毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第二主日のミサ説教

めずらしく関口カテドラルで、主日のミサを司式させていただきましたので、
説教原稿を載せておきます。
あいかわらず、面白くもない説教ですが・・・。

●復活節第二主日(ヨハネ20・19—31)
 2013.4.7関口

 「見ないで信じる人は、幸いである」
 わたしたちは、2000年前のマグダラのマリアや男性の弟子たちのように、復活のイエスを、目で見ることはできません。手で触れることもできません。わたしたちは皆、「見ないで信じる者」です。では、見ないで信じるということはどういうことか。どうしたら見ないで信じることができるのでしょうか。
 今日の福音にはヒントがあるように思います。三つのヒント。それは「集まること」「主の言葉」「聖霊による気づき」です。
 「集まること」。マグダラのマリアは例外ですが、それ以外の場合、復活のイエスは弟子たちの集まりの中に姿を現します。その点でトマスの物語は印象的です。最初の日、イエスが復活した日の夕方、「トマスは一緒にいなかった」。だからイエスに会っていないし、他の弟子たちの話を聞いても信じられませんでした。「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」そこへイエスが現れるのです。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいます。トマスを信じる者に変えるだけなら、トマス1人のところに現れればよかったかもしれません。でもそうではなかった。復活のイエスは人々の中におられるのです。弱く貧しい共同体かもしれない。トマスにしてみれば、もうあんな連中と一緒にいたってしょうがない、と思えるような集まりだったかもしれません。でもキリストを中心に集まって、なんとかキリストとともにいたい、そう願っている共同体の中に、イエスはいてくださる。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもまたその中にいるのである」(マタイ18・20)これはまさに復活のイエスのことです。わたしたち教会という集まりはまさにこの約束に基づいて集まるのです。わたしたちがキリストを信じて集まっている。たとえ信じられない部分があったとしてもキリストを慕い求めて集まっている。そこにイエスはいつも来て、共にいてくださるのです。目に見えない形で。それは場所じゃありません。立派な大聖堂の中に集まっているからというものではありません。キリストの名によって集まる。いつもイエスを中心に集まろうとする。そのことがわたしたちの集まりに問われていることです。
 「主の言葉」。2000年前の弟子たちは本当に「見たから信じた」だけだったのでしょうか。きょうの福音の中で印象的なのは「あなたがたに平和」という言葉です。今日の箇所だけで3回出てきます。復活したイエスが弟子たちに言う言葉です.この言葉を聞いて弟子たちは、信じる者になったとも言えるのではないでしょうか。「あなたがたに平和」これは本当にわたしたち皆にイエスが語りかけている言葉ではないか。福音書の中でイエスはいろいろなことを語り、人々を励まし、力づけました。そのすべてをまとめて言えば、「あなたがたに平和」という言葉で表されるのではないか。わたしたちはあの日の弟子たちのように、恐怖にとらわれ、自分たちの心の扉を閉ざし、自分のうちに閉じこもって、自分の中でどうどう巡りしているかもしれない。トマスのように、他人も自分も信じられず、怒りや不満で心がいっぱいになっているかもしれない。そこにイエスは「平和」と語りかけてくださる。「平和」はヘブライ語で「シャローム」です。元の意味は「かけたところのない状態」を表します。すべての人が神の恵みに満たされるところに実現する平和な状態を表す言葉です。「あなたがたに平和」。神がともにいてくださり、イエスがともにいてくださる、そこから生まれるのがこの平和です。イエスはわたしたちにこの平和を与えようとしておられます。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」ミサのたびに聞く言葉です。それが私たちに対するイエスの約束です。このイエスの言葉を大切にしましょう。聖書を読むのはそのためです。わたしたちはいつも、聖書をとおして、この「平和」の約束をいただくのです。
 「聖霊による気づき」。主の言葉を聞いても本当にそれが実現するためには、わたしたちの心の深くに神が直接働きかけてくださることが必要です。それが聖霊の働きです。2000年前の弟子たちが本当に信じる者になったのも、ただ目で見たからではなく、イエスの言葉を受け取り、それを、心を開いて心の深くに受け入れたからです。聖霊を受けるためにできること。それは祈ることです。自分の力で自分の努力でいろいろしているのは大切なことです。わたしたちは毎日そうしています。でも、それがすべてではありません。自分の力ではどうにもできないこと、そこで大切なのは、神にすべてをゆだね、「み心が行なわれますように」と祈ることです.祈りの中でイエスがともにいてくださることに気づきます。祈りの中でわたしたちは「主の平和」を受け取り、「主の平和」に満たされていきます。これが聖霊の働きです。いくら聖書の言葉を耳で聞いても、聖体のパンを口でいただいても、祈りの中で聖霊に心を開かなければ、復活の主からの「平和」をいただくことはできません。そしてわたしたちの心が本当に主の平和に満たされたとき、わたしたちは人に優しくなれます.人をゆるすことができるようになります。他の人と主の平和を分かち合うことのできる人間になります。
 こうしてわたしたちは「見ないで信じる人」に変えられていくのです。
 復活のキリストは目に見えません。でも確かに、わたしたち信じる者の共同体の中におられる。わたしたちの心の中におられる。きょうもそのことをこのミサの中で深く味わい、ここからまた新たにされて、主とともに歩んで行きましょう。

付記:「見ないのに信じる」という新共同訳にはどうしても違和感があるので、「見ないで信じる」と訂正しました。

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