毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖金曜日 主の受難

cross of cathedral

(写真はチェレ神父の撮影した、東京カテドラルの十字架です)

●聖金曜日 主の受難(ヨハネ18・1〜19・42)
 2014.4.18関口カテドラルにて

 今年3月27日、袴田事件の袴田巌死刑囚について、再審開始の決定が裁判所から出されました。再審となれば無罪になることは間違いありません。袴田さんは50年近くの拘禁状態と死刑執行への恐怖からようやく解放されました。人生のほとんどを奪われたことを考えれば、良かったですね、で済むような問題ではありません。「えん罪」ということの残酷さを深く考えさせられる出来事でした。袴田巌さんは死刑確定から4年後の1980年に教誨師であった志村辰弥神父から洗礼を受けたカトリック信者です。それで今年の聖金曜日を迎えた今日、改めてイエスの裁判のことを考えさせられています。

 イエスもまた「えん罪」だったのでしょうか。ローマ総督ピラトが尋問するのは、「お前はユダヤ人の王か」ということです。当時パレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ユダヤには王はいなかったのです。「ユダヤ人の王」を名乗れば、公然とローマの支配に反抗する者となります。しかし、この点は結局、証明できませんでした。ヨハネ福音書では、イエスは地上の王という意味での王ではないことがはっきり示されます。
 ユダヤ人の指導者たちがイエスを有罪とした理由は、イエスが「神の子だと自称した」という点です。この点も裁判ではあまり定かになりません。それよりも当時のユダヤ人指導者たちにとって問題だったのは、これまでのイエスの言動全体でした。もはやイエスをほうっておけない、と彼らは考えました。裁判以前にイエスの殺害は決まっていたのです。

 問題の一つはイエスが罪びとを招き、その人々に神のゆるしを告げていたことでした。当時のユダヤ社会は律法の基準が絶対で、それによって人がランク付けされていた社会でした。そこで律法学者やファリサイ派の人々は律法上のエリートと考えられ、一方には、律法を知らない罪人同然とみなされた一般の人々がいました。中でも、病人や障がい者、職業的に罪人のレッテルを貼られた徴税人や娼婦は罪人として切り捨てられていました。さらに異邦人や女性や子どもも律法を学んでいないという理由で差別されていました。そういう社会の中で優位を保っていた宗教的エリートたちから見れば、神にしかできないはずの罪のゆるしを人々に与えているイエスの言動は脅威でした。
 イエスはすべての人の父である神を信じていました。人間はすべて神の子であり、神はどんな人も愛しておられます。だから一人一人が例外なく、かけがえのない神の子として尊重されるべきだとイエスは確信していました。誰かに罪人のレッテルを貼って、切り捨てたり、律法の基準で人を差別することを、イエスは受け入れませんでした。そのことの具体的な表れが、イエスが罪人たちを招いて一緒に食事をしたことだったのです。

 もう一つ、ユダヤ人指導者たちが問題にしたのは、イエスが安息日に病人をいやしたことです。福音書に何回も出てきますが、イエスは労働の禁じられた安息日であっても、目の前に苦しむ人がいれば、その人に手を差し伸べました。当時の律法学者からすれば、それは明らかな安息日律法違反でした。そして安息日律法を破る者は「死刑に処せられる」と律法で規定されていました(出31・14—15)。安息日の律法はイエスが考えていたように、本来、人間のためにあったものです(マルコ2・27)。しかし、それはいつしか神の民であるか否かのリトマス試験紙のようになり、律法によるユダヤ社会秩序全体の要になっていました。イエスが安息日の律法を破って、人を助けたということは、ユダヤ社会の律法による秩序全体への挑戦と受け取られました。
 イエスにとって神は天の高みにいて、そこから人間を見て、どれだけ律法を守ったかを採点しているような方ではなく、傷つき、苦しむ人々を決して見捨てない放蕩息子の父のような方でした。だとしたら誰かに罪人のレッテルを貼って、その人々を排除することなどありえません。安息日の律法よりも目の前の人間、苦しんでいる人間のほうが大切なのは当然なのです。

 袴田事件では当時の警察や検察の威信にかけて、犯人を捕まえ、有罪にしなければならない、という力が働いていたのでしょう。それが社会に安定を与えることであり、そのためならこんな男の1人がどうなろうがかまわないということで罪がなすりつけられました。イエスの裁判では、ユダヤの指導者たちの、何としても律法の秩序を守らなければ、という力がイエスを十字架に追いやっていったのです。指導者たちの権威はこの律法の秩序の上に成り立っていたものだったからです。彼らにとって自分たちの支えであるこの秩序を守るために、この1人の男を抹殺すべきなのは当然でした。本当に何かの罪をおかしたかどうか、そんなことはどうでもよかったのです。

 こうしてイエスは殺されていきました。それは本当に、友のために自分のいのちを差し出す死でした。羊のためにいのちを投げ出す羊飼いとしての死でした(ヨハネ15・13、10・11参照)。今日の第一朗読のイザヤ預言書の言葉が心に響きました。
  「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ
   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53・5b)
 この方の死は、すべての人の救いのための死だった。だからこの日を英語で「Good Friday」というのです。
 これがわたしたちの主イエスです。わたしたちはこの方を救い主と信じています。こんな方は他にいるでしょうか。どうしてこの方を信じないでいられるでしょうか。

 フランシスコ教皇の使徒的勧告『福音の喜び』の中に、わたしたちに伝えられたメッセージの核心がこう表現されています。
 「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたの救いのためにいのちをささげられました。キリストは今も生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」
 このことを今日、そして復活祭にかけて本当に深く味わいたいと思います。




PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

| | 2014-04-20(Sun)08:35 [編集]