毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

髪の毛の一本も・・・

「幸田司教さん、いつのまにかずいぶん薄くなりましたね」
なんて言わないでください!
この前の日曜日(11/14)の小岩教会での説教です。

年間第33主日のミサ(ルカ21・5-19)

 イエスがガリラヤから始めた、神の国を告げ、神の愛を伝える活動は、エルサレムの神殿の境内に至りました。神殿の境内でイエスは当時の宗教的指導者たちと出会いますが、彼らとの間の溝は大きくなるばかりでした。彼らの敵意はどんどん大きくなり、イエスはいよいよ受難に向かおうとしている、その中できょうの言葉が語られます。大切な場面です、というか、本当に緊張した場面です。
 しかし、この箇所の冒頭は、まったくそんなことに気づいていない人たちのことから始まっています。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話し合っていると」とルカは言います。マルコ福音書ではこうなっています。「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」この大事な場面で、弟子たちは神殿の立派さに目を奪われ、心を奪われてしまっています。マルコはイエスの弟子たちがイエスの受難についていかに無理解だったかを隠しません。ルカは弟子に対してもっとやさしいですが…。

 これに対してイエスは言いました。こちらはマルコもルカもほとんど同じです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」全部過ぎ去るものだと言うのですね。石造りの神殿がどれほど確かに見えても、これも人間の作ったもので、しょせん、滅びゆくものであって、本当に頼りにはならない。イエスの言葉はそういう意味でしょう。
 そしてイエスはこれから起こることを語ります。戦争や災害や飢饉、疫病など悲惨なことが次々に起こる。そして弟子たちに対しては迫害が起こり、弟子たちは人々に憎まれ、中には殺される者もいる。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」というのです。
 「髪の毛の一本も決してなくならない」とはどういうことでしょうか?もちろん小さな物のたとえで、本当に神様はわたしたちのどんな小さな部分にまでいつくしみの目を注いでくださる、守ってくださるという意味でしょう。でも今回この箇所を読みながら、わたしたちがふと、見過ごしてしまうようなもの、目に見えないもの、しかし決して奪われることのないものが「髪の毛一本」ではないかと思いました。

 このあと、イエスの受難が始まっていきます。マルコ福音書は徹底的にイエスが最後の十字架の場面で、「無力で苦しむ人」になってしまったことを伝えています。ルカでもそうです。イエスはすべてを奪われていきます。でも奪われなかったものがある。ルカが伝える十字架のイエスの2つの言葉にそのことがよく表れています。
 1つは十字架につけられた時の言葉、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」イエスは最後の最後まですべての人、ご自分を十字架につける人たちまでも愛し抜かれた。イエスからその愛を奪うことはできなかったのです。
 もう1つは息を引き取る前の言葉、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」という言葉です。イエスは最後の最後まで、父である神に対する信頼を持ち続けた。この神とのつながりをイエスから奪うことは誰にもできなかったのです。

 たいへんな愛、たいへんな信頼。それを「髪の毛一本」というのはヘンでしょうか。でもぎりぎりのところで、わたしたちも何を大切にするかが問われる。「髪」と字は違いますが、いわば「紙」一重のように問われるのではないでしょうか。
 ふだんはいろんなことに目が行っています。お金のこと、いろいろなモノのこと、組織や人事のこと、ほんとうにいろいろ心にかけなければいけないことがあります(わたしなんか本当にそうなんです)。でもぎりぎりのところで問われているのは、やはり、髪の毛一本ほど目に止まらないような、それでも本当に大切なものではないか。やはりそれは目に見えない神とのつながり、人と人との愛のつながりではないか。わたしたちが本当に目に見えない大切なものを見失わずに歩んでいくことができますように、このミサの中でご一緒に祈りたいと思います。アーメン。



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