毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

神さまへの贈り物ー主の公現のミサ説教

matsudo epiphany

写真は松戸教会の司祭室。贈り物いっぱいですね。(主任司祭は帰省中)

●主の公現(マタイ2・1-12)
                2014.01.05カトリック松戸教会にて
 お歳暮から始まって、クリスマスプレゼント、お年賀やお年玉。ずっと贈り物のシーズンでした。わたしなんかにもお歳暮なのか、クリスマスプレゼントなのか、いろいろくださる方がいて、なぜか、昨年末はコーヒーとビールをもらうことが多かったです。わたしは年齢と共に嗜好が変わり、最近はあまりビールやコーヒーを飲まなくなっているのですが、いや、でも感謝しています。気持ちですからね。何をあげるか、たいへん気を使ってくださっているのがわかりますから。人と人の間で、どんな贈り物を差し上げるかは多くの人が悩むところですね。
 では、わたしたちは、神さまに何をあげるか、神さまへの贈り物は何にしたらいいのでしょうか。きょうはそのことをご一緒に考えてみたいと思いました。
 きょうの福音は、東のほうで星を見て、お生まれになった救い主を探し当てた占星術の学者たち(博士たち)の物語です。この物語は、イエス・キリストによる神の救いが民族や宗教の違いを超えて、すべての人に及ぶものだということを語っています。そういう大きな救いの広がりが、きょうの祭日のテーマです。
 この中で、博士たちは幼子イエスに贈り物を渡しました。黄金、乳香、没薬をささげた。それは彼らにとって最高の宝物でした。幼子イエスはそれらのものをぜんぜん必要としていなかったと思いますが、でも、イエスはその人々の思いを喜んで受け入れたと思います。
 福音書の中では、イエスはどちらかというと、人に与える側の印象が強いのではないでしょうか。飢えた群衆にパンを与え、病人にはいやしを与え、貧しい人々に救いの福音を与える。イエスが何かをもらうというイメージはあまりない。わたしたちもイエスから、神から多くのものをいただいていますが、では、わたしたちの側からは神に何を差し上げればいいのか。そもそも神さまは何かもらいたいと思っているのでしょうか?
 神さまへの贈り物として、美しい箇所が旧約聖書にあります。それは申命記の26章です。
 「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。」(申命記26・1)
 そして初物をささげて神への信仰を告白します。取るに足りない小さな民であった先祖を神は顧みてくださり、エジプトの奴隷状態から救い出し、この土地へと導いてくださった。神から与えられたこの土地でわたしは土地を耕し、作物を育て、このような収穫を得た。でもこれは自分の力で手に入れたものではない。みんな神さまからいただいたもの。だからこの初物を神さま、あなたに捧げます。これがイスラエルの信仰告白でした。
 神さまは人間から何かをもらうことを必要としているのではありません。ただ、すべては神から与えられたのだということを忘れないでいてほしい、と願っておられます。なぜなら、それを忘れたとき、人間は傲慢になり、破滅への道を進んでいってしまうから。神へのささげ物は本当にすべてが神によって与えられていることを思い出すためのものなのです。
 実際に祭司の手をとおしてささげられた物はどうなったのでしょうか。もちろん、聖所での礼拝や祭司の生活を支えるためにも使われましたが、同時に貧しい人を助けるためにも使われました。持っている物が皆、神から与えられたのだとすれば、それを持たない人と分かち合うのは当然だ、と旧約聖書の時代から考えられていました。
 新約聖書で神へのささげものについて語る有名な箇所は、ローマの信徒への手紙12章でしょう。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12・1)自分自身を神にささげる、これが最も根本的な神に対する贈り物です。なぜならキリストがご自分の体を、ご自分のすべてをわたしたちに贈り物として差し出してくださったから。独り子を与えるほど、神は世を愛してくださったから。それに答えてわたしたちが差し出すものは、わたしたち自身でしかないのです。
 ではわたしたち自身をどうやって神に差し出すのでしょうか。新約聖書のもう1つの箇所、ヘブライ人への手紙13章も、キリスト者の神へのささげものについて語っています。
 「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」(13・15-16)
 「賛美の贈り物」。教会の祈りの朝の祈りは、「Laudes(賛美の時課)」と言います。朝、何よりも神を賛美して一日を始めるのが教会の伝統です。この一日をあなたを賛美することから始めます。この一日をあなたにつながって生きます。この一日をあなたの御心にかなうことを求めて生きていきます。そういう賛美から一日を始めるのです。わたしたちも一年の始めにあたり、このような賛美の贈り物を神にささげたいと思います。
 そして「善い行いと施し」、これこそが神にほんとうに喜ばれるいけにえだと言います。「善い行い」は神に対する善い行いであり、人に対する善い行いでもあるのでしょう。そして「施し」はギリシア語で「コイノニア」という言葉です。「交わり」と訳される言葉ですが、ここでは貧しい人との交わり・分かち合いの意味で「施し」と訳されています。先ほどの旧約聖書・申命記と同じで、神に贈り物をするには、具体的に貧しく助けを必要としている人と、持ち物を分かち合うことが必要なのです。
 きょう、主の公現の祝日を祝い、幼子イエスに贈り物をした博士たちのことを思い起こしています。わたしたち一人一人の贈り物、それは結局すべて神から与えられたものをお返ししているだけかもしれませんが、それでも神に対して精一杯の贈り物をしようとすることは無意味ではありません。わたしたちなりの精一杯の贈り物を神にささげるということを大切にしながら、この一年も信仰の道を歩んでいきましょう。


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