毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖心女子学院高等科卒業感謝ミサ



悪天候のため、一日順延になった聖心女子学院高等科の卒業感謝ミサが、本日(2月16日)行われました。
説教も前日までの予定とぜんぜん違うものになりましたが、一応、載せておきます。
(写真はミサの行われた学校の聖堂の祭壇です)

●聖心女子学院高等科卒業感謝のミサ(マタイ5・13-16)

 皆さん、ご卒業おめでとうございます。
 昨日、たいへんな天候のため、卒業式が今日に順延になり、感謝の会もできなくなったと聞きました。残念ですね。皆さんは3年前、東日本大震災の影響で中学の卒業式もできなかったと聞いています。本当に不運だと思います。ですから特に、皆さんのこれからの歩みの上に神さまの祝福を願って、心からこのミサで祈りたいと思います。もちろんこれからの人生が順調でありますように祈ります。でもうまく行かないことも必ずあるでしょう。いろいろあるでしょう。
 運がいいか悪いか、人生の中でラッキーかアンラッキーか、それはすごく気になりますね。皆さんは星占いとか、他のいろんな占いが気になりますか。今日は運がいいか悪いか、すごく気にしている人もいるでしょう。人生にはたくさんのラッキーとアンラッキーがあります。それはとても気になります。ラッキーとアンラッキーでは大違いだと感じます。でも人生とはラッキーかアンラッキーかというだけのものじゃない、ということをこの学校を卒業するにあたって、今日、是非皆さんに分かってほしいと思いました。
 さきほど読まれた福音書のイエス様の言葉は、山上の説教という長い説教の一部です。その始めのほうで、その前の始まりの部分には「真福八端(八つの幸い)」と言われる言葉があります。「貧しい人は幸い、悲しむ人は幸い、飢え渇いている人は幸い」そういう言葉からこの長い説教が始まります。貧しいとか、悲しんでいるとか、飢え渇いているとか、ぜんぜんラッキーじゃないですね。でもその人々は幸いというのです。なぜでしょうか?
 「幸い」という言葉から考えてみましょう。日本語には幸福を表す言葉が昔からいろいろあります。代表的なのは、「しあわせ、さち、さいわい」の三つでしょうか。
 「しあわせ」は「めぐり合わせがよいこと」を意味します。これは「ラッキー」というのに近いですね。運が良くて物事がうまくいっている状態、そういう時に使うのが「しあわせ」です。
 「さち」はもともと朝鮮語の「サル」という言葉と同じだったという説があります。この「サル」は「矢」の意味だそうです。つまり獲物が多いこと。たくさんのものが捕れて、食べ物が豊かにある。そういう幸福ですね。今でも「海のサチ、山のサチ」というのはここから来ているそうです。
 「さいわい」という言葉。これは旧仮名遣いでは「さきはふ」と書きます。本来の意味は「咲きにぎわう」。花が満開になっている様子を表しています。本来のそのものの中にあるいのちが、生命力が満ち満ちて花開いている状態です。聖書の言う「幸い」はこれに近いかなと思います。神から与えられたいのちが輝いている状態、と言ったらいいかと思います。それは運がいいか、獲物がたくさんあるかどうかによらないのです。貧しくても、泣いていても、飢え渇いていても、それでも幸い、というのは、その人の中のいのちの輝きは決して失われていないから、神さまが輝かせてくれるから、だからイエス様はその人を幸いというのです。実際イエス様の目の前にいた人々は「いろいろな病気や苦しみに悩む人々」でした。その人々にイエス様は、まず第一に「あなたがたは幸い!」と語りかけました。あなたがたの中にいのちの輝きがある。神さまがその輝きを与え、神さまがそれを引き出してくれるのだと、イエス様はおっしゃるのです。
 そして先ほどの福音の言葉、「あなたがたは地の塩、世の光」に続きます。イエス様はその人々こそ、かけがえのない大切な塩であり、周りを照らすすばらしい光だというのです。塩でない人に向かって、無理して塩味を出しなさいとか、光でない人に向かって無理して輝きなさい、そんなことを言っているのではありません。あなたの中に素晴らしい塩があり、あなたの中に素晴らしい光がある。だから、それを生かしていきなさい。これがイエス様の教え。というか励ましです。表面的にラッキーかアンラッキーか、イエス様はそんなことは見ていません。どんな人の中にも、素晴らしい輝きがある。それを生かすかどうか、問題はそこだと言うのです。
 別な言葉で言えば、人生には自分の力で変えられることとどうにも変えられないことがあるということです。変えられないことはたくさんあります。ラッキー、アンラッキーというのはまさにそういうことですね。自分の生まれ育った環境を変えることはできません。自分の頭のよさや容姿もまあほとんど変えられませんね。さまざまな不幸に見舞われることも自分の力ではどうにもできないでしょう。でも変えられることはある。自分にできることはある。その中で一番大切なことは、愛すること。どんなにラッキーであっても、どんなにアンラッキーであっても、それでも愛することはできる。神さまから見て、大切なのは、その部分なのだ。これがキリスト教の核心です。単なる倫理的な教えとしてそう言っているのではありません。イエス様ご自身が十字架の苦しみの中で、ほんとうにひどい絶望的な状況の中で、とんでもないアンラッキーな状況の中で、それでも最後の最後まで愛し抜いたことが聖書に書かれています。そのイエスの中にいのちの輝きを見つめ、そのイエスのいのちにつながって生きようとするのがキリスト教です。
 今日、皆さんの前途の上に神さまの祝福を祈ります。もちろん、皆さんの人生ができるだけラッキーであるように祈ります。でもそれだけではなく、たとえどんなアンラッキーの中にあっても、そこで絶望せずに、前を向いて、自分にできることを精一杯やっていけるように神さまの助けを心からお祈りします。


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