FC2ブログ

毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第7主日



ふきのとうをたくさんいただいたので、またまた天ぷらにしました。
やっぱりこれが最高!
食べると、口の中に春が広がります!

●年間第7主日
 聖書箇所:レビ19・1-2, 17-18/一コリント3・16-23/マタイ5・38-48
                  2020.2.23カトリック原町教会
 ホミリア
 アメリカの女性の精神科医で、ジュディス・ルイス・ハーマンという人がいます。この人は性暴力の被害にあった女性の心のケアをしていた人で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の研究で有名な人です。PTSDというのは、生きるか死ぬかというようなショッキングな経験をした人にとって、その経験が心の傷(トラウマ)となり、危険が去った後も、さまざまな心理的問題が残ってしまう、という症状のことです。日本では阪神淡路大震災のときからよく知られるようになりましたが、アメリカでは戦争帰還兵の心の問題や、レイプの被害女性の心の問題を研究する中で、このPTSDという診断名が生まれました。

 ハーマンはPTSDに関する有名な研究書である『心的外傷と回復 TRAUMA AND RECOVERY』という本を書きました。その中にこういう箇所があります。
 「世界の中にいて安全であるという感覚、すなわち〈基本的信頼〉は人生の最初期において最初にケアをしてくれる人との関係の中でえられるものである。人生そのものと同時に発生するこの信頼感はライフサイクルの全体を通じてその人を支えつづける。」
 人間の赤ちゃんはまったく何もできない状態で生まれてきます。だれかが手厚い世話をしなければ一日も生きていくことはできない、すべての人間はそういうところから人生をスタートさせています。そしてその最初にケアをしてくれる人(多くの場合は親でしょう)との関わりを通して、人間は基本的信頼basic trustというものを獲得していく。それはこの世界にいて自分は安全だという感覚だとハーマンは言います。自分は守られているし、人は信じても大丈夫だし、自分には愛される価値がある、そういうすべての安心感を人生の最初に、だれかから手厚いケアをしてもらうことによって獲得していくというのです。そしてその信頼感が、その人の人生全体を支えると言います。

 PTSDになるような経験というのはその信頼感を打ち砕くのです。もうこの世界は安全とは思えない、人を信じることもできない。自分の存在価値もわからなくなる。この基本的信頼が打ち砕かれてしまうと人間は生きていくことができない。どうやって失われた信頼を取り戻していくのか、それがPTSDからの回復のテーマだということになります。
 ハーマンはさらに、そこから児童虐待ということがいかに大きな問題であるかを語ります。虐待的な環境にいて、本当はケアをしてくれるはずの人が、しばしば暴力をふるう、そんな中では子どもは「基本的信頼」を獲得することができないのです。子どものころに獲得した基本的信頼が、悲惨な経験によって打ち砕かれ、それを再び取り戻すのがたいへんである以上に、子どものころに基本的信頼を身につけることのできなかった人が大人になって信頼感を身につけるというのはもっともっとたいへんなことだと言います。

 なんでこんな話をしているのでしょうか。今日の福音の言葉を本当にしっかりと受け止めたいからです。今日の箇所でイエスはおっしゃいます。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」父である神とはどういう方か、イエスがこれほどはっきりと語った言葉は他にありません。神はすべての人の親として、人間の親がそうである以上に、ご自分の子どもに良いものを与えたいと願っているのです。その子どもが良い子どもか、悪い子どもかそんなことに関係なく、子どもが必要とするものは何でも与える、それが神の心だとイエスは教えました。

 わたしたちはこの神のイメージをしっかりと受け取っているでしょうか。むしろ、「正しい人にはご褒美を与え、悪い人には罰を与える、それが神だ」という考えのほうが、分かりやすいと感じることがあります。昔、教会の隣の幼稚園のシスターに、「神父様、運動会の日に雨が降らないように祈ってください」と頼まれ、当日雨になったら、「神父様の心がけが悪いからです」と文句を言われてしまったことがあります(まあ冗談でしょうが)。わたしは「それはイエス様の教えに反する」と言いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ」でしょ! でもまあ、そんなふうに思うのは人間の自然な傾向なのかもしれません。さらに、とんでもない悪を目の前にしたとき、この悪を神に罰してもらいたい、こんなひどい悪を放置している神なんか許せないという思いが湧いてくることがあります。何が何でも悪を罰してくれる神、そのほうが分かりやすいし、人間にとってありがたいのかもしれません。
 だからこそ、それでもそもそも、人間は神の大いなる愛といつくしみ、限りないゆるしの中でしか生きられないのだ、ということをしっかり受け止めたいのです。

 では神が罪人に対してもいつくしみ深い方だから、それならどう生きてもいいのか、といえば決してそうではありません。
 今日の福音では、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とか「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられています。イエスは徹底的な愛を求めます。それは人間的な努力の結果とか、なすべき義務というのではなく、本当に神のこころに触れたところから始まる生き方の新しい可能性、と言ったらいいのではないかと思います。神のこころに触れた者の解放された生き方。それが示されているのです。

 第一朗読はレビ記19章でした。
 「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。」
 きょうの福音の結びでイエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われます。
 無理ですか?無理ですよね。でも、ここで示されているのは、わたしたちを裁く基準ではないのです。もしそうだとしたらわたしたちはみんな失格です。ここで言われているのは、わたしたちが向かっていく人生の方向です。ほんとうに神のいつくしみを知ったのですから、少しでもその神のこころに少しでも近づきたい、その歩みをわたしたちが進めていくことができますように、今日、心から祈りたいと思います。


PageTop