毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

多摩教会堅信式

tama confirmatio

カトリック多摩教会での堅信式。
大人の方々もいて、もっと多くの方が堅信の秘跡をお受けになりました。
この中高生たちには写真掲載の了解を得ましたので、この写真を載せておきます。

復活節第4主日(ヨハネ10・27−30)堅信式
2013.4.21多摩教会

●ホミリア
 「司教さんの星座は?」と聞かれると、わたしは「もちろん魚座です」と答えます。魚はキリストのシンボルでしたから、とてもいい星座だと思っています。「司教さんの干支は?」という質問。これには「もちろんヒツジです!」と答えます。これも聖書的でしょう。「魚座と未年(ヒツジドシ)」結構気に入っています。
 聖書の中では羊はなじみ深い動物です。「未年」というのがあるのですから、大昔から中国大陸ではよく見かける動物だったはずで、わたしもモンゴルに行ったときにたくさん見た覚えがあります。日本人にはあまり馴染みないですね。羊ってどんなイメージでしょうか。
 羊というのは、なんとなく可愛い感じがしますけれど、強くはないし、実はあまり賢くもない動物です。一匹で生きていくことはできなくて、群れの中でしか生きられないし、その群れも羊飼いがいなければバラバラになり、滅んでしまう。わたしたちはその羊にたとえられています。どう思いますか?うれしいでしょうか?うれしく感じるときもあれば、もしかしらたらうれしくないと感じることがあるかもしれません。
 自分は一人で生きられる。自分には群れも必要ないし、羊飼いも必要ない。自分だけの知恵と力でちゃんと生きていける。そう考えていることはわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。誰にも頼らずどんなことも自分の力で、自分の考えで切り抜けていかなければならない、わたしたちはそういう厳しい世界に生きている面があるわけですから、羊だなんて言っていられない。たとえ羊だとしても、せめて表面的には「オオカミ」の顔をしていなければならない。そんな現実があるのです。
 でも聖書の中では、それが罪なのです。羊が、羊飼いも、仲間の群れも必書としないで、自分だけで生きていけると思い込むこと。これが聖書の指摘する罪の出発点です。そしてそこから、羊飼いの呼びかける声を無視して、聞き従わない。他の羊の苦しみに対して鈍感になり、無関心になり、平気で他の羊を傷つけてしまう。これが羊の罪です。神のたった1つの言いつけに背いて禁じられたこの木の実を食べてしまったアダムの罪、嫉妬のために唯一の兄弟を殺してしまったカインの罪はまさにそういう罪でした。
 「違うでしょう。そうじゃないでしょう」と聖書は語り続けます。本当はわたしたちは神に養われ、神に導かれ、神に生かされているでしょう。その中で何よりも他の人々と仲良く平和に暮らすことが大切でしょう。お互いに隣の人を本当に大切にし合うことが神さまのわたしたちに対する望みでしょう。
 できていない現実があります。たったそれだけのことができていない現実が。でもそうやって迷っている一匹の羊であるわたしたちを、羊飼いは決して見捨てず、探し続け、見つけたら肩に抱えて、喜んで群れに連れ帰ってくださる。それが聖書の約束です。今日の福音では「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」「だれも父の手から奪うことはできない」それが神の力強い約束なのです。
 今日の第二朗読の黙示録にはもう1つのイメージも出てきます。それはイエスが小羊だというイメージです。そして「小羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導く」というのです。わたしたち羊の中で、もっとも小さく、弱く、苦しみを受け、殺されていったあのイエスこそが、わたしたちを導く羊飼いだというのです。あの「神の小羊こそが世の罪を取り除く方」聖書はそう語るのです。毎回毎回わたしたちもミサの中でその言葉を唱えています。
 どうやって取り除くのでしょうか?「血を流すことによって」伝統的にそう言われてきました。それはどういう意味でしょうか。神さまのため、隣人のために、いのちを捧げるほどの愛をイエスが十字架で示してくださった。「良い羊飼いは羊のためにいのちを投げ出す」「キリストは過越の小羊として、ご自分のすべてを神にささげられた」そこに、神と人、人と人とを引き裂く断絶の傷が根本的にいやされたのだ。これが「罪を取り除く」ということではないでしょうか。そしてわたしたちはなんとかしてこのキリストの道を、キリストの後を歩もうとする者の集いです。
 堅信の秘跡をお受けになる皆さん、皆さんは洗礼の秘跡において、もうすでに神の羊として、この信者の群れに入れられました。羊飼いである神の、キリストの声を聞き、群れの人々ととともに、いのちへの道を歩み始めています。堅信とは何でしょうか?それは、「わたしたち一人一人が羊であり、同時に羊飼いでもある」と気づくことではないかと思います。神の小羊キリストが牧者になったように、わたしたちもある意味で羊飼いになる。羊飼いキリストの働きの手伝いをさせていただくということだと思います。羊飼いの働きは、群れを1つにする、そのために一番小さな、弱い羊を大切にする、ということです。この使命がわたしたちにも与えられます。そしてイエスはおっしゃいます。「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」イエス様はもっともっと多くの人を1つの群れに集め、豊かないのちに導いていこうとされています。このイエス様の働きに協力すること。これが堅信を受けたキリスト信者の使命です。この使命を行なうために聖霊という神の力が注がれます。聖霊の助けと導きを願いながら、堅信式を行ないましょう。


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