毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の降誕・夜半のミサ

bell tower

今年は、東京カテドラル関口教会で夜10時のミサを司式しました。
写真はカテドラル鐘楼のライトアップ。この時期限定です。

●主の降誕・夜半のミサ説教原稿(ルカ2・1-14)

ミサのはじめに
 クリスマスおめでとうございます。イエスの誕生の夜、天使たちの歌声が響きました。「天のいと高きところには神に栄光、地には平和があるように」今日、このミサをとおして、世界中のすべての人の上に平和が実現するように祈りましょう。特に子どもたちが生まれ、成長していくこれからの世界が本当に平和な世界であるように心から祈りましょう。

ホミリア
 日本人はクリスマスが好きですね。これはどうも昔からのようです。1549年、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えましたが、ザビエルが日本でクリスマスを祝った記録はありません。ザビエルと一緒に日本に来て、ザビエルが日本を去った後、日本に残って宣教活動をしていたのはコスメ・デ・トーレスという神父でした。このトーレス神父が1552年、山口でクリスマスを祝ったというのが、日本で最初に祝われたクリスマスの記録です。当時はポルトガル語で「ナタラ」と言いました。当時から深夜のミサが祝いの中心ですが、その後に、参加したすべての人、信者かどうかは問わず皆に食べ物が振る舞われたそうです。そしてミサが始まる前は、ずっと待っている間に劇が行われました。内容は旧約聖書の最初の人間、アダムとエバの物語でした。アダムとエバが楽園を追放される場面で、人々は大いに泣いた、と伝えられています。クリスマスにアダムとエバ。今ではあまり考えられないかもしれません。でもこれはキリシタン時代には定番になりました。アダムとエバの物語が劇で演じられ、荘厳なミサがあり、パーティーがありました。禁教令が厳しくなるまで、このようなクリスマスの祝いは日本の各地で盛大に行われたそうです。
 ですから今日、クリスマスのミサにあたって、あのアダムとエバの物語をちょっと思い出してみましょう。
 創世記の2章に、最初の人間アダムは、神によって土の塵から形づくられ、神からいのちの息を吹き込まれると生きる者となった、と書かれています。人間は神から離れては滅び行くしかない、はかない存在だけれども、神とのつながりによって生かされるものだ、というのです。ここに聖書の根本的な生命観、人間観があります。そしてアダムはエデンの園に置かれます。そこはさまざまな植物が実を結び、人間に豊かな食べ物をもたらしてくれる場所でした。アダムはそこで毎日遊んでいたとは書かれていません。「土地を耕し、園を守る」、これがアダムに与えられた役割でした。さらに神は「人が独りでいるのはよくない」と言われて、アダムのふさわしいパートナーとして女をお造りになりました。「二人は一体となる」と言われるほど、二人の関係は良いものでした。これがいわゆる楽園の状態です。神の創造された世界とは、人間とは本来こういうものだったと聖書は語るのです。そこでは神と人間との良い関係があり、人間同士もよい関係であり、さらに言えば、人間と自然もよい関係でした。
 しかし、人間はこの関係を壊してしまった、これが創世記3章の物語です。神がこれだけは食べてはならない、と言われた禁断の木の実をアダムとエバは食べてしまったのです。なぜその果実だけは食べてはいけないのか、説明はありません。問題は人間が神との関係を忘れ、自分さえ良ければ、という思いからそれをしてしまったということのようです。
 その結果、人間は神との関係を傷つけ、その結果、人間同士の関係もゆがんでしまい、さらには人間と自然との関係もゆがんでしまった。これが最初の人間の罪の物語です。そして、アダムとエバはエデンの園を追放されてします。それは、人間が罪によって、神との本来の良い関係、他の人間との良い関係、自然との良い関係を失ってしまった、ということを意味しています。
 キリシタン時代の日本人がなぜそこで泣いたか、分かるような気がします。当時は戦国時代でした。人と人が争い、戦い、殺し合い、裏切り合ったり、だまし合うのが当たり前。その中で女性や子どもは道具のように扱われ、貧しい人々や病人は打ち捨てられていました。楽園追放とはまさに自分たちのこの現実のことだと思えたのでしょう。
 聖書はしかし、人間の運命はここで、楽園追放で終わるのではない、と語るのです。神はその人間を見捨てることなく、いつも時代にあっても救いの手を差し伸べ続け、いつか、あの楽園を回復してくださる、そう確信して語っています。神が人と共に住み、人と人とが平和のうちに生き、人と自然が共存する、そういう世界。そのために、神が決定的になさったこと、それはご自分のひとり子を世にお遣わしになることだった。聖書はそう語るのです。
 今日、そのひとり子イエスの姿を見つめましょう。そして、この幼子が、何をもたらすために世に来られたかを深く味わいましょう。
 幼子イエスは、人々に歓迎されて生まれてきたのではありません。ベツレヘムの町の人々は貧しい夫婦とその子どもがどうなろうと構わないと、家畜小屋に彼らを追いやったのです。それでも、お生まれになったこの子のいのちは輝いています。この子は誰も拒否したりしません。貧しい羊飼いであろうと誰であろうと拒否しません。だれでも安心してこの子に近づくことができます。この幼子はすべての人の友となり、兄弟となるために世に来られたのですから。
 宿屋に泊めてもらえなかった幼子は、人に受け入れてもらえない人の淋しさを知っています。飼い葉桶に寝かされた幼子は、暖まる場所のない人の寒さを知っています。ただ寝転がって泣くことしかできない幼子は、体を動かすことのできない人や、話すことのできない人の辛さも知っています。ヘロデ王からいのちを狙われることになる幼子は、戦争や暴力に脅かされる人々の恐怖も知っています。すべての人のすべての重荷を共に荷なうために、幼子イエスは生まれてきたのです。
 お生まれになった幼子はこの誕生の日から失われた楽園を取り戻す道を歩み始めます。もう一度、神と人、人と人、人と自然の間に本当の平和を取り戻すための歩みが今日から始まるのです。そして、その道を一緒に歩もうと、わたしたちに呼びかけています。


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