毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第2主日のミサ



先週、相馬市の松川浦に行ってきました。
津波で大きな被害を受けた場所ですが、
相馬港も漁港も整備され、つい先日、松川浦大橋も車で通れるようになったそうです。

写真は早朝散歩のときのものです。
では毎度ですが、ミサの説教をどうぞ。

●復活節第二主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録2・42-47/一ペトロ1・3-9/ヨハネ20・19-31
               2017.4.23原町教会
 ホミリア
 今日の福音で、イエスは「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいます。皆さんはどう思いますか?トマスも他の弟子たちも復活したイエスを見たから信じたわけで、「見て信じたから、幸いだ」と感じるかもしれません。「見ないで信じる」とはどういうことでしょうか?

 ヨーロッパ中世の哲学者や神学者は何とか神の存在を証明しようとしました。そして信仰を理性的に裏付けることができると考えていました。近代になるとその前提は変わっていきます。17世紀のフランスに生きた哲学者ブーレーズ・パスカルは、神の存在を人間の理性で証明することはできず、信仰を理性的に裏付けることはできないと考えました。その上で「信仰は賭けだ」と言いました。パスカルの賭けの内容は今日くわしくお話ししませんが、パスカルは神がいるほうに賭けた方が得をする、だから神がいるほうに賭けたほうがいいに決まっている、と言いました。まあこのパスカルの賭けそのものにはいろいろ問題もあります。しかし、多かれ少なかれ、近代・現代の人間はこのパスカルの立場を出発点としていると思います。それは、神を見ることはできないし、人間の言葉で証明することもできない、ということです。だとしたら、信じることはわたしたちにとっても、ある意味で「賭け」だと言わざるをえないかもしれません。

 わたしたちは「復活を信じます」と言います。復活を信じるというのは、2000年前、死んだイエスが立ち上がって墓から歩いて出てきた、と信じることではありません。そうではなく、あのイエスの歩みが十字架の死で終わってしまったのではなく、イエスは死をとおって、もっと大きないのち、神のいのちの中に入っていかれ、そこで永遠に生きる方となった、と信じることです。そういう意味で復活というのは本来、目に見えたり、人間の言葉で証明したりすることのできないことです。人間の経験のレベル、人間の理解や言葉での説明のレベルを超えた出来事だからです。イエスの弟子たちは、復活のイエスに出会ったと証言しますが、彼らの体験はほんとうに例外的なことでした。イエスは自分が死に打ち勝ち、永遠のいのちを生きるものとなったということを、ご自分の弟子たちに知らせるために、特別な期間、特別な仕方で弟子たちだけに姿を現したのです。ですから、その後の時代の人たちにとっては、「見ないで信じる」のがあたりまえなのです。

 見ないで信じるのはやはり「賭け」だと言わざるをえないかもしれません。なぜわたしたちは「信じる」ほうに賭けるのでしょうか。
  それは聖書を読んで、福音書をとおして伝えられたイエスの生き方を知っているからです。イエスは神を「アッバ、お父さん」と呼びました。イエスは生涯をかけて、その「アッバ」である神への信頼を生き、すべてをアッバに委ねて生きました。また、出会った人一人一人を例外なく、神の愛する子、ご自分の兄弟姉妹として大切にされました。あのイエスを見た時、わたしたちは、これが本物だ、これこそわたしたちの目指す生き方だと直感的に感じるのです(もちろん足元にも及びませんが・・)。わたしたちは皆、そういう心を持っています。それは聖霊がわたしたちの心に働きかけているからだという人もいます。わたしたちの心に直接働きかける神の働きかけ=聖霊の働きがあって、だから、わたしたちがイエスを見た時に、「これが本物だ」と感じることができる、確かにそうかもしれません。あるいは、イエスの生き方が、わたしたちがそれぞれ自分の人生の中で経験してきた一番素晴らしいもの、一番根っこにあるものを思い出させてくれるからかもしれません。それは小さいころから受けてきた親の愛かもしれません。あるいは別の人や出来事をとおして経験した、本物の愛かもしれません。
 もちろんそれは目で見ることも、証明することもできないことで、やはり賭けのような面があります。わたしたちキリスト信者は皆、イエスに賭けた者です。

 トマスもほんとうは賭けたのだと思います。トマスは他の弟子たちにイエスが姿を現したとき、彼らと一緒にいませんでした。だから信じられませんでした。信じられないのですから、「イエスは死んだままで、生きていない」というほうに賭けることもできたでしょう。でも彼は「イエスが生きておられるかもしれない」というほうに賭けたのです。だから八日目の弟子たちの集まりに参加しました。
 もしかしたら、わたしたちもそうかもしれません。イエスは復活したというほうに賭けているというよりも、「イエスは復活したかもしれない」というほうに賭けている、それが実感かもしれません。イエスはトマスをいつくしみ、導いてくださいます。イエスはトマスをも信じるものに変えてくださいました。イエスはわたしたちをも導き、いつか必ず本当に信じるものに変えてくださいます。

 イエスの復活を信じるほうに賭けるということ。それは、どんなことがあっても光は闇に打ち勝つ、と信じることです。希望は絶望に打ち勝つ。信頼は疑いに打ち勝つ。愛は無関心や憎しみや暴力に打ち勝つ。そして最終的に、いのちは死に打ち勝つ。そう信じ、そのほうに賭けるということです。それは確かに賭けですが、本当は賭け以上のものです。信仰とは、わたしたちの生き方の選択の問題なのです。
 今日の福音はイエスの復活の日の出来事と、それから八日目、一週間後の出来事です。今日もわたしたちは八日目ごとのイエスの弟子の集いに集まりました。ここで復活の信仰を確かめ合いながら、愛を信じ、いのちを信じて歩んでいきましょう。


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