毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

キリストの聖体のミサ



写真は先週撮ったもので、南相馬市原町区の水田です。
20キロ圏内の小高区や浪江町ではまだまだこういう景色を見ることができません。

●キリストの聖体(祭日)
 聖書箇所:申命記8・2-3, 14b-16a/一コリント10・16-17/ヨハネ6・51-58
        2017/6/18カトリック原町教会

 ホミリア
 昨日、東京でCTVC(カトリック東京ボランティアセンター)の講演会がありました。震災の年の6月の司教総会で、東京や横浜の教会が宮城県南部と福島県で直接、被災地支援の活動をしてほしいと言われました。とにかく被災地があまりにも広大で、仙台教区だけではどうにもできないので日本全国の教会が直接、支援に入ってほしいということだったのです。そこからいわゆる「オールジャパン」での支援活動が始まりました。それからちょうど6年になります。この間にCTVCは福島でも、宮城県の山元町・亘理町でもいろいろな方にお会いしました。そしてその方々の声を直接、首都圏の人に届けたい。その思いで「福島から語る」そして「被災地から語る」という小さな講演会を東京で続けてきています。昨日は18回目で、亘理町の森加奈恵さんという方をお招きしました。震災以降、歌を作り、自分で歌っておられる方で、この講演会シリーズとしてははじめて「トーク&ライブ」という形になりました。

 『「なぜ歌っているのですか?」と聞かれて』というのが森さんのお話のタイトルでした。そのように、よく聞かれたのだそうです。それに対する彼女の答えは「伝えたいことがあるから、どうしても伝えたいことがあるから」でした。彼女が伝えたいこと、それは津波が来ると知っていた地域と、津波など考えもしなかった地域では被害がまったく違っていた、ということです。荒浜地区にあった森さんの家は津波で流されました。でもその地域の人々は津波が来るということを前から聞いていて、大きな地震があったらどうすればいいか分かっていて、準備していた。だから被害が少なかったそうです。でも津波のことをぜんぜん聞いていなくて、人的な被害が大きくなってしまったところもあった。それは日本のどこでも起こること。とにかく沿岸部で大きな地震にあったら津波の危険をまず考える。これが1000年に一度の地震だというなら、1000年後までそのことを伝えたい、そういう思いで歌っているのだそうです。

 森さんの歌と話を聞きながら、唐突ですが、「なぜミサをしているのですか?」という問いがわたしの頭に浮かんできました。それは週に一度のキリスト信者の主の日の集まりだから? 最高の賛美と感謝だから? 一番良い祈りだから? もちろんそうでしょう。
 でもなぜミサですか? なぜミサを教会は2000年間も続けてきましたか。
 仙台教区の現実は厳しくて、本当に司祭不足ですね。仙台教区では今年の4月1日付で『「司祭不在の時の主日の集会祭儀」を行うに際して』という平賀司教の司教書簡が出されました。簡単に言えば、司祭不足の中でも、できるだけミサに預かれるような工夫をして、どうしてもダメなら主日の集会祭儀をする、というのです。でもそれが現実になってきているから準備していきましょうということもあります。
 今年度、わたしはできるかぎり、日曜日にこの教会にいるつもりですが、やはり何度か集会祭儀をしていただかなくてはなりません。来年以降はどうなるか本当に分かりません。平賀司教さんは、止むを得ずミサができなくて集会祭儀になる時がある。しかしミサの大切さを忘れないでほしい、と訴えておられます。なぜでしょうか。なぜミサが大切でしょうか。なぜ仙台教区は司祭不足の中で、できるだけミサを続けようとしているのですか。多くの司祭は主日に2つも3つもミサをささげるために、走り回っているのでしょうか。

 それはやはり伝えたいことがあるからです。わたしたちが伝えたいもの、それはキリストの愛です。キリストが十字架にかかる前に、弟子たちとともに食事をし、その中で、このパンとぶどう酒に込めた思い。このパンとぶどう酒を用いて、自分を思い出すようにと弟子たちに命じた思い。そのイエスの思いを、愛を伝えたいのです。イエスのなさった他の食事の場面も思い出します。イエスは、当時の立派な人々の食卓から排除されていた人々(罪びとのレッテルを貼られていた人々)を招いて一緒に食事をしました。5,000人以上の群衆が食べ物がなくて困っていた時、イエスはそこにあったわずかなパンについて神に感謝をささげ、皆で分かち合って食べようとし、群衆は満たされました。誰一人排除しないイエスの愛。貧しさの中で、神に信頼し、皆で支え合って生きるという生き方。イエスはそれを示してくれました。そのイエスの愛のすべてを込めたのがあの晩さんでした。だからわたしたちはどうしてもミサをしたいのです。

 イエスは最後の晩さんのときに、このパンとぶどう酒を用いたこの会食を弟子たちに委ねました。弟子たちは次の弟子たちに、またその次の弟子たちに、そうやって人から人へと受け継がれてきた、それがミサであり、教会です。その意味で使徒の後継者である司教や司教の協力者である司祭がいないとミサにならないとわたしたちカトリック教会は考えます。ときどき誤解がありますが、聖書が先にあって教会ができたのではありません。イエスが使徒たちを派遣し、信じる人々の集まりである教会ができ、その教会の中で聖書が書かれたのです。聖書が書かれる前から、教会はミサ(主の晩さん)をしてきました。そしてこのミサをとおして2000年間、キリストの愛を伝えてきたのです。

 今日の福音では、ミサの、聖体の本当に深い意味が語られています。
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(6・56-57)
 津波のことを知っているのと知らないのでは違うように、キリストの愛を知っているのと知らないのでは人生が違います。今日もこのミサで聖体をとおしてキリストの愛を味わい、キリストの愛に結ばれ、キリストの愛を生きる者となることができますように。アーメン。



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