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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第7主日



南相馬市小高区は福島第一原発から20km圏内にあり、2016年7月に避難指示が解除になりました。
かつての人口は13,000人。今では3,000人ほどの方が住んでいらっしゃいます。
23日(土)に小高交流センターで行われたイベントに行ってきました。
小高は「紅梅の里」と言われますが、実際に紅梅を見つけるのは難しいです。

●年間第7主日
 聖書箇所:サムエル上26・2, 7-9, 12-13, 22-23/一コリント15・45-49/ルカ6・27-38
    2019/2/24カトリック原町教会
 ホミリア
 「敵を愛しなさい」「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」今日の福音のイエスの教えは明快です。そして愛といつくしみが何よりも大切だということも明らかです。わたしたちが求めるべきものは愛だけ。なぜならば、父である神は「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」方だから。イエスは十字架に架けられたとき、自分を十字架につけた人々のために「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られたから。昔のユダヤの安息日の律法より大切なのは愛、教会のいろいろな規則よりも大切なのは愛なのです!
 それに続いて、「人を裁くな」とあります。これも「愛しなさい」ということと同じことです。でも「裁き」ということについて少していねいにお話ししたいと思いました。

 わたしたちがミサの中で唱えている「使徒信条」は洗礼式のときの信仰告白から発展したもので、とても古いものです。ローマ教会の2世紀ごろの伝統にさかのぼります。後に「ニケア・コンスタンチノープル信条」というもっと大きな信条ができ、こちらが正統信仰を表すものとなりました。日本の教会では、洗礼のときの信仰宣言を思い起こすという意味、そして、ミサで語られた神のことばに対する人間の側の応えとして、「使徒信条」のほうもよく使われています。洗礼式のときの信仰宣言よりは少し長いのですが、違いはイエス・キリストについて詳しく述べている点です。
 「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。」
 これを用いるようになったとき、「『裁くために来られます』はピンと来ない。イエスさまは人を裁くためではなく、『救うために来られる』んじゃないか」と言った方がいました。まあそう言われても、教会の伝統的な信条ですから、変えようがないのですが、気持ちはわからないでもないと思いました。「裁く」という言葉には何かしら抵抗感があるし、あまりふだんは使わなくなっていると思います。

 神が人を裁くというときの「裁く」には3つぐらいの意味があると思います。
 一つは、「弱い人のために裁きを行う」ということ。人間同士の関係は力関係になりがちです。強い者が弱い者をしいたげる。それが人間社会の現実。神は弱い者を守るために、神がその正義を表してくださる。この意味の裁きは、とても大切なことです。

 次に、「判断する」という意味の裁き。マタイ福音書25章に一番明確な裁きのイメージがあります。有名な箇所です。
 「35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
 ここに神の人間に対する判断=裁きの基準が明確に示されています。でもそれで具体的に誰が良しとされ誰がダメだとされるのでしょうか。それは簡単には言えません。導入の箇所にこういう言葉があります。
 「31人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33羊を右に、山羊を左に置く。」
 ある時、教会学校の子どもたちにこの話をしていて、こう言ったことがあります。「パレスチナでは、羊はだいたい白くて、山羊はだいたい黒い。白い羊と黒い山羊をはっきりと分けるというたとえなんです」そうしたら、ある女の子が「じゃあ、わたしたちはみんなシマウマだ!」と言いました。本当にそうだと思います。わたしたちみんな、まったく愛がないという人間もいないし、完璧に愛することができているという人もいません。白いところもあれば黒いところもある。そういう意味でみんなシマウマです。「この人は○、この人は×」というよりも、神の目から見て、何が本当に価値あるものなのか、はっきりと示すことが「裁き」なんです(一コリント13・8-13参照)。

 そしてもう一つの「裁き」は、「断罪する」という意味の裁きです。もう決定的にダメで地獄行き、という「裁き」もあります。マタイ25章で言えば「悪魔とその手下のために用意されている永遠の火」(41節)です。カトリック教会は地獄の存在を否定しません。それは完全に神の愛から断ち切られた状態ですが、人間が自分の意思で、完全に神の愛を拒否し、神の愛に背くという可能性があるということを否定しません。その状態を地獄と言います。実際に何人地獄にいるか、なんていうことは言いません。でも可能性として、人間が完全に神の愛を拒絶することはありうる、というのです。それは神が裁くというよりも、人間が光である神を拒絶して闇の中に留まることだとも言えます(ヨハネ3・17-19参照)。イエスは「わたしはだれをも裁かない」(ヨハネ8・15)と言います。それはこの意味で人を断罪しないということです。誰かをもうダメと決めつけない。誰かを完全に切り捨ててしまわない。そういう意味で、イエスは「裁かない」と言うのです。

 今日の福音は神の裁きの話ではありません。人間であるわたしたちに向かって「人を裁くな」と教えています。それは何よりも三番目の裁き(断罪する)のことです。
 「あの人はダメ。あの人は罪びとで、どうしようもない人間」そう人間を決めつけて、人を切り捨てない。そういう意味で裁かない、ということは、何かをしてあげるというような愛よりも、わたしたちにとって、いつも問われている愛のテーマではないでしょうか。心から人を受け入れ、愛する恵みを祈り求めましょう。


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