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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第一主日



四旬節第一主日、カトリック原町教会でも一人の方が洗礼志願式をお受けになりました。そして、震災8周年を目前にして、亡くなられた方々の追悼の祈りと被災されたすべての方々のためのお祈りをお捧げしました。
写真は小高区の谷地魚店。3年前の避難指示解除直後から、お店を再開し、今も頑張っておられます。今日のカリタス南相馬は人数が少ないので、谷地魚店の刺し盛りにしました!

今日、小高区(20km圏内。旧警戒区域)に行って感じたこと。それはイスラエルの民の荒れ野の40年と福島第一原発廃炉までの40年というのがどこかで重なっているのではないかということ。このわたしたちの荒れ野の中で、本当に神とのつながりによって生き、人と人との愛のつながりによって生きることができるか、ということをわたしたちは問われているのです!

●四旬節第1主日
 聖書箇所:申命記26・4-10/ローマ10・8-13/ルカ4・1-13
       2019.3.10カトリック原町教会
 ホミリア
 東日本大震災と福島第一原発事故から8年を迎えようとしています。あのころに比べればずいぶん明るくなった、元気になったという人も少なくないと思います。でも一方で、わたしたちの住む福島県は、直接死よりも震災関連死のほうが多い、そして今もなお震災関連死が増え続けているという現実もあります。お金があって、住む場所があって、食べていければそれで人は本当に満たされるのか。今ここで、この福島で特に、問われていると思います。

 人は何によって生かされるのか。人の心は何によって本当に満たされるのか。そのことを今日のイエスの言葉は問いかけています。悪魔の誘惑に対してイエスが答えた言葉は、「人はパンだけで生きるものではない」という有名な言葉です。これは申命記の引用でした。この言葉だけでなく、今日の福音のイエスの言葉はすべてが申命記の引用ですし、第一朗読は申命記26章。そして第二朗読にも申命記の引用があります。
 申命記というのは旧約聖書の5番目の書物で、その中心部分はモーセの説教です。紀元前13世紀、イスラエルの民は、神によってエジプトの奴隷状態から救い出され、神が与えると誓われた土地=約束の地に向かって旅をしました。その旅は「荒れ野の旅」と言われ、40年間も続きました。その間、シナイ山で神と契約を結び、主である神と特別な親しさを生きるようになります。そしてヨルダン川の東岸、約束の地を見渡せるところまで来て、モーセは民に語りかけるのです。モーセは、自分自身はヨルダン川を渡って約束の地に入ることはできず、そこで死んでいくと自覚していました。そして民に向かって、荒れ野の旅を振り返りながら、遺言のようにこの説教を語りました。

 その中で、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉が語られるのです。これは申命記ではマナという食べ物に関連して言われた言葉でした。荒れ野は食べ物も飲み物も手に入れにくい場所です。その荒れ野の旅の間、神は岩から水を湧き出させて民の渇きをいやし、天からのパンとも言われる「マナ」という不思議な食べ物を与えて、民の飢えを満たしました。そのことを思い出させてこう語るのです。マナが与えられたのは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と言うのです。
 荒れ野は厳しい場所です。そこで民は、それこそ神の助け・支えなしに1日も生きることができないという体験をしました。そのシンボルがマナでした。マナが与えられたのは、人がマナによって生きるというのではなく、人は神によって生きるということを教えるためだった。というのです。そのことを忘れないように、とモーセは語ります。なぜなら、人はそれを忘れるかもしれないからです。
 これから入っていく約束の地についてはこう言われています。「7あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、8小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。9不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。」
 いい場所なんですね。でもそうすると神を忘れるかもしれない。12節からこうあります。
 「12あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、13牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、14心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。・・・17あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。18むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」

 これが申命記です。たとえ約束の地に入り、定住して農耕生活をし、豊かになったとしても、本当にわたしたちを生かしてくださる神とのつながりを忘れないように、というのです。第一朗読の申命記26章の箇所は「イスラエルの最古の信仰告白」と言われている箇所です。約束の地に入って、その地で採れた最初の収穫物を神にささげて、こう言いなさい、というのです。今のわたしたちがこうしているのは神様のおかげ。エジプト奴隷の地からわたしたちを導き出し、この土地を与えてくださったのは神様、あなたです。だからこの地の作物の最初の実りをあなたにささげます。と、そういう信仰告白。
 本当に私たちが生きているのは神様のおかげ。食べ物や住む家があるから満たされるのではなく、神によってわたしの人生は根本で支えられ、生かされている。その神とのつながりが、わたしを、わたしの心を本当に満たすものなのです。

 今年の四旬節メッセージの中で、フランシスコ教皇はこう言っています。
 「『断食』とは、他者と被造物に対する姿勢を変えるすべを身につけることです。それは、自分の強欲を満たすために何もかも『むさぼりたい』という欲望から離れて、心の空白を満たしてくれる愛のために苦しむことのできる状態へと変わることです。『祈り』は、偶像崇拝や、自力で何でもできるという考えを捨てるために、また、自分には主と、主のいつくしみが必要であることを宣言するためにささげます。『施し』は、未来は自分たちのものではないにもかかわらず、その未来を手に入れられると錯覚し、自分自身のためにすべてを蓄えて生きようという愚かな考えを捨てるために行います。」
 自分の力でほしいものをどんどん手に入れる。自分の力でなんでもできる。自分のためにできるだけお金や物を蓄えて安心しようとする。そういう考えでは、本当に人は満たされることはないのだと言うのです。では何によって満たされるのか?それは「愛のために苦しむこと」だと教皇は言います。
 「愛のために苦しむ」、親の愛はそういうものでしょうか? でもそれは何よりイエスの愛のことではないでしょうか。あるいは、その「独り子を与えるほど世を愛された」神ご自身のことではないでしょうか。その神に結ばれ、そのイエスと結ばれ、わたしたちが少しでも「愛のために苦しむ」ことができれば、そのとき、わたしたちの心は本当に満たされるのではないでしょうか。
 わたしたちの心を本当に満たすものは何か、この四旬節の間、祈りのうちに、探し求めていきたいと思います。

 さて、きょうはこのミサの中で、洗礼志願式を行います。今日、洗礼志願式を受けるMさんは、人生の中でいろいろいいこと、悪いこと、大変なことも経験してきて、今、小高で奥さんのCさんと一緒に暮らしています。そして、本当に自分の人生を支えてくれるもの、自分の心を満たしてくれるものを探してきて、この復活祭に洗礼を受ける決意をなさいました。本当に人を生かし、人を満たすもの、それは神ご自身しかありません。そしてその神のいつくしみのうちに、わたしたちが互いに大切にし合う、そのこと以外にありません。
 Mさんのこれからの歩みを、神が支え導き、本当の意味で、その人生を豊かなものにし、満たしてくださいますように。心から願いつつ、洗礼志願式を行います。


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