毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第4主日のミサ



写真は祭壇の前のお花です。
今日から聖書講座を始めました。「カトリック入門講座」にしようかとも思いましたが、やはり福音書をとおしてイエスという方を知ることが大切だと思い、「聖書講座」にしました。
では毎度ながらの説教メモですが、よろしければお読みください。

●年間第4主日(世界子ども助け合いの日)
 聖書箇所:ゼファニヤ2・3、3・12-13/一コリント1・26-31/マタイ5・1-12a
                        2017.1.29原町教会
 ホミリア
 「サッカリン」というものをご存じでしょうか。一時、発がん性が疑われて、日本ではあまり使われなくなった人工甘味料です。わたしは1955年生まれで東京オリンピックの年の春まで東京で子ども時代を過ごしました。子どものころ、我が家はなぜか朝食がパンと紅茶でしたが、そのとき、小さな試験管のようなガラス瓶に白い小さな粒が入っていて、その小さな粒を一粒、紅茶に入れると甘くなりました。それが「サッカリン」というものでした。我が家ではそれが当たり前でしたが、後でそれは当たり前でなかったと知りました。大きくなって母に聞くと貧しくて砂糖が買えなかったという話でした。子どものころ、わたしの家はその程度の貧乏でした。

 オリンピック前の東京では、貧しさというものが身近にありました。小学校に入ってすぐにできた友達の家はアパートの一間で家族みんなが生活していて、部屋にはお母さんの内職の道具がいっぱいありました。子ども心にうちより貧乏な家だな、と感じました。貧乏というより、貧困というほうがあたっていたかもしれません。でもそんなことあまり関係なく友達として遊んでいましたし、わたしの親もその子のことを大切にしてくれていたようでした。
 あの時代、貧しさというのは普通の生活のすぐ近くにありました。それから高度経済成長期になると貧しさは見えなくなりましたが、今また、貧しさの現実がわたしたちの国、わたしたちの社会の中にじわじわと広がっているのを感じています。そこで「貧しさ」ということをもう一度、きちんと見つめてみることが必要だと思います。

 聖書の中で「貧しい人」というのは大きなテーマですが、それはまず現実に貧しさの中にある人のことを指します。生活に必要なものにもこと欠く状態。経済的、その他いろいろな理由で圧迫され、生きていくのが困難な状態の人のことです。今の日本でもこういう貧困が広がりつつある。それは決してよい状態ではない。
 今日の箇所でマタイはイエスの言葉を「心の貧しい人は幸い」と伝えていますが、ルカ6章はもっとストレートに「貧しい人は幸い。神の国はあなたがたのものだから」と言います。それは、決して貧しいことそのこと自体が良いという意味ではない。フランシスコ教皇は『福音の喜び』の中でこう解説しています。「痛みを抱えた人々、貧困にあえいでいる人々にイエスは、神はあなたたちをその心の中心に置いておられると約束しました」(EG197)。これが福音なのです。

 貧しさが積極的な意味を持つのは、イエス・キリストご自身が貧しさを生きられたからです。
 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(IIコリント8・9)。
 キリストが貧しくなられた。それは貧しい人の友となるためでした。人々と貧しさや乏しさを分かち合うため。貧しい人のことを思い、貧しい人と共に歩む。貧しい人の苦しみと喜びを共にして生きる。そのことをとおして神がその人々にいつくしみを注ぎ、神が共にいてくださることを伝えようとする。これがキリストの貧しさでした。このキリストの貧しさにならうこと。これが本当に大切なことです。
 一般的に言って、貧しく生きることはいいことだと言えるかもしれません。贅沢や無駄を避け、単純質素な生活をしたほうが健康にいい。モノやお金に振り回されす、それらに縛られない生き方のほうが心豊かに生きられる、それも確かにそうですね。でも福音的な貧しさとはそんなものではないのです。イエス・キリストの貧しさにならう。

  「清貧」という言葉があります。シスター方は「福音の勧める生き方」として、「従順・清貧・貞潔」という3つを修道誓願で誓っていますので、お馴染みですね。日本カトリック司教団は、2011年11月に仙台で発表した司教団メッセージ「今すぐ原発の廃止を」の中で、エネルギーに過度に依存した生活から脱却することを呼びかけ、「清貧」について語っています。このキリスト教でいう「清貧」とは、ラテン語ではpauperitas、英語ではpovertyです。ストレートに「貧しさ」であって、「清い」なんていう意味はありません。貧乏や貧困というただの貧しさとは違う貧しさを表す言葉として「清貧」という日本語が選ばれたのでしょう(まあ、貧乏の誓願、貧困の誓願なんて言ったら誰もシスターになりませんね?)。清貧とはキリストの貧しさにあずかることなのです。
 福音のイメージで言えば、5つのパンと2匹の魚を大群衆で分かち合う世界。そこにはわずかなたまものについての感謝と賛美。神への信頼。兄弟姉妹への思いやり。そして分かち合いがあります。これがキリストの貧しさを生きることだと言ったら分かりやすいでしょう。たとえば、原発をやめたら今のようなエネルギー消費ができなくなるから省エネしなければ、というのではない。原発を続けるにしろやめるにしろ、先進国のわたしたちがしているようなエネルギー消費を世界中の人がしたら地球がもたないのは明白です。だからエネルギーを人類全体で分かち合う生き方を目指し、先進国のわたしたちはエネルギーをもっと節約しようとする。これがキリストの貧しさにならうこと。

 ただの貧しさじゃない、キリストの貧しさにならう貧しさ。それが清貧。
 今日の福音の「心の貧しい人は幸い」という言葉はうまく日本語にならない言葉です。でもただの貧しさじゃない、キリストの貧しさにならう貧しさ。それをマタイは「心の貧しさ」というのです。
 わたしたちがこのキリストの貧しさを生きるものとなりますように。アーメン。


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