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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第1主日



この日の午前中、さゆり幼稚園の発表会が南相馬市民文化会館「ゆめはっと」の大ホールで行われました。
このホールでというのは初めてだったので、ミサの時間を午後に移して、教会やカリタスからもみんなで応援に行きました。
聖書の中のイエス誕生の物語を基にしたさゆり幼稚園の聖劇は毎年見ていますが、今年もすばらしかったです!

●待降節第1主日・宣教地召命促進の日
 聖書箇所:イザ2・1-5/ローマ13・11-14a/マタイ24・37-44
          2019.12.1カトリック原町教会
 ホミリア
 「目を覚ましていなさい」
 待降節は毎年、福音のこのイエスの言葉から始まります。
 いつ世の終わりが来るか分からないから、警戒していなさい。いつ来てもいいように備えていなさい。もちろんその意味もありますが、それだけではありません。マタイ、マルコ、ルカの福音書をていねいに読むと、この「目を覚ましていなさい」という言葉には、それぞれの福音でそれぞれのニュアンスがあるように感じます。今年は、マタイ福音書が読まれました。

 マタイ福音書の特徴は、この箇所に続いて、25章の終わりまで、長い説教を伝えていることです。25章には二つのたとえ話があります。一つは「10人のおとめのたとえ」そして「タラントンのたとえ」。どちらも有名なたとえ話だと思います。
 10人のおとめのたとえは、婚礼の場面で、花嫁の友人である乙女たちが10人いて、そのうち5人は松明に予備の油を備えていて、5人は備えていなかった。花婿の到着が遅れたので、備えのなかった5人の乙女は、油を買いに行き、婚礼の席に入ることができなくなってしまった。そういうたとえです。そしてこのたとえは「だから、目を覚ましていなさい」という言葉で結ばれています。つまり、目を覚ましているということは、「油をちゃんと準備していること」だということになります。
 タラントンのたとえで、問われるのは、預けられたタラントンをどう生かして用いたか、ということです。最初に預けられた額が5タラントンか、2タラントンか、1タラントンか、神様はそんなことは見ていない。最後に持っている額が10タラントンか、4タラントンか、1タラントンか、そこも神様は見ていない。預けたタラントンをそれぞれの人がどう生かして用いたか、神の前ではそれだけが問われる、という話です。これも「タラントンを活かして用いることが目を覚ましていることだ」と言えるでしょう。
 ただし、「油とは何か」「タラントンを活かすとはどういうことか」この二つのたとえ話にはなんの説明もありません。最後に25章31節から、神の裁きについて語る部分があります。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」
 イエスは世の終わりの有様を教えようとしていうるのではなく、神の目から見ていったい何が大切なのか、何が本当に価値あることなのかを、ここではっきりと教えようとしておられます。誤解のない言葉です。そして、これこそが「ともし火とともに携えておくべき油」であり、「預けられたタラントンを生かして用いること」であり、「目覚めている」ということなのです。
 この全体の流れをしっかりと受け取ったらいいと思います。こう言いますね。
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」
 そしてイエスはこう言うのです。
 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 神の目から見て、何がもっとも大切かをはっきりと示す箇所です。目を覚ましているとは、このこと。助けを必要としている人にどう関わったか、見捨てられ、忘れ去られようとしているような人にどう関わったか、それが神の目から見てもっとも大切なことだ、誤解の余地のないはっきりとした教えです。

 目を覚ましているとはこのこと。
 そう思ったときに、わたしたちが本当に何を見ているかも問われていると感じました。
 わたしたちはやはりついつい人を外見で見てしまっているのではないでしょうか。あの人は立派な人、あの人は優れていて価値のある人。地位や肩書きで人を見てしまうことも多々あります。それは本当に人を見ていないのではないか。そういう私たちイエスは今日、「目を覚ましていなさい」と呼びかけているのではないか。
 飢え渇き、旅をしていて、裸で、病気で、牢にいる、そういう人は有能で立派で、役にたつ、価値のある人間に見えないかもしれない。でも、その人こそ、本当はイエスの兄弟であり、イエスご自身と同じように神の子としての尊厳を持った人間なのだ、そうやって人を見ることが「目を覚ましている」ということだとも言えるのではないでしょうか。

 フランシスコ教皇が訪日して、短い時間でしたが、たくさんの場所を訪れ、たくさんの人々と出会い、たくさんのメッセージを残されました。その一つ一つをしっかりと味わっていきたいと思いますが、その中に共通して見られたのは、やはり貧しい人への思いだったと思います。
 広島・長崎の原爆の被爆者、東日本大震災と福島第一原発事故という三重の災害の被災者、生きづらさを抱えている日本の若者、外国からの移住者や難民。そういう人々に目を向けるようにと語られました。それだけでなく、その一人一人に向かって、あなたはかけがえのない人間、お金でははかることのできない価値のあるものだ、と語りかけました。そうです。人をかけがえのない兄弟姉妹と見るだけでなく、自分自身をもかけがえのない価値ある存在、神の子と見るまなざし。それこそが「目を覚まして見るということ」です。
 今日さゆり幼稚園の発表会で、すばらしい聖劇を見ました。わたしたちは今年もベツレヘムの飼い葉桶のイエスを見つめるように招かれています。小さな、小さな赤ん坊のイエス。無力で貧しい幼子の姿の中に、本当の神の子の輝きを見つけることができますように。こころをこめてクリスマスの準備をしていきましょう。
 


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年間第33主日・貧しい人のための世界祈願日



この日最後のミサは角田教会。台風の被害がひどかった地域です。
ここは幼稚園の中の一室が教会の聖堂になっています。人数はとても少ないけど、頑張ってます!

●年間第33主日・貧しい人のための世界祈願日・聖書週間(24日まで)
 聖書箇所:マラキ3・19-20a/二テサロニケ3・7-12/ルカ21・5-19
        2019.11.17カトリック大河原教会、亘理教会、角田教会
 ホミリア
 昨日の朝、東京教区の田中康晴神父が天に召されました。84歳でした。
 わたしは福島に来る前は東京大司教館というところにいて、隣に東京教区の病気や高齢の司祭の家「ペトロの家」がありました。ミサや食事はペトロの家の神父たちと一緒でしたので、田中神父とも親しくご一緒させていただきました。昨日からいろいろなことが思い出されてなりません。そこでちょっと彼のことを話させてもらいます。

 1935年のお生まれで、戦後、大学生の時にカトリックに出会い、洗礼を受けました。神学校に入り、1966年に司祭に叙階されました。しかし数年のうちに躁鬱病という病気を発症してしまいました。今は双極性障害とも言われている病気です。
 周りも大変でしたが、本人もたいへんだったと思います。普通の小教区の司祭としての仕事はできなくなりました。その後、50年近くその病と戦いながら、それでも司祭としての人生を生き抜きました。1年か2年に一度ぐらい躁の状態になってしまい、そうするとちょっと妄想的なことも入って、とんでもないことをしてしまう。でもそれ以外のほとんどのときは鬱の状態でした。その苦しみの中で自分にできる司祭としての奉仕を精一杯引き受けて、働かれました。東京カテドラルの平日のミサ、近くの修道院のミサ、日曜日のいろいろな小教区でのミサ。本当に忠実に奉仕しておられました。
 東京の下町の人で、なんとも言えない、親しみやすさがありました。だから入院しても周りの人と仲良くなり、街でもいろいろな人と気さくに付き合っていました。カテドラルの構内でもそうでした。後輩のわたしに対しても本当に親しく親切にしてくださいました。
 わたしは田中康晴神父とご一緒させていただいて、すごくいろいろなことを考えさせられました。人が生きるとはどういうことか、司祭として生きるというのはどういうことか。

 今日の福音はイエスが、世の終わりに向かう中での、さまざまな混乱を予告する箇所です。偽キリストが現れ、戦争や暴動があり、大地震、飢饉、疫病が起こる、そして弟子たちに対する迫害もある。ほんとうにひどいことがたくさん起こるとイエスは予告します。その中で、しかし、神の守りがあるということを約束するのです。
 「16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
 「髪の毛の一本もなくならない」それは神の、本当に深く細やかな愛を強調する表現です。神はその限りない愛をもって必ずわたしたちを守ってくださるとイエスは約束します。「中には殺される者もいる」と言いながら、「髪の毛の一本も失われない」というのは矛盾でしょうか。そうではないと思います。たとえすべてが奪われても、この命さえ奪われても、決して奪われないものがある。
 奪われないもの、それはその人と神とのつながりであり、そして、そこから来るその人自身の生き方だと言ったらいいのではないでしょうか。

 田中康晴神父の人生を思い出しながら、わたしが感じているのはこの神とのつながりの部分です。人間的にはできないこと、難しいことばかりだったかもしれません。でも彼は神とのつながりの中で生きていました、司祭として生きていました。それは誰も奪うことのできないもの、あの病気も奪うことはできないものでした。
 ふだん、わたしたちはいろいろな能力を評価しています。あれができるとか、これができるとか。そして、あれを持っているとか、これを持っているとか、そういう世界に生きていますね。でも考えてみれば、それらはすべて過ぎ去るものです。全部、最後には奪われてしまうもの、最後には手放さざるをえないものです。もちろんそれらの中に大切なものがたくさんありますけれど、でも、それは永遠のものではありません。

 永遠のもの、決して奪われないもの。それはやはり、本当に、神とのつながりの部分なのです。わたしたちが精一杯信じながら生きようとしている、この信仰という神とのつながり。その中で、自分の人生、失敗もあり挫折もありながら、なんとか神と人とを大切にして生きようとする、このわたしの生き方、それは何があっても奪われることがない。

 今は終末主日であり、死者の月です。決定的な終わりを前にして、死を前にして、何が大切なのか、何が滅びないものか、それを問いかけられ、それを見つめるときだと思います。
 パウロの言葉をいつも思い出したい。コリントの第一の手紙13章。有名な「愛の賛歌」と言われるものの中にある言葉です。
 「愛は決して滅びない」「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 決して滅びることのない、この信仰と希望と愛をもって日々生きることができるよう、心から祈りましょう。


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自死された方々のためにささげる追悼ミサ



写真は常磐道山元南インターから角田方面に向かう途中の小斎峠。丸森方面は今も通行止でした。
(本文とは関係ありませんが)

●自死された方々のためにささげる追悼ミサ
 聖書箇所:知恵の書11章23-26節/ルカによる福音15章1-7節
        2019.11.16東京四ツ谷・聖イグナチオ教会にて  
 ホミリア
 フランシスコ教皇来日の日が近づいています。今回の教皇訪日のテーマというのがあって、それは「すべてのいのちを守るため Protect All Life」というものです。これは2015年に出された「ラウダート・シ」という回勅の最後にある祈りから取られた言葉です。
 「いのちは大切だからいのちを守ろう」というのは当然すぎるかもしれません。でも「すべてのいのちを守るため」の「すべての」というところに強調点があると思っています。そこで今日の福音朗読に100匹の羊のたとえを選びました。
 100匹の羊を飼っている人がいて、そのうちの1匹が迷子になったら、その1匹を探しに行き、見つけたら大喜びする、神とはそういう方だ、とイエスは教えています。「99匹を野原に残して」というところはちょっと気になるかもしれません。この99匹は大丈夫だろうか?そういう心配もなくはありません。それでもそれでもこの1匹をどうしても見捨てておくわけにはいかない。これが神の心だというのです。
 100匹の羊がいて、1匹欠けて99匹になった。まぁ、だいたいみんないるからいいだろう、じゃないのです。99匹は決して「すべて」ではありません。もっとも弱く、小さい、迷っている羊が尊重されなければ、すべてのいのちを守ることにならないのです。
 その神の心を今日、深く受け止めたいと思います。

 わたしは3年前から、福島県南相馬市に住んでいます。そこは東日本大震災と福島第一原発事故の被災地で、カトリック原町教会があり、隣にはカリタス南相馬という被災者支援の拠点があります。
 震災・大津波から、原発事故から8年もたって、もうかなり復興も進んでいるんじゃないか、と言われることがよくあります。復興の名の下にさまざまな公共工事は盛んに行われていますし、元気で前向きな人もおおぜいいます。来年は復興五輪とか言って、それが済めば復興も終わったことにしてしまおう、というような雰囲気がなくもない。
 でも、8年頑張ってきて、もう疲れ果ててしまったという人、8年で8歳を取って、弱くなってしまった人も少なくないのが現実です。福島県は震災の直接死よりも震災関連死のほうが多いのです。関連死は長い避難生活の中で体調を崩して亡くなったり、精神的に追い詰められて自死してしまった人を含んでいます。そしてこの関連死の方は今も出つづけています。
 その土地にあって、わたしたち小さなキリスト教共同体に何ができるのか、いつも考えさせられています。

 福島県浜通りには、ほとんどクリスチャンはいません。最近思うのですが、福島県浜通りの人々というのは、神仏を大切にし、家族を大切にし、地域の人々とのつながりを大切にし、自然を大切にし、それぞれの仕事(農業や漁業であれ、会社員であれ)を大切にして生きてきた人々です。でもそれらをすべて奪われてしまった。津波でというよりも、原発事故によってすべてを奪われた。それらを奪われたことによって失ったもの、それは「心の平和」と「生きる意味」だと言えるのではないか。「心の平和と生きる意味」を与えてくれていたもの、それがすべて失われるというのは、それは本当に厳しいことです。

 そしてまた、イエス・キリストがわたしたちに約束してくれるもの、それこそ、この「心の平和」と「生きる意味」ではないか、と思うのです。すべての人の親である神はどんなときも決してわたしたちを見捨てない。例外なくすべての人とともにいてくださり、いつくしみを注いでくださっている。そう信じるところから、心の平和=深い安心感が生まれます。そして、わたしが今生きていることの意味もそこから来ます。人間的なレベルでは何のために生きているのか、よくわからなくなることがあったとしても、神様から見たら、わたしがここでこうして生きていることには大切な意味があるのだ、と感じられるようになる。それがイエスの呼びかけた生き方=神に希望と信頼を置く生き方です。
 わたしたち原町教会、カリタス南相馬の人間がその「心の平和と生きる意味」を完全に持っているわけではありません。でもわたしたちは「心の平和」と「生きる意味」を奪われた被災者とともに生きていて、一緒にそれを探し求めていきたいと願っています。

 この心の平和と生きる意味。それは被災者だけでなく、多くの人がもしかしたら、見失ったり、迷ったりしていることではないでしょうか。特に若い世代の人々。日本の若い世代の人々の自死者の多さとか、それがなかなか減らない、むしろ今、増えているとか、よく言われています。もちろん、若者の自殺を考えるとき、そこにはいろいろな要因があります。いろいろな対策が必要でもあるでしょう。でもこの「心の平和」と「生きる意味」ということにもっと真剣に向き合い、それを得ることに取り組むことも本当に大切ではないかと思っています。

 「すべてのいのちを守る」だから「最後の1匹」も見失うまいとする神の心、その心に出会うことによって、すべての人が「心の平和」と「生きる意味」を見い出すことができますように。
 今日のミサで、亡くなられた方々の神のもとでの永遠の安息を祈るとともに、残されたわたしたちにも、心の平和と生きる意味が与えられますように、心を合わせて祈りましょう。


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年間第32主日



先週は何だかんだで、説教メモを載せられませんでした。失礼しました。
今週はなんとか!

●年間第32主日
 聖書箇所:二マカバイ7・1-2、9-14/二テサロニケ2・16~3・5/ルカ20・27-38
           2019.11.10カトリック原町教会
 ホミリア
 11月は死者の月。典礼暦でも終末主日を迎えていて、終末を思うとき。終末とは世の終わりのことでもあり、個人の終わりである死のことでもあります。死にあたってのキリスト者の希望は、一言で「復活」という言葉で表されます。でも、わかりやすいとは言えないでしょう。
 ある仏教の葬儀に言ったときです。お坊さんの法話の中で、こういう言葉がありました。
 「仏教では、キリスト教のように亡くなった人が『復活』するなどという馬鹿なことは言いません」いいお坊さんなのですが、当たり前のようにこう言ったのです。
 使徒言行録の中で、パウロがアテネで説教をしたときもそうでした。
 パウロはギリシア人が拝んでいる神々を頭から否定するのではなく、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを知らせましょう」と言って、天地万物を造られた神のことを語りました。そこまでは人々の反応は悪くなかったようです。しかし、イエス・キリストの復活のことを話すとこういう反応になりました。
 「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」(使徒言行録17・32)
 とてもすんなり受け入れてはもらえなかったようなのです。
 今日の福音でもサドカイ派は復活を認めなかったとあります。

 まあ、頭で考えれば、死んだ人が復活するというのはありえないわけです。復活なんてない、というほうが合理的なのは確かでしょう。
 旧約聖書の中でも、もともとは死んだ人は「シェオール」というところに行く。「陰府」と訳されますが、そこは暗く静かなところで、そこでは神とのつながりも人とのつながりもなくなってしまう。そんなふうに考えられていました。長生きして、死んで、先祖の列に加えられる。生きている間に神に従えば、生きている間に神から祝福を受け、神に逆らえば生きている間に罰を受ける。まあ、それでいいと思っていたのでしょう。
 それが変わるのは、紀元前2世紀のことです。
 紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロスという人が東のほうに領土を拡大して、広大な支配地域を形作りました。その死後、4人の将軍がそれぞれギリシア文化に基づく帝国を作りました。ヘレニズム帝国と言われます。パレスチナは最初、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、その後、シリアのセレウコス王朝の支配下になります。そしてこのセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王のときに、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。エルサレムの神殿にギリシアの神々の像が持ち込まれ、律法に忠実に生きることが禁じられました。神に従おうと思えば思うほど、この世では苦しみを受け、中には殺される者もいる。
 今日のミサの第一朗読「マカバイ記」はまさにこの時代の記録です。その中で復活の希望がはっきりと語られるようになるのです。
 「世界の王(=主なる神)は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる」(IIマカバイ7・9)
 「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」(7・11)
 「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださる」(7・14)

 死を超えて神は救いをもたらしてくださる。神に信頼する人の神とのつながりは死によって断ち切られない。たとえ死を前にしても、わたしたちは神に信頼と希望をおくことができる。それが復活の信仰です。また、その神とのつながりの中で、どんなに悲惨な現実、絶望的な状況にあっても、今、自分にできる精一杯のことをしていく。愛すること、苦しみに耐えること、人のために祈ること、それを神からのミッションとして受け取り、精一杯生きることができる。それが復活の信仰です。
 イエスご自身がその信仰に生きました。迫り来るご自分の受難と死を前にして、イエスは最後の最後まで、神の愛とゆるしを告げて生き抜きました。それはアッバ(親)である神が決して自分を見捨てないと信頼していたからです。神とのつながりは死によっても断ち切られることはない、神は必ず自分を立ち上がらせてくださる。これがイエスの復活の信仰でした。

 ぎりぎりのところで、それでも神に従い、人を愛して生きることができるかどうか、それが復活の信仰が問いかけていることです。でもまあ、わたしたちはそんなにギリギリのところでいきているのではないかもしれません。
 今日の福音は「すべての人は、神によって生きている」というイエスの言葉で結ばれています。
 人は自分の力・人間の力で生き、死ねばすべてが終わる、という生き方をするのか(今の時代、そういう考えは強いのです)、それとも、神によって生かされ、その生かしてくださる神が、肉体の死をも超えて、わたしを生かし続けてくれると信じて生きるか。
 死ねばすべては終わるという考えは人間を刹那的にします。今、いかにいい家に住み、いいものを食べ、いい生活をするか、いかに楽しんで長生きするか。それを求める生き方です。復活を信じる生き方とは、もちろん、苦しみや死を求めるわけではないし、それなりにいい生活もしたいけれど、同時に、人間としてあるべき生き方とは何かをいつも求めながら、自分なりに誠実にそこに向かって生きる生き方なのです。
 復活の信仰とは、わたしたちの生き方の決断の問題だということ、そのことを肝に銘じながら、今日も復活の信仰を力強く宣言しましょう。


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年間第30主日



お母さんはフィリピン人カトリック信者、お父さんは信者でない日本人という赤ちゃんの洗礼式でした。
終わってから、近くのお店(マスターの奥さんがフィリピン人)でフィリピンの人たちが集まってのパーティー。
洗礼のお祝いのケーキって、初めて見ました!インターネットで注文したそうです。

●年間第30主日・幼児洗礼式
 聖書箇所:シラ35・15b-17、20-22a/二テモテ4・6-8、16-18/ルカ18・9-14
           2019.10.27カトリック原町教会
 ホミリア
 洗礼というのは人がキリスト信者になる式のことです。もともとは大人がイエス・キリストを信じるようになって、自分の口で「わたしは神様、イエス様を信じます」と言って、その言葉=信仰宣言に基づいて、洗礼を授けるというのが原則でした。
 もしもそれだけだとすると教会というのは大人だけの集まりということになりますね。子どもは教会に入れないの? いやイエスさまはご自分のもとに来た子どもを拒否したりはしなかったはず。生まれたばかりの赤ちゃんも教会のメンバーとして受け入れたい。教会の中で神様の子どもとして育っていってほしい・・・そういう大人たちの思いと願いから、赤ちゃんにも洗礼を授ける、ということが行われるようになっていきました。これが幼児洗礼と言われるものです。キリスト教の早い時代から行われてきました。

 赤ちゃんは自分の口で「神様を信じます」とは言えません。そこで、その代わりに親と教会共同体が信仰宣言をして、その信仰に基づいて洗礼を授けることが行われるようになったのです。もちろん、子どもが大きくなって自分の口で「信じます」と言えるようになってほしい、という願いを込めて洗礼をするのです。
 Aちゃんのお母さんの国フィリピンでは、生まれた子どもが洗礼を受けるのは当たり前のことです。キリスト教的な雰囲気の中で子どもは成長していき、お祈りしたり、教会に行ったりしながら、自分もそのうちにイエス様のことをわかるようになり、神様を信じるようになっていく、そう期待して、洗礼が授けられます。日本では簡単じゃないかもしれません。子どもが大きくなっていく環境、学校や周りの社会ではキリスト教はあたりまえじゃないし、その中で、「わたしは父である神様・イエス様を信じます」と言えるようになるのはたいへんなことかもしれません。

 もしかしたら、大きくなって文句を言うようになるかもしれない。「自分が知らないうちに勝手に洗礼を授けられた」って。でも親は、子どもに何か与える時、何でも子どもに聞いて与えているわけではありませんね。ミルクを飲むか飲まないか、服を着るか来ないか。子どもの意思を確かめて与えるんじゃなく、一番いいと思ったものを与え続けるのです。そうでなければ子どもは育っていきません。親が子どもにしてあげられる一番いいこと、それはその子を神さまの子どもとして育てるということ、そう信じるから幼児洗礼を授けるのです。レベッカさんは、子どもが大きくなったとき、「わたしはあなたに一番いいものを与えたいと思って、洗礼を受けさせたのよ」そう胸を張って言ってあげてください。そしてその思いを理解し、認めてくれた旦那さまに感謝してください。

 本当に日本ではキリスト信者は少数なので、子どもがキリスト教的な雰囲気の中で育っていくことは難しい。だからこそ、このわたしたち、お母さんと代母(ゴッドマザー)になってくれる方々、そして、原町教会みんなの役割は大切です。本当にこのAちゃんのために祈り、Aちゃんが素晴らしい神様の子どもとして成長していくように、見守り、助ける役割があります。
 お父さんの役割もあります。子どもは親の所有物ではありません。一人一人が神さまによって造られ、限りない愛を注がれた神の子です。人間の親は、その子どもをあずかって、大切に育てる使命を与えられているのです。愛といつくしみを込めてAちゃんを育ててください。そして、お父さんはAちゃんが洗礼を受けることをお許しくださったのですから、どうか、神さまの子どもとしてAちゃんが成長していくのを見守り続けてください。

 親の願いは、子どもがよく生きることだと思います。
 「よく」というのは健康であること、事故に遭わないこと、勉強もスポーツもできること、経済的にも恵まれること、いろいろあります。
 でもそれだけじゃない。人間として「よく」生きる。人をだましたり、傷つけたりしないこと。人に対して優しい心を持つこと。周りの人とよい関係を持って生きること。そして自分の人生をすばらしいものと感じられるようになること。あらゆる面でこの子が「よく」生きること。それが親の願いだと思います。
 そのすべての願いを込めたのが、幼児洗礼式なのです。

 Aちゃんが神の子として、神と周囲の人々の愛のうちに守られ、すこやかに成長していくことができますように。そしてご家族が、神からの恵みと祝福に満たされて、平和で幸せな家庭でありますように。心から祈りながら、洗礼式を行います。


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