毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

日本二十六聖人殉教者祭ミサの説教



東京のカトリック本所教会で行われた「日本二十六聖人殉教者」のミサの説教です。
(写真のカードは先々週、長崎の日本二十六聖人記念館に行った時に買いました)

●日本二十六聖人殉教者祭ミサ(マタイ28・16−20)2014.02.02 本所教会

 こういう詩をご存知でしょうか。

  「いのちが一番大切だと思っていたころ、
  生きるのが苦しかった。
  いのちより大切なものがあると知った日、
  生きているのが嬉しかった。」

 星野富弘さんの詩です。星野さんは中学校の体育の先生でしたが、体操の事故で頸椎を損傷し、首から下の体の自由が利かなくなりました。たいへんな苦しみの中でキリスト教の信仰を得るようになり、口にくわえたペンで美しい詩と絵を書いておられる方です。この詩についてわたしはうまく解説することができません。星野さんにとって「いのちより大切なもの」とは何か、きちんと説明することはできません。でも、ずっと気になり、深い所で共感を感じてきました。そして、今回、本所教会での日本26聖人殉教者のミサを頼まれてから、何度も何度もこの詩の言葉が頭に浮かんできています。
 キリシタン殉教者たちは確かに、「いのちより大切なものがある」と知っていました。だからこそ喜んでいのちを捧げたのです。当時の日本人、戦国時代の武士たちも皆、自分のいのちより大切なものがある、と考えていたでしょう。それは自分自身の名誉であったり、あるいは自分の主君であったりしました。しかし、キリシタン信者たちが知った「いのちより大切なもの」はそんなものではありませんでした。
 キリシタンたちの信仰では、いのちは神から来るものでした。人のいのちは神によって生かされたものであり、この世のいのちよりも大切なものは、この神とのつながりでした。いのちというものは生物学的ないのち、医学的な生命がすべてではない。いのちとは、この世での誕生に始まり、肉体の死で終わってしまうようなものではないのです。いのちは永遠の神のもとから来て、永遠の神のもとへと帰っていくものでした。いのちが神のもとから来たものだから、どんないのちもかけがえのないいのちとして大切にしなければならない。そしてどんないのちも最終的に神にお返ししていかなければならないものですから、肉体の死を超えて神に信頼と希望を置いて生きることができる。これがキリスト教の信仰です。
 それは単なる言葉でしょうか?1つの考え方に過ぎないでしょうか?
 今日記念しているキリシタン殉教者たちは、その信仰、希望、愛を身をもって生き抜いた人々です。殉教者たちの生き方、死に方は強烈な問いかけをもって、わたしたちに問いかけています。あなたは本気でいのちよりも大切なものがあることを信じていますか?
 わたしたちの社会では、「健康が一番大切、いのちが一番大切」と当たり前のように言われています。もちろん健康は大切です。この世のいのちも大切です。でも本当にそれが一番大切ですか? そういう考えで、いのちは本当に輝いていますか? そういう考えで人間一人一人が本当に尊重されていますか? 人間が人間らしく生きることができていますか? みんな喜びをもって生きていますか?
 殉教者たちはそのことを問いかけています。
 いのちより大切なものがある。しかしそれは何でもいいわけではありません。自分のいのちより会社のほうが大切。それはおかしいでしょう。自分のいのちより国家のほうが大切、というのもまかり間違えばとんでもないことになります。宗教的な確信のために、人のいのちを粗末にするようなテロリズムは絶対に間違っています。そういうものに対しては、断固としてノーといい、本当にいのちが大切なのだと言い続けなければなりません。沖縄の人の言う「ぬちどぅ宝(いのちが宝)」という言葉はその意味で本当に大切な言葉です。
 しかし、それでもなお「いのちより大切なものがある」。これがわたしたちの信仰です。わたしたちキリスト信者の言葉で言えば、肉体のいのちよりも大切なものは「永遠のいのち」であると言ってもいいかもしれませんし、別な言葉で言えば、いのちの源であり与え主である神とのつながり、そして人と人との愛のつながりだと言うこともできると思います。
 あなたにとっていのちより大切なものはなんですか。それは今日の殉教者からわたしたち一人一人に向けられた問いかけです。わたしたち一人一人はその問いかけにどう答えるでしょうか。


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