毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第12主日のミサ



写真は南相馬市小高区の村上海岸。昨年7月に避難指示解除になった小高区ですが、海岸の近くは津波の被害が大きく、家はすべてなくなりました。景色も以前とは変わってしまったそうです。遠くに見えるのは、原発ではなく、仮設焼却施設です。災害廃棄物や除染廃棄物を焼却・減容化するためのもので、各自治体毎に建てられています。

●年間第12主日
 聖書箇所:エレミヤ20・10-13/ローマ5・12-15/マタイ10・26-33
 カトリック原町教会にて

 ホミリア
 今日の福音の言葉。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」「神を恐れる」という感覚がわたしたちにあるでしょうか?「畏怖」とか「畏敬の念」の「畏れる」という字を書くこともありますが、今ではあまり使われることもないでしょう。
 わたしたちは、神がいつくしみ深い方だと知っています。その方に信頼するから、神を恐ろしい方だと思う必要はないと知っています。今日の福音でもそうです。2羽の雀が1アサリオンで売られている。その1羽さえも神はいつくしみ深く見守ってくださる。髪の毛1本さえも神はいとおしんでくださる。そのいつくしみ深い神を信じるのですから、神を恐ろしく思う必要はありません。
 まあ普段は、神を恐れるという感覚がなくてもいいのかもしれません。神を恐れるというのはぎりぎりのところで問われてくることではないでしょうか。

 いつも思い出すので出エジプト記1章の物語です。
 古代エジプトの新王国時代、紀元前13世紀でしょうか、イスラエルの民がエジプトで奴隷のようになっていた時代に、神がモーセを指導者としてその民を救い出した、というのが出エジプト記の物語です。エジプト人にとって、イスラエル人は勝手に他所からやってきた移民だったわけで、その移民の力が大きくなるのを恐れ、嫌い、徹底的に迫害したのです。
 エジプトの王はファラオ。絶大な権力を持ったファラオはイスラエル人の助産婦に命令を下します。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」こういう仕方で、イスラエル人の勢力をそごうとしたのです。この命令に彼女たちは従いませんでした。こう書かれています。「助産婦たちはいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(出エジプト記1章)
 もちろんお咎めを受けないはずはありません。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」というファラオに対して、助産婦はこう答えました。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
 もちろん嘘なわけですが、そうやって自分たちと赤ちゃんのいのちを守ったのです。神を恐れるから、神以外のどんな力も恐れることはない。神を恐れるということの、ものすごく積極的な意味を感じさせられる箇所です。

 先日に東京で『ローマ法王になる日まで』という映画を見ました。フランシスコ教皇の若い頃のことを描いた伝記映画です。監督はイタリア人ですがキリスト信者ではないとのこと。宗教映画ではないというのですが、ほぼ事実に基づいているそうです。若き日の教皇フランシスコ、本名ベルゴリオが司祭になったのは、アルゼンチンが軍事独裁政権の時代でした。少数の金持ちや企業の利益を守るのが軍事独裁政権で、それに反対する人々は徹底的に弾圧されました。教会は何も言うことができなくなっていました。ベルゴリオの周りでも貧しい人々のために働いていた司祭や判事、いろいろな人が逮捕され、拷問を受け、殺されていきます。必死で助けようとするのですが、ベルゴリオのできたことはわずかでした。その中で軍事独裁政権のビデラ大統領がテレビで語る場面があります。「われわれは武装勢力から民主主義を守るために、秩序と国家を守るためにやっているのだ」というのです。金持ちの貧しい人々に対する横暴を守っているだけなのに、とんでもない偽りです。とにかく、なぜ今の教皇が一貫して貧しい人のことを第一に考え、その人々を大切にしなければならないと言い続けるのか、あの悲惨な時代の体験に基づいていることが、よくわかる映画でした。あの体験からすれば、何も恐れるものはないということなのでしょう。
 かつて見た『カロル』という映画のことも思い出しました。こちらはヨハネ・パウロII世教皇の伝記映画です。第二次世界大戦下のポーランドで、若き日の教皇(カロル・ヴォイティワ)は、親しい人を次々と戦争で失っていきました。戦争の悲惨さをいやというほど味わいました。ヨハネ・パウロ2世は生涯にわたって、恐れることなくあらゆる戦争に反対してきましたが、それも若い時代の経験に基づいていることを感じさせられました。

 神を恐れるか、人を恐れるか、わたしたちは、そんな厳しい問いの前に立たされることはない、と感じますか?
 今週の土曜日7月1日は福者ペトロ岐部と187殉教者の記念日です。2008年11月24日、長崎でペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われました。そのときの司式は白柳誠一枢機卿でした。亡くなる一年前でしたが、教皇の代理として、力強く、司式・説教されました。その説教の最後の部分が特に心に残っています。
 「信仰の自由を否定され、殺された殉教者は叫んでいます。神の似姿に創られた人間の尊厳性、また人間が持つ固有の精神的能力、考え、判断し表現する自由などの重要性、それに反するあらゆることを避けることを強く訴えています。なかでも人間の生きる権利が胎児のときから死にいたるまで大切にされること。武器の製造、売買、それを使っての殺人行為である戦争。極度の貧富の差により非人間的生活を余儀なくされている者たちへの配慮など、すべての人が大切にされ、尊敬され、人間らしくいきられる世界となるよう祈り、活動することを求めているに違いありません。
 さあ、皆さん、怖れずに歩み、一緒になって進みましょう。怖れるな、怖れるなと神様がそして殉教者が呼びかけています。皆さん怖れるな。」
 わたしたちもぎりぎりのところで、人を恐れず、神をおそれる者として生きることができますように。


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キリストの聖体のミサ



写真は先週撮ったもので、南相馬市原町区の水田です。
20キロ圏内の小高区や浪江町ではまだまだこういう景色を見ることができません。

●キリストの聖体(祭日)
 聖書箇所:申命記8・2-3, 14b-16a/一コリント10・16-17/ヨハネ6・51-58
        2017/6/18カトリック原町教会

 ホミリア
 昨日、東京でCTVC(カトリック東京ボランティアセンター)の講演会がありました。震災の年の6月の司教総会で、東京や横浜の教会が宮城県南部と福島県で直接、被災地支援の活動をしてほしいと言われました。とにかく被災地があまりにも広大で、仙台教区だけではどうにもできないので日本全国の教会が直接、支援に入ってほしいということだったのです。そこからいわゆる「オールジャパン」での支援活動が始まりました。それからちょうど6年になります。この間にCTVCは福島でも、宮城県の山元町・亘理町でもいろいろな方にお会いしました。そしてその方々の声を直接、首都圏の人に届けたい。その思いで「福島から語る」そして「被災地から語る」という小さな講演会を東京で続けてきています。昨日は18回目で、亘理町の森加奈恵さんという方をお招きしました。震災以降、歌を作り、自分で歌っておられる方で、この講演会シリーズとしてははじめて「トーク&ライブ」という形になりました。

 『「なぜ歌っているのですか?」と聞かれて』というのが森さんのお話のタイトルでした。そのように、よく聞かれたのだそうです。それに対する彼女の答えは「伝えたいことがあるから、どうしても伝えたいことがあるから」でした。彼女が伝えたいこと、それは津波が来ると知っていた地域と、津波など考えもしなかった地域では被害がまったく違っていた、ということです。荒浜地区にあった森さんの家は津波で流されました。でもその地域の人々は津波が来るということを前から聞いていて、大きな地震があったらどうすればいいか分かっていて、準備していた。だから被害が少なかったそうです。でも津波のことをぜんぜん聞いていなくて、人的な被害が大きくなってしまったところもあった。それは日本のどこでも起こること。とにかく沿岸部で大きな地震にあったら津波の危険をまず考える。これが1000年に一度の地震だというなら、1000年後までそのことを伝えたい、そういう思いで歌っているのだそうです。

 森さんの歌と話を聞きながら、唐突ですが、「なぜミサをしているのですか?」という問いがわたしの頭に浮かんできました。それは週に一度のキリスト信者の主の日の集まりだから? 最高の賛美と感謝だから? 一番良い祈りだから? もちろんそうでしょう。
 でもなぜミサですか? なぜミサを教会は2000年間も続けてきましたか。
 仙台教区の現実は厳しくて、本当に司祭不足ですね。仙台教区では今年の4月1日付で『「司祭不在の時の主日の集会祭儀」を行うに際して』という平賀司教の司教書簡が出されました。簡単に言えば、司祭不足の中でも、できるだけミサに預かれるような工夫をして、どうしてもダメなら主日の集会祭儀をする、というのです。でもそれが現実になってきているから準備していきましょうということもあります。
 今年度、わたしはできるかぎり、日曜日にこの教会にいるつもりですが、やはり何度か集会祭儀をしていただかなくてはなりません。来年以降はどうなるか本当に分かりません。平賀司教さんは、止むを得ずミサができなくて集会祭儀になる時がある。しかしミサの大切さを忘れないでほしい、と訴えておられます。なぜでしょうか。なぜミサが大切でしょうか。なぜ仙台教区は司祭不足の中で、できるだけミサを続けようとしているのですか。多くの司祭は主日に2つも3つもミサをささげるために、走り回っているのでしょうか。

 それはやはり伝えたいことがあるからです。わたしたちが伝えたいもの、それはキリストの愛です。キリストが十字架にかかる前に、弟子たちとともに食事をし、その中で、このパンとぶどう酒に込めた思い。このパンとぶどう酒を用いて、自分を思い出すようにと弟子たちに命じた思い。そのイエスの思いを、愛を伝えたいのです。イエスのなさった他の食事の場面も思い出します。イエスは、当時の立派な人々の食卓から排除されていた人々(罪びとのレッテルを貼られていた人々)を招いて一緒に食事をしました。5,000人以上の群衆が食べ物がなくて困っていた時、イエスはそこにあったわずかなパンについて神に感謝をささげ、皆で分かち合って食べようとし、群衆は満たされました。誰一人排除しないイエスの愛。貧しさの中で、神に信頼し、皆で支え合って生きるという生き方。イエスはそれを示してくれました。そのイエスの愛のすべてを込めたのがあの晩さんでした。だからわたしたちはどうしてもミサをしたいのです。

 イエスは最後の晩さんのときに、このパンとぶどう酒を用いたこの会食を弟子たちに委ねました。弟子たちは次の弟子たちに、またその次の弟子たちに、そうやって人から人へと受け継がれてきた、それがミサであり、教会です。その意味で使徒の後継者である司教や司教の協力者である司祭がいないとミサにならないとわたしたちカトリック教会は考えます。ときどき誤解がありますが、聖書が先にあって教会ができたのではありません。イエスが使徒たちを派遣し、信じる人々の集まりである教会ができ、その教会の中で聖書が書かれたのです。聖書が書かれる前から、教会はミサ(主の晩さん)をしてきました。そしてこのミサをとおして2000年間、キリストの愛を伝えてきたのです。

 今日の福音では、ミサの、聖体の本当に深い意味が語られています。
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(6・56-57)
 津波のことを知っているのと知らないのでは違うように、キリストの愛を知っているのと知らないのでは人生が違います。今日もこのミサで聖体をとおしてキリストの愛を味わい、キリストの愛に結ばれ、キリストの愛を生きる者となることができますように。アーメン。



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三位一体の主日のミサ



先週6月8日(木)の夕刻、原町教会とさゆり幼稚園の上に虹がかかりました。
よく見ると虹は二重になっていました。
神の祝福と希望のしるしだよね!

●三位一体の主日
聖書箇所:出エジプト34・4b-6, 8-9/二コリント13・11-13/ヨハネ3・16-18
2017.6.11カトリック原町教会

ホミリア
 今日、三位一体の主日にいただいた福音の言葉は、あまりにも有名なみ言葉です。
 「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3・16)
 キリスト教信仰のすべてを凝縮したような一言、それがこの言葉です。この言葉を本当に深く味わえたらよいと思います。
 ヨハネ福音書は、イエスを神の「ひとり子」と言います。この言葉はもちろん「一人っ子」というのが元の意味ですが、兄弟姉妹がいないという意味ではありません。わたしたちは皆、神の子ですし、イエスの兄弟姉妹です。でもイエスは特別な意味で神に深く結ばれた方なので、「ひとり子」と呼ばれています。「ひとり子」というのは他の人(兄弟姉妹)との関係を表すための言葉ではなく、父である神との特別な親しい関係を言うための言葉なのです。

 ヨハネ福音書では、「ひとり子」について語るもう一つの大切な箇所があります。
 ヨハネ1・18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいるひとり子である神、この方が神を示されたのである。」
 このひとり子は神と等しい方、神と完全に一致している方で、目に見えない神を目に見える形で現してくださった方。そういう方を神はわたしたち人類に与えてくださったとヨハネは言うのです。
 イエスという人が立派な人で、神に忠実に従い、人を大切にして生きた。いろいろ素晴らしい教えを残してくださった。だからわたしたちはイエスにならい、イエスの言葉を守って頑張って生きていきましょう。それもありますが、キリスト教というのは、それだけじゃないのです。イエスの生涯のすべては、神の人類に対する決定的な救いの働きかけだった。イエスの生き方も、その受難と死も、そして復活も、すべては神が人間を愛し、人間を救うためになさったことだったのだ。イエスが「アッバ、おとうさん」と呼んだ神は、本当に信頼に値する方で、イエスの生涯のすべてをとおしてご自分を完全に現された。イエスとご自分が一つであることを示してくださった。わたしたちはそう信じます。
 
 現実の世界は悪い時代に向かっているように感じられるかもしれません。テロが繰り返され、ミサイルで他国を挑発するような国もあります。多くの国は自分の国の利益を第一に考え、お金や暴力が世界を動かしているかのよう。身近なところでも目先の利益に振り回され、自分のことしか考えない傾向がある。そしてそこから不正やウソ、言葉の暴力やいじめが起こってくる。わたしたちは、そんなことを経験しているかもしれません。
 神様はどこにいるのか、神様はなぜこんな世界を許しておられるのか?神がいるとしたら、わたしたちのために何をしてくださるのか。
 そのとき、わたしたちは今日のヨハネの言葉を思い出します。
 「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」

 決定的に神がなさったこと、それはひとり子イエスを世に与えてくださったことだとわたしたちは信じます。
 聖書をとおしてわたしたちはイエスの言葉と生き方を知ることができます。イエスが貧しい人や苦しむ人々の中で、また、ご自分の困難と苦しみに直面する中で、どのように生きたかを知っています。神への信頼を貫き、人への愛を貫いたイエスの生き方を知っています。そしてそれが決してむなしくはなかったということを知っています。だからわたしたちはどんな状況の中でも希望を失いません。イエスとともに信頼と希望と愛をもって歩み続けることができます。

 もう一つわたしたちが信頼するのは聖霊の働きです。神は聖霊を遣わし、すべての人の心に働きかけてくださっています。それは2000年前のペンテコステの日の話ではなく、今もそうなのです。神はすべての人の心に働きかけてくださっている。人の心がどんなにゆがんでしまっていても、富や欲望に振り回されていても、それでも神はそのすべての人の心に真理と正義と愛を求める心を呼び覚ますよう働きかけてくださると信じます。少なくともわたしたち、キリストを信じるわたしたちは、自分の心に働きかける聖霊の働きに心を閉ざしたくない、聖霊の導きに心を開き、それに従いたい。真理と正義と愛に向かって歩み続けたい。

 ヨハネの第一の手紙にこうあります。
 「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(一ヨハネ4・12)
 三位一体の主日にあたり、この愛である神、父と子と聖霊のいのちがわたしたちのうちに満ち溢れますように、ご一緒に祈りましょう。



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主の昇天の祭日のミサ



写真は「さごはち(三五八)」という福島独特の漬物の素です。
塩3、米麹5、米8の割合で漬け床を作るのでこう呼ばれています。
ちょっと前から自分でやってみていますが、簡単でおいしいですよ。

さて、お知らせが1つ。
来週6月4日(日)は聖霊降臨の主日ですが、仙台教区第6地区の合同ミサが仙台の元寺小路教会で行われるため、原町教会ではミサがありません。お間違いなく。

ではいつもの説教原稿です。どうぞ。

●主の昇天の祭日ミサ
 聖書箇所:使徒言行録1・1-11/エフェソ1・17-23/マタイ28・16-20
       2017.5.28カトリック原町教会

 ホミリア
 きょうの福音はマタイ福音書の結びの箇所です。復活したイエスと弟子たちの出会いの物語はそれぞれの福音書にありますが、どの福音書にもイエスが弟子たちを派遣する言葉があります。
 マルコ福音書の結びでは、「全世界に行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)と言われます。ルカ福音書では「あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24・48)と言われますが、今日の第一朗読・同じルカが書いた使徒言行録ではもっとストレートに「地の果てに至るまで、わたし(=イエス)の証人となる」(使1・8)と言われていますう表現になっています。ヨハネでは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)でした。ヨハネで弟子たちに与えられる使命の中心は「ゆるし」です。
 今日のマタイ福音書では「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と語られます。マタイ福音書のイエスの活動はガリラヤ湖で4人の漁師を呼び出し、弟子にしたところから始まりました。その弟子づくりという活動が今度はイエスの弟子たちに受け継がれて行くのです。これまでイエスがしてきたことを、これからは弟子たちがやっていくことになる、これがそれぞれの福音書が伝える復活したイエスの派遣の言葉に共通していることだと言ったらよいでしょう。マタイは弟子づくりの具体的な内容を「洗礼を授け、教える」と言いますが、決して言葉だけの問題ではありません。自分の生き方をとおしてイエスをあかしし、神の愛を人に伝えること。それが復活したイエスによる弟子たちの派遣の意味でした。
 
 「派遣」は英語で言うと「ミッション」ですね。現代では「使命・任務」という世俗的な意味で使われていますが、元はラテン語の「送る、遣わす」という言葉から来ていて、本来の意味は「派遣」です。ミッションとは神から遣わされることを表す言葉でした。
 「ミッショナリー」という言葉もあります。「宣教師・宣教者」と訳されますが、本来の意味は「派遣された人」です。キリスト教徒があたりまえの欧米にあって、外国に行ってキリストを知らない人のため働く。それが特別な意味での「派遣」と考えられ、そういう人をミッショナリーと呼ぶようになったのです。この人たちが作った学校が「ミッションスクール」なんですね。でも派遣されているのは、特別な宣教師だけではありません。教会全体が神から派遣されたものであるということは大切です。
 「ミサ」という言葉もミッションと同じ語源です。ミサの最後に「派遣の祝福」があり、わたしたちはいつもミサから派遣されていきます。福音宣教の使命をいただいて世に遣わされるのです。でも、そう言ってもカトリック信者はあまり嬉しそうな顔をしませんね。そんなしんどそうな顔をしないでください。ミッションというのはほんとうは嬉しいこと、人生を輝かすことなんです。

 大聖堂の工事現場の話というのがあります。何かで読んだのですが、正確に覚えていません。こんな話です。
 ある人が大聖堂の工事現場に行きました。レンガを積んで壁を作っているところでした。そこで働いている人の一人に聞きました。「君はここでなにをしているの?」彼はつまらなそうに、こう言いました。「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだよ」。他の人にも同じように「何をしているの?」と聞きました。彼も疲れた顔をして「壁を作っているんだ」と答えました。さらにもう一人の人に聞きました。「君はここで何をしているの?」すると彼は胸を貼り、目を輝かせて、「わたしはここで大聖堂を建てているんです」と言いました。
 3人とも同じことをしているのですね。最初の2人はお金のために仕方なくこの仕事をしているという感じ。でも3人目の人は、自分のしていることは、神様のためであり、この大聖堂ができあがったときに、そこを訪れ、そこで祈る人々のため。そう感じている。だから彼の顔は輝くのです。
 こういうのを「センス・オブ・ミッション」と言うのだとわたしは思います。「使命感」と訳すと何か重荷のように感じて、へたをすると悲壮感が漂いますが、「ミッションのセンス」です。「わたしのしていることは神から与えられた大切な仕事で、意味のあることなのだ」このミッションのセンスは人生を輝かせます。

 本当にこのミッションのセンスを大切にしたい。わたしたちの原町教会もそうです。
 浜通り北部にあるカトリック教会はこの原町教会だけですね。この教会は60年以上前にドミニコ会の宣教師が始めた。それから何とか存続してきた。わたしは昔からここに住んでいて、この教会に通っている。でも高齢化しているし、この先どうなるか・・・確かに人間的に見ればそうかもしれませんが、もっと大切なのは、この教会は、神から派遣されてここにあるということです。神様との関係の中では、なぜか不思議にも神はこの原町教会をこの相馬双葉の地域に置いている。それは神様の特別な意図があってのこと。神がすべての人を救うために、その愛を現すために、わたしたち原町教会はこの地域に派遣されている。このミッションの意識を大切にしたいのです。この意識なしで教会は輝くことができません。去年の12月にカリタス南相馬がこの教会の隣にできました。カリタス南相馬のシスターやスタッフは自分で選んでここに来ました。神が自分たちをここに置いたと感じています。ですから神はわたしたちを何のためにここに派遣したか、いつも問い続けています。でもそれは前からこの教会にいる信徒にとっても同じなのです。神様がこの地域にこの原町教会を派遣している意味は何か、そのことを問い続ける教会でありたいと思います。

 一人一人の生活もそうです。わたしたち一人一人の生活を本当に神から派遣された生活だと受け止めたい。わたしたちは毎回、ミサの中でキリストに結ばれ、キリストに結ばれたものとして派遣されていきます。明日からの毎日、わたしたちはただ何となく生きるのではありません。神から派遣されて、神の愛を伝えるために、イエスのこころを伝えるために、人を愛するために遣わされるのです。そのミッションを受け取れば、わたしたちの毎日は必ず輝くものになります。
 「でもやっぱりたいへんだなぁ」と思われるかもしれません。しかし、「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」これが今日のイエスの約束です。
 わたしたちが復活のイエスからいただくミッションをもっと深く、喜びをもって生きることができますように、祈りましょう。


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復活節第6主日のミサ



熊本の慈恵病院で「こうのとりのゆりかご」が始まってから、ちょうど10年です。

わたしが訪問したのは2年前のことでした。これはそのときの写真です。

●復活節第6主日・世界広報の日
 聖書箇所:使徒言行録8・5-8、14-17/一ペトロ3・15-18/ヨハネ14・15-21
              2017/5/21カトリック原町教会
 ホミリア
 熊本にある慈恵病院は、もとはマリアの宣教者フランシスコ修道会(FMM)のシスターたちが始めた病院でしたが、今は修道会が母体ではなくなり、蓮田先生というカトリックの医師が院長(現在は理事長)になりました。ご高齢で健康が心配ですが。
 この病院は「こうのとりのゆりかご」で有名になり、わたしも一度そこを訪問したことがあります。新築した産婦人科のビルがとても立派な病院でした。その一角に「こうのとりのゆりかご」があります。赤ちゃんを産んだけれど、どうしても育てることができない、という母親がそこに匿名で赤ちゃんをあずけることができる場所です。赤ちゃんをそんなところに預けていいはずがない。でもそれがなければ遺棄され、死んでしまう赤ちゃんがいる。その赤ちゃんのいのちをなんとか救いたい。という蓮田先生の思いから、今からちょうど10年前の2007年5月、熊本市から許可を受けて始めました。
 日本では「赤ちゃんポスト」と呼ばれることがあって、親が簡単に養育放棄することにつながるというような批判もありましたが、話を聞いて本当に素晴らしい働きをしていると感じました。

 「こうのとりのゆりかご」に赤ちゃんを預けるのはほんとうに最後の手段で、それ以前に「赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」ということをしています。24時間、予期しない妊娠して苦しんでいる女性の相談を電話で受け付けるのです。全国から電話がかかってくるそうです。必要な支援につながって、「こうのとりのゆりかご」まで至らずに、なんとか赤ちゃんのいのちを救うことができたというケースも多くあるとのことでした。
 蓮田院長の講演を聞いたことがあります。そこで蓮田さんが嘆いていたのは、「こうのとりのゆりかご」は子どもを望んでいる夫婦との間で養子縁組をするために預かるのに、児童相談所は実の親を探してその親に返そうとする。育てる気もなく、育てられない親に無理やり押しつけるより、養子縁組のほうがよほどよいのではないか。また欧米では施設の子どもたちを養子として育てようとする家庭が結構あるそうですが、日本で施設に預けられる子どもの数が年間3000人以上いるのに、「特別養子縁組」によって子どもが家庭に迎えられるのは、年間わずか400組だそうです。

 今日のイエスの言葉を読んで、この「こうのとりのゆりかご」のことを思い出しました。イエスは今日の箇所で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束されます。弁護者であり、真理の霊である聖霊を遣わす。わたしがあなたがたのうちにいる。だから決してあなたがたはみなしごにはならないのだ、とイエスはおっしゃるのです。
 神はわたしたちを一人ぼっちで孤立無援にはしておかない、わたしたちは神がそういう方だと信じています。慈恵病院の取り組みもその信仰から出発しています。神はわたしたちすべての親であり、どんな小さないのちもいつくしみをもって見守り、そのいのちが生きることを望んでおられる。そう信じるところから「こうのとりのゆりかご」の取り組みは始まったのです。

 本当に神がわたしたちの親だということを深く受け取りたいと思います。神が親であって、どんな時もわたしたちを見捨てることがない、そう信じるからこそ、現実の親や家族や親しい人とのつながりが、その人たちの存在がありがたく思えるのだと思います。人間にすがるだけなら、もちろん赤ちゃんのときは親にすがることが必要ですが、その関係はいつか終わってしまうでしょう。神がほんとうの親であると信じるから、日々、人との関わりの中でわたしたち人間同士、お互いに誠実に、信頼し合いながら、支え合って生きることができるのです。
 きょうの箇所で「わたしを愛しているならばわたしの掟を守る」とイエスは言います。イエスの掟は「互いに愛し合いなさい」、それしかありません。本当に神がわたしたちすべての者の親として、わたしたちすべての者をいつくしんでくださるのですから、わたしたちもその神のいつくしみを人に届けるものでありたいと願います。

 もう一つ大切なことは、神はわたしの親だけでなく、すべての人の親だということです。自分たちのグループと他のグループ。自分たちと同じ考えの人と別の考えの人。自分の国とよその国。最近どんどんそうやって人と人の区別を強調することがひどくなっているように感じています。その中で味方が多ければ安心できる。味方が強ければ安心できる。さらにそのわたしたちのグループに、わたしたちの国に、神様がついていてくれたらもっと心強い、、、でもそれは自分たちが独占している神様ですね。イエスの教えた神様はそんな神様ではなく、すべての人の父です。だから自分たちに神がついていてくれて、他の人はみなしごになろうが、どうなろうがかまわない、ということはありえません。わたしたちは全ての人の親である神を信じています。そこからいつもこのミサの中で、すべての人のしあわせのために祈り続けたいと思います。

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