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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第5主日



エルサレム神殿の境内ならぬ相馬小高神社の境内。
枝垂れ桜が見事です。

●四旬節第5主日
 聖書箇所:イザヤ43・16-21/フィリピ3・8-14/ヨハネネ8・1-11
     2019.4.7カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音は有名な姦通の女の話です。この話で一つの不思議な点があります。「姦通の現場で捕らえられた女」と言われていますが、相手の男は出てきません。旧約聖書によれば、姦通の罪を犯した場合、男女ともに死刑にならなければなりませんでした(レビ記20・10、申命記22・22)。男はどうしたのでしょう。逃げてしまったのでしょうか。
 そんなことを考えているうちに、ある時から、この物語について、何かまったく違う読み方ができるのではないかと考えるようになりました。ここでお話しするのが適当かどうか分かりませんが、わたしの考えを分かち合わせていただきたいと思います。

 それはこの女性が姦通の女というよりもレイプの被害者だったのではないか、という考えです。もちろん彼女は「姦通の現場で捕まった」と書かれているのですが、当時の考えでは、結婚している女性が夫以外の男性と性的関係を持つという点においては、それが彼女自身の意思であろうが、性暴力であろうが、そこに区別はなかったのです(申命記22 ・22-29)。
 倫理的な問題と考えるならば、当然、彼女の意思が問われるべきですが、実際はそうではなかった。古代では、夫以外の男性と関係をもった女性は、どの男性の子どもを産むかわからない女性、という点では、合意があろうがなかろうが同じことで、そういう女性は社会の中に存在してはならない、だから死刑だということになったのです。彼女の意思には関係なく排除すべき存在だと見られたのです。男性について言えば、他人の妻と性的関係を結ぶということは、他人の財産(しかも重大な財産)を奪ったようなことと考えられ、それが死刑に値する、と考えられていたわけです。
 キリスト教から見れば驚くべきことですが、旧約聖書の律法では、彼女の意思とか合意はまったく問題になっていません。わたしはこの女性がレイプの被害者だったと決めつけているのではありません。しかし、そういう可能性もあるし、当時の社会の考え方では、そうだとしても、まったく同じように扱われたということを言いたいわけです。

 彼女がもしも性暴力の被害者だったと考えてみましょう。だとしたら、周りの人々の対応はあまりにもひどいものでした。暴力被害だけでもとんでもない苦しみなのに、その上、群衆の好奇や蔑みの目にさらされ、石打ちで抹殺されようとしているのです。
 イエスはその彼女をなんとか助けようとしたのではないでしょうか。イエスから見れば、すべての人は神の子どもでした。その神の子であるこの女性のいのちが、そんなにふうに抹殺されてはならない。この人も神の子としての尊厳をもった人間なのだ。だからイエスは彼女を救おうとしたのではないでしょうか。

 「『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか』。イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」
 とあります。何を書いていたか分かりません。でもそれはどこか弱々しい姿と感じられるのではないでしょうか。裁かれているのは、この女性だけではないのです。彼女をどう扱うか、律法に従うか、律法に背くか、裁かれるのはイエスでもあります。周りの人々は裁く側であり、この女性とイエスは裁かれる側。でもイエスの一言が、この構図をがらりと変えます。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
 その言葉によって、そこにいたすべての人は神の裁きの前に立たされます。神の前に罪のない人はいない、そのことに気づかされるのです。そしてすべての人は、この神のゆるしによって生かされているという現実に気づかされるのです。

 最近、ときどき、頭の中に浮かんでくる言葉は「愛より人権」という言葉です(神父がこんなことを言ったら叱られるでしょうか?)。「愛」というと、かわいそうな人に何かしてあげる、という雰囲気がどうしてもある。「人権」というのはすべての人の中に神の子としての、犯してはならない尊厳があると認めること。そのことを忘れてはならないと思うのです。わたしたちは簡単に「寄り添う」と言ってしまいます。でも「寄り添う」とは何なのか。苦しんでいる人、困っている人に手を差し伸べるということはやりやすいかもしれません。でも、出会うすべての人に人権、神の子としての尊厳を認め、その尊厳を脅かされそうになっている人の立場に立ち、その尊厳を守ろうと一緒に戦うこと、それは簡単じゃないかも。イエスは今日の福音の場面で、確かに、計り知れない愛とゆるしを示している、と言えると思いますが、それ以前に、イエスはこの人の中に、神の子としての尊厳を認め、その尊厳を守ろうとして、必死で戦っていたのではないか。

 実は今日のこの姦通の女の物語は、今の聖書では〔  〕の中に入れられています。もともとヨハネ福音書のこの箇所になかったと考えられているからです。ではどうしてこの話が伝わってきたのか。一つの考えは、ルカ福音書21章の終わりにあったものが、省かれて、その後、今の箇所に挿入されたのではないか。だとすると、ルカ福音書の文脈で言うと、それは受難物語の直前、イエスの活動の最後ということになります。もしもそうだとしたら、今日のこの出来事が、直接、イエスの十字架刑の原因になったと考えることもできるでしょう。この女性を死刑から救い出すことは、律法による社会秩序に反対することでした。だから当時の宗教・社会の指導者たちにとって、イエスを生かしておくことはできないと感じさせるようなことだったのです。
 イエスが命がけで守ろうとしたものは何だったのか。そのことを真剣に問いかけながら、イエスの受難・十字架を見つめていきたいと思います。



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