毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の変容の祝日・ミサ



相馬野馬追祭の最終日は小高神社で行われる野馬懸(のまがけ)。
野に放たれた馬を小高神社境内に追い込み、白装束の男たちが素手で捕まえて、神に奉納します。これが祭りのメインだそうです。

●主の変容
 聖書箇所:ダニエル7・9-10, 13-14/二ペトロ1・16-19/マタイ17・1-9
           2017/8/6カトリック原町教会
 ホミリア
 先週、はじめて野馬追という行事を見ました。馬が400騎以上参加するということで確かに迫力があって面白かったです。実際に見るまで、わたしには、なんとなく軍事演習のようなイメージがあって、どうなのだろうと思っていました。歴史を見ると、平安時代に平将門が軍事訓練のために始めたというのですが、鎌倉時代になって、幕府の手前、それでは続けられないと言うことになり、馬を神様にささげる「神事」という面が強調されて、存続が許されたとのことでした。今も神事の雰囲気が強いように感じました。甲胄競馬にしても、神旗争奪戦にしても、敵を倒すというイメージがない。勇壮だけれど、どこか平和な感じがして良かったです。

 神事だと言うのですが、この神様はどういう神様でしょうか。調べてみたら、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)という神様だそうです。ところが一方では「妙見さま」とも呼ばれていて、これは「妙見菩薩」のこと、「北辰妙見菩薩」とも言い、仏教の菩薩の名前です。まあどこの宗教というよりも、この土地の神様だと感じている人が多いのではないかと思いました。この地の人々を守り支える自然の力とか、人々を結ぶ祭りの中心にある何か、それが土地の神様だと言えるのではないかと思います。わたしたちの信仰、キリスト教信仰はその土地の神様を否定したところに成り立つのでしょうか。そうではなくて、むしろ、その神々を包み込んで、その上に、すべての人の父である神、すべての神々を超える神を見つけるのがわたしたちの信仰ではないかと思います。そういう意味で、その土地の「神事」と言われるものと自然なかたちでかかわってもいいのではないかと感じました。

 もう一つ野馬追で感じたのは、昔の「戦さ」はこういう感じだったのかな、ということでした。馬に乗った武士と武士が戦う。現実には農民とか町人も巻き添えになって悲惨なこともあったと思いますが、基本的に、武士と武士、軍隊と軍隊が戦うのが戦争。しかし、20世紀になって戦争は変わってしまいました。ゲルニカの空爆。東京大空襲など日本各地への空爆、沖縄の住民を巻き込んだ地上戦。広島・長崎の原爆。それは軍隊と軍隊の戦争ではなく、軍隊が市民を殺す戦争。国家権力が一般の民衆を殺すのが現代の戦争なのです。そういう中で現代の教皇たちは、戦争にはっきりとノーと言うようになりました。
 ヨハネ23世教皇は回勅『地上の平和』(1963年)でこう言いました。「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」(67) 教会は、伝統的には正しい戦争、やむをえずしなければならないような戦争もありうると言っていました。でも現代ではそれは通用しないと教皇は言うのです。ヨハネ・パウロ2世教皇もフランシスコ教皇も、もはや戦争は何の解決にもならないとして、あらゆる戦争に反対しています。

 さて、今日は主の変容の祝日です。なぜ8月6日がこの祝日か。十字架称賛(9/14)の40日前なのです。やはり受難との関係があります。この変容のイエスの光り輝く姿は、イエスが十字架をとおってお受けになる栄光の姿。それを前もって弟子たちに見せることによって、十字架の道を歩まれるイエスに従うようにと弟子たちを招く。これが変容の出来事の基本的な意味です。そこで思い出したいのは「キリストこそわたしたちの平和」というパウロの言葉です。エフェソの教会への手紙2章にこうあります。
 「14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

 イエスの時代、ユダヤ人と異邦人の間の壁はどうしようもない壁だと思われていました。外国人は敵であり、戦いの相手でしかありませんでした。しかし、イエスは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」「十字架によって敵意を滅ぼされた」というのです。すべての人の救いのために自分を与え尽くした十字架の愛が本当の平和への道。
 あっちの国が戦争を仕掛けてくるのだから仕方ない。やっつけなければこっちがやられてしまう。やられる前にやってしまおう。もう戦争しかない。わたしたち人類はいまだにこんなところから抜け出すことができずにいます。国と国、民族と民族、宗教と宗教の対立の構図を作って、その中で戦争を起こすのです。でも本当は、そういう対立の構図に陥ってはならない。誰もが神の子として、同じいのちをいただき、同じいのちを必死で生きているのです。そのすべてのいのちの連帯を感じ、育てる中に平和が実現します。本当の平和の道は、父である神のみこころに従い、すべての人の苦しみをになってイエスが歩まれた十字架の道にしかない。わたしたちはそう信じるのです。

 わたしたちは今日、変容の場面で、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」という天からの声を聞きました。イエスに聞き従い、平和のために働くように招かれています。それは小さなことでしょう。今日、自分の家族を大切にする。今日、自分の隣人を大切にする。今日、出会うすべての人を大切にする。どんな小さなことでも、対立と争いに向かっているのか、それとも、対話と和解、愛と信頼に向かっているのか、そこがいつも問われます。
 わたしたちの歩みがイエスの歩みにつながるものでありますように心から祈りましょう。


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