毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖金曜日 主の受難

20150403

きょうは英語では”Good Friday”。
すべての人の救いのためにイエスが十字架上でいのちをおささげになり、
わたしたちが罪の奴隷状態から解放された日だからです。

早速きょうの説教を。

●聖金曜日 主の受難
 2015.4.3関口カテドラルにて

 (I)イザヤ52・13~53・12 (II)ヘブライ4・14-16、5・7-9 (福)ヨハネ18・1~19・42

 ホミリア
 わたしたちは今日、十字架のイエスの姿を見つめます。
 今、ヨハネ福音書の受難朗読をとおして、イエスの受難と十字架の死の場面を味わいました。そしてこの後、顕示された十字架のイエス像を見つめます。そこに難しい説明はいらないのでしょう。ただひたすら十字架を見つめ、十字架のイエスの愛を受け取ればいい。これがきょうの典礼の中心です。
 それでもあえて言葉にするならば、十字架のイエスの愛を三つの言い方で表すことができるかもしれません。

 一つは「罪人の身代わりになる愛」です。
 イエスの弟子たちが真っ先に感じたのはこのことだったと思います。何の罪もない正しい方であったイエスが罪人として捕らえられ、殺されていった。イエスを見捨てて逃げ、後でイエスの死のありさまを伝え聞いた弟子たちが思ったことは「イエスではなく、むしろ自分たちこそ、十字架にかかるべきだった」ということだったでしょう。彼らはイザヤ書53章「苦しむ主のしもべ」の姿が、イエスご自身の姿だと気づきます(今日の第一朗読)。
 「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった……彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。」(4,5節)
 本当はわたしたちが十字架にかかるべきだったのだ。わたしたちに代わって苦しみと死を引き受けてくださった。そこに大きな愛とゆるしを受け取ったのです。これがイエスの十字架による救いについての教会の教えの出発点となりました。

 もう一つ、十字架のイエスの姿から感じられるのは「与え尽くす愛」です。十字架は十字架だけがポツンとあるのではありません。イエスの生涯全体の中で意味を持っているのです。イエスは病人をいやし、悪霊に苦しめられている人を助け、貧しい人や軽んじられていた人々とともに歩みました。安息日であっても病人をいやし、罪人と一緒に食事をしました。そうしたイエスの活動が最終的にイエスを十字架の死にまで追いつめていくのですが、イエスは最後までその愛を貫きました。「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10・45)というイエスの生き方の頂点が十字架でした。わたしたちのためにご自分のすべてを与え尽くされた愛、それは「あなたがたのために渡されるからだ」という聖体のことも思い出させます。今もパンとぶどう酒のかたちでご自分のすべてを与え尽くされるイエス、その与え尽くす愛は十字架のイエスから来ているのです。

 さらにまた、十字架のイエスの愛は、「すべての人の苦しみと一つになる愛、苦しむすべての人とともに苦しむ愛」でもあります。すべての人の苦しみと悲しみ、痛みと死に徹底的に連帯してくださった姿をわたしたちはイエスの十字架の中に見ます。今日の第二朗読はヘブライ書でした。ヘブライ書はイエスを大祭司と呼びますが、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・15)。ヨハネ福音書の十字架のイエスは「渇く」と言われました(ヨハネ19・28)。それは救いに飢え渇き、愛に飢え渇くすべての人の渇きと一つになった叫びだと言えます。十字架の上で、イエスは本当の意味でわたしたちの友となり、兄弟となってくださった。だからわたしたちはどんな苦しみの中にあっても、一人ぼっちではない。十字架のイエスがともにいて、このわたしの苦しみをともに担ってくださっていると感じることができるのです。ここに本当に大きなイエスの愛があります。

 今日、わたしたちは十字架を見つめます。そこにあるイエスの限りない愛を受け取ります。それはもちろん、「イエスが愛してくださって良かったね」で終わるためではないのです。イエスの愛を受け取って、それではわたしたちはその愛にどう応えるのか、イエスの十字架の前に立つ者として、わたしたち一人一人が問いかけられています。



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