毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

麹町聖イグナチオ教会堅信式ミサ



●2013.6.16 麹町教会堅信式ミサ
 聖書朗読は聖霊降臨の主日の箇所でした。
 I、使徒言行録2・1—11 II、ローマ8・8—17 福音、ヨハネ14・15−16,23b−26

ホミリア
 第一朗読は使徒言行録に伝えられている有名なペンテコステ(聖霊降臨)の場面です。
 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」という言葉から始まります。彼らは集まって何をしていたのでしょうか。彼らは祈っていたのです。イエスが復活して天に上げられたのち、弟子たちは,イエスの母マリアを中心に一つのところに集まって、祈っていました。その数はおよそ120人だったと言われています。小さなイエスの弟子たちの集団。彼らは、聖霊という神の力に満たされて福音を告げ知らせる教会へと変えられていくのですが、その出発点に祈る教会の姿がありました。
 このことを大切にしたいと思います。わたしたちの周りには、キリスト信者であろうとなかろうと祈っている人は大勢いると思います。でも祈らないという人はもっとたくさんいるようにも思います。なぜ祈らないのでしょうか
 「祈らなくても、自分の努力次第でほしいものは手に入れられる」そう考えて祈らないという人はいるでしょう。逆に「どんなに祈っても、どうせ自分のほしいものは手に入らないから、祈ってもむなしい」そう考えて祈らなくなってしまっている人もいるでしょう。わたしたちだってある程度はそう思っていますね。神さまに頼ってばかりじゃダメで、自分の力で頑張らなきゃいけない面はあります。もちろん、どうにも変わらない現実もいっぱいあって、いくら祈っても仕方ないと思うこともあります。
 それでもわたしたちキリスト信者は祈ります。何のために祈るのでしょうか?
 祈るのに理由や目的なんていらない。そんなこと考えずに祈ればいい、と言われてしまうかもしれません。でも、祈ったからと言って、すぐにご利益があるわけでもないのは確かなのですから、それでもわたしたちはなぜ祈るのか、たまには考えてみてもいいと思います。わたしは祈ることをとおして、三つのことが得られると思っています。
 
 一つは「安心感」です。わたしたちが今、生きていること。生きるのに必要なものを与えられていること。物質的なものだけだけでなく、一緒にいてくれる家族や友人、仲間。その他いろいろなもの。それは決して自分の力で手に入れたものではなく、恵みとして与えられたものだ、ということを思うのが祈りです。だから神に感謝します。祈りはわたしたちが大きな神の愛に包まれていることを発見するときです。祈らないでいると、あれも足りない、これも足りないというところに落ち込んでしまうことがあります。そうでなくても、「あれはよかった、これは悪かった」「運が良かった、悪かった」という、ただそれだけの世界になってしまう。でも祈りの中でわたしたちはどれほど大きな神の愛に包まれているか、守られているかを感じ、深いところで安心することができるのです。この安心感。これが祈りの中で受け取る第一のことです。
 
 次に「希望の心」「希望を持ち続けること」です。祈ったからといって、目先の利益が手に入れられるわけではありません。そのことをわたしたちはよく知っています。おそらく嫌というほど体験しているでしょう。祈っても無駄だと思うことはいっぱいあります。だからといって祈らなくなればそこにあるのは諦めだけです。そして、それでも祈り続けるのは、希望を持ち続けるためなのです。
 祈って何が与えられるのか。ルカ福音書にはこういう言葉があります。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11・9-13)
 この神に信頼し続け、祈り続け、希望を持ち続けます。目先のことに一喜一憂しているのが人間の常ですが、もっと大きな目で、神さまはわたしたちにどんな試練も苦しみも乗り越える力を与えてくださる、そう希望し続ける力を与えるのが祈りなのです。祈りはわたしたちに、どんなときにも前向きに生きる力を与えてくれます。諦めや絶望と隣り合わせのような現実だからこそ、祈りから来る希望の心が大切なのです。

 祈りのもたらす第三のものは「連帯感」です。現代には孤立という闇があります。「わたしは一人ぼっちで、だれもわたしのことなんか関心をもってくれない。誰もわたしを助けることはできない。わたしなんかいてもいなくても同じだ」そう感じてしまう、恐ろしい孤立の闇があります。祈りはそれを乗り越える力です。苦しむ人、悲しむ人に対して何にもしてあげられない、という無力感が誰にもあります。でもわたしたちは祈ることができる。病気で苦しむ人のために、愛する家族を失った人のために、今、この世界の中で、飢え渇いている人、戦争や暴力に脅かされている人、その人々のために祈ることができます。そして、その人々と祈りの中でつながるのです。これはどれほど大きな力でしょうか。
 
 今日、堅信の秘跡をお受けになる皆さん、皆さんにお話ししたいことは山ほどありますが、今日、本当に一つのことだけお願いしたいと思いました。それは祈ることです。祈り続けることです。神を思い、自分の本当の必要を思い、隣人の必要を思いながら、祈り続ける人になってください。そうすればそこから始まる皆さんの生活は、神の愛、キリストの愛を輝かすものとなるにちがいありません。


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| | 2013-06-17(Mon)12:22 [編集]


祈りについての説教をありがとうございます。
『それでもわたしたちはなぜ祈るのか』興味深く読みました。

おっしゃるとおり、祈っていると心が落ち着きます。
周りに支えていただいての今日があること、
いろいろな恵みがあることを思い返すことができます。
そうすると感謝の気持ちに満たされ安心します。

祈るようになり、ひとつ体験をしました。ずっと求めていた答えが得られました。
自分に必要であれば神様は必ず答えをくださるという希望を持っています。
祈った先のことは神の御旨のままにと委ねています。

最後の連帯感をもたらす祈り、連帯感を感じたことありませんでした。
いかに自分のこと中心に祈っていたか、猛省しました。
省みさせてくださった神に感謝します。

求道者 | URL | 2013-06-18(Tue)12:04 [編集]


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| | 2013-06-18(Tue)16:27 [編集]


Re: Re: 祈りと連帯

> 西川さん、コメントありがとうございます。また、メールアドレスがついていましたので、返信の形で紹介させていただきます。(幸田)
>
> > 私は3年前からイグナチオ教会の聖歌隊に所属し偶数月は聖歌と黙想の集いで奉仕しています。イグナチオは外国人の方々も多く、様々な困難の中にいらっしゃるのでしょうか、心砕かれた者の祈りを目撃する事が有ります。その姿は神様が本当に共にいることを感じさせ深い安らぎに包まれているように私には見えます。連帯を求めて孤立を恐れずとは若い時から尼崎の障害者と共もに生きてきた畏友の言葉です。私は未だその意味を探し続けています。

幸田和生 | URL | 2013-06-18(Tue)16:58 [編集]