毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

三位一体の主日 in 神津島

cross in kozushima

 ジュリア祭の2日目は三位一体の主日でした。
 きちんとしたメモがなかったので、実際に話した説教とは少し違っているところもあります。
 あしからず。

●三位一体の主日のミサ説教

第一朗読 箴言8・22−31
第二朗読 ローマ5・1−5
福音朗読 ヨハネ16・12−15

 おたあジュリアの島、神津島でこの主日を迎えたので、第二朗読の言葉が心に響きました。使徒パウロのローマの教会への手紙5章からです。
パウロはそこで「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と言いながら、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」とも言います。なぜなら「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 人生の中で避けたほうがいい苦難はいろいろありますし、また可能ならば避けるべき苦難もあります。でもどうにも避けることができず、引き受けるしかない苦難というものもあります。ここでパウロが言うのもそういう苦難でしょう。その苦難を引き受けるとき、忍耐が生まれるというのです。これは分かりますね。次に「忍耐は練達を生む」と言いますが、この練達という言葉は難しいです。「熟練した達人」のようなイメージでしょうか? 人生の達人?? 信仰の達人?? 難しいですね。
 いろいろ調べてみましたが、わたしとしてはこれは「成熟」というような意味ではないかと思っています。避けることのできない苦難があり、忍耐するしかないから忍耐しているのですが、それをとおして、わたしたちは人間的にも、信仰者としても「成熟」していく。そう言ったらなんとなく分かるのではないでしょうか。その成熟とは、どんなことがあっても揺るがない生き方を獲得することです。どんな状況の中にあっても人を愛し続けることができる。どんな困難の中でも神に信頼して祈り続けることができる。これが成熟ということでしょう。
 そしてその先にあるのは「あきらめ」ではありません。「所詮、人生なんてこんなものだ」「人間なんてこんなものだ」とあきらめることが、「練達」「成熟」の結果なのではありません。パウロは、はっきりとそこから「希望」が生まれると言います。愛し抜くとき、祈り抜くとき、そこに希望が生まれる。その希望とはなんでしょうか? それは、わたしの祈りも、わたしの愛そうとする努力も決してむなしくはないということ、平たく言ってしまえば「人生、捨てたもんじゃない」「人間っていうのも捨てたもんじゃない」って思えることでしょう。どうしてその希望を見いだすことができるのか。それはパウロが言うように、聖霊がわたしたちに与えられ、神の愛がわたしたちの心を満たしてくださるからです。
 苦難、忍耐、練達、希望・・・。おたあジュリアの歩みもそのような歩みだったのではないかと、わたしは思っています。
 今、このミサをしている場所から、ありま展望台にある十字架が遠くに見えます。十字架のイエスがわたしたちをあの高い丘の上から見守ってくださっているように感じられます。もちろん、おたあジュリアの時代にあのような十字架はありませんでした。目に見える十字架はなくとも、ジュリアは主がいつも自分を見守り、自分をともにいてくださると感じていたことでしょう。そのことをジュリアは祈りの中で受け取っていたのです。
 わたしたちは、ここからそれぞれの生活の場に帰っていきます。その日々の生活の場で、わたしたちも祈りをとおして、主イエスを近くに感じることができますように。聖霊に心を開き、父である神の愛を深く味わうことができますように。そしてそこから愛する心と希望をもって生きることができますように。
 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

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