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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第2主日



宮城県角田市で、台風19号により床上浸水以上の被害を受けた家庭(750世帯)にファンヒーターを配布するというプロジェクト、ようやく実現して、この土日に配布となりました。
カリタス南相馬が市役所などと調整して実行しましたが、資金はカリタスジャパンに集まった募金から出ています。
シスターたちも張り切ってます!

●待降節第2主日
 聖書箇所:イザ11・1-10/ローマ15・4-9/マタイ3・1-12
         2019.12.8カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしの中の大切なクリスマスの思い出です。わたしが大学生のころのことですから、ずいぶん昔の話になりますが。
 大学が冬休みになって、わたしはボランティアのグループで、山梨県の忍野村にある富士聖ヨハネ学園という施設に行きました。そこは知的なハンディキャップを持った大人と子どもの施設でした。全部で180人ぐらいの人がそこで生活していました。今は障害をもった人も家庭の中、町の中で生活すべきだという考えが強くなっていますが、そのころはまだ人里離れた施設でおおぜいの障害者が住んでいるという形が多かったのです。大人と子ども、男子と女子、そして障害の程度が重いか軽いか、という8つのグループに分かれていて、それぞれに寮と呼ばれている家に住んでいました。
 そこで学園の中のいろいろな作業を手伝うというのがボランティアの内容でした。溝を掘ったり、小屋を建てたりというような、主に屋外作業のボランティアでした。
 12月24日、クリスマスイブの夕方、雪が降り始めました。東京生まれのわたしにとっては生まれて初めての雪のクリスマスになりました。夕食後、職員の人たちがクリスマスキャロルを歌いながら8つの寮を回るというのが恒例の行事で、わたしたちボランティアもそれに参加させていただきました。雪の降る中、クリスマスキャロルを歌いながら、各寮を回っていく。玄関にハンディをもった人たちが迎えに出てきてくれて、みんなすごく喜んでくれている。最高の気分でした。
 最後に行ったのが、たけのこ寮でした。そこはもっとも障害の重い子どもたちが住む家でした。その玄関に行ってもだれも集まってきません。ある子どもはろうかに寝っ転がり、ある子どもはぐるぐると走り回っています。わたしたちの歌をぜんぜん聞いていないし、なんの反応もしてくれないのです。
 わたしはショックを受けました。こんなにも通じない子どもたちがいる。この子たちはいったいなんなのだろう。この子たちと心を通わすことはできないのか?

 次の春休み、わたしはまたヨハネ学園に行き、できるだけたけのこ寮に関わりたいと思いました。ちょうどそのころ、Y君という子どもが入所してきました。小学校1年生ぐらいの子です。自閉症だと言われていました。障害の程度が重いということで、たけのこ寮に入れられました。でも運動能力は抜群の子でした。たけのこ寮は子どもが出て行ってしまわないように、いつも玄関に鍵がかかっていました。でもY君は2メートルぐらいある庭のフェンスを軽々と乗り越えて出て行ってしまうのです。それでしょっちゅう、学園中に聞こえるように「たけのこ寮Y君が行方不明です。見かけた方はたけのこ寮まで連絡してください」と放送されていました。
 ある時、わたしはY君がフェンスを乗り越えて外に出たのを見ました。それで彼の後を追いました。本当は捕まえて連れ帰るべきだったのかもしれませんが、わたしは彼がどこまで行きたいのか、彼の後をついていってみようと思いました。学園の裏山に通じる道があって、彼はそこを登って行きました。わたしも少し後をついて登っていきます。でもすぐに行き止まりになってしまいました。そこで彼が振り返ると、わたしと目が合いました。「Y君、行き止まりだね。帰ろうか」すると彼は満足したようにうなずきました。わたしが差し出した手を握って、わたしと手をつないで、たけのこ寮まで帰ってきました。わたしはそのとき、初めて、たけのこ寮の子どもと心が通じたと感じました。
 それからずっとたけのこ寮の子どもたちと関わるようになりました。
 まったく言葉のない子、本当に何の意思疎通もできないと思っていた子が、一緒に遊んであげるとすごくうれしそうな顔をしたり、ときどき、人に噛み付くので危険だと言われていた子が、自分の意思を表わせないので噛み付くということが分かってきて、仲良くできるようになったり。
 この子たちは何も分かっていない、通じ合うことができない、と思っていたのは、わたしの思い込みで、この子たちの中に素晴らしいいのちの輝きがあり、そこに触れることができる、心と心が通いあうことができる、と知るようになりました。

 今日の福音で、洗礼者ヨハネは救い主の到来を告げ知らせました。神は決してこの世界をほうってはおかない、人々の苦しみを見過ごすことはない。必ずこの世界に介入してきて、救いのわざを行ってくださる。そのときはもうすぐ、そこまで来ている。それが洗礼者ヨハネのメッセージでした。
 そして来られた方がイエスでした。この方が世に来られたことを、この方の誕生を祝うのがクリスマスです。クリスマスにわたしたちは飼い葉桶に寝かされた赤ん坊のイエスを見つめます。幼子イエスは何もできません。何もしてくれません。パンを増やしてくれるわけでも、病気をいやしてくれるわけでも、立派な説教をしてくれるわけでもありません。ただ寝転がって、オギャーオギャーと泣いているだけです。この幼子の中に神さまの最高の救いのわざを見ようとする、それがクリスマスの祝いです。不思議なことでしょうか?
 クリスマスを祝うのは、ただ単に一人の男の子の誕生を祝うことではありません。神のひとり子が人類の一員となってくださった、わたしたちの弱さ、貧しさ、苦しみ、痛みをともにになう方となってくださった。その神の救いのわざを見るから、クリスマスを祝うのです。この幼子イエスの中に神の輝きの最高の表れを見るのがクリスマスの祝いです。
 そしてクリスマスは、わたしたちが出会うすべての人をどう見ていくのか、という問いかけでもあります。無力な幼子イエスの中に神の子の栄光を見るわたしたちは、出会うすべての人、特に弱く貧しい人の中に、神の子としての輝きを見つけるように招かれているのです。


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