毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

自死した方々のための追悼ミサ

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自死した方々のための追悼ミサ
2013.11.10 東京カテドラル関口教会

第一朗読 エゼキエルの預言(エゼキエル34章11-16節)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章1-10節)

ホミリア
 自ら命を断つ、ということは悲しいことです。家族や友人、親しい人が自死してしまうことは本当に辛く苦しいことです。打ちのめされる体験。わたしたちは皆、そういう体験を持つ者として、ここに集まっていると思います。
 自殺・自死ということについて、社会の受け止め方も、教会の受け止め方も近年ずいぶん変わってきました。日本社会の中では、自死が個人的な問題だと考えられてきたのが、社会的な問題であると受け止められるようになったのが大きな変化です。2006年に自殺対策基本法ができ、2007年に自殺総合対策大綱が決まったのにはそういう背景があります。1人の人間が自死してしまうということには、社会の責任もあり、社会はその自死をなくすためにしなければならないことがある、できることがあると考えられるようになったのです。自殺対策の効果ははっきりと言うのは難しいですが、いろいろな場で自殺予防の取り組みがなされるようになりました。
 教会ではどうでしょうか。伝統的な「自殺=大罪」という見方に変化がありました。分かってきたことは、自死というのは自ら死を選ぶのではなく、多くの場合、死ぬしかない所まで追い込まれての死だということ。本当に苦しんだ末の死だということ。そういうことが分かってきて、教会の自死者に対する姿勢も変わってきました。自死したこと自体を救いがたい罪だとするようなことはなくなりました。今から30年前1983年に出された『カトリック教会のカテキズム』という本には、「自死した人の永遠の救いについて絶望してはなりません」「教会は自死された人のためにも祈ります」とはっきり述べています。
 わたしたちにできることは、亡くなった方々の永遠の安息を願い、いつくしみ深い神のみ手にその方をおゆだねすることです。神は苦しみのうちに世を去った人々を決して見捨てることはない。わたしたちはそう信じて、祈ることができます。
 先ほど読まれた福音は2000年前に、イエスがガリラヤの丘で大勢の群衆を目の前にして宣言された約束です。「貧しい人」「悲しむ人」「飢え渇く人」「迫害される人」神はその人々を決して見過ごされない。神はその人々にご自分の国を与えてくださる。そのイエスの約束をわたしたちは信じます。
 第一朗読は、神ご自身が羊飼いとして民を養う、という約束です。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」その約束をわたしたちは信じます。
 残された者には、何もしてあげられなかった、止められなかった。ああしておけば良かった、こうもしてあげたかった。そういう後悔があります。
 逆に、なぜ相談してくれなかったのか、なぜわたしを残して自分だけで逝ってしまったのか。という恨みもあるかもしれません。本当に辛い思いのまま、癒されぬまま、そんな思いを引きずっていることもすくなくありません。
 ですが、カトリック教会では、今生きているわたしたちとわたしたちに先立って亡くなられた方の交わりを信じています。肉体の死によって神との交わりがなくならないように、故人との交わりもなくならない。
 今わたしたちは亡くなった方々のために祈ることができるのです。死者のために犠牲を捧げることもできる。その祈りや犠牲によって、亡くなられた方々の永遠の救いに役立つことができる。それはカトリックの伝統的な信心として受け継がれてきたことです。
 逆に亡くなった人がわたしたちのためにしてくれていることがある。そのことも大切だと思います。わたしたちが親しかった人との絆は死によって断ち切られない。亡くなった人は神のそばにいて、わたしたちのために祈っていてくれている。そこでわたしたちの歩みを見守っていてくれる。そのことも本当に大切にしたいと思います。
 カトリック教会では、公に、執り成しの祈りを願う対象として、マリア様や聖人を大切にしてきました。聖人であると宣言する列聖ということには、皆がこの人に執り成しの祈りを願ってもよい、と認める意味があります。でも個人的にはもっと身近な、親や家族に執り成しの祈りを願うことができるのです。もちろん欠点も弱さもある肉親ですが、それでもわたしたちは親しい人がいつくしみ深い神に受け入れられていると信じていいはずです。そして、わたしたちが願う以前から、亡くなった人は生きているわたしたちのために、祈っていてくれている。そのことをわたしたちはこうやって亡くなった方々を思い起こして祈るときに、身近に感じることができるでしょう。
 いのちはたった1つ、ぽつんと孤立してあるものではありません。どのいのちも、神から生かされたいのちであり、人と人との交わりのなかでこそ生きるいのちです。それは肉体の死を超えて、神のもとで完成するいのちなのです。亡くなった方のことを思うとき、わたしたちはそのいのちのつながりを意識します。そして神とのつながり、人と人とのつながりをもっともっと豊かに生きるよう招かれていることを今日、深く受け止めたいと思います。

(写真は東京カテドラルのピエタ像です)

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