毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第4主日のミサ



写真は石巻市の日和山から見た旧北上川中瀬方面の景色です。
2017年3月19日撮影

●四旬節第4主日
 聖書箇所:サムエル上・161b、6-7、10-13a/エフェソ5・8-14/ヨハネ9・1-41

 ホミリア
 先週の日曜日は四旬節黙想会のため、石巻教会に行ってきました。ご存じのように石巻は東日本大震災で大きな津波被害を受け、3,000人以上が犠牲となった土地です。わたしは南相馬から行きましたので、福島県浜通りの話を少しミサの中でしました。黙想会のあと、昼食を皆さんと一緒にいただきました。新鮮なホヤ、生のわかめ、牡蠣のオイル漬け、本当に素敵な食卓でした。そこにいた皆が震災のときの体験、その後の体験を話し始めました。「石巻ではこうだったんです」と口々におっしゃられました。家族をなくした人。家をなくした人。家の中に泥や木材が入り込んで来たという人。ギリギリのところで津波から逃げて助かった人。山で津波は来なかったけれどその後いろいろな苦労があったという人・・・実は教会の中でこういう話をすることはほとんどなかったそうです。「あの人は自分よりもっとたいへんだった。そう思ったら自分の体験は話せなかった。」それが震災から六年経って、東京の司教さんが来て、聞いてくれたから話せた、ということだったようです。本当に貴重な体験を聞かせていただきました。
 そして話は「どんなに大変な目にあったか」ということから次第に「あの震災の中で神様は何をしてくれたか」という話になっていきました。こんなふうに人に助けられた。さまざまな人をとおして神様はこんなことをしてくれた。こんな力をもらった。信徒同士が助け合い、お互いの間が近くなった。一時は神を疑い教会を離れたが、また教会に戻ることができた・・・わたしはすごいことだと思いました。あんなに悲惨な経験をしたら、神も仏もあるものか、と思うのがあたりまえかもしれないなのに、この人たちは震災の悲惨な経験をとおして、むしろ信仰が強められた。そしてこの信仰は本当に確かな信仰なのだと感じました。

 きょうの福音は生まれつき目の見えない人がイエスによっていやされたという話です。彼はイエスに出会い、イエスによって目に泥を塗られ、シロアムの池に行って洗うと目が見えるようになりました。つまり、彼はイエスを目で見ていないのです。彼はイエスについて何も知りません。人々からお前をいやしてくれた人はどこにいるのか、と聞かれても、彼は「知りません」と答えます。
 ファリサイ派の人たちは彼を取り調べました。イエスがこの人の目をいやしたのは安息日のことで、安息日にこのような労働を行う人は罪人に決まっているとファリサイ派は考えました。しかし、同時に罪人にこのようないやしは不可能だとも考えていました。ですから彼らは、イエスによるいやしの事実をなんとか否定しようとして、このいやされた人を尋問するのです。
 その中でこの人は次第に力強くイエスを証言する人になっていきます。こういう箇所があります。
 「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』(24-25節)

 先ほども言いましたが、彼はイエスの顔を見たことがないし、イエスがどういう方か、ほとんど何も知りません。イエスについての知識はゼロに等しいのです。それでも彼は知っています。自分がイエスによっていやされたことを。それだけは確かなことでした。こういう箇所もあります。ファリサイ派の人々は彼に言います。「『我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。』彼は答えて言った。『あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。』」(29-33節)本当に力強くイエスへの信仰を宣言するのです。偉い立派な人たちの前でも堂々と宣言するようになって行きます。彼は外へ追い出されてイエスに出会い、イエスの前にひざまずきました。

 これが今日の福音の物語です。イエスに出会い、イエスを深く信じるようになった一人の人の物語です。この物語はわたしたち一人一人がどのようにイエスに出会っているかを問いかけているのではないかと思います。
 わたしたちはイエスについてたくさんのことを知っています。イエスのなさったこと、イエスが語られた言葉。でもイエスに出会うというのは、イエスについてたくさんの知識を身につけることではないのです。イエスがわたしに何をしてくれたのか、そのことを知ることがイエスを知ることです。
 あの津波被害の中で、石巻の信者の方々は本当に信仰の試練にあわれたと思います。でもその中で神は確かにこういうことをしてくれた。それでも神はわたしたちを見捨てず、ともにいて助けてくれた。そう感じたとき、その人たちの信仰は本当に強められたと思います。
 神はわたしに何をしてくれたのか。イエスはこのわたしに何をしてくれたのか。こう言っているわたし自身もこの四旬節にもう一度深く受けとめ直したいと思っています。そしてその原点に立ち返って、信仰の道を歩み続けたいと思います。


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