毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

自死で亡くなられた方々のための追悼ミサ



今、国府津教会の庭のあちこちにツワブキの花が咲いています。
寒いこの時期、日陰に咲く姿にけなげさを感じます。
ちなみに花言葉は「愛よ甦れ」とか、「困難に負けない」とか。

土曜日に行われた自死で亡くなられた方々のための追悼ミサの説教メモを載せておきます。

●自死された方々のためにささげる追悼ミサ
 聖書箇所:ヘブライ2・10-18/マタイ11・25-30
              2016.11.26麹町聖イグナチオ教会
 ホミリア
 今日、このミサの中で自死で亡くなられた多くの方々のために祈ります。思い返してみれば、わたし自身、出会った多くの人を自死で亡くしています。特に司祭として小教区で働いていたときに出会った人の顔が思い浮かびます。そして教会の司祭として、仲間として、なぜ止められなかったのか、何かもっとできたことはなかったかと悔やむ思いがあります。ここのお集まりの皆さんもそれぞれに家族として、友人として同じような思いをいだいてお集まりのことと思います。

 カトリック教会は長く、神から与えられたいのちを粗末にすることは罪であるとして、自殺を禁じてきました。そこにはどんなことがあっても、与えられたいのちを生きてほしいという願いが込められていましたが、自殺してしまった人を裁くような態度があったことも否めません。本当に申し訳なく思います。1983年にバチカンから出された新しい教会法典、1993年に出された『カトリック教会のカテキズム』、そして2001年に日本司教団が発表した『いのちへのまなざし』というメッセージの中で、自死に対する見方は大きく変わってきました。
 なぜ変わったか。伝統的には自殺とは、自らの意思で自由に自分のいのちを断つこと、と考えられてきました。しかし、現実の自殺のほとんどは、死ぬしかないところまで追い詰められての死だということが次第に明らかになってきたからです。

 追い詰められての死。何に追い詰められていたのでしょうか。経済的問題、仕事上のストレスや過労、さまざまな人間関係、病気の苦しみ、いじめや暴力・・・人を自死にまで追いつめてしまう要因はいくつも考えられます。
 でもその中で共通している問題は「孤立」ということです。悩みを抱え、苦しみを抱えていても誰かとそれを分かち合い、支え合うことができれば、人はその困難を受け止めることができます。世界の中の本当に貧しい国々で自殺が少ないのはそのためかもしれません。逆に日本のような国では、東京のような大都市にものすごくおおぜいの人が住んでいても、一人一人は恐ろしいほど孤立してしまっているのではないか。いじめを受けている子どももそうですし、大人も、高齢者もそうです。その孤立が多くの人を追いつめてしまっているのです。

 そこからわたしたちにできることも見えてきます。自殺を少しでもなくすために、本当に人の痛みに無関心であることを乗り越えたいし、互いに支え合う関係を少しずつでも作っていきたい。その願いを込めて、このミサをささげます。
 同時に亡くなられた方々がいつくしみ深い神の永遠のみ国で安らかに憩うよう祈ります。いや必ず、神のみ手に包まれて永遠の安息に入っていると信じています。わたしたちの信頼と希望の根拠はイエス・キリストです。

 先ほど2つの聖書の箇所が読まれました。
 最初はヘブライ人への手紙。「神殿」とか「大祭司」とか「いけにえ」とか出てきて、ちょっと取っ付きにくいところもある手紙です。この箇所でイエスを「救いの創始者」と呼びます。でもその救い主はとてつもなく大きな苦しみを受けなければなりませんでした。それはなんのためか。ヘブライ人への手紙の著者は、人々を救うためには、「すべての点で、兄弟たちと同じようにならなければならなかった」からだと言います。イエスはすべての人を救うために、すべての人と同じように苦しみを受け、試練にあわれました。そのイエスはわたしたちを「兄弟と呼ぶことを恥とされない」方だというのです。イエスがとことんわたしたちの兄弟として生きた、そこに救いがあるのです。

 マタイ福音書の箇所でイエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけます。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」。イエスの担いだ荷といえば十字架です。それが軽いというのはなぜでしょうか。たった一人が担ぐのではなく、イエスが一緒に担いでくださるからです。「わたしのくびきを負いなさい」。「くびき」という言葉が出てきますが、「くびき」とは二頭の牛を横に並べてつなぐ時の横木のことです。一頭じゃない。その重荷はわたしが一緒に担っているんだ、とイエスは言うのです。そしてわたしに「学びなさい」。「わたしの弟子になりなさい」とも訳せます。当時のユダヤ社会には偉い律法学者がいました。その律法学者の弟子になることはたいへんでした。でもイエスは「柔和で謙遜」、もっとストレートに言えば「貧しく身分が低い」。だから安心してだれでもわたしの弟子になりなさい。イエスはそうすべての人に呼びかけているのです。

 人それぞれに十字架を抱えています。苦しみ、弱さ、孤独の十字架です。でもわたしたち一人一人の十字架は、あのイエスの十字架につながっているのです。そう気づいた時にわたしたちは大きな力をそこからいただくことができます。わたしたちがどんなに辛い思いをしているときも、神はわたしたちとともにいてくださる。イエス・キリストはわたしたちの苦しみを、弱さをともに担っていくださる。わたしたちはそう信じます。
 そして死に直面した時も、この世のいのちを超えて、それでも神はわたしたちを決して見捨てない。十字架の死を超えて永遠のいのちに入られたイエス・キリストとともに、わたしたち皆が、神の永遠のいのちにあずかることができる。そう信じて、亡くなられたわたしたちの家族、友人をいつくしみ深い神のみ手におゆだねしましょう。


第一朗読:ヘブライ人への手紙2章10~18節
皆さん、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことでした。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放するためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

福音朗読:マタイによる福音書11章25~30節
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのこと知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者のお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


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