毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

吉祥寺教会堅信式



2013.6.9吉祥寺教会で行なわれた堅信式ミサでの説教です。

●年間第10主日(ルカ7・11−17)

 先週のキリストの聖体の祭日のミサの福音は、イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人以上の人に分け与えたという話。今日の福音はナインという町で、イエスが死んだ若者をよみがえらせた話。わたしたちはこのような福音の物語をどう受け取ればよいのでしょうか。現代人から見るとあまりにもありえないような奇跡の話です。もちろん奇跡は奇跡で、イエスの力、神の力によって起こるのですから何が起きてもおかしくないと言う人もいるでしょう。でもやはり表面的な出来事だけを見ていては本当に大切なことを見過ごしてしまうように思えます。本当に大切なことは、ここに表れたイエスの心、思いです。
 今日の福音で「憐れに思い」と訳された言葉は、イエスの思いを表す特徴的な言葉です。原文のギリシア語では、「スプランクニゾマイ」と言います。すごく覚えにくいギリシア語ですが、本当に大切な言葉なので、覚えておいて損はありません。この言葉はプラトンやアリストテレスの時代のもともとのギリシア語にはなかった言葉です。「スプランクナ」という言葉はありました。「内蔵、はらわた」を意味する言葉でした。そこに無理矢理動詞の語尾をつけたのが、スプランクニゾマイという言葉です。ユダヤ人が作ったギリシア語だと言われています。何のために作ったか、それは旧約聖書をギリシア語に翻訳するとき、聖書が伝える神様の心を表すためにどうしても必要だと感じたからです。
 日本語でもこういうことがありますね。「お茶」という名詞に動詞の語尾を付けて「お茶する」と言ったりします。そんな感じです。だから「スプランクニゾマイ」を「はらわたする」と訳した人がいました。目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたが揺さぶられる、こちらの内蔵がしめつけられるように感じる。そういう深い共感を表すのが、この「スプランクニゾマイ=はらわたする」という言葉です。
 イエスはまさに、はらわたする方でした。
 マルコ6章で5つのパンを5千人に分け与えたとき、その出発点で、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」とあります。この「深く憐れみ」が「スプランクニゾマイ」です。また、マルコ8章には7つのパンを4千人に分け与えるという話がありますが、その出来事の出発点は、お腹をすかせた群衆を見て、イエスが言った言葉です。「群衆がかわいそうだ」と訳されていますが、直訳すれば、「わたしははらわたする」です。目の前の人の苦しみを見たときに、イエスははらわたが揺さぶられるように感じ、いわばその苦しみに体で反応してしまって、だから、見過ごすことができずに、その人々のために何かをすることになるのです。
 パンの奇跡はそこから始まりました.今日のよみがえりの奇跡もそこから始まります。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」ここからすべてが始まります。イエスは、貧しく社会的に弱い立場にいたやもめ、しかも唯一の希望であった一人息子を失ったやもめを見て、はらわたが揺さぶられたのです。それがイエスという方でした。
 わたしたちはそういうイエスを信じています。不思議な力を持っている人は他にもいるかもしれない。もっと難しいことを教えてくれる学者もほかにいるかもしれない。でもこんなふうに一人一人の人間にはらわたしてくださる方は他にいません。
 イエスはご自分がはらわたする以上に、神様こそが、はらわたする方だと確信していました。そのことをはっきり表すのは、ルカ福音書15章の放蕩息子のたとえ話です。父親は帰ってきた放蕩息子を「見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。ここで使われている言葉も「スプランクニゾマイ=はらわたする」です。神さまはどんな人も例外なく、たとえその人がどんな罪人であろうが、いやむしろ罪を犯してボロボロになり、倒れ込んでいるような人であればなおさら、その傷つき、苦しむ姿を見て、はらわたして、走り寄って我が子として迎え入れてくださる方だ。イエスはそう確信し、その神の姿を伝えるために、生涯をささげました。イエスの生き方と言葉のすべては、神とは、はらわたする方だということを伝えるものでした。
 そして、わたしたち人間も皆、このはらわたする心をいただいています。それは「善いサマリア人」のたとえ話のサマリア人の姿によく表れています。どんな人の中にも、このはらわたする心がある。人の痛みをわがことのように感じ、自分も痛まないではいられない心があります。人間は神の似姿として造られたというのですから、必ずそうなのです。
 どんなに心を閉ざしてしまって、人の痛みに知らん顔して、自分の欲望や利益ばかり追い求めているように思える人でも、人生は戦いで人に勝つか負けるかがすべてのようになっている人でも、もしかして、人を傷つけることに快感を覚えるようになってしまっていたとしても、それでも本当に深いところに、必ずこのはらわたする心がある。イエスはそう信じていました。
 今日、堅信の秘跡を受ける皆さんも、どうかそのことを信じてください。そして自分のなかにある「はらわたする心」を大切にしてください。その心に素直に従ってください。その心をもって日々出会う人とかかわってください。
 そうすればわたしたちはイエスの証人になれます。神の愛の証人になれます。簡単じゃないことがいっぱいあります。クラスの中でいじめがあったら、どうしたらいいでしょうか。目の前に住む家も食べるものもない人がいたらどうしたらいいでしょうか。身近に暴力で苦しんでいる人がいたらどうしたらいいでしょうか。外国人に対する差別や偏見があったらどうしたらいいでしょうか。・・・・
 簡単じゃないです。それでもはらわたする心を忘れないこと。わたしたちはそのために、堅信の秘跡を受け、聖霊をいただくのです。



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| | 2013-06-10(Mon)10:03 [編集]


Re: 信仰の支え

> 西千葉教会で司教さんから聞いたスプランクニゾマイが私の信仰の支えになりました。信仰は私の生きる支えであり、スプランクニゾマイはその信仰の支えです。神の愛に少しでも近づきたいと願いながら今日まで生きてきました。生協と共同事業でユニバーサル就労に取り組んでいます。

コメントありがとうございます。メールアドレスが記載されているコメントを承認すると、メールアドレスまで公開されてしまいますので、引用の形で公開させていただきました。(幸田)

幸田和生 | URL | 2013-06-10(Mon)10:55 [編集]


初めて聞いたことば「はらわたする」

いつも心にすっと沁み入る説教を、ありがとうございます。
普段自分が使っている「憐れんで」とは、深さがまったく違うのですね。
「はらわたする」に置き換えることによってイエス・キリストのお人柄をより知ることでき、しばし胸が熱くなりました。
今まで、この類の超常現象の話を、どのように解釈したらよいか分かりませんでした。
事実なのか否かを詮索する気持ちはなく、そう伝えられているのだから実話なのだろうと思っていましたが、信者さん達は奇跡の話をどう思っているのかな?と周りに興味も持っていました。
もし何かの場面で自分にはらわたする心が湧いた時、見過ごさずに直視し行動できるかどうか分かりませんが、心掛けることから始めたいと思います。

求道者 | URL | 2013-06-10(Mon)19:53 [編集]