毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の昇天の祭日のミサ



写真は「さごはち(三五八)」という福島独特の漬物の素です。
塩3、米5、こうじ8の割合で漬け床を作るのでこう呼ばれています。
ちょっと前から自分でやってみていますが、簡単でおいしいですよ。

さて、お知らせが1つ。
来週6月4日(日)は聖霊降臨の主日ですが、仙台教区第6地区の合同ミサが仙台の元寺小路教会で行われるため、原町教会ではミサがありません。お間違いなく。

ではいつもの説教原稿です。どうぞ。

●主の昇天の祭日ミサ
 聖書箇所:使徒言行録1・1-11/エフェソ1・17-23/マタイ28・16-20
       2017.5.28カトリック原町教会

 ホミリア
 きょうの福音はマタイ福音書の結びの箇所です。復活したイエスと弟子たちの出会いの物語はそれぞれの福音書にありますが、どの福音書にもイエスが弟子たちを派遣する言葉があります。
 マルコ福音書の結びでは、「全世界に行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)と言われます。ルカ福音書では「あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24・48)と言われますが、今日の第一朗読・同じルカが書いた使徒言行録ではもっとストレートに「地の果てに至るまで、わたし(=イエス)の証人となる」(使1・8)と言われていますう表現になっています。ヨハネでは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)でした。ヨハネで弟子たちに与えられる使命の中心は「ゆるし」です。
 今日のマタイ福音書では「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と語られます。マタイ福音書のイエスの活動はガリラヤ湖で4人の漁師を呼び出し、弟子にしたところから始まりました。その弟子づくりという活動が今度はイエスの弟子たちに受け継がれて行くのです。これまでイエスがしてきたことを、これからは弟子たちがやっていくことになる、これがそれぞれの福音書が伝える復活したイエスの派遣の言葉に共通していることだと言ったらよいでしょう。マタイは弟子づくりの具体的な内容を「洗礼を授け、教える」と言いますが、決して言葉だけの問題ではありません。自分の生き方をとおしてイエスをあかしし、神の愛を人に伝えること。それが復活したイエスによる弟子たちの派遣の意味でした。
 
 「派遣」は英語で言うと「ミッション」ですね。現代では「使命・任務」という世俗的な意味で使われていますが、元はラテン語の「送る、遣わす」という言葉から来ていて、本来の意味は「派遣」です。ミッションとは神から遣わされることを表す言葉でした。
 「ミッショナリー」という言葉もあります。「宣教師・宣教者」と訳されますが、本来の意味は「派遣された人」です。キリスト教徒があたりまえの欧米にあって、外国に行ってキリストを知らない人のため働く。それが特別な意味での「派遣」と考えられ、そういう人をミッショナリーと呼ぶようになったのです。この人たちが作った学校が「ミッションスクール」なんですね。でも派遣されているのは、特別な宣教師だけではありません。教会全体が神から派遣されたものであるということは大切です。
 「ミサ」という言葉もミッションと同じ語源です。ミサの最後に「派遣の祝福」があり、わたしたちはいつもミサから派遣されていきます。福音宣教の使命をいただいて世に遣わされるのです。でも、そう言ってもカトリック信者はあまり嬉しそうな顔をしませんね。そんなしんどそうな顔をしないでください。ミッションというのはほんとうは嬉しいこと、人生を輝かすことなんです。

 大聖堂の工事現場の話というのがあります。何かで読んだのですが、正確に覚えていません。こんな話です。
 ある人が大聖堂の工事現場に行きました。レンガを積んで壁を作っているところでした。そこで働いている人の一人に聞きました。「君はここでなにをしているの?」彼はつまらなそうに、こう言いました。「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだよ」。他の人にも同じように「何をしているの?」と聞きました。彼も疲れた顔をして「壁を作っているんだ」と答えました。さらにもう一人の人に聞きました。「君はここで何をしているの?」すると彼は胸を貼り、目を輝かせて、「わたしはここで大聖堂を建てているんです」と言いました。
 3人とも同じことをしているのですね。最初の2人はお金のために仕方なくこの仕事をしているという感じ。でも3人目の人は、自分のしていることは、神様のためであり、この大聖堂ができあがったときに、そこを訪れ、そこで祈る人々のため。そう感じている。だから彼の顔は輝くのです。
 こういうのを「センス・オブ・ミッション」と言うのだとわたしは思います。「使命感」と訳すと何か重荷のように感じて、へたをすると悲壮感が漂いますが、「ミッションのセンス」です。「わたしのしていることは神から与えられた大切な仕事で、意味のあることなのだ」このミッションのセンスは人生を輝かせます。

 本当にこのミッションのセンスを大切にしたい。わたしたちの原町教会もそうです。
 浜通り北部にあるカトリック教会はこの原町教会だけですね。この教会は60年以上前にドミニコ会の宣教師が始めた。それから何とか存続してきた。わたしは昔からここに住んでいて、この教会に通っている。でも高齢化しているし、この先どうなるか・・・確かに人間的に見ればそうかもしれませんが、もっと大切なのは、この教会は、神から派遣されてここにあるということです。神様との関係の中では、なぜか不思議にも神はこの原町教会をこの相馬双葉の地域に置いている。それは神様の特別な意図があってのこと。神がすべての人を救うために、その愛を現すために、わたしたち原町教会はこの地域に派遣されている。このミッションの意識を大切にしたいのです。この意識なしで教会は輝くことができません。去年の12月にカリタス南相馬がこの教会の隣にできました。カリタス南相馬のシスターやスタッフは自分で選んでここに来ました。神が自分たちをここに置いたと感じています。ですから神はわたしたちを何のためにここに派遣したか、いつも問い続けています。でもそれは前からこの教会にいる信徒にとっても同じなのです。神様がこの地域にこの原町教会を派遣している意味は何か、そのことを問い続ける教会でありたいと思います。

 一人一人の生活もそうです。わたしたち一人一人の生活を本当に神から派遣された生活だと受け止めたい。わたしたちは毎回、ミサの中でキリストに結ばれ、キリストに結ばれたものとして派遣されていきます。明日からの毎日、わたしたちはただ何となく生きるのではありません。神から派遣されて、神の愛を伝えるために、イエスのこころを伝えるために、人を愛するために遣わされるのです。そのミッションを受け取れば、わたしたちの毎日は必ず輝くものになります。
 「でもやっぱりたいへんだなぁ」と思われるかもしれません。しかし、「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」これが今日のイエスの約束です。
 わたしたちが復活のイエスからいただくミッションをもっと深く、喜びをもって生きることができますように、祈りましょう。


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復活節第6主日のミサ



熊本の慈恵病院で「こうのとりのゆりかご」が始まってから、ちょうど10年です。

わたしが訪問したのは2年前のことでした。これはそのときの写真です。

●復活節第6主日・世界広報の日
 聖書箇所:使徒言行録8・5-8、14-17/一ペトロ3・15-18/ヨハネ14・15-21
              2017/5/21カトリック原町教会
 ホミリア
 熊本にある慈恵病院は、もとはマリアの宣教者フランシスコ修道会(FMM)のシスターたちが始めた病院でしたが、今は修道会が母体ではなくなり、蓮田先生というカトリックの医師が院長(現在は理事長)になりました。ご高齢で健康が心配ですが。
 この病院は「こうのとりのゆりかご」で有名になり、わたしも一度そこを訪問したことがあります。新築した産婦人科のビルがとても立派な病院でした。その一角に「こうのとりのゆりかご」があります。赤ちゃんを産んだけれど、どうしても育てることができない、という母親がそこに匿名で赤ちゃんをあずけることができる場所です。赤ちゃんをそんなところに預けていいはずがない。でもそれがなければ遺棄され、死んでしまう赤ちゃんがいる。その赤ちゃんのいのちをなんとか救いたい。という蓮田先生の思いから、今からちょうど10年前の2007年5月、熊本市から許可を受けて始めました。
 日本では「赤ちゃんポスト」と呼ばれることがあって、親が簡単に養育放棄することにつながるというような批判もありましたが、話を聞いて本当に素晴らしい働きをしていると感じました。

 「こうのとりのゆりかご」に赤ちゃんを預けるのはほんとうに最後の手段で、それ以前に「赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」ということをしています。24時間、予期しない妊娠して苦しんでいる女性の相談を電話で受け付けるのです。全国から電話がかかってくるそうです。必要な支援につながって、「こうのとりのゆりかご」まで至らずに、なんとか赤ちゃんのいのちを救うことができたというケースも多くあるとのことでした。
 蓮田院長の講演を聞いたことがあります。そこで蓮田さんが嘆いていたのは、「こうのとりのゆりかご」は子どもを望んでいる夫婦との間で養子縁組をするために預かるのに、児童相談所は実の親を探してその親に返そうとする。育てる気もなく、育てられない親に無理やり押しつけるより、養子縁組のほうがよほどよいのではないか。また欧米では施設の子どもたちを養子として育てようとする家庭が結構あるそうですが、日本で施設に預けられる子どもの数が年間3000人以上いるのに、「特別養子縁組」によって子どもが家庭に迎えられるのは、年間わずか400組だそうです。

 今日のイエスの言葉を読んで、この「こうのとりのゆりかご」のことを思い出しました。イエスは今日の箇所で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束されます。弁護者であり、真理の霊である聖霊を遣わす。わたしがあなたがたのうちにいる。だから決してあなたがたはみなしごにはならないのだ、とイエスはおっしゃるのです。
 神はわたしたちを一人ぼっちで孤立無援にはしておかない、わたしたちは神がそういう方だと信じています。慈恵病院の取り組みもその信仰から出発しています。神はわたしたちすべての親であり、どんな小さないのちもいつくしみをもって見守り、そのいのちが生きることを望んでおられる。そう信じるところから「こうのとりのゆりかご」の取り組みは始まったのです。

 本当に神がわたしたちの親だということを深く受け取りたいと思います。神が親であって、どんな時もわたしたちを見捨てることがない、そう信じるからこそ、現実の親や家族や親しい人とのつながりが、その人たちの存在がありがたく思えるのだと思います。人間にすがるだけなら、もちろん赤ちゃんのときは親にすがることが必要ですが、その関係はいつか終わってしまうでしょう。神がほんとうの親であると信じるから、日々、人との関わりの中でわたしたち人間同士、お互いに誠実に、信頼し合いながら、支え合って生きることができるのです。
 きょうの箇所で「わたしを愛しているならばわたしの掟を守る」とイエスは言います。イエスの掟は「互いに愛し合いなさい」、それしかありません。本当に神がわたしたちすべての者の親として、わたしたちすべての者をいつくしんでくださるのですから、わたしたちもその神のいつくしみを人に届けるものでありたいと願います。

 もう一つ大切なことは、神はわたしの親だけでなく、すべての人の親だということです。自分たちのグループと他のグループ。自分たちと同じ考えの人と別の考えの人。自分の国とよその国。最近どんどんそうやって人と人の区別を強調することがひどくなっているように感じています。その中で味方が多ければ安心できる。味方が強ければ安心できる。さらにそのわたしたちのグループに、わたしたちの国に、神様がついていてくれたらもっと心強い、、、でもそれは自分たちが独占している神様ですね。イエスの教えた神様はそんな神様ではなく、すべての人の父です。だから自分たちに神がついていてくれて、他の人はみなしごになろうが、どうなろうがかまわない、ということはありえません。わたしたちは全ての人の親である神を信じています。そこからいつもこのミサの中で、すべての人のしあわせのために祈り続けたいと思います。

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復活節第5主日のミサ



 今日は母の日。ミサの中ですべての母親のために神からの祝福と助けを祈りました。また、カトリック原町教会は「ファティマの聖母」の名をいただいていて、昨日がその祝日でしたので、そのことも思い起こして祈りました。
 今から100年前、ポルトガルのファティマで聖母マリアが3人の子どもに現れ、人々は次第にその出現を信じるようになり、ファティマは大巡礼地になりました。3人の子どもたちの名前は、フランシスコ・マルト、ジャシンタ・マルト、ルシア・ドス・サントス。このうち、フランシスコとジャシンタの兄妹は当時流行したスペイン風邪のため、早く亡くなりました。ルシアは修道女になって、97歳まで生きました。昨日はその出現100周年にあたり、フランシスコとジャシンタ兄妹の列聖式がファティマで、フランシスコ教皇によって行われました。

●復活節第5主日
 聖書箇所:使徒言行録6・1-7/一ペトロ2・4-9/ヨハネ14・1-12

 ホミリア
 この教会に来て、ほんとうにありがたいのは毎週日曜日にAちゃんが侍者をしてくれていることです。最初のころ、今日も来てくれるかなと思って庭を見ていたら、Aちゃんとお母さんが幼稚園のほうから走ってきました。わたしはそこに出入り口があると知らなかったのでびっくりしました。いつもその道を通っているのですね。それを知ってからわたしもときどき、特に朝早く散歩する時や夜遅く駅から帰ってくる時にはこの道を使うようになりました。幼稚園の裏門と庭ですけど、わたしたちにとっては大切な道です。
 なんでこんな話をしているかというと、道というのは、人が歩いてできるということを感じてほしいからです。今のわたしたちにとって、道というのは道路公団や県や市が作るものというのがあたりまえですが、大昔はそうではなかった。人が歩き、大勢の人が歩いているうちに道ができる。このイメージは大切です。

 イエスは今日の福音で「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われます。どこそこに道があるからその道を行きなさい、というのではありません。わたしが道であり、この道を歩いていきなさい。イエスという道、それはイエスが歩いてできた道だと言ってもいいかもしれません。イエスが徹底的に神に信頼して歩んだ道、とことん人を愛して生きた道。この道をあなたがたも歩いていきなさい。
 ヘブライ人への手紙にこういう箇所があります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(ヘブライ10・19-20)エルサレムの神殿のたとえを使ってこういうのですが、イエスは受難と死をとおして、わたしたちのために、神に近づき、神に至る道を切り開いてくださった、ということです。このイエスによって開かれた「新しい生きた道」をわたしたちも歩むのです。

 この道はエスカレーターみたいな「動く歩道」じゃないので、自分で歩かなければなりません。イエスが歩んだように、わたしたちも信頼と愛をもって歩いていくのです。
 ヘブライ人への手紙にこういう箇所もあります。「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12・13)。フランシスコ会訳はこうなっています。「あなた方の足のために、まっすぐな道を造りなさい。これは、足の不自由な人が道をそれることがなく、かえって丈夫になるためです。」ここで「道」と訳されている言葉は元々「轍(わだち)」という意味の言葉です。馬車の車輪が通ると轍ができる。それと同じように人が歩くと道ができる。わたしたちがみんなでまっすぐに歩いていくと、まっすぐな道ができていく。そうすると、後からきた足の弱い人も道を踏み外すことがない。このイメージ、これは教会のイメージですね。
 
 きょうの福音でイエスは、不思議なことも言っています。
 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
 わたしたちキリスト信者が行うことが、イエスの行うことよりももっと大きいなんて、とても考えにくいことです。でもイエスが「父のもとに行く」とそこから聖霊が送られてくると約束されています。わたしたちが何かするのではなく、わたしたちをとおして聖霊が働く、そのことに信頼したいと思います。わたしたち一人一人が聖霊の導きに従ってしっかり歩んでいくとき、イエスの切り開かれた道は、大きな、確かな、まっすぐな道になっていく。その聖霊の導きに信頼して歩んでいきましょう。

 五月は聖母マリアの月と言われ、昨日はファティマの聖マリアの祝日でもありました。今はイエスの復活を祝う季節ですが、この復活節に特別に思い起こす聖マリアの姿があります。それは使徒言行録に伝えられているマリアの姿です。イエスの復活と昇天の後、約束された聖霊を待ち望みながら、祈っていた弟子たちの真ん中にイエスの母マリアの姿がありました。わたしたちもマリアとともに聖霊を待ち望んで祈り、マリアとともにイエスの道を歩んでいきたいと思います。



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復活節第4主日のミサ



菜の花から採れる菜種油に放射能は含まれず、食用にできるとのことで、
南相馬市原町区のあちこちに菜の花畑があります。
今、まさに花盛りです。

相馬農業高校の高校生も参加して作られた南相馬の菜種油は「油菜ちゃん」という名で商品化されています。

●復活節第4主日、世界召命祈願の日
 聖書箇所:使徒言行録2・14a, 36-41/一ペトロ2・20b-25/ヨハネ10・1-10
 カトリック原町教会にて

 ホミリア
 皆さん、四旬節第四主日に読まれた、生まれつき目の見えない人のいやしの物語を覚えておられるでしょうか。ヨハネ福音書9章で、今日の福音ヨハネ10章の直前にあります。
 物語の発端は、イエスと弟子たちの一行が通りがかりに生まれつき目の見えない人を見かけたことでした。彼が生まれつき目の見えない人だということはどうして分かったのでしょうか。イエスが立ち止まり、その人に声をかけ、彼が話したからでしょう。イエスは最初から彼に関心を持っています。
 弟子たちはこのことが分かるとイエスに問いかけました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちはこの視覚障害者を心配してそう言ったのでしょうか。そうではなく単なる知的興味だったのではないでしょうか。当時、病気や障害、なんらかの不幸は罪の結果である、という考えが一般的でした。普通なら本人が罪をおかすと本人に不幸がふりかかる。しかし、この人の場合は、生まれつきだからどうなのか。本人ではなく両親の罪の結果か。彼らは理解できない問題について、イエスに教えてもらい、イエスの答えを聞いて納得しようとしたのです。それは自分たちが納得するためであって、この目の前の人を助けるためではありませんでした。「結局、何らかの罪の結果だから仕方ないよね」これが弟子たちの見方であり、態度です。

 イエスは弟子たちに答えてこう言います。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエスは病気や障害が罪の結果であるという考えそのものを否定します。ではなぜこの人がこんな不幸を背負っているのか、実はイエスは答えていません。そうではなくイエスはその人に関わろうとするのです。「神の業がこの人に現れるため」というのは、この人の不幸の原因や目的を語っているのではなく、神がこの人に対して何かなさろうとしておられるという確信を表す言葉です。神は今この人に対して何をなさろうとしているか、そしてその中でわたしには何ができるか。イエスはそこだけを見つめ、そして彼に関わっていくのです。具体的には、イエスは彼の目をいやすことになりました。
 それは安息日のことでした。安息日は労働が禁じられた日で、イエスが安息日にこのようなことをしたのはイエスにとって非常に不利になることでした。目をいやされた人はファリサイ派の人々から取り調べを受けます。ファリサイ派の人々にとって、盲人だった人は、「全く罪の中に生まれた」(9・34)人間で、なんの価値もない人間でした。ファリサイ派の人々は、「安息日の掟を破る人間は神から来た人ではありえない」という大原則からイエスを理解しようとします。そして、この視覚障害者のことも、イエスのことも結局、認めようとしないのです。

 ここに決定的な違いがあります。イエスの弟子たちは、人の不幸をみて、なんとか納得できる説明を見つけようとして、それでその人の横を素通りしようとしました。当時のファリサイ派のような宗教熱心な人々は、律法の基準で人をはかり、視覚障害をもった人に罪びとのレッテルを貼り、安息日の禁を犯して人を助けたイエスにも罪びとのレッテルを貼ろうとしました。そして自分たちこそ正しい人間だという自己満足に浸っていたのです。
 イエスは違いました。イエスは目の前の人の苦しみを決して見過ごされませんでした。イエスにとって、相手が罪びとかどうかは問題でなく、神はこの人を限りなく愛しておられる、そういう人として関わることだけが問題でした。

 この9章の物語が背景にあって、今日のイエスの言葉があるのです。
 「はっきり言っておく」
 わたしは羊飼い。羊飼いは羊を知り、羊は羊飼いを知る。
 わたしは羊の門。わたしという門をとおってこそ本当のいのちが得られる。
 さらに今日の箇所の続きでは、「わたしは良い羊飼いである」(10・11,14)と言われます。そして「良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」と言われるのです。
 この方がわたしたちの羊飼いです。この方はわたしたちのために命を差し出されましたが、復活して今も生きておられ、わたしたちを闇から光へと導き続けてくださる方です。

 私自身は若いころ、そういう方としてイエスに出会いました。自分の人生は無意味で、何をやってもむなしい、自分なんかたいしたことない人間、きっと何の役にも立たない。でもそんなこと恥ずかしくて誰にも言えない。学校にも社会にも自分の居場所が見つけられず、どんどん追い詰められていきました。本当に真っ暗闇で、光が見えない状態でした。
 でもイエスはこのわたしを見ていてくれた。かけがえのない神の子として見ていてくれた。わたしを呼んでくれた。そう気づいたとき、わたしは闇から光へと移されました。だからキリスト者をやっていますし、司祭をやっています。
 召命祈願の日である今日、本当にすべての人が良い牧者であるキリストの眼差し、呼びかけ、招きに気づき、それに応える者となることができますように。心から祈りましょう。

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復活節第3主日のミサ



毎度ながらのミサ説教原稿ですが・・・

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録2・14, 22-33/一ペトロ1・17-21/ルカ24・13-35
 2017.4.30カトリック原町教会

 ホミリア
 復活祭から七週間にわたり、キリストの復活をお祝いしています。キリストの復活を祝うということは、2000年前にイエスの墓が開いて、奇跡のようなことが起こったと信じることではありません。イエス・キリストが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださると信じることです。復活のキリストはどのように共にいてくださるのか。きょうのエマオの弟子の物語はそのことについてとても豊かなヒントを与えてくれます。

 まず、聖書の言葉をとおしてイエスはともにいてくださる。
 見知らぬ旅人の姿で弟子たちに近づき、彼らの話を聞いたイエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃり、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
 イエスの受難と死も、またそれをとおして受けることになる栄光も、聖書に示された神の救いの計画の中にあったのだということです。そのことを、旧約聖書のみことばをとおしてイエスは示されました。今もそうです。わたしたちは旧約聖書だけでなく、新約聖書、特に福音書を持っていますから、神がイエスを世に遣わしてどれほど人間を愛してくださったかを知ることができます。そして聖書をとおして、神が今もどのように人を愛し続けているかを知ることができます。そのことに気づくためにわたしたちは聖書を読むのです。現実はいい時ばかりではありません。悲惨なこともたくさんあります。でもその中で神はわたしたちを導き続け、最終的に復活のいのちの喜びに導いてくださる。そのことを、聖書をとおして悟らせていただきたいと思います。このエマオの弟子たちはあとで気づきました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」本当に心に深く響くようにみことばを受け取ることができるよう、祈りましょう。

 もう一つこの物語で示されること、それはイエスは「パンを裂くこと」をとおして共にいてくださるということ。
 エマオの弟子たちがこの見知らぬ旅人がイエスだと気づいたのは、その人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ときでした。イエスはいつも食事のときにそうしていました。5つのパンを5000人に分けたときもそうでした。イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え」ることによって、このパンが神から与えられたもの、神がすべての人に必要なものを与え、生かしてくださる方であることを表しました。また「パンを裂いて与える」ことをとおして、この恵みは自分だけで独占すべきものでなく、皆と兄弟姉妹として分かち合って生きるべきものであることを示してくださいました。罪びとを招いて一緒に食事をしたときも、神が誰ひとり除外することなく、すべての人をいつくしむ父であることを示されました。そして最後の晩さんのとき、同じようにパンを裂き「これはわたしの体」と言い、ぶどう酒の杯を取って「わたしの血」と言われました。すべてを与え尽くしたイエスの愛を思い起こし、その愛に結ばれるために、この「パンを裂くこと」を続けるよう弟子たちに命じられました。
 わたしたちキリスト者は毎週集まって「パンを裂くこと」を行います。それは、イエスが復活して、今わたしたちと共にいてくださることを深く味わうためです。

 「みことば」と「パンを裂くこと」を通して、わたしたちはイエスが今もともにいてくださることを深く味わうことができます。
 今日の福音はもう一つのヒントを与えてくれているかもしれません。それは人と人とが「寄り添う」中に復活のイエスはいてくださる、ということです。
 この二人の弟子は失意のどん底にいました。彼らはイエスについてこう言います。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」もうすべての希望は絶たれてしまった。がっかりして弟子たちの集まりを離れ、エルサレムの都を離れ、自分たちの故郷に向かっていました。でも一人ではなく、なぜか二人一緒でした。互いに寄り添い、悲しみを分かち合う中で彼らは、次第にイエスに気づいていった、と言ってもいいのではないでしょうか。イエスのあの約束は今も無になっていない。イエスの言葉はわたしたちの中に生きている。無意識のうちに彼らはイエスに励まされていたのです。みことばとパンを裂くことで彼らははっきりとそれを意識するようになりました。
 そして彼らはエルサレムにいる他の弟子たちのところに戻って行きます。「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」復活の喜びは孤立した一人の人間が感じることはむずかしいものです。復活の喜びとは、悲しみやつらさを分かち合い、共に生きようとするときにどこかから湧いてくる希望や喜びであり、その喜びは、さらに多くの人と一緒に分かち合うようになる喜びなのです。わたしたちの日々が、この復活の喜びに満ちたものとなりますように。

 昨日までの日々の中で、今日のみことばと聖体の食卓の中で、そして明日からの、また新たな歩みの中で、本当に主は復活して共にいてくださるということをわたしたちが深く味わうことができますように、このミサの中で祈りましょう。



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