような経験というのはその信頼感を打ち砕くのです。もうこの世界は安全とは思えない、人を信じることもできない。自分の存在価値もわからなくなる。この基本的信頼が打ち砕かれてしまうと人間は生きていくことができない。どうやって失われた信頼を取り戻していくのか、それがPTSDからの回復のテーマだということになります。
 ハーマンはさらに、そこから児童虐待ということがいかに大きな問題であるかを語ります。虐待的な環境にいて、本当はケアをしてくれるはずの人が、しばしば暴力をふるう、そんな中では子どもは「基本的信頼」を獲得することができないのです。子どものころに獲得した基本的信頼が、悲惨な経験によって打ち砕かれ、それを再び取り戻すのがたいへんである以上に、子どものころに基本的信頼を身につけることのできなかった人が大人になって信頼感を身につけるというのはもっともっとたいへんなことだと言います。

 なんでこんな話をしているのでしょうか。今日の福音の言葉を本当にしっかりと受け止めたいからです。今日の箇所でイエスはおっしゃいます。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」父である神とはどういう方か、イエスがこれほどはっきりと語った言葉は他にありません。神はすべての人の親として、人間の親がそうである以上に、ご自分の子どもに良いものを与えたいと願っているのです。その子どもが良い子どもか、悪い子どもかそんなことに関係なく、子どもが必要とするものは何でも与える、それが神の心だとイエスは教えました。

 わたしたちはこの神のイメージをしっかりと受け取っているでしょうか。むしろ、「正しい人にはご褒美を与え、悪い人には罰を与える、それが神だ」という考えのほうが、分かりやすいと感じることがあります。昔、教会の隣の幼稚園のシスターに、「神父様、運動会の日に雨が降らないように祈ってください」と頼まれ、当日雨になったら、「神父様の心がけが悪いからです」と文句を言われてしまったことがあります(まあ冗談でしょうが)。わたしは「それはイエス様の教えに反する」と言いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ」でしょ! でもまあ、そんなふうに思うのは人間の自然な傾向なのかもしれません。さらに、とんでもない悪を目の前にしたとき、この悪を神に罰してもらいたい、こんなひどい悪を放置している神なんか許せないという思いが湧いてくることがあります。何が何でも悪を罰してくれる神、そのほうが分かりやすいし、人間にとってありがたいのかもしれません。
 だからこそ、それでもそもそも、人間は神の大いなる愛といつくしみ、限りないゆるしの中でしか生きられないのだ、ということをしっかり受け止めたいのです。

 では神が罪人に対してもいつくしみ深い方だから、それならどう生きてもいいのか、といえば決してそうではありません。
 今日の福音では、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とか「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられています。イエスは徹底的な愛を求めます。それは人間的な努力の結果とか、なすべき義務というのではなく、本当に神のこころに触れたところから始まる生き方の新しい可能性、と言ったらいいのではないかと思います。神のこころに触れた者の解放された生き方。それが示されているのです。

 第一朗読はレビ記19章でした。
 「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。」
 きょうの福音の結びでイエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われます。
 無理ですか?無理ですよね。でも、ここで示されているのは、わたしたちを裁く基準ではないのです。もしそうだとしたらわたしたちはみんな失格です。ここで言われているのは、わたしたちが向かっていく人生の方向です。ほんとうに神のいつくしみを知ったのですから、少しでもその神のこころに少しでも近づきたい、その歩みをわたしたちが進めていくことができますように、今日、心から祈りたいと思います。


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年間第6主日





上の写真が東ヶ丘公園の水仙、下の写真が同慶寺の福寿草です!

●年間第6主日
 聖書箇所:シラ15・15-20/一コリント2・6-10/マタイ5・17-37
            2020.2.16カトリック原町教会
 ホミリア
 2,3日前に春のような陽気に誘われて、東ヶ丘公園に散歩に行ってきました。もちろん桃や桜の花はぜんぜん咲いていませんでしたが、地面にはたくさんの水仙の花が咲いていました。昨日は小高の同慶寺に行ってみたら、福寿草の花が満開でした。それ以外には、今は何と言っても梅の花ですね。寒い季節に健気に咲いている花たちを見ていると、とてもさいわいいな気分になりました。今日はこの「さいわい」の話をしたいと思いました。
 漢字だと「幸田」の「幸」ですが、日本語には、「しあわせ」「さち」「さいわい」といろいろな言い方があります。しあわせは「仕合わせ」で巡り合わせがよいこと、ラッキーという感じ。「さち」は朝鮮語の「サル(矢)」から来ていて、獲物が多いという幸福のようです。今でも「海の幸、山の幸」と言いますね。それに対して「さいわい」はもともと「さきはひ」と書いて、「咲き賑わっている」さまを表しています。そのもののいのちが充実して、溢れ出ているという感じだと言えるでしょうか。世の中には、「仕合わせ=ラッキー=幸運」という幸福もあります。ものがたくさんあって幸福ということもあるでしょう。でも、この「さいわい」のイメージを大切にしたいと思います。

 今日の福音はマタイ福音書で、イエスがガリラヤの丘の上で語られた長い説教=山上の説教の一節です。今日の箇所には非常に厳しい言葉が並んでいますが、この山上の説教の冒頭は「幸い」という言葉で始まります。そのことを思い出したい。
 山上の説教は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)という言葉に始まっています。いや本当の最初の言葉は「幸い」という言葉です。昔の文語訳の聖書では「幸いなるかな、心貧しき者」となっていて、このほうが語順としては原文に近いです。冒頭にあるのは「幸い」という言葉、それが8回繰り返されるので、昔から「真福八端」(八つの幸いの言葉)と呼ばれてきました。
 よく似た言葉がルカ福音書にもありますが、そこでは「貧しい人、泣いている人、飢えている人」に向かって、「あなたがたは幸い」と言われています(ルカ6・20)。
 マタイ福音書では、この山上の説教の直前にこういう言葉があります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来た」(マタイ4・24)。まさに貧しい人、泣いている人、飢えている人がイエスの目の前にいたわけで、イエスはその人々を前にして、「幸い、幸い、幸い」と語りかけたのです。

 貧しい人、泣いている人、飢えている人のどこが幸いなのでしょうか。それは「神の国はあなたがたのものだから」です。「神の国」というのは神が王となってくださることと言ってもいい。神は王として、あなたがたを救ってくださる。天の父である神は苦しみの中にあるあなたがたを決して見捨てていない。あなたがた一人ひとりの親として、あなたがたを大切なかけがえのない子どもとして見ていてくれて、必ず助けと励ましを与えてくださる、だから幸い、なのです。神があなたがたの涙をすべてぬぐい去り、あなたがたは神のいつくしみに満たされている、だから幸い、なのです。
 この幸いは、ただのラッキーという幸福ではありません。獲物がたくさんあるという幸福でもありません。ほんとうに神に行かされたいのちが咲き誇っているような幸福です。「幸い、幸い、幸い、幸い、幸い、幸い、幸い、幸い」本当にこの幸いの呼びかけをわたしたちもしっかり受け取りたいと思います。

 先ほども言ったように、今日の箇所には厳しい教えが並んでいます。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」「みだらな思いで女性を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」「一切誓いを立ててはならない。」
 でもこれらすべての要求に先立って「幸い」という呼びかけがあることを忘れてはなりません。先週の福音は八つの幸いに続く箇所で、「あなたがたはかけがえのない地の塩である、あなたがたはすばらしい世の光である」というイエスの言葉でした。これも大きな祝福の言葉です。この祝福が山上の説教の厳しい要求のすべてに先立っているのです。
 イエスは今日の箇所で「わたしは律法を廃止するためではなく完成するために来た」と言われます。イエスが律法を完成させる道は、当時のファリサイ派や律法学者の道とは違いました。イエスはすべての律法の要求を「愛」という一点に集中させます。「殺さなければいい」「姦淫しなければいい」「離婚しなければいい」「偽証しなければいい」のではなく、本当にすべての人を兄弟姉妹として大切にして生きる。異性を単なる性的欲望の対象と見るのでなく兄弟姉妹として見る、自分の妻や夫を自分にとってのいかに役に立つかで測るのではなく、同じ神の子として見る。本当にすべての人を大切にすること、それは神がわたしたちを祝福し、親として大切にしてくださっているだからなのです。
 イエスによる律法の完成の道のもう一つの特徴は「感謝」ということです。律法を義務として、つまり、仕方なく実行すべき掟として受け取るのではなく、わたしはもう「幸い」とされている、もう「地の塩、世の光」とされている、そのことに対する感謝から出発する生き方として神の掟を受け取るのです。本当に感謝から出発するなら、兄弟姉妹に対して、精一杯の尊敬と尊重の心を持って関わっていけるはずではないか。「ハイはハイ、いいえはいいえ」と神にまっすぐに向かっていけるはずではないか。

 イエスは今日も、わたしたちに「幸い」と呼びかけてくださっています。本当にその呼び掛けを受け取って、愛と感謝をもってその呼びかけに答えることができますように。心を合わせて祈りましょう。


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年間第5主日



2月11日、朝起きたらこんなことに!
福島県と言っても太平洋側(浜通り)は雪が少なくて、特に今年は初めてこうなりました。

●年間第5主日
 聖書箇所:イザヤ58・7-10/一コリント2・1-5/マタイ5・13-16
          2020.2.9カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしが司祭になって初めて派遣された教会は、東京の杉並区高円寺にある高円寺教会というところでした。隣に光塩(こうえん)女子学院という学校がありました。「高円寺」にあるから「光塩」だとときどき勘違いされていましたが、「光と塩」の「光塩」で今日の福音の箇所から取られた名前です。カトリックの学校で幼稚園から高校までありました。そこで3年間働いて、次に派遣されたのは日野市の高幡教会というところで、隣にはやはり「光塩幼稚園」がありました。ここも同じメルセス会という修道会のシスターたちが運営している幼稚園でした。メルセス会にも光塩女子学院にもたいへんお世話になりました。それでわたしにとって、この「光と塩」のイメージはとても親しみがあります。

 光塩女子学院のモットーは「光の子、塩の子」というものでした。
 「光の子になりなさい、塩の子になりなさい」と言われることが多かったようです。ろうそくが自分の身をすり減らして、周りを照らすために輝くように、周りの人々を照らす光の子になりなさい。塩が、水に溶けて、自分の形をなくし、まわりのものに味付けし、まわりのものを腐敗から守るように、人々の役にたつ塩の子になりなさい。それ自体は素晴らしい教えですが、そこから結局は光の子、塩の子となるために一生懸命勉強しなさい、ということになりがち。当時はいい大学への進学に熱心な学校として知られていました。
 そんな学校の中で、圧迫感を感じている子どももいて、教会は一つの逃げ場でもありました。わたしの前にいた助任司祭たちは、そういう子どもたちを暖かく受け入れていたので、学校帰りに教会に遊びに来る高校生たちがいました。しつけに厳しい学校で、学校帰りに寄り道をしてはいけないのですが、シスターたちもまさか教会に行ってはいけない、とは言えない。高校生たちはそのことを知っていて、教会の逃げ場にしていました。わたしのせいじゃないですよ。わたしの前にいた神父たちのせいにしたい。
 そこで、本当に感じたことは、「頑張って地の塩になりなさい、頑張って世の光になりなさい」という以前に、「誰がなんと言おうと、あなたがたはもうすでに世の光なんだ、地の塩なんだ」というメッセージの大切さでした。

 今日の福音は本当にそういうメッセージです。イエスは「地の塩になりなさい」とは言いません。「世の光になりなさい」とも言いません。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と断言しているのです。もちろん、そこから、塩なんだから塩味を出しなさい、光なんだからまわりを照らしなさい、というのですが、ただただ頑張って、塩になりなさい、光になりなさい、というのと、根本的にもうすでに「すばらしい光であり、かけがえのない塩なんだ、だから〜」というので大違いです。
 今日の箇所はマタイ5-7章の山上の説教という長い説教の最初の部分です。本当はその前に「幸い」のメッセージがあります(残念ながら、先週の日曜日は主の奉献の祝日だったので読まれませんでしたが)。直訳では「霊において貧しい人々は幸い、天の国はその人のもの」という言葉に始まる「八つの幸い(真福八端)」です。イエスのまわりには多くの人が集まっていました。それは4章の終わりを見ると、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」たちでした。その人々、常識的にはとても「幸い」と言えないような人々に向かって、イエスは「幸い、幸い、幸い」と呼びかけました。そして、「あなたがたは地の塩、世の光だ」とおっしゃるのです。なぜならば、神はあなたがたを決して見捨てていないから、神はあなたがたをほんとうにたいせつなものとして、あなたがたをご自分の国に招き入れてくださるから。神があなたがたをもうすでに光とし、塩としてくださっているから。
 これが福音です。

 キリスト教は非常に倫理的な宗教だと考えられています。もちろんそういう面があります。教皇訪日のテーマで言えば、「すべてのいのちを守らなければならない」そのとおりなのです。でもその根本には、あなたにいのちを与えられた神は、あなたのいのちをかけがえのないものとして尊み、いつくしんでくださっている、だからすべてのいのちを大切に、ということがあります。あなたに病気や障害があっても、経済的に苦しい状況にいても、外国人だということで差別されていても、そのあなたは、神から見れば、かけがえのない子どもであり、すばらしい光なんだ。あたりまえのことですね。でもそのことを何度でも繰り返して言わなければなりません。イエスが語られてから2000年経った今も、何度でも言わなければなりません。それはそうじゃない世界に陥る危険がいつもあるからです。

 あの人はこれだけのことができるから価値がある、この人はこれだけのものを持っているから価値がある。そうやって人を評価し、ある人にはマルをつけ、ある人にはバツをつける。そして結局はバツをつけられた人を切り捨てていく、そういう見方がこの世界にはあります。わたしたちの身近なところにもあるし、たぶんわたしたちの中にもあります。
 イエスの時代には「律法」という基準があり、それによって人はランクづけされて、ある人々は完全に神の救いから排除されていました。いや、当時の律法学者から見れば、律法をきちんと学ばず、律法に忠実に生きていない普通の人々は、皆、罪びとであり、救われない人々でした。イエスは、そうではない世界を指し示したのです。すべての人の造り主である神は、すべての人の親であり、すべての人をご自分の子どもとして、かけがえのないものとして見て、いつくしんでいてくださる。あなたも神に愛された子だ。もうすでに世の光とされ、地の塩とされている、そこから出発しよう、と呼びかけたのです。
 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」イエスのこの語りかけを今日、わたしたちがもう一度しっかりと受け取ることができますように。そして、そこから、神の子として、すべての人を兄弟姉妹として歩み始めることができますように。


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主の奉献の祝日



写真は元寺小路カテドラルの近くにあるカトリック北仙台教会です。
カナダのドミニコ会が建てた教会で、とっても立派な教会です!
(この日は、午後にこちらで講演をしました)

●主の奉献(祝)
 聖書箇所:マラキ3・1-4/ヘブライ2・14-18/ルカ2・22-40
           2020.2.2カトリック元寺小路教会
 ホミリア
 「わたしはこの目であなたの救いを見た」
 生まれて40日目に、エルサレムの神殿に連れてこられたイエスを見て、シメオンはそう歌いました。これは今日の主の奉献の祝日のテーマとも言えるような言葉です。「わたしはこの目であなたの救いを見た」シメオンにとって、それはもう、これで死んでもいい、と思えるほどの最高の喜びでした。聖書はそのように「わたしたちこの目であなたの救いを見た」という体験をした人々の物語です。ルカ福音書の幼子イエスの誕生をめぐる物語を思い出してみましょう。

 何よりもまず、マリアがそうでした。ナザレに住んでいたおとめマリアは天使のお告げを受けました。「おめでとう、恵まれた方、主はあなたとともにおられます」そして救い主の母となると告げられました。マリアは救いを待ち望んでいたすべての人を代表して、救いの到来=救い主の誕生のメッセージを受け取りました。これはマリアにとって、「わたしはこの目で神の救いを見た」というような体験だったと言えるのではないでしょうか。この受胎告知=神のお告げの祭日は3月25日に祝われます。主の降誕の9ヶ月前ということになります。

 そして、マリアは洗礼者ヨハネの母となるエリサベトを訪問しました。そこでマニフィカト=マリアの賛歌を歌います。
 「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。」
 確かにもう神の救いを体験したという確信に満ちている言葉です。このエリサベト訪問は5月30日に祝われます。6月24日の洗礼者ヨハネの誕生の祭日の前に祝うのです。

 そしてイエスがお生まれになったあの降誕の夜、「この目で神の救いを見た」という体験をするのは、ルカ福音書によれば羊飼いたちでした。貧しい羊飼いたちは、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている幼子」に出会います。本当に貧しい姿で世にこられ、貧しい人とともにいてくださる救い主に出会い、そこに「神の救いを見た」のです。それが12月25日、クリスマスの祝いです。

 マリアとヨセフや羊飼いたち、彼らは確かに、神の救いを見ました。クリスマスを中心とした一年の典礼の中でこれらのことは祝われています。もう一度言いますが、クリスマスの9ヶ月前が神のお告げ、半年前が洗礼者ヨハネの誕生。そしてクリスマスの後、40日目が今日の主の奉献=神殿でのシメオンやアンナとの出会いの物語です。
 クリスマスを中心とした祝日では、イエスはまだ幼子で、何の言葉を語ることもなく、力あるわざを行うこともありません。でもそこにもう神の救いが輝き始めている、人はそのイエスの中に神の救いを見た、これが大きなテーマなのです。その流れで今日の福音を受け止めたいと思います。シメオンやアンナは人生の最後に幼子イエスと出会い、「神の救いを見ました」

 2000年前に成人したイエスの活動を見た人々は、そのイエスをとおして「神の救いを見ました」。福音書にはそのように「神の救いを見た」人々の物語が書き記されています。そして、最終的にイエスの十字架を見た人々のことも伝えています。
 ルカ福音書によれば、一緒に十字架に付けられていた犯罪人の1人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。そしてイエスは彼に向かって、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ23・42-43)。この人も人生の最後に神の救いを見たと言えるでしょう。

 わたしたちも「神の救いを見た」と言えるでしょうか?そう言えるという方もいらっしゃるでしょうし、そんなにはっきりと「神の救いを見た」とは言えないという方も多いでしょう。でもやっぱりわたしたちはシメオンのように「わたしはこの目で神の救いを見た」と言いたいのです。わたしたちはどうしたら、「神の救いを見た」と言えるようになるのでしょうか。
 わたしたちがいただいているのは、やはりみ言葉と聖体です。わたしたちは、み言葉と聖体をとおして「神の救いを見る」のです。日曜日に教会に来て、聖書朗読を聞き、聖体をいただく。それは本当は「神の救いを見る」ということそのものなのです。でもただ日曜日のこの一時間の中で考えても仕方ない。本当に日々の生活の中でそのみ言葉を生き、聖体の恵みを生きる、そうしたときに、ミサの中でみ言葉と聖体をいただくことは「神の救いを見る」体験になっていきます。わたしたちが日々の生活の中で、わたしたちとともにいて、わたしたちを支え導いてくださっている主イエスを感じることができますように、心から祈りたいと思います。

 わたしたちは、人生の終わりに、死をとおって、決定的な神との出会いがある、と信じています。そのときにほんとうに、「わたしはあなたの救いを見た」と言えるのかもしれません。それも大切なことだと思います。今日のシメオンやアンナは世を去る前にイエスに出会いました。そして、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言います。それは今まで救いがなかったという意味ではないでしょう。彼らにとって、幼子イエスとの出会いの体験は、今までの人生すべてが意味のあるものだったと受けとる体験だったはず。わたしたちの人生もきっとそうです。その希望をもって今日もミサを祝いたいと思います。


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