毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖母被昇天のミサ説教です

matsudo

今日の松戸教会での説教メモです。

●聖母の被昇天のホミリア「連帯のマリア」
 2013年8月15日 松戸教会にて

 8月15日という日を人はさまざまな思いで迎えます。わたしたちカトリック信者にとっては聖母マリアの被昇天の祭日であり、日本の教会の歴史の中では、フランシスコ・ザビエルが1549年に日本の鹿児島に上陸した記念日でもあります。年輩の日本人にとっては何よりも終戦記念日でしょう。カトリック平和旬間の結びの日でもあります。戦争で亡くなった方のために祈り、平和への誓いを新たにする日です。そして日本の多くの人にとっては「月遅れのお盆」で、亡くなった先祖の霊を祀るとき。特にこの一年の間に亡くなった親族がいる場合は「新盆」とか「初盆」といって特別にその人の霊に思いを寄せる時。離ればなれに暮らす家族や親戚が集まる日であるかもしれません。
 そんなさまざまな思いを抱きながら、やはり福音のマリアの姿を見つめたいと思います。イエスをみごもったマリアが洗礼者ヨハネを身ごもっている親類のエリサベトを訪問し、そこで神に向かって賛美の歌を歌うという場面です。この歌は「Magnificat」という名前でよく知られています。前半は救い主の母となる使命を与えられたマリアの個人的な賛美ですが、後半は救いを待ち望むすべての人に神が救いをもたらしてくださると確信する大きな賛美に変わっていきます。前半と後半をつなぐキーワードがあります。それは「身分が低い」という言葉です。前半では、「(神が)身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と言って神に感謝します。後半では、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ(てくださる)」と信頼を込めて歌います。こんなに身分の低いこのわたしに目を注いでくださった神は、身分の低いすべての人にいつくしみの目を注いでくださるに違いない。これがマリアが確信して歌うことです。
 マリアは「身分の低い、この主のはしため」と言います。直訳では「この主のはしための身分の低さ」です。この言葉はもともと社会的地位が低い、という意味でしたが、「自らを低くする=へりくだりや謙遜」の意味にもなりました。マリアの場合、この箇所では本当に実際に貧しく身分が低いということを言っているのですが、でもそれを社会的に見て他人との比較の中で言っているだけではなく、神の前に身分が低い(ほんとうに取るに足らない者)という意味でも言っていると思います。
 実際、聖家族は社会的にも貧しく身分が低かったことでしょう。ベツレヘムの家畜小屋で幼子イエスを産んだことにそれは表れています。
 同時に神の前に低い者であること。マリアはそれも深く自覚していました。こんなに取るに足りない自分を神がいつくしみ、御目をとめられ、恵みで満たし、特別に語りかけてくださり、特別な役割を与えてくださる。本当にそのことを受け取って生きること、それがマリアの信仰でした。わたしたちの信仰の根本もそこにあります。神はこのわたしを生かし、愛し、わたしたちに使命を与えてくださる。わたしたち皆の人生はこの信仰によって、意味のあるものになるのです。マリアの信仰はマリアだけのものではなく、わたしたち皆の信仰の根本にあるものとつながっています。
 マリアは決して孤立していません。自分に目を留められた神は、すべての貧しく身分の低い者にもいつくしみの目を注ぎ、救いを与えてくださるはずだ、そう歌うのですが、そこには貧しく身分の低い人と連帯しているマリアの姿があります。苦しみをわかち合い、互いに支え合い、神の救いに一緒にあずかろうとする。ちょうどこの場面ではエリサベトと連帯しているのですが、それだけでなく、マリアはすべての苦しみ、悲しむ人と連帯して生きたのです。
 マリアは孤立していない。これは被昇天にも言えることです。マリアはイエスの母であり、特別だったから、生涯の終わりに普通の人のような死を味わうことなく、直接、天に上げられた。そういう面がないとは言えません。例外的に被昇天した。旧約聖書には2人の例があります。創世記5・24に現れるエノクと列王記下2・11の預言者エリヤです。特別な義人の生涯の終わりはそういうものだという考えが旧約聖書の中にあり、それがマリアの生涯の終わりにも起こったという考えが教会の歴史の中で生まれ、発展していきました。
 しかしもう1つの面も大切です。マリアの被昇天ということは、マリアが完全に神の救いにあずかり、キリストの復活のいのちに結ばれ、神のもと=天に上げられ、神の永遠の命にあずかる者となった、ということです。これはマリアだけのことではありません。わたしたち皆が最終的に、そこに向かって旅をしている、マリアの被昇天は、このわたしたちの歩みの到達点を示しているのだ、ということです。第二バチカン公会議の『教会憲章』は結びのところでマリアについて語っています。そこに「旅する神の民にとって確実な希望と慰めのしるしであるマリア」という言葉が出てきます。これこそ被昇天のマリアの意味です。
 そういう意味でわたしたちは皆、被昇天するのです。わたしたちキリスト信者だけではありません。戦争で亡くなった方々。洗礼を受けていないわたしたちの先祖や家族。みんな最終的に救いの完成の状態に招かれるのです。そこですべての労苦と愛と希望が、神によって受け取られ、神のもとで完成します。そこでわたしたちはわたしたちに先立って逝った親しい人との絆を取り戻し、喜びに包まれます。わたしたちは今日、そういう希望を持って祈ります。
 そしてその被昇天にあずかるために、やはりわたしたちが見習うべきことは マリアの謙虚さと連帯です。本当に神の前にへりくだって、神の恵みのうちに生きること。そして同じ貧しいものとして、他の人とつながって、支え合って生きること。わたしたちはマリアと同じように、そういう生き方に招かれています。その招きに精一杯応えて生きることができますように。アーメン。

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する