毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第2主日のミサ



写真は南相馬市・北泉海岸の南側の様子です。
津波被害を受けた後の現在の様子からは、昔の様子を想像することもできません。

さて、遅くなりましたが、日曜日の説教です。

●四旬節第二主日
 創世記12・1-4a/二テモテ1・8b-10/マタイ17・1-9
 2017.3.12カトリック原町教会

 ホミリア
 わたしたちは今年も、復活祭に向かう準備の期間・四旬節の歩みを始めています。四旬節第二主日のミサでは毎年、イエスの変容の場面が読まれます。受難に向かって歩み始めたとき、イエスの姿が山の上で真っ白に光り輝いたという出来事です。それはイエスが受難と死を経てお受けになる栄光の姿を一瞬ですが、前もって弟子たちに示すものでした。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」弟子たちはそう呼びかけられました。受難の道を歩むイエスの言葉に耳を傾け、イエスに聞き従うよう、招かれたのです。わたしたちも今日、イエスの栄光の姿を見ながら、そのイエスと共に歩むことができるようにと祈ります。

 ただ毎年不思議に思うのですが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちは、この栄光の姿を確かに見たのに、最後までイエスに従うことができませんでした。あれほどの栄光を見たのに。彼らは最後までイエスに従うと言っていながら、イエスが捕らえられた時、皆イエスを見捨てて逃げてしまいました。ペトロはイエスのことを知らない、と三度も言ってしまいました。ここに弟子たちの罪の問題があります。それはただ単に悪いことをしてしまったというようなことではなく、「自分なんか生きている価値がない。生きていてもしょうがない」と感じるような罪でした。
 でも物語はそこで終わりません。彼らはイエスの死から三日目に、復活したイエスに出会いました。イエスは彼らに向かって「あなたがたに平和があるように」と言い、「わたしはあなたがたを遣わす」と言います。イエスは彼らをゆるし、彼らを再び弟子として受け入れ、福音の使徒として全世界に派遣されました。そこからこの弟子たちは生涯をかけて、イエスに従う道をもう一度歩み始めることになりました。

 十字架の死でイエスの歩みが終わらなかったように、弟子たちの歩みも、罪という大きな挫折を味わいながら、そこで終わらなかったのです。
 物語は死で終わらない。罪で終わらない。悲しみで、苦しみで、破滅と虚無で終わらない。いつもそこからゆるしと喜びといのちへと向かう。これがキリスト教です。なぜなら、どんなことがあっても神がわたしたちを見捨てることはないからです。
 四旬節、そのことを深く味わいたいと思います。

 わたしたちの一つのテーマは回心です。キリスト教では「心を回す」と書きます。心を神に向け直すのがわたしたちの回心です。自分の罪・いたらなさ・過ちを見つめますが、そこに留まっているのではなく、そこから神に向かって目を上げる。神に立ち返っていく。そのとき神は必ず私たちをわが子として迎え入れ、ゆるしの恵みで満たし、再び立ち上がって歩めるようにしてくださる。その神に出会うのが四旬節の回心です。
 具体的に四旬節に勧められていることとして、祈りや断食・節制があります。神の恵みによって生かされ、その恵みをすべての人と分かち合って生きる。それこそがわたしたちの生活の原点ですが、わたしたちはいつも神を忘れ、隣人を忘れてしまい、自分の力がすべて、自分がすべてというところに落ち込んでいく。でもそこからもう一度立ち上がって、神に向かって、隣人に向かって歩みはじめよう。これが祈りと断食の精神です。

 もう一つの大切なテーマは愛の実践です。マザーテレサは繰り返し、「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」と語っていました。フランシスコ教皇も「無関心のグローバル化(地球規模に広がった無関心)」ということを何度も警告しています。わたしたちはたぶん皆、どこかで他者に対する無関心に陥っています。身近な人の痛みや苦しみ、あるいは遠くにいる人の苦境や困難、それを感じようとしない。その無関心を乗り越えるように呼びかけられています。もちろん、無関心だけが問題ではなく、わたしたちは誰かに対する恨みや憎しみの虜になってしまうこともあるかもしれません。このような「愛する」という点でも、わたしたちはいつも挫折しているのではないでしょうか。イエスのような愛を生きることはできない、マザーテレサのような愛をもって生きることはわたしにはできない。でもこの愛のない状態でわたしたちの物語は終わるのではなく、いつもイエスの愛に触れて、特に四旬節、イエスの十字架の愛に触れて、そこからまた愛に向かって歩んでいこうとするのです。憎しみや無関心から愛へ。その物語を今日も生きようとします。

 今から六年前、2011年の四旬節の最初の金曜日に、東日本大震災が起きました。それ以来、四旬節は特別な意味を持ったと思います。おびただしい数の人々の死。今も、そしてこれからも続く苦難。そのことを思わずに四旬節を過ごすことはできません。でもわたしたちキリスト者は死が死で終わるのではなく、苦しみが苦しみで終わるのではないことを信じています。「忘れない」で思い続け、「寄り添う」ことを続けながら、苦しみから喜びへ、死からいのちへという物語を信じて、その物語を出会う人々と共有していきたいと願います。


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