毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖金曜日 主の受難

cross

 主の受難の祭儀も本郷教会でした。写真は、聖堂正面の十字架です。

聖金曜日 主の受難(ヨハネ18・1〜19・42)
2013.3.29本郷教会にて

 ヨハネ福音書の受難のイエスは、他の福音書と雰囲気が違います。他の福音書ではイエスの人間的な苦しみや弱さが目立ちますが、ヨハネ福音書では、イエスはもっと毅然としていて、自分から十字架に向かって真っ直ぐに歩んでいくという感じです。ヨハネはイエスの人間的な苦しみを無視しているのではありません。ただそれをたった一言で表現しています。「渇く」(19・28)これがその言葉です。この言葉の中に、イエスの人間的な苦悩も、弱さも、すべてが表現されています。
 「渇く」。この言葉は十字架のイエスの肉体的苦痛を表すだけの言葉ではありません。むしろ精神的な渇きを表す言葉でしょう。背景には旧約聖書の詩編があります。詩編の中で「渇き」を訴える代表的なものは詩編63です。冒頭から渇きが訴えられています。
  「神よ、あなたはわたしの神。
  わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。
  あなたを待って、わたしのからだは乾ききった大地のように衰え、
  水のない地のように渇き果てています。」
 他にも詩編22・16や詩編42・3など。詩編作者は苦しみの中で、神に祈り、渇きを訴えます。何に渇いているか、それは神に渇いているのです。渇くのは神から遠く離れていて、神の顔を慕い求めても仰ぎ見ることができない、神の声を求めても聞こえてこないからです。
 十字架のイエスはどうだったでしょうか? 昨日の福音で、最後の晩さんの物語のはじめに、「この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」という言葉がありました。イエスは十字架が愛の極みであり、神の栄光の現れの 時であると確信していたはずです。それでもイエスは「渇く」のです。それは大きな連帯の中での渇きではないでしょうか。何世代、何百年も続く苦しむ人の群れ、苦しみの中から必死の叫びを上げた詩編作者はじめ無数の人びと、そのすべての人につながって、十字架のイエスは「渇く」と言われたのではないでしょうか。
 それはわたしたちにとっての大きな励ましです。誰も助けてくれない、神も共にいてくださらない。そう感じることがわたしたちにもあります。でもそのとき、わたしたちはこの渇きの真っ只中で、十字架のイエスが共にいてくださると信じることができるのです。

 十字架上の「渇く」に関連して、もう一つ、思い浮かべたい聖書の言葉があります。マタイ福音書25章です。
 「35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。・・・40わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
 マザーテレサが、1946年9月10日、列車で旅行している時に神の呼びかけを聞き、カルカッタのスラムに出て行くことになったのは有名な話です。そのとき、マザーテレサが受け取ったのが、十字架のイエスの「渇く」という言葉でした。キリストは渇いている。スラムにいるもっとも貧しく、もっとも弱り果てた人の中にキリストがおられ、そのキリストは渇いている。何に? それは愛に渇いているのだ。マザーテレサはそう感じ、そのキリストの渇きを満たすためにスラムに出かけていくことになりました。
 東京にはマザーテレサの創立した「神の愛の宣教者会」の修道院が2つあります。足立区に女子の会、台東区の山谷に男子の会がありますが、どちらの聖堂にも「I thirst. 我渇く」という言葉が掲げてあります。マザーテレサが聞いたあの十字架上でのイエスの言葉を、シスターたち、ブラザーたちは聞いて、そこから毎日、貧しい人びとのところに出かけていくのです。いや貧しい人びとの中におられるキリストに出会うために出かけていくのです。今のこの世界で、苦しむ人の中にキリストがおられ、今も十字架の苦しみを続けている。そのこともわたしたちは忘れることができません。
 今日は十字架についての説明を聞く日ではありません。十字架をあおぎ、見つめる日です。私自身のどうしようもない渇きの中からイエスの十字架を見つめましょう。この世界の数知れない人びとの渇きの現実の中から主の十字架を見つめましょう。
 そして、わたしたちの渇きの一番深いところにイエスが触れてきて、わたしたちと渇きを共にしてくださり、本当の意味でわたしたちの渇きを満たしてくださるということを深く味わいましょう。
 

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