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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第5主日



2月11日、朝起きたらこんなことに!
福島県と言っても太平洋側(浜通り)は雪が少なくて、特に今年は初めてこうなりました。

●年間第5主日
 聖書箇所:イザヤ58・7-10/一コリント2・1-5/マタイ5・13-16
          2020.2.9カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしが司祭になって初めて派遣された教会は、東京の杉並区高円寺にある高円寺教会というところでした。隣に光塩(こうえん)女子学院という学校がありました。「高円寺」にあるから「光塩」だとときどき勘違いされていましたが、「光と塩」の「光塩」で今日の福音の箇所から取られた名前です。カトリックの学校で幼稚園から高校までありました。そこで3年間働いて、次に派遣されたのは日野市の高幡教会というところで、隣にはやはり「光塩幼稚園」がありました。ここも同じメルセス会という修道会のシスターたちが運営している幼稚園でした。メルセス会にも光塩女子学院にもたいへんお世話になりました。それでわたしにとって、この「光と塩」のイメージはとても親しみがあります。

 光塩女子学院のモットーは「光の子、塩の子」というものでした。
 「光の子になりなさい、塩の子になりなさい」と言われることが多かったようです。ろうそくが自分の身をすり減らして、周りを照らすために輝くように、周りの人々を照らす光の子になりなさい。塩が、水に溶けて、自分の形をなくし、まわりのものに味付けし、まわりのものを腐敗から守るように、人々の役にたつ塩の子になりなさい。それ自体は素晴らしい教えですが、そこから結局は光の子、塩の子となるために一生懸命勉強しなさい、ということになりがち。当時はいい大学への進学に熱心な学校として知られていました。
 そんな学校の中で、圧迫感を感じている子どももいて、教会は一つの逃げ場でもありました。わたしの前にいた助任司祭たちは、そういう子どもたちを暖かく受け入れていたので、学校帰りに教会に遊びに来る高校生たちがいました。しつけに厳しい学校で、学校帰りに寄り道をしてはいけないのですが、シスターたちもまさか教会に行ってはいけない、とは言えない。高校生たちはそのことを知っていて、教会の逃げ場にしていました。わたしのせいじゃないですよ。わたしの前にいた神父たちのせいにしたい。
 そこで、本当に感じたことは、「頑張って地の塩になりなさい、頑張って世の光になりなさい」という以前に、「誰がなんと言おうと、あなたがたはもうすでに世の光なんだ、地の塩なんだ」というメッセージの大切さでした。

 今日の福音は本当にそういうメッセージです。イエスは「地の塩になりなさい」とは言いません。「世の光になりなさい」とも言いません。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と断言しているのです。もちろん、そこから、塩なんだから塩味を出しなさい、光なんだからまわりを照らしなさい、というのですが、ただただ頑張って、塩になりなさい、光になりなさい、というのと、根本的にもうすでに「すばらしい光であり、かけがえのない塩なんだ、だから〜」というので大違いです。
 今日の箇所はマタイ5-7章の山上の説教という長い説教の最初の部分です。本当はその前に「幸い」のメッセージがあります(残念ながら、先週の日曜日は主の奉献の祝日だったので読まれませんでしたが)。直訳では「霊において貧しい人々は幸い、天の国はその人のもの」という言葉に始まる「八つの幸い(真福八端)」です。イエスのまわりには多くの人が集まっていました。それは4章の終わりを見ると、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」たちでした。その人々、常識的にはとても「幸い」と言えないような人々に向かって、イエスは「幸い、幸い、幸い」と呼びかけました。そして、「あなたがたは地の塩、世の光だ」とおっしゃるのです。なぜならば、神はあなたがたを決して見捨てていないから、神はあなたがたをほんとうにたいせつなものとして、あなたがたをご自分の国に招き入れてくださるから。神があなたがたをもうすでに光とし、塩としてくださっているから。
 これが福音です。

 キリスト教は非常に倫理的な宗教だと考えられています。もちろんそういう面があります。教皇訪日のテーマで言えば、「すべてのいのちを守らなければならない」そのとおりなのです。でもその根本には、あなたにいのちを与えられた神は、あなたのいのちをかけがえのないものとして尊み、いつくしんでくださっている、だからすべてのいのちを大切に、ということがあります。あなたに病気や障害があっても、経済的に苦しい状況にいても、外国人だということで差別されていても、そのあなたは、神から見れば、かけがえのない子どもであり、すばらしい光なんだ。あたりまえのことですね。でもそのことを何度でも繰り返して言わなければなりません。イエスが語られてから2000年経った今も、何度でも言わなければなりません。それはそうじゃない世界に陥る危険がいつもあるからです。

 あの人はこれだけのことができるから価値がある、この人はこれだけのものを持っているから価値がある。そうやって人を評価し、ある人にはマルをつけ、ある人にはバツをつける。そして結局はバツをつけられた人を切り捨てていく、そういう見方がこの世界にはあります。わたしたちの身近なところにもあるし、たぶんわたしたちの中にもあります。
 イエスの時代には「律法」という基準があり、それによって人はランクづけされて、ある人々は完全に神の救いから排除されていました。いや、当時の律法学者から見れば、律法をきちんと学ばず、律法に忠実に生きていない普通の人々は、皆、罪びとであり、救われない人々でした。イエスは、そうではない世界を指し示したのです。すべての人の造り主である神は、すべての人の親であり、すべての人をご自分の子どもとして、かけがえのないものとして見て、いつくしんでいてくださる。あなたも神に愛された子だ。もうすでに世の光とされ、地の塩とされている、そこから出発しよう、と呼びかけたのです。
 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」イエスのこの語りかけを今日、わたしたちがもう一度しっかりと受け取ることができますように。そして、そこから、神の子として、すべての人を兄弟姉妹として歩み始めることができますように。


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