毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第1主日のミサ



原町区にも除染ゴミを詰めたフレコンバッグの広大な仮置場があります。

●四旬節第1主日
 聖書箇所:創世記2・7-9, 3・1-7/ローマ5・12-19/マタイ4・1-11
 2017.3.5原町教会にて

 ホミリア
 四旬節のはじめに思い起こすのは、40日の期間の原型となったイエスの荒れ野での40日間。イエスはご自分の活動を始める前の40日間、「荒れ野」にいて悪魔から誘惑を受け、それを退けました。この出来事のさらなる原型として、旧約聖書の「荒れ野の40年間」があります。紀元前13世紀にイスラエルの民はエジプトで奴隷状態に陥っていました。そのイスラエルの民の苦しみを見、叫び声を聞いて、神がモーセを指導者として、エジプトの奴隷の地から自由の地、約束の地に向けて救い出された、これが「出エジプト」の物語です。
 エジプトを出て、パレスチナの約束の地に入るまで、イスラエルの民は40年間、荒れ野をさまようことになりました。荒れ野は人が生きていくには厳しい場所です。水も少なく、食べ物も少なく、毒蛇やサソリのような危険な生物もいる場所。エジプトから脱出した民は、たびたび神とモーセに向かって不平を言います。なぜこんなひどいところにわれわれを導いたのか、こんなことならエジプトの奴隷状態のほうがまだましだった。そういう不平を言うわけです。その民のために、神は岩から水を湧き出させ、天からマナという食べ物を降らせて養い、導き続けたと伝えられています。そしてこの荒れ野の旅の途中、シナイ山で神は民と契約を結びます。神とイスラエルの民は特別な親しい関係を持って歩むことになります。

 40年間の荒れ野の旅の終わり、モーセはヨルダン川の東、ネボ山(ピスガ)の山頂に立ち、ヨルダン川のかなたに約束の地を見ながら、民に向かって説教をしました。実はモーセは約束の地に入れずこの地で死ぬことになっています。自分でもそのことを知っていて、これまでの荒れ野の40年を振り返り、約束の地に入ってから民がどう生きていくべきかを、遺言のように語るのです。これが「申命記」の中心部分にある長い説教です。今日の福音で、イエスが悪魔の誘惑を退けるために引用する旧約聖書の言葉は、すべてこの申命記からとられています。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という有名な言葉は申命記8章3節の引用です。これは「マナ」について語られた言葉です。マナは天からのパンとも呼ばれます。マナという天から降ってきた不思議な食べ物によってイスラエルの民は荒れ野の旅の間養われました。

 このマナがもともとどういうものなのか、諸説あるようですが、聖書によるとこの不思議な食べ物には2つの特徴がありました。一つは平等であるということ。皆がそれぞれに毎朝このマナを集めるのですが、「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」(出16・18)というのです。もう一つは、その日とったマナはその日一日しか持たなくて、翌日になると腐ってしまう。これもマナの特徴です。その日、その日、一日分だけ与えられる。日々神に養われて生きる、ということでしょうか。ギリギリの生活です。でも神から与えられた必要最小限のものを、日々、皆で分かち合って生きる、荒れ野の生活の特徴はここにあります。
 そしてモーセは申命記でこの食べ物のことを語るのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8・3)。あのマナが与えられたのは、マナという不思議な食べ物によって生きるということではなく、神によって生きるということを教えるためだったのだ。イスラエルの民は約束の地に入るとそこで定住生活をはじめ、農耕をするようになる。作物を蓄えるようになります。すると今日、神のことを思わなくても生きていられるようになる。そうなったときに、神を忘れる。いや、たとえそうなっても神を忘れないように。これがモーセの言いたいことです。あの荒れ野で、神は日々、マナを与えて、民を養い続けたではないか、そのことの意味を忘れないように。
 農作物を作り、それを蓄えることにはもう一つの問題が起こります。ある人はうまくいって作物をどんどん蓄えるようになる。しかしある人はうまくいかずどんどん貧しくなる。貧富の差が生まれるのです。そして持っている者が持っていない者を虐げる、ということが起こります。これも大きな問題です。

 そこから振り返ったときに、荒れ野の生活の中にこそ、本当の意味で神との親しい関わりがあり、人と人との分かち合い、支え合いがあったと気づくのです。荒れ野は神との出会いの場であり、人と人とが平等に生きる場なのです。
 さて、長い話ですね。四旬節の話をしたいのです。
 四旬節とはわたしたちが自分を、この荒れ野に置いてみるときだと言ったらいいと思います。満ち足りて、神のことを忘れ、困っている隣人のことを忘れている、人に対して無関心になっているところから、あの荒れ野に自分を置いてみる。そこからもう一度、神に向かい、隣人に向かっていこうとする。これが四旬節です。わたしたちが自分の罪を見つめて回心するのも、節制や祈りや愛のわざに励むのも、すべてそのことを目指しています。

 ただもう一つ、現代の荒れ野のことも話さずにいられません。
 震災からしばらくして、福島からバスに乗って原町に来る途中で飯舘村をとおったとき、わたしはそこに荒れ野を見ました。人が住まず、田んぼには雑草が生い茂っていました。無残な姿でした。その後、除染が始まり、雑草はなくなり、フレコンバッグが畑の中に積まれていきました。その光景は、小高でも、浪江でも、富岡や楢葉でもすごいものがありますね。これが現代の荒れ野です。人間が作り出した荒れ野です。何年も人が住まず、これからも厳しい生活が待ち受けている場所です。
 でもだからこそ、こうも言えるのではないか。神なしに生きられない。本当に人間の頑張りだけでどうにもならず、神の助けなしに、祈りなしに生きられない。同時にそこで人は一人一人孤立していては生きられない。どうやって人と人とがつながり、支え合っていくか、そのことの中でしか生きられない。荒れ野は確かに厳しいです。でもこの荒れ野の中でこそ、わたしたちはもっと神と親しい関係を生きることができ、もっと人と人との親しい関係を生きる可能性がある!

 避難指示の地域だけの問題じゃないかもしれません。仕事、家族、人間関係、病気などわたしたちはいろいろな面で、荒れ野のような現実を経験しているかもしれない。ならば、この現実の中にこそ本当の神とのつながり、本当の人とのつがりがりが生まれるかもしれない。そう信じて、そう祈りながら、この四旬節の日々と過ごしたいと思います。


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