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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第3主日



仙台教区では6月6日まで公開のミサ・講座等は行われないことになりました。教会での聖体拝領も外出自粛要請が解除されるまではできません。せめて説教の分かち合いを!

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録2・14, 22-33/一ペトロ1・17-21/ルカ24・13-35
             2020.4.26非公開のミサにて
 ホミリア
 新型コロナウイルスのパンデミックの中で、今年は復活祭の喜びを感じるのが難しい、と思っていました。しかし、ミサの福音の箇所にはイエスを失った弟子たちのどん底の姿があり、そのどん底で光を見いだした体験が伝えられています。わたしたちもその弟子たちの喜びにつながっていきたいと切に願います。
 エマオに向かって歩いていた二人の弟子は深い失望の中にいました。
 「ナザレのイエス‥‥この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」
 「イスラエルの解放」というのはローマ帝国の支配からの解放ということでしょうか。それだけでなく、とにかくイエスという方がすべての不正と苦しみを取り除いてくださり、人々に豊かないのちをもたらしてくださる、そういう望みをかけていたのでしょう。「望みをかける」は普通に「望む、希望する」というときの動詞です。この彼らの望み・希望のすべてはイエスの死によって打ち砕かれてしまいました。

 「希望」というのは普通、未来に明るい光を感じることです。イエスが活動しておられたとき、多くの人がイエスと出会って、未来への明るい光を感じたのでしょう。でもそのような希望は十字架の死によって完全に打ち砕かれてしまいました。そんな二人が希望を取り戻していくのが、今日の福音の物語です。
 彼らは自分たちと一緒に歩いてくださり、聖書を解き明かしてくださり、一緒に夕食の席に着いてパンを裂いてくださった方がイエスだと気づきました。そこで彼らは希望を取り戻していきました。未来に明るい光が射したのでしょうか?そうではないと思います。
 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」
 イエスがいてくださる、と感じた時に、彼らの体の中、心の中に光が差し込んだと言ってもいいでしょう。それは未来に対する何かの展望とか、明るい予測でも計算でもなかったのです。とにかく今、イエスが共にいてくださる、ということから生まれる希望の光なのです。

 わたしたちは今、未来に光を見いだせないでいます。いつになったらこの感染が収まるのか、誰もわかりません。人と人との接触を止め、人の移動を止め、経済を止める、この感染を終わらせるにはそうするしかないのです。でも、その結果を考えると、とても恐ろしいものです。そしてたとえ、どんなに努力したとしても、いつ終わる、という保証もないのです。そんな中で「希望的観測」を語りたいという誘惑もありますが、安易な「希望」を語ることはとても危険だと言わざるを得ないでしょう。
 それでもわたしたちは希望を語ります。その希望は未来に対する楽観的な予測から来る希望ではありません。どんなことがあっても神はわたしたちを見捨てない。イエスを死の滅びの中に見捨てなかった神は、わたしたちすべての者をも決して見捨てることはない。そして、復活して今も生きておられるイエスは、どんなことがあろうとわたしたちに近づいてきて、わたしたちと共に歩み、わたしたちを励まし続けてくださる。そのことに基づく希望です。わたしたちは明日のこと、来週のこと、来月のこと、来年のことがわからないのです。それでもわたしたちは希望を失いません。それは「神に希望を置く」からです。「明日に希望を置く」のではない、状況が好転しそうだから希望を持つのではないです。むしろ状況が厳しければ厳しいほど、現実の世界にどこにも希望が見えないからこそ、「神に希望を置く」のです。有名な箇所はイザヤ書40章31節です。
 「主に望み(希望)をおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
 紀元前6世紀、バビロン捕囚の時代の預言です。イスラエルの民は自らの罪の結果、国も神殿も失い、主だった人々はバビロンに強制連行されていきました。人間的に考え、人間的な予測をしてみれば、どこにも光が見えません。その中で預言者は、「主に望みを置く、神に希望を置く」ということを語ったのです。そしてそのとき、人はそこから生きる力をいただくのです。その意味で希望には大きな力があります。

 希望は今日の聖書朗読を貫くテーマです。
 第二朗読の結びには「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」(一ペトロ1・21)とあります。「かかっている」というのは分かりにくい訳ですが、「信仰と希望は神に基づいている」というだけでなく、「信仰も希望も神に向かっている」というようなニュアンスを含む表現です。ここでも「希望を神にかける、希望を神に置く」という意味が含まれています。
 第一朗読の使徒言行録ではペトロの説教が読まれました。その中に詩編16が引用してありますが、「体も希望のうちに生きるであろう」という言葉があります。これもちょっと分かりにくい。他の訳では「わたしの体もまた希望のうちに憩う」(フランシスコ会訳)とか、「私の肉体もまた希望のうちに休らう」(聖書協会共同訳)とあります。ここで使われている動詞は「テントを張る」という意味の動詞ですから、安らかに憩うと受け取ってもいいでしょう。この希望とはどういう希望かと言えば、「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」そこから来るのが、この安心感であり、この安心感から神に対する確かな希望が起こるのです。
 わたしたちがどんなときも「神に希望を置く」ことによって、安らかに、前向きに生きる者となることができますように。


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