毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

王であるキリスト・江戸の殉教者記念ミサ

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●王であるキリスト・江戸の殉教者記念ミサ(ヨハネ18・33b-37)
                  2015.11.22カトリック高輪教会にて
ホミリア
 1623年12月4日、この近くの札の辻において、将軍家光の命により50人のキリシタンが火刑に処せられました。この記録は当時目撃した人々の証言をもとにローマまで送られました。50人のうち、2人が司祭、1人が修道者でした。司祭はイエズス会のデ・アンジェリス神父とフランシスコ会のガルベス神父,修道士は日本人でシモン遠甫(えんぽ)という人。この3人についてはどういう人物なのかローマまで記録が伝わっていたので、19世紀に日本の殉教者としてローマで列福されました(記念日は9月10日の「日本205福者殉教者」)。残り47人の日本人信徒のうち13人は名前も分かっていません。その中で原主水は、家康の旗本という地位のある侍だったため、いろいろな形で日本国内に記録が残っていました。今の千葉県佐倉市にあった臼井城で城主の子として生まれましたが、幼くして父を戦で失いました。その後、その地方の名家の出ということで徳川家康の小姓になりました。1600年頃大阪でキリシタンになり、それからもずっと家康に仕えていましたが、1612年、家康が自分の家来にキリスト教を禁じた命令に従わず、姿を消しました。その後、見つかって捕らえられ、体を傷つけられて、不自由な体で追放されました。江戸の浅草のあたりのハンセン病者たちの中に潜んで活動していたときにまた捕まり、最後はこの大殉教で殺されていきました。原主水はこのような記録が整えられたので、2008年、長崎で「ペトロ岐部と187殉教者」の1人として列福されることになりました。それは多くは名も知れぬ47人の日本人キリシタン信徒の代表としての列福だったと思います。彼らは誰一人、信仰を捨てずに殉教していったと伝えられています。
 わたしたちは今日、この殉教者たちの姿に思いを馳せています。
 殉教者を思うとはどういうことでしょうか?

 殉教者を思うとは、目先のことがすべてではないと思うことではないでしょうか。目先の利益、損得、あるいは目に見える力。それらがわたしたちの社会が必死で追い求めているものでしょう。少しでも景気を良くするために、企業を優遇し、法人税を引き下げなければならない。便利で快適な生活を維持するためにはやはり原発に頼らなければならない。ISのテロがあるからもっとあのあたりで空爆を行わなければならないし、日本もそれに協力しなければならない。某国が海洋進出してくるから、こちらも防衛力をもっと強化しなければならない。目先のことだけ見ていたら、これらのことは全部仕方ないことに見えるかもしれません。
 でもそうやって目先のことを追い求め、目先のことばかりに振り回されているうちに見失ってしまうものがあります。

 見失うものは何か。それは「信頼と希望と愛」ではないでしょうか。
 今の時代、わたしたちはいつも不安を抱えています。健康についての不安、経済的な安定を失うのではないかという不安、国と人々の安全についての不安。それを人間の力(お金の力や軍事力)でなんとかしようとしますが、本当の安心は得られません。「安全保障」とか「セキュリティー」という言葉がよく使われますが、本当にそこに安心はあるのでしょうか? 本当の安心は神への「信頼」の中にしかないはずです。
 失われるものには「希望」もあります。少子高齢化ということがさかんに言われます。次の世代を生み出し、未来に希望を置くということより、今の生活を守ろうとする、というのは、やはり希望の危機ではないでしょうか。今の生活がすべてとなったところには「この世を超えた、永遠のいのち」への希望も見えてきません。
 さらに失ったものには「隣人への愛」があると思います。わたしたちの多くはどこかで豊かな人間関係を見失ってしまっているのではないでしょうか。多くの人が孤立に陥っています。身近なところでそうです。そしてフランシスコ教皇が指摘するように、貧しい人・社会的な弱者に対して無関心でいるわたしたちがいます。どんな民族であれ、どんな国籍・宗教であれ、人として皆つながっているという連帯感も急速に見失いつつあるのではないでしょうか。

 そういう時代だからこそ、殉教者たちの姿は、わたしたちに問いかけてくるのです。本当に大切なものはなんですか、と。神に信頼すること、神の救いの計画に希望を置くこと、すべての人を愛する心を持つこと。そのすべては神からしか来ないのです。
 今日は王であるキリストの祭日です。最終的にキリストの愛がすべてにおいてすべてとなる、その救いの完成を仰ぎ見て、そこに希望を置き、そこに向かって歩もうとします。
 イエスは今日の福音の中で「わたしの国はこの世に属していない」と言われます。「属していない」と訳されていますが、直訳は「この世からのものではない」。むしろ「この世に根拠を置いていない」と訳したほうがよいかもしれません。キリストが王となる国、それはこの世に根拠を置くのではなく、神に根拠を置いている国なのです。
 「神に根拠を置く」、それがまさに殉教者たちの生き方でした。そしてそれがわたしたちにとっても本当の意味での「信頼と希望と愛」の源です。十字架にかけられた王イエス・キリストを思い、殉教者たちを思いながら、わたしたちも「神に根拠を置く」ところにいつも立ち帰り、そこから出発しましょう。


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