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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第21主日



シスターEにいただいた夏祭りの写真です。
わたしは接待の係だったので、写真はぜんぜん撮れませんでした。
晴れて、程よく風もあって、ステキな夏祭りができました!

●年間第21主日
 聖書箇所:イザヤ66・18-21/ヘブライ12・5-7, 11-13/ルカ13・22-30
           2019.8.25カトリック原町教会
 ホミリア
 昨日、カリタス南相馬の夏祭りが、カリタスと教会の前の駐車場で行われました。東京から来た聖心女子大学の学生たち、聖心女子学院の生徒のお父さんたち、カトリック東京ボランティアセンターのスタッフ。さらに横浜から来たカフェ・ド・フクシマの方など、たくさんの方々が応援に来てくださいました。眞こころサロンの方、復興住宅にお住いの方、小高に戻っている方、さゆり幼稚園の子どもたちとご家族。200人以上の人が集まりました。なみえ焼きそば、かき氷、串焼き、フライドポテト、子どものゲーム。歌あり、踊りあり。子どもたちの笑顔があり、高齢の方々の笑顔がありました。
 今日の福音でイエスは、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とおっしゃいます。昨日の夏祭り、これはもう神の国って言っていいんじゃないか、と感じました。
 最終的にすべての人が神のもとに一つに集められる。これが救いの完成のイメージであり、神の国の完成のイメージです。

 聖書の大きなビジョンを話したい。創世記第1章によれば、神は六日間で世界とその中のすべてのものをお造りになり、最後に人間を造られました。人間は神の似姿として、何かしら神に特別近いものとして造られました。そこに「男と女に創造された」とあります。古代のイスラエル社会はとんでもない男性中心の社会でしたが、神の前に男性と女性はまったく対等な存在だということが語られています。創世記1章の結びにはこうあります。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
 創世記の2章の物語では、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と言われています。人は神とのつながりによってこそ生きるもの、という聖書の根本的な人間観・生命観がここによく表れています。それから「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言って、ふさわしいパートナーとして女性を造られました。さらに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われています。ものすごく大雑把な話し方をしていますが、これが神の創造された本来の人間の姿でした。つまり、人は神によって、良いものとして造られた。すべての人が神の前に平等な存在として造られている。そして、人は神とのつながりによってこそ生き、人と人とが支え合い、助け合うことによってこそ生きる。そういうものとして造られているのだ。それが聖書の根本的な確信でした。

 と同時に、古代の人々も現実にはいやというほど悪を経験していたでしょう。神との関係も人間同士の関係もうまくいかない。その悪はどこから来たのか。それが創世記3章の物語です。最初の人間アダムとエバが禁じられた木の実を食べてしまうという有名な話です。人はエデンの園という楽園に置かれて、そこにあるすべての果実を食べて良い。しかし「善悪の知識の果実」だけは食べてはいけない、と言われます。でも蛇に誘惑されてそれを食べてしまうという物語。なぜそんなものをエデンの園に置いたのか、そんなものがなければ人間は罪を犯さなかったのに、と思うかもしれません。でもこれは一つのシンボルなのです。人間にはすべてが許されている。ただし、自分を生かしてくださっている神との関係を忘れないように、そのシンボルが禁じられた木の実だと言ったらいいでしょう。それを人間は食べちゃうわけです。神との関係を忘れて、自分さえよければと思って、その果実に手を出してしまう。その結果は、神との関係がおかしくなり、人間同士の関係もおかしくなります。
 こんな話をしていたら終わりませんが、聖書とはそういうところから始まる物語です。そして神がその人間との関係、壊れてしまった関係、さらに人と人との関係をどうやって取り戻されようとしたのか、聖書とはその壮大な物語なのです。今日の福音のイメージはその神の救いの完成のイメージです。「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」第一朗読の「すべての国、すべての言葉の民を集める」というイメージもこれとつながっています。本当に神と人との関係が取り戻され、人と人との関係が取り戻される。それこそが神の望みであり、それはいつか完成する。

 一方で今日の福音には厳しい面があります。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」この神の国の集いに入るのは簡単じゃないという面です。問題は何なのか。今日の箇所だけでは実ははっきりしていないのですが、「わたしだけが入ろうとすること」あるいは「わたしだけが入れると思い込んでいること」ではないかと感じました。
 誰もが知っている有名な話で芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という話がありますね。フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にそれととてもよく似た「一本の葱」という話があります。地獄にいるのは一人のおばあさんで、とても意地悪かった女性ですが、彼女は生前、一つだけ良いことをした。それは畑の一本の葱を貧しい人に与えたこと。それで守護の天使が葱を地獄に下ろしてあげると、おばあさんはその葱をつかんで登ってくる。すると地獄にいた他の人も天国に引き上げてもらおうと葱につかまってきた。それでおばあさんは「この葱はわたしの葱だ」と言って他の人を蹴落とそうとする。そうしたら葱はぷつんと切れて、おばあさんは地獄に落ちていった。まあ、こういう話です。
 「神の望みはすべての人をご自分の宴に招くこと。そこで本当に神と人、人と人との良い関係が取り戻されること」このイメージを持って、その神の国の完成に向かって歩みたいと思います。

 第二朗読のヘブライ書。「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」翻訳がよくないのですが、直訳では「まっすぐな轍を作りなさい」あなたがたがまっすぐに歩いていけば、まっすぐな道ができる。そうすれば、あとから来た足の弱い人も歩いていける。
 このようにみんなで神の国に入っていくイメージを本当に大切にしたい。すべての人をご自分の国に招いてくださる神の望みが実現しますように、心から祈りましょう。


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