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カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

イエズス会助祭叙階式

20150314

今日の午前中は麹町教会マリア聖堂で助祭叙階式がありました。
叙階を受けたのは、イエズス会のドミニコ・サヴィオ金亨郁(キム・ヒョンウク)さん。
説教の原稿を載せておきます。

●イエズス会助祭叙階式の説教
 朗読箇所:使徒言行録6・1-7、マルコ10・35-45

 第一朗読・使徒言行録は教会の中で最初の助祭diakonosと言われるステファノやフィリポという7人が立てられた箇所です。この箇所によれば、7人の仕事は食卓の世話係。使徒たちがみことばの奉仕に専念できるように、教会の財産管理とか福祉部門をまかされた人たちのような印象があります。
 しかし、実際のステファノやフィリポの働きはそうではありませんでした。続く箇所にステファノとフィリポの活動が伝えられていますが、彼らはみことばへの奉仕において決して使徒たちに劣るものではありませんでした。ステファノは「知恵と霊によって語る」と言われていました。そして逮捕され最高法院に連れて行かれたときも、素晴らしく力強い説教をしました。ステファノの殉教の場面は特に印象的です。フィリポは使徒たちに先立ってサマリア地方に行き、そこの人々に福音を告げ知らせました。エチオピアの女王の高官であった宦官をイエスへの信仰に導きました。
 最初の助祭と言われるこの二人の姿を思い起こしながら、助祭の叙階を受けるキム・ヒョンウクさんに三つのことを特にお話ししたいと思います。

 一つは、「主のためなら何でもする」ということです。助祭は典礼の中で福音を朗読したり、主の食卓に仕え、信徒に聖体を授けたりという目立った働きをします。そういうことをすることが助祭の仕事だと思わないでください。あるとき、一つの仕事を頼まれた助祭が「その仕事は助祭の仕事じゃないからわたしはしません」と言いました。周りにいた人たちは深く失望しました。教会のため、人の救いのためなら何でもする。イエズス会の助祭の期間は短いと聞いています。キムさんも半年ぐらいで司祭になるのでしょうか。でも、司祭になっても同じです。主のためならなんでもする、教会のためなら何でもする、貧しい人、苦しんでいる人のためなら何でもする、そういう奉仕者になってください。

 二つ目に言いたいこと。何でもする、という心構えは大切ですが、「一番大切なことは、イエスの福音を伝えること」だということ。みことばに仕えること、福音告知の使命です。教会の使命の中心にあることは福音を告げ知らせること、神の愛を伝えることです。フランシスコ教皇の言葉を使えば、「福音の喜びを伝える」ことです。そのために「出かけていくこと」です。教会は、ときどき自分のうちに閉じこもろうとします。今の仕事が忙しくて、外に出ていくのは無理と感じることはありますね。フランシスコ教皇は、これは病気だと言います。閉じこもって病気になっているぐらいなら、出かけていって汚れたり、傷ついたりするおうがいい、と言います。とにかく福音を告げ知らせることが一番大切なわたしたちの使命です。誰に伝えるのでしょうか?すべての人に対してです。これが「新しい福音宣教」の大切なポイントです。洗礼を受けている人と受けていない人がいて、受けていない人に福音を告げることが福音宣教、それが昔の福音宣教のイメージでした。新しい福音宣教はすべての人に向けられています。
 子どもたちは福音を必要としています。親の愛に欠けている子どもも食べ物に飢えている子どもも大勢います。この子たちにわたしたちは神の愛を伝えなければなりません。青年たちは福音を必要としています。大人たちの作った社会の中で欲望をあおられ、競争に駆り立てられ、希望を奪われているような青年たちにこそ、人生に意味を与えるイエスとの出会いが必要です。貧しい人、移住者、病気の人は福音を待ち望んでいます。彼らに居場所が、仕事が、人間らしい生活が与えられなければなりません。神様がそのことに無関心なはずはありません。その神の愛を伝えなければなりません。高齢者も福音を必要としています。自分はもはや必要とされていない、だれからも顧みられない、そう感じている人々に、神様の愛と導きに気づくような福音告知が必要なのです。その意味で、本当に最初の助祭と言われるステファノとフィリポの福音告知への熱意は模範になります。

 三番目にお話ししたいこと、それは「イエスの生き方に近づいていくこと」です。何よりもステファノの殉教の姿がそのことをはっきりと示しています。
 「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。」(使7・59、60)
 十字架上のイエスの姿と言葉を思い出させます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・34、46)ステファノはイエスと同じ愛を生き抜き、イエスと同じ信頼を貫きました。これがわたしたちの究極の目標です。イエスの姿に近づいていくこと。
 福音の箇所はまさにそのことを語っています。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 このイエスの生き方に近づくこと。キムさんは助祭になり、司祭になり、もしかしたら運悪く司教になるかもしれない。イエズス会士ですから、先生になったり、大学教授になったりと、社会的な地位を与えられるかもしれない。
 でもイエスの弟子としてのわたしたちの究極の目標は、イエスの生き方に近づいていくこと、それしかない、そのことを決して忘れずにいてください。
 キムさんが教会の奉仕職を誠実に生きることをとおして、イエスの生き方に近づいていけますよう、心から祈りながら、助祭叙階式を行いたいと思います。



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