毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第13主日のミサ





「いわきの魚」と言われる「メヒカリ」。
こちらに来て初めてその美味しさを知りました。
つい先日までは、この辺りで売っているものも、すべて茨城県産や千葉県産でした。
最近、福島県産のものが出回り始めています。
もちろん放射線量をはかって安全性が確認されたものです。
(海はつながっているのに、他県は測っていない ?! )

食べ方としては、やはり唐揚げですね!

●年間第13主日
 聖書箇所:列王記下4・8-11, 14-16a/ローマ6・3-4, 8-11/マタイ10・37-42
               2017.7.2カトリック原町教会
 ホミリア
 第一朗読は、旧約時代のエリシャという預言者の物語で、預言者を自分の家に招いて食事を提供し、宿を貸した一人の女性が大きな報いを受けたという話です。カリタス南相馬も、ボランティアの皆さんに食事を提供し、雑魚寝ですが宿を提供しています。それは6年前の震災の後、被災地でカトリック教会になにができるかと考えて始まったことでした。シスターズリレーというのができて、食事作りのためにいろいろな会のシスターたちが被災地に来てくれました。6年経って、他の被災地ではボランティアもずいぶん減っているそうですが、ここ南相馬ではまだまだボランティアが来てくれています。宿と食事を提供する、それだけのことでも、まあいろいろたいへんでもあります。シスターたちの力なしではとてもできません。感謝しています。わたしたちがしているのはほんとうにささやかなことです。
 でも福音は、それよりももっともっと小さなことを語ります。
 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 今日の福音のこの結びの言葉を聞いて思い出したのは、ヴェロニカという女性の話です。聖書には書かれていない伝説のような話ですが、十字架の道行きの祈りの中にあるので、わたしたちカトリック信者はその物語をよく知っています。イエスが十字架を担いで、エルサレムの町からゴルゴタという処刑場まで歩かされていったとき、ヴェロニカという一人の女性が進み出て、持っていた布で血と汗にまみれたイエスの顔をぬぐった。するとその布にはイエスの顔が写っていたというのです。
 イエスはローマ帝国の支配に反抗した反逆者として十字架刑に処せられます。ユダヤの指導者たちから排斥され、熱狂的に歓迎した群衆からも見放され、ご自分の弟子たちさえも皆イエスを見捨てて逃げてしまいました。まったく孤立無援で、だれ一人味方のいない状態です。鞭打たれ、辱められるイエスの姿を見て、嘆き悲しむ女性たちもいました。その中の一人でしょうか。ヴェロニカは、イエスに近づき、イエスの顔をぬぐいます。もしかしたらイエスの一味と見られて、とんでもない目にあったかもしれません。どれほどの勇気が必要だったでしょうか。そしてイエスは彼女のしてくれたことにどれほど力づけられたことでしょうか。一枚の布を差し出す、ということの重たさを感じます。

 今日の福音では「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」とあります。普通の時の状況なら、一杯の水を差し出すのに特別な覚悟も勇気も必要ないでしょう。一杯の水を飲ませてください、と頼まれて、断ることはほとんど考えられないでしょう。でもこのマタイ10章は、イエスが12人の弟子を派遣するにあたって、彼らが受ける迫害を予告する言葉です。ここでも「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に」と言います。そこからキリスト者が迫害を受けている、という状況を考えることができるとすれば、「冷たい水一杯飲ませる」はどれほど重い行為でしょうか。
 いじめられている子に鉛筆を一本貸してあげるとか、泣いているときにただそばにいてくれるとか、そんな感じかもしれません。そんなとき、どれほどありがたく感じるでしょうか。励まされるでしょうか。

 今日の福音はそういう世界を指し示しています。実はイエスは水一杯差し出す側の人に報いを約束しているのではありません。水一杯差し出される側の弟子たちに向かってイエスはこの話をしています。どんなに一人ぼっちに見えて、誰一人味方がいないように感じることがあっても、分かってくれる人は必ずいる。支えてくれる人はいる。そのことを忘れないように、ということでしょうか。だとしたら、これはものすごい励ましの言葉ではないでしょうか。
 また、わたしたちが水一杯差し出す側になれる、という約束でもあると思います。わたしたちは本当に辛い思いをしている人、いじめられている人、迫害されている人の味方になることができる。ほんの小さなサインをとおして、でもわたしが一緒にいるよ、と伝えることができるかもしれない。その小さなサインがハンカチ一枚差し出すことであったり、水一杯飲ませることであったりするのです。

 わたしたちにもヴェロニカがいてくれる、それは本当にありがたいことです。普段なにげなく人からしてもらっている小さなことを、ヴェロニカがイエスにしたことのように受け取れればどれほどありがたく感じることでしょうか。逆にわたしたちも誰かに対してヴェロニカになることができる。本当に孤立無援のような人に小さな何かを差し出して、あなたの味方だよ、っていうことができる。そのことも大切にしたい。
 そこに神がいてくださるとわたしたちは信じます。十字架のイエスの神からも人からも見捨てられたような姿の中にわたしたちはイエスのどん底の苦しみ、極限の苦しみを見ます。そんな中ではヴェロニカの行為は単なる人間的な慰めに見えてしまうかもしれません。しかし、ヴェロニカの小さな行為の中に、神の働きを見ることができるとも思うのです。ここにヴェロニカをとおして神は働いていてくださる。そのような神の働きにわたしたちが気づくことができますように、祈りたいと思います。


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