毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

MCブラザーズの祝日のミサ


2013年10月12日(土)12:00

●山谷・神の愛の宣教会にて
 貧しい人々の母である聖マリアの祝日のミサ
 (写真は、修道院2階にあったマザーテレサ人形です!)

福音朗読:
ヨハネによる福音19:25-30
 25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
 28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

ホミリア
 貧しい者の母である聖マリアの祝日を祝います。福音の箇所は、ヨハネ福音書の十字架の場面。いろいろなことを感じさせられる箇所です。神の愛の宣教者会(MC)のブラザーたちにとって特別かもしれません。マザーテレサの会の聖堂にはどこにでもこの福音にある十字架のイエスの言葉「I thirst(我、渇く)」が掲げられています。このイエスの叫びは、ただイエス1人の叫びではありません。旧約時代からずっと続きてきた、神の救いに飢え渇くすべての人の叫びです。詩編は、苦しむ人の叫び、うめきとしてこの「渇き」を伝えています。代表的なのは詩編63の冒頭でしょう。
 「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」
 イエスは十字架の上でこのような渇きを味わわれました。それはイエス以前のすべての人の渇きと連帯した渇きであり、また後に続く、多くの苦しむ人の渇きにもつらなる渇きでした。今も貧しさや病気や孤独の中で、救いに渇く人々の叫び、それはイエスの叫びにつながっています。ある意味でイエス自身の叫び。表面的に見れば神からも人からも見放されたような十字架のイエスは、しかし、その孤独な苦しみにおいて、むしろ多くの人とつながっているのです。
 そのイエスは、この少し前の箇所で、弟子に母マリアを託しました。これからわたしの母はあなたの母になると弟子に言い、母に対しては、わたしの弟子はあなたの子となる、と言われました。このことも今日、深く味わいたい言葉です。
 マザーテレサの有名な言葉がありますね。現代の最大の不幸は病気や貧しさではない、それは「いらない人扱いされること」「自分は誰からも必要とされていない」と感じること。そうマザーテレサは言いました。
 ここに登場するマリアと1人の弟子は、まさにそういう不幸のどん底にあったのではないでしょうか。母は、たった一人の息子を失い、もはや生きていても仕方ない。生き甲斐のすべてを奪われようとしています。弟子は先生を失い、やはり生きていても仕方ないと思う。その中でイエスは母と弟子を結びつけます。弟子に向かって、マリアにはあなたが必要だ、と言い、マリアに向かっては、この弟子にはあなたが必要だと言う。新たな使命を与えるのです。
 あるとき、この箇所を読みながら気づいたことがあります。それはここで確かにマリアとイエスの弟子の間に母と子という新しい関係が生まれているのですが、同時にそれはイエスと弟子の間の新しい関係の始まりでもある、ということです。わたしの母があなたの母になり、わたしがマリアの子であるように、あなたもマリアの子になる。ここにあるのはイエスと弟子たちが兄弟になるということです。
 マリアが弟子たちの母となり、イエスが弟子たちの兄弟となる。これは本当にどん底でのことでした。ヨハネ福音書の中でこれまで一度も弟子たちはイエスの兄弟と呼ばれていません。次の20章で、イエスを失い、すべての希望を絶たれた弟子たちに、復活のイエスは「わたしの兄弟たち」という言葉を言う。
 イエスはすべての人の兄弟です。マリアはすべての人の母です。でも今日の福音を読むならば、それは特別にどん底の苦しみと渇きを体験している人にとって本当に深い意味のあることだと言えるのではないでしょうか。
 わたしたちはわたしたち一人一人の貧しさと孤独のどん底で、それでも、いやそれだからこそ、イエスがわたしたちを兄弟姉妹と呼んでくださることを受け取りましょう。このどん底の中でこそ、マリアがわたしたちの母として与えられていることを受け取りましょう。
 だから今日の祝日、貧しい人の母である聖マリアということには深い意味があります。マリアが特別に貧しい人をイエスからゆだねられているからです。そしてわたしたちもそのマリアの子どもでありますが、マリアの心をもって、目の前の貧しい人、病気の人、孤独な人に関わるように、招かれているのです。
 そのことを深く受け止めながら、今日のこのミサを祝いましょう。


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