毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第三主日のミサ

20160124

昨日も東京はいいお天気でした。カテドラルの空も澄み渡っていました。
またミサの説教メモです。

⚫︎年間第3主日      
(ネヘミヤ8・2-4a, 5-6, 8-10/一コリント12・12-30/ルカ1・1-4, 4・14-21)
                         2016/1/24 関口カテドラル
ホミリア
 「貧しい人に福音を、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を」今日の福音はイエスによる解放の宣言です。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という2000年前にナザレの会堂での宣言を今のわたしたちはどう受け取ったら良いのでしょうか。
 思い巡らしているうちに、ふと第二朗読の言葉に目が留まりました。
 「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(一コリント12 ・21)
 「お前は要らない」って、すごい言葉ですね。そんなこと人に向かって言ってはいけないし、絶対に言えないはずです。でもわたしたちの身近なところで、どれほど多くの人がこの言葉によって傷ついていることでしょうか。

 学校でいじめられている子どもたちのことを思います。親や身近な大人から虐待されている子どもたち、暴力被害にあっている女性たち、ハラスメントの被害者たちのことを思います。「お前なんかいらない」言葉や身体的な暴力によってそのメッセージを受け続けたら人は生きていくのがとても辛くなります。
 病気や障害、高齢によってそういうふうに思ってしまうこともあるでしょう。人に「お前は要らない」と言われるかもしれないし、自分なんかなんの役にも立たない。いてもいなくてもいい。そう感じることがあるかもしれない。それはどれほどつらいことでしょうか。
 自分の罪意識に苦しむこともあります。自分はいてはならない人間なのだ。
 イエスの時代もさまざまな人々が、そのような思いに捕らわれ、押しつぶされそうになっていました。病気のため、罪人のレッテルを貼られているため、貧しさのため。その中でイエスのメッセージは、父である神はあなたを愛してくださっている。どんな人も例外なく大切にしてくださる。あなたは決して要らない人間じゃない!

 「主の恵みの年」と言います。これは「ヨベルの年」のことだと言われます。50年に一度、奴隷が解放され、借金は帳消しにされ、土地は元の所有者に戻される。どういうことでしょうか。イスラエルの民の根本的な救いの体験は紀元前13世紀のエジプト脱出の体験でした。イスラエルの民がエジプトで奴隷状態になって苦しんでいたとき、神がその民の苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知って神の方から民に近づいてきて救い出してくださった。それからイスラエルの民は40年荒れ野の旅をして、約束の地に入ります。荒れ野の旅の間、水や食べ物に事欠く厳しい状態の中で神は民を養ってくださいました。毎日毎日ぎりぎりの生活でしたが、なんとか生き抜くことができた。そこでは貧富の差はありませんでした。約束の地に入ったときも平等に土地が分け与えられました。ところが定住して農耕生活を始めるとある人は倉を建てそこにたくさんのものを貯め込んで豊かになり、逆にある人はどんどん貧しくなって借金を作ったり、先祖から受け継いだ土地を売ったり、仕舞いには自分や家族の身さえ売って奴隷のようになっていきます。ヨベルの年とは50年に一度、そのすべてを元どおりにすること、神の救いの原点にたち戻ることを意味していました。

 イエスがナザレで説教したのは、実際のヨベルの年の時ではなかったでしょう。しかし、イエスは「今日、この言葉はあなたがたが耳にしたとき実現した」と言われます。わたしたちはいつでもその神の救いの原点に立ち返ることができるのだ、わたしたちはいつでもいつくしみ深い父である神との出会いを味わうことができるのだ。これがイエスのメッセージでしたし、フランシスコ教皇が「いつくしみの特別聖年」に呼びかけているのも同じことだと思います。
 「お前は要らない」フランシスコ教皇は『福音の喜びEvangelii Gaudium』の中でグローバル化された経済の中で格差が広がり、貧しい人はあたかも存在しないかのように扱われている。排除されていると批判しました。そして誰も排除されない社会を目指そうと呼びかけました。そして今、教皇は誰も排除されない教会を目指しておられるように感じます。誰に向かっても「お前は要らない」と言わない教会。同性愛者であろうと、離婚し再婚した人であろうと、あなたは神様から見て大切な人、教会にとって欠けてはならない人です。そのことを伝える教会でありたい。

 第一朗読にはこういう言葉がありました。
 「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
 そこには誰も排除しない共同体がありました。自分たちだけが主の喜びにあずかればいいのじゃないのです。この喜びに預かることのできない人がいないことが大切。

 「お前は要らない」と言われることがどれほど人を傷つけるかを忘れないようにしましょう。神である父とイエスはわたしたちすべての者に「あなたは決して要らない人ではない」と言ってくださいます。だからわたしたちも互いにそう言い合える教会でありたい、社会でありたい、切に願いながら今日のミサをささげましょう。


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