毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第8主日のミサ



「野の花」じゃなくて「カリタス南相馬のプランターの花」ですが・・・

●年間第8主日
 聖書箇所:イザヤ49・14-15/一コリント4・1-5/マタイ6・24-34
                   2017.2.26カトリック原町教会        
 わたしは大学生のときにキリストを信じるようになりました。わたしを信仰の道に導いてくれたのは、知的ハンディのある人だったと思っています。
 わたしは高校を出て大学に進学しましたが、そのころ人生の目的が見えませんでした。サラリーマンになる道に魅力を感じませんでしたし、かといって他に特技や才能があるわけでもなく、何か資格をもった職業につくのも無理だと思いました。本当に何のためにどうやって生きていったらいいか迷い続けていました。すべてに自信がなく、人付き合いも苦手でした。いろいろな本を読み漁る中で聖書に出会い、教会にもちょっと通うようになりましたが、神やキリストを信じることはできませんでした。

 たまたま教会の司祭に誘われて、栃木県の那須にある「光星学園」という知的障害者の施設に行くことになりました。山奥の広大な敷地を持つ施設です。30人ぐらいの青年のグループで、学園の外れにある宿舎に泊まりながら、いろいろな作業を手伝うボランティアでした。実はわたしたちが行った日に、落雷のため、わたしたちの宿舎部分は停電となり、都会から行った青年たちはずっと電気と水道のない共同生活をすることになってしまいました。
 わたしはそこで初めて、知的ハンディのある人たちと出会いました。障害の軽い人たちとは一緒に作業をすることがありました。今でもよく覚えているのは那須教会の聖堂を作るための整地作業でした。那須教会は今でもそうですが、光星学園の広大な土地の一角にあります。当時、新しい聖堂を建てることになり、斜面を削って平らな土地を作るという作業を人海戦術で行なっていました。もちろん機械を入れてやれば簡単でしょうが、その施設では、機械を入れれば入れるほど知的障害者から仕事を奪ってしまうことになるので、あえて手作業の部分を残していました。特に聖堂を建てるという仕事ですから、みんながそれに関わることができるようにと、人海戦術で行われていたのです。
 休憩時間に一緒にお茶を飲みます。「あんたたちどっから来たのー?」「東京から来たんだー」「どこに泊まってんのー?」「ずうーと向こうの宿舎に泊まってんだけど、電気もないし、水道も出ないからたいへんなんだー」すると彼はこう言いました。「なーんだ。じゃあオレたちのほうがよっぽど恵まれてんなー」

 わたしはこの言葉を聞いて衝撃を受けました。そう言った彼の顔がきらきらと輝いていたからです。軽度とはいえ知的な障害を持ち、こんな山の中の施設で、不自由な生活をしていながら、この人はなんでこんなに生き生きと生きているのだろう。
 それに引き換え、自分は特に障害があるわけでもなく、東京で大学生という身分を与えられながら、まったく生きる意味を見いだせずにいる。本当にこの人のほうがよっぽど恵まれている。そう思いました。そして彼がそうできているのは、与えられたいのちをただ精一杯生きているからではないかと思いました。人と比較したら、できないことだらけかもしれない。でもスコップで土を削り、一輪車で運ぶことは彼にできることで、かれはその仕事に誇りを持っている。だからこんなにキラキラと輝いて生きていることができるんだ。わたしがそうできないのは、人と比較して、この程度の大学で、この程度の成績で、自分は社会から相手にされないんじゃないか、そんな人との比較の問題だということに気づかされたのです。

 わたしは東京に帰って、聖書を開き、きょうのこの箇所を読みました。「空の鳥を見なさい」「野の花を見なさい」「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 本当にそうだと思いました。あの知的ハンディの青年がそうであったように、わたしも生かされたいのちを精一杯生きればいいのだ。何を食べようか、何を飲もうかではなく、神はわたしたちにいのちを与え、必要な恵みを注ぎ、生かしてくださっている、その神の愛に応えて生きればいいのだ。
 わたしはこれを福音の真髄だと思っています。皆さんにとってそうかどうか分かりません。でもわたしにとってはそうです。今日生かされたいのちを、今日精一杯生きる。それだけでいい。40年前のわたしはそこから出発することができました。

 今、わたしたちの社会には恐れと不安が満ちています。いったいこの先世界はどうなるのか、日本はどうなるのか、この地域はどうなるのか。わたしの生活はどうなるのか。「明日のことを思い悩む」、悩んで不安になるのが当然な状況でもありますね。
 でも、だからこそ、根本にある神への信頼を取り戻したいのです。大きなところで神はわたしたちを必ず支えてくれる。空の鳥一羽一羽を養い、野の花一輪一輪を装ってくださる神はこのわたしを、このわたしたちを決して見放さない。第一朗読にあるように、「女が(子どもを)忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」その神に対する信頼のあるところ、そこに安心感と平和が生まれます。そこからわたしたちは前に向かって歩み始めることができる。
 これが福音の真髄だ、とわたしは本気で思っています。


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