毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサの説教

ホスチア

写真の右が、24人分に分けられるホスチア(パン)です。

●聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ(ヨハネ13・1-15)
              2013.3.28本郷教会にて
 神学生のとき、神学の科目に「聖体論」というのがありました。先生は、今はもうハンガリーに帰られたネメシェギ神父さんという方でした。理想のミサとはどういうものか?という問いに、「2000年前の最後の晩さんを忠実に再現することができれば、それが理想のミサだ」とおっしゃいました。なぜか心に残り、毎年、特に聖木曜日の夜に祝われる主の晩さんの夕べのミサのたびに思い出しています。歴史の中でミサにいろいろなものが加わりました。石の祭壇、司祭のきらびやかな祭服、聖堂の飾り、香炉の香などなど。それはある種の厳かさをかもしだすためによいものですが、本当は全部飾りです。最後の晩さんは、そこにイエスと弟子たちがいて、パンとぶどう酒と粗末な食事があっただけ、そんな最後の晩さんの様子を思い浮かべながら今日のミサを味わいたいと思います。そのための一つのこととして、今日のミサでは山本神父からいただいた大きなホスチアを用います。皆が一つのパンを分かち合うことを形にしたいからです。もう一つ、ぶどう酒の形のイエスも皆でいただきます。一つの杯から飲む、これも最後の晩さんを思い起こすためです。
 あの最後の晩さんで、イエスはもう自分の逮捕と死がそこまで迫っていることを感じていました。もうこれが弟子たちと共にする最後の食事だと意識していました。イエスはそのとき、何をしましたか。パンをとり、「これはわたしの体」と言い、ぶどう酒の杯をとり、「これはわたしの血」とおっしゃり、それを弟子たちに、「食べなさい、飲みなさい」と言われたのです。そして「これをわたしの記念として行ないなさい」。それはご自分と弟子たちの結びつきを永遠のものにするためでした。このパンを食べ、この杯を飲むたびにわたしたちはイエスとの結びつきを確認しているのです。また、同時に一つのパンを分け合うことをとおして、キリストのうちにわたしたちが一つに結ばれることを確認するのです。パウロは言います(一コリント10・16-17)
 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」ここで「あずかる」と訳された言葉は「コイノニア」です。「交わり、一致」を意味する言葉です。キリストに一致し、キリストのうちにわたしたちが一致する。これがミサと聖体の本質です。
 たった12人から始まったこの小さな交わりが、今や12億人になりました。それはすごいことです。でもこの主の食卓に与っていない人はこの世界にもっともっとおおぜいいます。いやそんな世界規模のことを考えなくとも、わたしたちの身近なところに、家族であっても、主の晩さんの食卓をともにできていない現実があります。そこにはいつも痛みがあります。
 わたしとイエスの結びつきはどうでしょうか。わたしたちはいつも聖体拝領をしながら、でもやはり完全にイエスに一致していない。イエスのように愛を生きていない。そう感じることがあります。ここにも痛みがあります。ミサはもちろん、喜びの宴ですが、「本当は一致できていない」という痛みを感じずにミサをささげることもできないと思いまです。
 そしてだから、毎回ミサのたびにわたしたちは「主が来られるまで」と歌うのです。「主が来られる」どんなふうに来られるかは想像もできません。でもそれは最終的な救いの完成のときのことです。今、既にキリストと結ばれ、互いに結ばれていることを確認しながら、本当に最終的にキリストと完全に一つになることに向かってミサをしているのです。
 いつかすべての人が神のもとに集まって、一つのパンにともにあずかり、一つの杯にともにあずかり、神との完全な一致、人と人との完全な一致が実現する。この世ではあり得ないかもしれません。でもわたしたちの歩みはそこへ向かっているのだ。これがキリスト教の希望です。これがミサの指し示している希望なのです。マタイ福音書8章の中にあるイメージです。「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」イエスは確かにそう言われました。ミサはこの天の祝宴へと向かっています。
 その希望を持って、わたしたちはミサから派遣されます。毎回毎回、「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉をいただき、キリストと一つに結ばれたものとして出かけていって、人びとの間に平和を実現するために働くのがわたしたちの派遣(ミッション)です。
 きょうのミサは特別で、例外的にそういう意味の派遣がない特別なミサです。それはこの主の晩さんから復活徹夜祭までを、三日間かけた大きな典礼と見る伝統のためです。だから派遣は復活の主からの派遣されるまで、つまり復活徹夜祭までおあずけなのです。
 ただ、祈りへの招きがあります。最後の晩さんの席を立ち、イエスはゲツセマネの園で祈られました。わたしたちもイエスとともに祈るようにという、祈りへの招きです。パンとぶどう酒の形でご自分のすべてをわたしたちに与えた主イエス、弟子たちの足を洗うほどに仕えるものとなられたイエスの愛を深く味わいながら、イエスとともに祈り続けるようにと招かれていきます。これが今日のミサの終わりの聖体安置式です。
 でもその前に、何よりも2000年前の最後の晩さんそのものを思いながら、今日のミサをささげていきましょう。


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