毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第12主日のミサ



写真は南相馬市小高区の村上海岸。昨年7月に避難指示解除になった小高区ですが、海岸の近くは津波の被害が大きく、家はすべてなくなりました。景色も以前とは変わってしまったそうです。遠くに見えるのは、原発ではなく、仮設焼却施設です。災害廃棄物や除染廃棄物を焼却・減容化するためのもので、各自治体毎に建てられています。

●年間第12主日
 聖書箇所:エレミヤ20・10-13/ローマ5・12-15/マタイ10・26-33
 カトリック原町教会にて

 ホミリア
 今日の福音の言葉。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」「神を恐れる」という感覚がわたしたちにあるでしょうか?「畏怖」とか「畏敬の念」の「畏れる」という字を書くこともありますが、今ではあまり使われることもないでしょう。
 わたしたちは、神がいつくしみ深い方だと知っています。その方に信頼するから、神を恐ろしい方だと思う必要はないと知っています。今日の福音でもそうです。2羽の雀が1アサリオンで売られている。その1羽さえも神はいつくしみ深く見守ってくださる。髪の毛1本さえも神はいとおしんでくださる。そのいつくしみ深い神を信じるのですから、神を恐ろしく思う必要はありません。
 まあ普段は、神を恐れるという感覚がなくてもいいのかもしれません。神を恐れるというのはぎりぎりのところで問われてくることではないでしょうか。

 いつも思い出すので出エジプト記1章の物語です。
 古代エジプトの新王国時代、紀元前13世紀でしょうか、イスラエルの民がエジプトで奴隷のようになっていた時代に、神がモーセを指導者としてその民を救い出した、というのが出エジプト記の物語です。エジプト人にとって、イスラエル人は勝手に他所からやってきた移民だったわけで、その移民の力が大きくなるのを恐れ、嫌い、徹底的に迫害したのです。
 エジプトの王はファラオ。絶大な権力を持ったファラオはイスラエル人の助産婦に命令を下します。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」こういう仕方で、イスラエル人の勢力をそごうとしたのです。この命令に彼女たちは従いませんでした。こう書かれています。「助産婦たちはいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(出エジプト記1章)
 もちろんお咎めを受けないはずはありません。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」というファラオに対して、助産婦はこう答えました。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
 もちろん嘘なわけですが、そうやって自分たちと赤ちゃんのいのちを守ったのです。神を恐れるから、神以外のどんな力も恐れることはない。神を恐れるということの、ものすごく積極的な意味を感じさせられる箇所です。

 先日に東京で『ローマ法王になる日まで』という映画を見ました。フランシスコ教皇の若い頃のことを描いた伝記映画です。監督はイタリア人ですがキリスト信者ではないとのこと。宗教映画ではないというのですが、ほぼ事実に基づいているそうです。若き日の教皇フランシスコ、本名ベルゴリオが司祭になったのは、アルゼンチンが軍事独裁政権の時代でした。少数の金持ちや企業の利益を守るのが軍事独裁政権で、それに反対する人々は徹底的に弾圧されました。教会は何も言うことができなくなっていました。ベルゴリオの周りでも貧しい人々のために働いていた司祭や判事、いろいろな人が逮捕され、拷問を受け、殺されていきます。必死で助けようとするのですが、ベルゴリオのできたことはわずかでした。その中で軍事独裁政権のビデラ大統領がテレビで語る場面があります。「われわれは武装勢力から民主主義を守るために、秩序と国家を守るためにやっているのだ」というのです。金持ちの貧しい人々に対する横暴を守っているだけなのに、とんでもない偽りです。とにかく、なぜ今の教皇が一貫して貧しい人のことを第一に考え、その人々を大切にしなければならないと言い続けるのか、あの悲惨な時代の体験に基づいていることが、よくわかる映画でした。あの体験からすれば、何も恐れるものはないということなのでしょう。
 かつて見た『カロル』という映画のことも思い出しました。こちらはヨハネ・パウロII世教皇の伝記映画です。第二次世界大戦下のポーランドで、若き日の教皇(カロル・ヴォイティワ)は、親しい人を次々と戦争で失っていきました。戦争の悲惨さをいやというほど味わいました。ヨハネ・パウロ2世は生涯にわたって、恐れることなくあらゆる戦争に反対してきましたが、それも若い時代の経験に基づいていることを感じさせられました。

 神を恐れるか、人を恐れるか、わたしたちは、そんな厳しい問いの前に立たされることはない、と感じますか?
 今週の土曜日7月1日は福者ペトロ岐部と187殉教者の記念日です。2008年11月24日、長崎でペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われました。そのときの司式は白柳誠一枢機卿でした。亡くなる一年前でしたが、教皇の代理として、力強く、司式・説教されました。その説教の最後の部分が特に心に残っています。
 「信仰の自由を否定され、殺された殉教者は叫んでいます。神の似姿に創られた人間の尊厳性、また人間が持つ固有の精神的能力、考え、判断し表現する自由などの重要性、それに反するあらゆることを避けることを強く訴えています。なかでも人間の生きる権利が胎児のときから死にいたるまで大切にされること。武器の製造、売買、それを使っての殺人行為である戦争。極度の貧富の差により非人間的生活を余儀なくされている者たちへの配慮など、すべての人が大切にされ、尊敬され、人間らしくいきられる世界となるよう祈り、活動することを求めているに違いありません。
 さあ、皆さん、怖れずに歩み、一緒になって進みましょう。怖れるな、怖れるなと神様がそして殉教者が呼びかけています。皆さん怖れるな。」
 わたしたちもぎりぎりのところで、人を恐れず、神をおそれる者として生きることができますように。


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