毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第4主日のミサ説教です

20131222

20131222b

今日の日曜日は志村教会へ。
餅つきは、80代男性の指導のもと、若い男性たちが頑張って6臼をつきあげました。
聖堂ではステキな人形劇も。ルイ神父とクレープも登場した心温まる物語で、子どもたちは大喜びでした。
みんなでお餅もいただいて、おいしく楽しい1日でした。

●待降節第4主日ミサのホミリア

 福音:マタイ1・18-24

 東日本大震災の後、わたしが福島に入ったのは、その4ヶ月後の7月のことでした。それまで福島がどうなっているのか、たいへんな状況をテレビなどでは見ていましたが、教会関係の情報はほとんど入ってきませんでした。東京からそこに行って何かできるのかどうかの見当さえつきませんでした。そして行ってみて初めて、福島のいろいろな教会の信徒の方々が、被災者支援のために動き始めていたのを知りました。避難所も仮設住宅も、福島県中に広がっています。自分たちの近くにできた避難所や仮設住宅に出かけてボランティアをしていた信徒がいたのです。そして今では、福島県内の主なカトリック教会はすべて何らかの形で被災者支援活動をしています。主な活動は仮設住宅で、お茶会を開き、被災した方々の話を聞く、いわゆる傾聴です。そしてその連絡調整・情報共有のために「福島ブロック会議」というのを行っています。わたしも参加させていただくチャンスが何度かありました。
 先日行われたその会議のテーマは、どのようにしていろいろな集まりに男の人たちにも参加してもらうかということでした。お茶会のようなことをしても、そういう場に男性はなかなか出てこない。女性はつながりやすいのですが、男性はなかなか難しく、中には孤立してしまう人も少なくない。パチンコに行くか、テレビを見ながら酒を飲むか。そんな生活になっている人もいる。どうしたら、こういう人たちをみんなの交わりに招きだせるか。そういう話し合いでした。わたしなんかまず、「そりゃ、酒だろ」と思ったのですが、そうでもありませんでした。ただお茶飲みながら話をするのは難しくても、野菜作りで男性の場ができたり、趣味でつながったりという例が紹介されていました。でも特に言われていたのは、「男性は何か、役割があれば出てくる」ということでした。わたしたちが関わっている仮設住宅の2カ所でこの夏、夏祭りをしたのですが、ヤグラを組むとか、火を起こすとか、焼き鳥を焼くとか、確かにそういう役割があると俄然、燃える男性は多いのです。(今日は餅つきがあると聞きました、男性の出番かもしれませんね)。そんなとき多くの男性が生き生きとしていますね。
 そんな姿を見たり、そんなことを話し合ったりしているときに、わたしは聖ヨセフのことを思い出しました。福島の仮設住宅で、自分に与えられた役割を黙々と、でも生き生きと果たしている男性たちの姿とヨセフの姿が重なってきたのです。ヨセフと言えば、いつも思い出すのは、昔のサッポロビールのコマーシャルです。「男は黙ってサッポロビール」ヨセフは聖書の中で一言も台詞がありません。神から与えられた使命を黙々と果たして行く、そんなイメージです。ヨセフは、何も言わずにマリアを受け入れ、そのことをとおしてイエスを受け入れていきます。大工の仕事をしながら、マリアとイエスを支え続けるのです。
 しかしヨセフの歩みは、決して順調な歩みではありませんでした。幼子は生まれてすぐにヘロデ王にいのちを狙われ、ヨセフはマリアと生まれたばかりの幼子を連れてエジプトまで逃げなければなりませんでした。今で言えば難民生活を送ったことになります。そうしている間に、ベトレヘム周辺の多くの幼児がヘロデ王によって虐殺されてしまいました。さらにその後もマタイ福音書によれば、迫害を恐れながら、ガリラヤの町ナザレでひっそりと暮らすことになりました。どれほどの苦労があったことでしょうか。そういう厳しい現実の中で、ヨセフがマリアとイエスを守り続けたことを、教会は信じ、だからこそ、そのヨセフを「教会の保護者」として大切にしてきたのです。今日の福音にあるようにヨセフは「正しい人」であり、同時に人を受け入れる愛をもった人として、父親の理想像としても大切にされてきました。
 そのヨセフを支えたものはなんでしょうか。それは今日の福音にあるように「インマヌエル」というメッセージを本当に受け取ったからだと思います。このイエスという幼子をとおして神はわたしたちとともにいてくださる。本当にそのことを受け取ったから、どんな過酷な現実、悲惨な現実であっても黙々と自分の役割を果たしていくことができたのです。
 インマヌエル=神が共にいてくださる、ということは結論ではなく、出発点なのです。神がわたしたちとともにいてくださる、だから良かったね、で終わるのではなく、神が共にいてくださる、だから信頼をもって、希望をもって、愛をもって、歩んでいこう。それがヨセフの生涯だったのではないでしょうか。
 今年6月にフランシスコ教皇は、前教皇の意向を受けて、ミサの第二〜第四奉献文に聖ヨセフの名前を入れることを全世界のカトリック教会に通達しました。第一奉献文には前からヨセフの名がありました。日本では翻訳の言葉を検討して、ローマに申請しています。かつては「浄配(清い配偶者)ヨセフ」と言っていましたが、あまりにも特殊用語なので、ただ「聖ヨセフ」だけでよいのでは、ということで問い合わせ中です。バチカンの認可が下りれば、日本でも普通の第二奉献文などに入ることになります。
 ちょっと驚くかもしれませんが、ヨセフという人間にそんなに特別に目を向けなくてもよいと思います。むしろわたしたちは、ヨセフをとおして働かれた神に目を向けましょう。そしてわたしたちも、「インマヌエル、神が共にいてくださる」。そのことをしっかりと受け取って、生きることができますように。
 インマヌエルである幼子イエスを迎える降誕祭を前に、心から祈りましょう。


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