毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第17主日のミサ



先週の原町教会のミサ後、素敵なお客様と一緒に記念写真を撮りました。
タイのロレンソホームの若者2人と聖カミロ修道会のシスター2人です。

●年間第17主日
 聖書箇所:列王記上3・5, 7-12/ローマ8・28-30/マタイ13・44-52
            2017.7.30カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音の「畑に隠された宝」の話を読むたびに、今から30年以上前、わたしが神学生の時代に聞いた一つの話を思い出します。当時、わたしたちの神学院には澤田和夫神父という東京教区の司祭が住んでいました(今は97歳になられますが、今なおお元気です)。当時は神学院の養成協力者という立場でしたが、週のうち半分ぐらいは東京の山谷という日雇い労働者の街に住み、半分ぐらい神学校に帰ってきて、わたしたちの霊的な世話をしてくれていました。
 あるとき、講話の中でこんな話をされました。
 「山谷の労働者の人と一緒に聖書を読んでいるとき、この畑に隠された宝の箇所について、ある人がこう言いました。『これは本当にありがたい話だ。神様がわたしたちをこんなふうに宝だと見てくれているのなら、なんともありがたい話だ』というのです。」澤田神父はその言葉に驚いたそうです。それまでこの箇所をそんな風に読んだことがなかった。このたとえは人間が求めるべきもの、どんな犠牲を払っても求めるべきものは神の国だ、とそのことを教えるたとえ話だと思っていた。ところがその労働者の人は、神様がわたしたちを宝として、高価な真珠として探し求めてくれていると受け取った。確かにそう受け取れば、こんなにありがたい話はない。
 わたしにとっても印象的でした。それ以来、この箇所を読むたびにどっちなのだろうと考えています。もちろんこの宝を神の国として受け取ることもできますが、逆に、この宝を神様から見たわたしたちのこととして受け取ることもやはり「あり」なのではないかと思っています。

 先週、この教会にタイからのお客さんがありました。それは、エイズの両親から生まれ、親をその病気で亡くし、本人も母子感染でHIVに感染している子どもたちの養護施設から来られた方々でした。シスター二人とそこで育った二人の若い女性。
 最初に説明を聞いたときに、シスターの言った言葉が心に残りました。その施設の目標は何より「子どもたち一人ひとりを尊重し、自身の価値を見いだし、誇りをもって生きられるようにする」ことだと施設長のシスターは言ったのです。いい言葉だと思いました。それからその施設についての具体的な話をいろいろと聞き、またそこで育った大学生の話を聞く中で、本当にこの目標が真剣に追求され、そのことが子どもたちに伝わっているということを感じることができました。親がないということ。親のことをほとんど何も知らないということ。自分もHIVに感染していること。今はよい薬があって、この病気で死ぬことはないのですが、今でも差別や偏見によって傷つくことがあるということ。そして将来についてのたくさんの不安もあるのです。本当にたいへんな境遇の中にいる子どもたち。その「一人ひとりを尊重し、自身の価値を見いだし、誇りをもって生きられるようにする」それはたいへんだけれど、それこそ、福音の働きだと思いました。その子どもたちがカトリックの洗礼を受けるかどうか、そんな問題じゃないのですね。本当に「自分自身の価値を見いだし、誇りを持って生きられるようにする」これこそが福音を伝えるということだと思いました。それはイエスが2000年前のガリラヤでなさっていたこと、そのものだと言えるからです。当時の貧しい人、病気や障がいをもった人、職業的に差別されていた人、罪びとというレッテルを貼られ、何の価値もないように見られていた人々、その人々にイエスは「あなたは神から見て、かけがえのない子どもであり、神の子としての誇りをもって生きていいのだ」と伝えたのです。
 このタイのお客様の印象が強かったので、今日の福音を読みながら、改めて、本当に神様がわたしたち一人ひとりをかけがえのない宝、高価な真珠のように見てくださっているということを、深く味わいたいと思いました。

 神様から見て、わたしたちの一人ひとりは畑に隠れていた宝です。その宝は人の目にも、そしてもしかしたら、自分の目にも隠されていたかもしれません。それを神が発見してくださったのです。神様の目から見たらわたしたち一人ひとりが宝であり、高価な真珠です。どんなに重い障がいを持っていても、どんなに人からいらないと言われていても、神様から見たら、いらない人間なんていないのです。そして、神はそのわたしたち一人ひとりをご自分の宝として取り戻すために、ひとり子を与え尽くされた。今日の福音で、2回繰り返されますが、畑を買う、真珠を買うために「持ち物をすっかり売り払って」とあります。イエスこそがわたしたちを神のもとに連れ戻す、取り戻すために、すべてを投げ打ってくださった方です。

 わたしたちはこの福音を受け取りたいのです。
 そして、この福音をなんとか伝えたいのです。
 わたしたちがどうしようもなく落ち込んだ時、この福音はわたしたちを支える力になります。わたしたちの身近な誰かが、本当に、苦しい思いをしているとき、心が傷ついているとき、自分なんか生きている意味がない、と思っているときに、この福音は力になります。
 わたしたちが日々出会う人との関わりをとおして、「あなたは宝だ」という、この福音を伝えるものとなりますように、この福音に仕えるものとなりますように。心から祈りたいと思います。


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