毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖マリアの被昇天を前に

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8月15日は聖マリアの被昇天の祭日。もちろん日本の終戦記念の日でもあります。特に戦争で亡くなったすべての人のため、世界の平和のために、聖母マリアとともに祈りたいと思います。

「聖マリアの被昇天」の教義宣言がピオ12世教皇によって出されたのは1950年のこと。その後、第二バチカン公会議の『教会憲章』(1964年)第8章で、この教えのキリスト信者にとっての意味がより明確に示されました。
確かにプロテスタントの方々には馴染みのない教えでしょう。しかし、カトリックだけの独りよがりの信仰ではないと思います。
その一例として、『マリア—キリストにおける恵みと希望』(教文館)という本を紹介します。これは聖公会−ローマ・カトリック教会国際委員会が2005年に発表した文書の邦訳です。
その中にある「マリアが天に上げられた」ということについての説明は、カトリック以外の人でもこのように考えることができるということを示していますし、カトリック信者にとっても被昇天の教えを理解する上で、とても参考になると思います。確かに訳文は読みづらいと思いますが、あまりにも読まれていないようなのが残念でなりません!
以下、その部分だけ引用します。

56 マリアは清いおとめであったが、その胎内に受肉した神を産んだ。御子との身体的な親しさは、マリアが御子に忠実に従い、勝利に満ちた御子の自己奉献に母としてあずかったことと一体であった(ルカ2・35)すでに見てきたとおり、このことはすべて、聖書の中ではっきりと証しされている。マリアの生涯の終わりについて、聖書には直接的な証言がない。しかしながら、いくつかの箇所で、神の目的に忠実に従い、神の御前へと引き上げられた人の例が語られている。さらに、これらの箇所は、マリアが栄光に入った神秘に光を当てうるいくつかの手がかりあるいは部分的な類似を示している。たとえば、終末を先取りする聖書の様式が最初の殉教者ステファノの記述に見られる(使徒言行録7・54-60)。ステファノは、主の死に倣って死ぬ瞬間、「神の栄光」と、「人の子」である「イエス」が、裁きの座に着いておられず、忠実な僕を迎えるために、「神の右に立っておられる」のを見た。同様に、十字架につけられたキリストに呼びかけた、悔い改めた盗賊は、ただちにキリストと共に楽園にいるという特別な約束を与えられた(ルカ23・43)。神の忠実な僕であるエリヤは嵐によって天に上げられた(列王記下2・11)。エノクについてはこう書かれている。信仰の人であったエノクは「神に喜ばれていたことが証明されていた」。だから「エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです」(ヘブライ11・5。創世記5・24参照)。このような終末の先取りの様式の中にあって、マリアも完全な意味でキリストにおいて神と共にいる忠実な弟子だと考えることができる。こうしてマリアは全人類の希望のしるしとなる。

57 マリアにおいてあらかじめ示された希望と恵みの構図は、キリストにおける新しい創造によって実現される。そのとき、贖われたすべての者が主の完全な栄光にあずかるからである(二コリント3・18参照)。現世においてキリスト者が体験する神との交わりは、神の恵みと栄光のしるしであり、それらを前もって味わうことである。この希望をわれわれはすべての被造物と共有している(ローマ8・18-23)。一人ひとりの信者と教会は、新しいエルサレム、すなわちキリストの聖なる花嫁において完成される(黙示録21・2、エフェソ5・27参照)。東方教会と西方教会のキリスト者はいつの時代にもマリアにおける神の業について深く考察してきた。こうして彼らは、信仰の内に次のことを識別した(『権威という賜物』29参照)。すなわち、主がマリアを完全に自分自身と結びつけたことはふさわしいことであった。マリアはキリストにおいてすでに新しく創造された者である。この新しく創造された者において、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(二コリント5・17)。このような終末論的観点から見て、マリアは教会の予型であると共に、救いの計画において特別な位置を占める弟子だと考えることができるのである。

やっぱり分かりにくい?
8月15日は10:30にカトリック松戸教会でミサをささげますので、ミサの説教で分かりやすくお話ししたいと思います。

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