毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

クラレチアン会助祭叙階式の説教

evngeliarum

●助祭叙階式(四旬節第二主日 マタイ17・1-9)高円寺教会にて
 受階者:クラレチアン宣教会マキシミリアノ・マリア・コルベ長崎壮神学生

 今日は四旬節第二主日です。毎年この日のミサの福音はイエスの変容の場面です。ここに現れたイエスの光り輝く姿は、イエスが受難をとおって、受けることになる栄光の姿です。それを弟子たちに一瞬、垣間見させ、同じ道に弟子たちを招くのがこの出来事の意味です。ここには四旬節の根本テーマが表されています。それは「イエスの受難・死・復活にあずかること」です。
 わたしたちがイエスの受難と死にあずかるとはどういうことでしょうか。とても明快な言葉が、福音書の中にあります。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20・26—28)
 これがわたしたちにとって、イエスの受難と死にあずかることです。イエスと同じように自分を無にして徹底的に仕える者となるということです。この中の「仕える者」は「助祭」と訳されている言葉と同じです。助祭とは、何より「仕える者」なのです。その意味で、今日助祭に叙階される長崎壮さんにとって、もっとも大切なみことばだと思います。
 助祭とは、「仕えるキリスト」の姿を教会の中で目に見えるかたちで表す奉仕職です。違う言葉で言えば、「ご自分のすべてをわたしたちのために与え尽くされたキリストの愛」を教会の中で目に見える形で表すのが助祭職です。この愛と奉仕は、助祭だけがすればいいというものではありません。昔の伝統で、司教は正式に祭服を着るとき、助祭の祭服の上に司祭の祭服を着たと聞いたことがあります。司祭も司教も、実は生涯、助祭です。生涯、この愛と奉仕を生きる者なのです。そうでなければ聖職者であることは無意味です。また信徒も修道者も、キリスト者は皆、イエスにならって、愛と奉仕を生きようとします。でも、教会の中で特別に助祭にこそ、その奉仕が委ねられていました。
 愛と奉仕を生きる、ということを考えたとき、古代の教会の歴史の中で、特に二人の助祭の姿が輝いています。
 一人は聖ラウレンチオ。3世紀のローマの教会の助祭でした。シストというローマ司教の下で働いた助祭たちの中の一人でした。厳しい迫害時代のことで、シスト司教と他の助祭たちは殉教しました。しかし、ラウレンチオだけには何日かの猶予が与えられました。それは教会財産を処分して、ローマの役人に差し出すための猶予期間でした。ラウレンチオは教会に戻って教会財産を処分しましたが、それをローマ帝国に差し出すのではなく、すべて貧しい人に分けてしまいました。
 ラウレンチオが役人のもとに出頭する日、おおぜいの貧しい人々が彼を慕ってついて行きました。役人はラウレンチオに尋ねました。「教会の財産はどこにあるのだ?」それに対して、ラウレンチオは彼についてきた多くの貧しい人々を指して、「この人々が教会の財産です」と語りました。その意味が分からなかった役人は怒って、ラウレンチオを火あぶりにして殺しました。
 助祭の奉仕とは、機械的な奉仕をすればいいのではありません。本当にどんな人も例外なく、神の愛する子どもとして、かけがえのない兄弟姉妹として見て、大切にする、それがラウレンチオの眼差しでしたし、生き方でした。一人一人の人間に対する見方、特に貧しい人や弱い立場の人に対する眼差しを問われているのだ、そのことを忘れないでください。
 もう一人の有名な助祭は、使徒言行録に登場する聖ステファノです。彼は、使徒たちを助けるために選ばれた最初の助祭7人のうちの一人と言われ、キリスト教最初の殉教者となりました。ステファノは迫害を受け、殺されていく中で「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。イエスが十字架にかけられるとき、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです」と言った言葉にとてもよく似ています。どんな人をもゆるし、どんな人をも受け入れる心、これも教会の奉仕者として本当に大切なことです。長崎さんが助祭になり、司祭になって行く中で、必ず、自分に合わない人がいます、自分を攻撃してくる人がいます。でもその人々をも愛すること。あなたは「愛」のしるしなのですから、本気でそうする気がなければ、助祭になるのはやめておきなさい。できるかどうか、人間の力では無理かもしれません。でもあなたは「愛のしるし」になるのですから、どんな人でも、本気でゆるせる人になろうと生涯努力してください。
 わたしは自分ができているから、そう言っているのではありません。でも、それを追い求めています。「キリストの愛と奉仕のあかしとなる」これがわたしたちのテーマなのですから、生涯かけて、どんな人も例外なくすばらしい宝と見る見方、どんな人も例外なく愛する心を与えてください、そう祈り続けてほしいと思います。

(写真は、助祭叙階式の中の「朗読福音書の授与」で使ったもの。かつて外国人宣教師のためにローマ字で表記された福音書で、今はほとんど使われていないのですが、儀式の中で使うしるしとしては、いいね♪)


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