FC2ブログ

毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第17主日



散歩道の傍に、目立たずにずっと咲いている小さな花。
「白蝶草(はくちょうそう)」という名前だそうです。
この花の美しさに気づいたとき、隠された宝物を発見したような気がしました。

●年間第17主日
 聖書箇所:列王記上3・5, 7-12/ローマ8・28-30/マタイ13・44-52
            2020.7.26カトリック原町教会
 ホミリア
 この箇所を読むたびに思い出すのは、東京教区の大先輩である澤田和夫神父のことです。今100歳になっておられますが、まだご健在です。
 わたしが司祭になろうと東京の神学校に入ったころ、その神学校で神学生の養成協力者という役割を担っておられました。当時、澤田神父は東京の山谷という日雇い労働者の街にアパートを借り、そこで生活しておられましたが、ときどき神学院に戻ってきて、わたしたち神学生にいろいろ話をしてくださったりしていました。あるとき、この箇所についてこんなことをおっしゃいました。
 「山谷で労働者の人と一緒にこの箇所を読んでいました。するとある人がこう言いました。『この話は、神様が俺たちを畑に隠された宝みたいに見ていてくれる、っていうことだよな。なんてありがたい話だろう』って」。それまで澤田神父はこのたとえ話をそんなふうに読んだことはなかったそうです。宝は天の国のことで、それは人間にとって財産を売り払ってでも手に入れるべき何より大切なものだ、というたとえ話だと思っていたので、とても驚いた、とおっしゃったのです。わたしも確かにこのたとえ話は、人間にとって天の国=神の国が大切な宝だというふうに読んでいましたから、驚きました。
 それからこのたとえ話を読むたびに、本当はどっちなんだろうと考えますが、どっちもありだと思っています。人間が神を見いだす話だと読んでもいいし、神が人間を宝として見つけてくれる、という話だと考えてもいいはず。

 そして今回読みながら、「人間が神を見つける」ということと、「神が人間を見つけてくださる」ということ、それはもしかしたら一つのことではないか、と感じています。
 福音書のいろいろな物語を思い出しますが、一つの典型はルカ19章のザアカイの話ではないかと思います。ザアカイは徴税人の頭でした。金持ちでしたが、当時のユダヤ社会の中で、救われようのない罪びとというレッテルを貼られていましたし、自分でもそう思っていたことでしょう。自分なんかどうしたって救われるはずがない。しかし、彼はイエスのうわさを聞いてイエスを見たいと思います。それは単なる憧れでしょうか。この方なら自分の運命を変えてくれるかもしれない、という一縷の望みを抱いていたのでしょうか。
 「3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」
 彼は離れたところにいて、そこからイエスを見つけました。ところが、「5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」
 イエスのほうが彼を見つけてくれるのですね。あなたはどうしようもなく神から程遠い罪びとなんかじゃない。あなたもアブラハムの子、神の祝福を受けるべき人間なのだ。イエスは彼の中にすばらしい宝を見いだしているのです。そのイエスの眼差しに出会ったところから彼は立ち上がり、新たに生き始めることができました。
 福音書には人々とイエスのこういう出会いがたくさん伝えられています。
 12年間出血の止まらない病気だった女性の話。マルコ10章で、いやされた盲人バルティマイの話。ルカ7章でイエスの足元に近寄っていった罪の女。この人々は必死で救いを探し求め、イエスのうわさを聞き、この方ならわたしを救ってくださる方ではないかと感じて、必死の思いでイエスに向かっていったのですが、そのイエスを感じた瞬間、実は逆にイエスのほうが自分を見つけていてくださったことに気づいたのです。

 だから、わたしたちもそういう思いで神を探し求めたいと思います。
 今の時代、神を見つけることは決して簡単ではありません。人間の力がどんどん大きくなり、人間の科学技術や医学・医療技術がすべてを解決するはずだ、という考えは強いですし、神に頼るなんていうのは間違っている、とさえ考えられがちでしょう。特効薬を探し出し、ワクチンを開発し、検査体制を拡充して、医学の力でウイルスの危機を乗り切る。そういう世界で神を見いだすのは難しいように思います。
 ましてわたしたちは通常の信仰生活の手段さえ制限されています。教会に行くこと、ミサに参加すること、一緒に賛美と感謝を歌うこと。そういうことが制限される中で、それでも神を探し求めるというのは難しいと感じることもあります。

 でもわたしたちには「祈る」ということが残されています。どんなときにも、どこででも、一人でも、わたしたちキリスト者は祈ることを知っています。わたしたちキリスト者だけでない、人は誰でもどうにもならない状況の中で「祈る」のではないでしょうか。祈りの中で自分の力、人間の力を超えた大きな力を感じ、そこに自分をゆだねるのです。そのとき、その大きな力が自分に目を留めてくださっていることを感じられるのではないか。
 今、もう一度真剣に祈ってみたいと思います。いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしたザアカイのように。衣の裾にでも触れればいやされると思った女性のように。「主よ、あわれんでください」と叫んだバルティマイのように、本気で祈ってみましょう。
 わたしたちは祈りの中で、神を、復活して今も生きておられるイエスを見つけたい。祈りの中で神を、イエスを感じることができるならば、そのとききっと、神のほうが、イエスのほうがわたしたちに注いでくださるまなざし、わたしたち一人一人を宝のように、真珠のように見ていてくださるイエスの眼差しにも気づくことができるでしょう。
 その眼差しに気づくところから、新たに、神に向かって、人に向かって歩み始めたい、心からそう願います。



PageTop