毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第3主日のミサ



石巻教会の黙想会の後、昼食を一緒にいただきながら、震災と津波、その後の6年間のさまざまな体験を聞かせていただきました。
大きな津波被害の中で、信仰と愛を生き抜いてきた皆さんの話に心を打たれました。

●四旬節第3主日
 聖書箇所:出エジプト17・3-7/ローマ5・1-2、5-8/ヨハネ4・5-42
 2017.3.19石巻教会

 ホミリア
 わたしは昨年の12月から、福島県南相馬市の原町教会にいます。11月末で司祭がいなくなるというので、応援に来ました。ちょうどカリタス原町ベースが教会内に新築・移転し、カリタス南相馬となる時期でした。震災から6年。浜通りでは、まだまだボランティアの働きが必要とされています。同じ被災地と言っても、福島は原発事故の影響が大きいので、岩手・宮城とは少し事情がちがっています。この石巻では津波の被害が本当に大きく、家族を亡くされた方の話を昨夜も聞かせていただきました。福島県でも津波で亡くなった方がおおぜいいましたが、むしろこの6年の間に震災関連死が多くなっています。家があるのに帰れない、いつか帰れるかどうかも分からない。そんな避難生活が長引くことによって人は追い詰められていきます。

 福島第一原発から北へ25キロの原町教会にいて、やはり一番強く感じることは「分断」ということです。故郷に帰りたいと願う高齢者と、子どものことを心配して帰ることのできない若い世代の間の分断。いろいろな事情で福島に住むことを選んだ人(選ばざるをえなかった人)と、福島には住むべきでないという人の間の分断。福島から避難している子どもたちへのいじめに見られるような、福島とそれ以外の日本の各地との分断。
 原発から20キロ圏内の南相馬市小高区は昨年7月に避難指示が解除になりました。この3月末から4月にかけて、もっと原発に近い浪江町や富岡町の一部、そして全村避難指示が出ていた飯舘村の避難指示が解除されます。これは単純に喜べる問題ではないのです。帰る人と帰れない人がいます。「帰って住めますよ」ということになって、徐々に補償が打ち切られていく中で多くの人は苦渋の選択を迫られます。そのことはさらに分断を深めることになるのではないかという危惧があります。
 人と人とを隔てるどうしようもない壁があるように思います。

 きょうの福音は人と人との間にある壁をイエスがどのように乗り越えていかれたかを示しているように感じています。
 当時の人々の間にあった壁。まずユダヤ人とサマリア人との間の壁がありました。もともとは同じ民族でしたが、歴史の中で二つに分かれてしまいました。宗教的にもエルサレムの神殿を中心としたユダヤ人と、サマリアのゲリジム山に聖所を置いたサマリア人。超えることのできない壁が両者を隔てていました。
 また、当時の男性と女性の間には壁がありました。「ユダヤ人であるあなたがなぜサマリアの女であるわたしに声をかけるのか」彼女は不思議に思いました。当時は男性と女性は対等な人間同士として関わることはできない。家族でない男性と女性が道で声をかけるということは考えられなかったのです。ここにも壁がありました。
 さらに立派な人間と問題を抱えた人間の間の壁もあったのでしょう。この女性は正午ごろ水を汲みにきます。村に一箇所の井戸があり、女性たちは朝夕、ここに水を汲みに来ました。ところがこの女性はまるで人目を避けるように、正午ごろやってきます。イエスが見抜いたことによれば、彼女には過去に5人の夫がいて、今連れ添っているのは夫ではない人。どういう女性でしょうか。「男運が悪い」女性と言うべきではないかと思いますが、周囲からは「罪深い女」というレッテルを貼られていたことでしょう。

 イエスは彼女に声をかけます。「水を飲ませてください」
 イエスは渇いていました。「イエスは旅に疲れて」とあります。この箇所の前には、イエスの活動が人々に誤解されるというような話があります。イエスの疲れと渇きは単に肉体的なものではなく、精神的なものでもあったのでしょう。そして彼女も水だけでなく、愛に渇いていたのでしょう。
 あなたは渇くし、わたしも渇く。その部分でイエスはこの女性に出会っていきます。
その共感と連帯の中では、ユダヤ人とサマリア人との壁は問題ではなく、男性と女性の溝も問題ではなく、人と人との壁は乗り越えられていくのです。
 人と人、民族と民族、国と国の間に壁を作ろうという動きが、今の世界のあちこちにも見られます。身近なところにもあるかもしれません。その中で、わたしたちはあのイエスの共感と連帯の姿勢に目を注ぎます。

 「イエスこそいのちの水の与え主である」
 これが今日の福音のテーマです。でも、それはただ一方的にイエスがいのちの水を与えるというのではなく、「共に渇く者」としての共感と連帯の中にあるいのちだと言ったらいいのではないでしょうか。このイエスのいのちの豊かさにわたしたちがあずかることができますように。このミサの中で祈りましょう。

PageTop