毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第18主日のミサ@平塚教会

20160731

平塚教会のミサ。
今日は暑かったですが、環境のことを考えて、聖堂は窓全開、エアコンなし。
海に近いので、内陸よりは涼しいのかもしれません。
暑くてかなわない、というほどではありませんでした。ホッ。

ミサ後に奉仕者の皆さんと一緒に記念撮影。この写真はKTさんに頂きました。

●年間第18主日
 聖書箇所:コヘレト1・2、2・21-33/コロサイ3・1-5、9-11/ルカ12・13-21
                  2016.7.31カトリック平塚教会
 ホミリア
 ミサの説教ですが、先週起こった2つの衝撃的な事件について話さないわけにはいきません。何か偉そうなことを言おうというのではなく、信仰者としてどう受け取ったらいいのか、わたしなりに感じたことを分かち合って、皆さんの参考にしていただければと思います。
 2つの事件。1つは相模原市の障害者施設津久井やまゆり園で起こった殺傷事件。犯行の手口、被害者の数も衝撃的でしたが、何よりも犯人(被疑者)が障害者の生きる権利を否定し、殺害を肯定する考えをはっきりと持っていたこと、そしてそれを実行に移したのだということが衝撃でした。
 もう1つはフランス・ノルマンジー地方の小さな町の教会襲撃事件。ISのテロは繰り返されていますが、特に今回の標的はカトリック教会そのものであり、ミサの最中に教会が襲われ、ジャック・アメル神父という84歳の司祭が殺されたこと。特別にわたしたちカトリック信者にとって衝撃的なことでしたが、こちらも確信犯でした。
 もちろん津久井の事件とISのテロを同じように考えるべきではない面もあります。津久井の事件は精神障害者の妄想や薬物使用の影響による特異な事件だという見方もあるでしょう。しかし、ただ特異な事件ということに終わらせずに、その事件がわたしたちに問いかけているものを受け止めようとすることも大切だと思います。

 人を殺すという考えを持つことと、実際に行動に移すということは大きな違いがある、とある人が言っていました。あんな人はいなくなればいい、殺してしまいたいと思っても、そこで普通ならコストとリスクを考える。その殺人を実行するためにどれだけの代価を払わなければならないか、そして、そのことによって自分の身にどれだけの危険があるか、そう考えて思いとどまることが多いはず。でも、津久井の事件の容疑者にはそんな考えがない。ISのテロリストにもそれがない。自分が死んでもかまわないからそれを実行する。そこには自暴自棄としか言いようのないものがあると感じてしまいます。自分は殺されようが死刑になろうがどうなってもかまわない、ということの背後には、自分自身のいのちを大切に思う思いが欠落しているのではないかと。そしてだから人のいのちも大切にしないような思いと行動に突き進んでしまうのではないかと思います。
 テロリストや凶悪な犯罪者の中に、自分が排除されているという思い。挫折感や敗北感。誇りを傷つけられた屈辱感。そういうものがあって、それが人を自暴自棄にならせる。過激な思想や犯罪に人を向かわせる。そう思えてなりません。

 だからどうしても問われなければならないことがあります。それは本当にわたしたちの社会が一人一人の人間を尊重する社会になっているのかということ。ヨーロッパの社会の中で難民や移民は排除されているのではないか。日本の社会の中でも排除されている人々がいるのではないか。表面的にはそうでないかもしれない。いちおう、そういう人々を助けるための法律や制度が存在しているかもしれない。でも、周囲から、社会からは迷惑で、本当はいないほうがいいと思われている、そういう目で見られている。見られているほうは、そう見られていることを敏感に感じているのです。
 そういう排除の考えが、どこかでわたしたちの中にもあるのではないか。

 現代世界の中にどこかで、「欲望と情念」「損得と好き嫌い」を無条件に肯定し、さらにあおっていくような部分があるように思います。もちろん欲望も情念も人間の心の中にあるものですから、無視することはできません。でもそれを無制限に肯定してしまって、欲望のままに情念のままに動けばいいのだとなれば、神を否定し、隣人を否定することにつながっていくでしょう。それがどれだけ悲惨な世界を生むことになってしまうかを考えなければならないと思います。
 わたしたちは憎しみと暴力の世界にノーと言いたい。でも、どうやって? 憎しみと暴力をもって、憎しみと暴力の世界にノーということはできません。わたしたちはイエス・キリストの十字架の愛とゆるしを信じます。それだけが憎しみと暴力に打ち勝つと信じます。そして少しでもイエスの愛とゆるしに近づこうとします。それが憎しみと暴力にノーということなのです。

 今日の福音は簡単です。イエスのたとえ話は難しくありません。結びにイエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われます。
 「神の前に豊かになる」とは本当にわたしたちにとってどういうことでしょうか?目の前の損得の計算や感情的な好き嫌い、あるいは力による支配への誘惑に振り回されるのではなく、本当にすべての人とともに生きるという生き方のことでしょう。神とともに生き、人とともに生きることを喜びとする生き方。それが十字架のイエスの道であり、それこそが、本当の意味で神の前に豊かになる生き方だとわたしたちは信じます。
 今日もイエスは「神の前に豊かになる」生き方へとわたしたちを招いてくださいます。その招きに精一杯答えて生きることができますように、ご一緒に祈りましょう。




PageTop