毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第26主日@秦野教会



今日は秦野のたばこ祭りの日でした。
神奈川県秦野市は今ではたばこを栽培していませんが、その昔、たばこ栽培が盛んで、そのことを思い起こすために「たばこ祭り」というのだそうです。結構盛大なお祭りです。でも、いつまで続くでしょうか、この名前?

教会はお祭り会場の商店街の中にあって、この日に合わせて教会バザーをしています。
道行く人も入りやすいし、なかなかの名案ですね。

●年間第26主日(世界難民移住移動者の日)
 聖書箇所:アモス6・1a, 4-7/一テモテ6・11-16/ルカ16・19-31
                      2016.9.25秦野教会
 ホミリア
 今日の福音は金持ちとラザロのたとえ話です。この箇所を読んで、フランシスコ教皇の言葉を思い出しました。2013年11月に出された使徒的勧告『福音の喜び』の中で教皇は、貧しい人を助けなければならないという聖書と教父たちのメッセージについて、次のように述べておられます。
 「このメッセージは、あまりにも明白で、直接的で、単純かつ雄弁であるために、教会のいかなる解釈学もそれを相対化することはできません。それを教会が考察する際には、その勧告の意味を曖昧にしたり弱めたりしてはなりません。むしろ勇気をもってその勧告を受け入れなければなりません。どうして単純なものを複雑にしようとするのでしょうか。概念という道具は説明の対象となる現実との接点を促すためにあるのであって、その現実からわたしたちを遠ざけるためにあるのではありません。これは、とりわけ次のような聖書の勧告についていえることです。すなわち、兄弟愛、謙虚で優しさのある奉仕、正義、貧しい人への思いやりなどへの、強い説得力をもった招きです。イエスはそのことばとわざを通して、他者を認める道を示されました。これほど明確なことを、なぜ曖昧にするのでしょうか。教理上の誤りを犯すことばかりを心配せずに、むしろいのちと知恵の光の道に忠実であってください」(EG194)

 長くてすみません。今日のような箇所は説明すればするほど、その本来のメッセージを弱めるだけになると思うのです。この金持ちは、自分の家の前にいる貧しいラザロを助けるべきでした。わたしたちにも同じことが求められています。それはもう誤解の余地のない教えです。いろいろな理屈や言い訳は通用しません。
 でもわたしたちはどうしたらいいのでしょうか。やはり簡単ではないですね。
 
 今日は「世界難民移住者の日」です。困難な状況の中にいる難民や移住者のために祈り、その人々を支える活動のために献金をささげます。アフリカや中東、ヨーロッパの問題も深刻ですが、日本にも難民や移住者の問題があります。東京教区にはCTIC(カトリック東京国際センター)があり、横浜教区にはENCOM(横浜教区難民移住移動者委員会)があります。さいたま教区にも「オープンハウス」というのがあって、外国から来た方々のために働いています。お互いの情報交換や協力も始まっています。そういう活動のためにも今日の献金は使われます。
 難民や移住者のことを考えるときも、フランシスコ教皇の姿勢が思い浮かびます。2013年3月に教皇に選ばれ、その日から、バチカンでの生活が始まりました。彼が最初にローマの町から出たのは、その年の7月のことで、行き先は地中海に浮かぶランペドゥーザ島でした。イタリア領の島ですが、北アフリカからヨーロッパを目指す人がおおぜい押し寄せていた場所です。粗末な船が転覆して多くの人が犠牲になってもいました。そこで教皇が問いかけたのは、何よりも人々の「無関心」についてでした。この現実に、この人々の痛みにもっと関心を持つようにと訴えたのです。

 ご存知だと思いますが、日本は難民の受け入れに積極的とは言えません。昨年日本で難民申請をした方は過去最大の7,586人でしたが、難民と認定された人は27人でした。以前よりは少し改善しましたが、それにしても少ない数です。難民申請者の中に本当は難民と言えないような人がいることも事実です。しかし、難民として認められるべき人が認定されないというケースもたくさんあります。難民認定を待っている人々の状況はひどいものがあります。難民だけでなく、技能実習生として日本に来ている外国人、留学生として来て実際には長時間働いていているベトナム人の若者、彼らの人間としての尊厳が守られているとはとても言えません。都合のいいように外国人労働者を受け入れて、いらなくなれば追い出すという日本の姿勢はなかなか変わらないのです。

 日本政府も、最低限の難民は受け入れるように努力しています。それは国際社会から日本があまりにも難民問題に対して消極的だと見られたくないためです。遠いアフリカや中東、ヨーロッパの難民支援のためにたくさんのお金も出しているようです。でも日本での難民の審査は厳しすぎて、本当は日本には来てほしくない、という姿勢に大きな変化はありません。
 あるとき政府の担当者のインタビューを読んだことがあります。そこで「なで日本は難民の受け入れに消極的なのでしょうか」と聞かれたときの答えは、「一般の日本人の中にこの問題に対する関心が薄く、難民をもっと受け入れるべきだという意見が少ないからだ」というものでした。問われるのは、やはりわたしたちの関心の持ち方なのではないでしょうか。

 何も具体的にできないかもしれない。それでも関心を持つということはできる。
 世界の難民や移住者の問題に。日本にいる外国人のことについて。沖縄や福島の現実に。貧しい家庭の子どもたちに。わたしの目の前にいるラザロに! 無関心にならず、関心を持ち続ける中で、わたしたたちにできることを見つけていくことができますように。


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